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  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第18回 朝鮮半島と西北九州と活発に交流
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  • ■埋蔵文化財の宝庫・屋久島■
  • 曽畑式土器が出土した主な遺跡と想定される曽畑式土器文化圏北東側の種子島から望むその姿は「洋上アルプス」の名にふさわしい威容を誇っています。まるで海洋を旅する人々のための道標のようです。

    「世界自然遺産」の島,屋久島。九州一の標高1,935メートルの宮之浦岳を筆頭に,1,000メートルを越える山々が30座以上も連なっています。

    樹齢1,000年を越える「屋久杉」をはじめ,「ヤクザル」「ヤクシカ」など独特の動植物が多くの人々を魅了してやまない,類まれな自然環境のこの島は,埋蔵文化財の宝庫でもあります。

    現在明らかになっている遺跡数は65か所。旧石器時代の遺跡は確認されていませんが,縄文時代の前期(6,000年〜5,000年前)から晩期(3,000年〜2,300年前),弥生時代〜中世までと幅広くあります。

    今回はこの中から上屋久町北端に位置する「一湊松山(いっそうまつやま)遺跡」を紹介します。
  • 【地図 曽畑式土器が出土した主な遺跡と想定される曽畑式土器文化圏】
  • この遺跡の所在する一湊(いっそう)集落は,一湊川によって開けた沖積低地及び砂丘地にあります。矢筈(やはず)岬と一湊湾が形成する天然の良港に恵まれ,カツオやサバ漁の基地として知られる漁業の町で,背後には「布引(ぬのび)きの滝」が流れるなど,生活に必要な水を容易に求められる立地条件の整った場所です。
  • 昭和32年・55年・平成4年〜7年にかけての発掘調査において,縄文時代前期・後期(約5,000年〜4,000年前)・晩期,弥生時代後期(紀元前1〜3世紀)の遺構・遺物が発見されています。中でも,九州における縄文時代前期を代表する曽畑式土器が,大量に出土した特徴ある遺跡として注目されています。
  • この土器は,屋久島から遠く離れた熊本県宇土市にある曽畑貝塚が標式遺跡で,一般的に底の丸い深鉢が多く,壷形,椀形等もあります。外側のほぼ全面と口縁部の内側の一部に細いへら状,もしくは棒状の道具を使って文様を描いています。刺突文(しとつもん)・鋸歯文(きょしもん)・平行線文・四角・三角組み合わせ文・綾杉文など,多彩な文様が連続的に組み合わされ,幾何学的文様になっています。
  • ■曽畑式土器■
  • 曽畑式土器
    曽畑式土器
    (一湊松山遺跡出土)
    幾何学的文様を見せる曽畑式土器の様々な施文
    幾何学的文様を見せる曽畑式土器の
    様々な施文(一湊松山遺跡出土)
    1 刺突文

    2 平行線文

    3 四角・三角組合せ文

    4 平行線文

  • 曽畑式土器が発見されている地域は,朝鮮半島南部の釜山市にある東三洞(とうさんどう)貝塚から九州全域,さらに,沖縄県読谷(よみたん)村の渡具知東原(とぐちあがりばる)遺跡,同県北谷(ちゃたん)町の伊礼原(いれいばる)C遺跡など,南北950キロメートルにも及ぶ広大な範囲に及びます。そのため,この土器の起源及び伝播ルート解明は,長年,考古学での研究の焦点となってきました。
  • 一般的な説としては,縄文時代の前期に朝鮮半島の櫛目(くしめ)の文様を持つ土器を使用する人々が海を渡り西北九州に上陸。当時同地で使用されていた土器に影響を与え,その結果曽畑式土器が成立したとされています。朝鮮半島と西北九州縄文人との活発な交流関係を想定し,朝鮮半島南部→西北九州→中九州→南九州→沖縄へ伝播したと考えられています。
  • 確かに一湊松山遺跡で発見された曽畑式土器は,屋久島には無い滑石(かっせき)を混ぜて作られた搬入品が出土しています。さらに,その形状を模しながらも,屋久島に特徴的な長石と金雲母が混ざった土で焼き上げられた独自の地元産の土器も,上下の地層から発見されています。このことは,島外産の土器と地元産の土器が時期をずらして交互に使用されていたことを意味し,曽畑式土器の南下説を考える上で注目されています。
  • ところが,これらの土器が使用されていた時間差を発見された状況から検討してみると,島外産と地元産が入れ替わるサイクルが以外に早いようで,従来の伝播(南下)説だけでは説明しがたい状況が見えてきます。
    この謎を解き明かす事実として,近年,金峰町阿多貝塚,大口市日勝山遺跡,横川町星塚遺跡,頴娃町折尾遺跡から,古い時期の曽畑式土器が発見されたことは重要な意味をもちます。それは西北九州から南下した曽畑式土器とその文化が,中心的な拠点を九州の東シナ海沿岸に拡散し,西南九州が大きなまとまりとして曽畑式土器文化圏を形成していき,その中で一湊松山遺跡に生活していた人々が九州本土と南西諸島を結ぶセンター的役割を担っていたとも考えられるからです。
  • 縄文人の海上交流
  • 栫ノ原遺跡出土 丸ノミ形石斧ところで縄文人の海上交流はいつ頃から始まっていたのでしょうか。それは縄文時代の始まりと言われる草創期に早くも確認されています。
  • 【写真 栫ノ原遺跡出土 丸ノミ形石斧】
  • 一湊松山遺跡遠景「丸ノミ形石斧(せきふ)」。草創期の遺跡として県内で著名な加世田市栫ノ原遺跡,鹿児島市掃除山遺跡,志布志町東黒土田遺跡,さらに縄文時代早期後半(約7,000年前)に相当する鹿屋市前畑遺跡,種子島の西之表市立山遺跡等で出土しているこの石斧は,丸木舟の製作工具と考えられています。
  • 【写真 一湊松山遺跡遠景】
  • これらの地域以外でも奄美諸島,沖縄諸島のいわゆる黒潮文化圏にも分布しており,丸木舟も全国で約40遺跡から100隻を越え発見されています。これまで九州で発見されている最古の丸木舟は,長崎県多良見(たらみ)町伊木力(いきりき)遺跡から発見された縄文時代前期のものとされます。曽畑式土器の広範な分布状況から見て,この時代,丸木舟を自在に操る海洋性に富んだ人々の移動があったことは,容易に想像できます。
  • (文責)松尾 勉・山崎 克之