鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターでは,令和4年度に4冊の発掘調査報告書を刊行しました。鹿児島県立埋蔵文化財センターのホームページに掲載されていますのでご覧ください。これらの報告書の中から,注目すべき成果や今後の研究課題などを紹介したいと思います。第5回は,公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書(51)の北山遺跡1の中世遺構編です。
【北山遺跡(南九州西回り自動車道建設)】報告書番号(51) ~その4~
遺構の話題に入る前に,北山遺跡周辺における地形の特徴や調査区について説明しておきます。第2回で記したように,北山遺跡は,高松(たかまつ)川左岸の標高約33mの台地上にあり,西側から諏訪ノ前(すわのまえ)遺跡,北山遺跡,新城(しんじょう)跡があり,発掘調査が進められています。東側には阿久根城があったとされる標高196mの愛宕(あたご)山が控えています。北側の高松川,山下川と南側の大橋川流域で,水田が営まれたのではないかと想定されます。小船であれば,海から高松川を溯(さかのぼ)ってくることができたのではないかと考えられます。また,薩摩国と肥後国を結ぶ筋として重要な位置にあります。
発掘調査区は西側から東側へ10mごとに1・2・3・・・・とし,北側から南側へはA・B・C・・・・としてあります。『北山遺跡1』で報告した範囲は,E~H-18~39区です。調査区の北東方向へは台地が広がりますが,南東側は比高差約20mの深い谷部となり,土地利用の範囲が限られています。北西側は緩やかに低くなり,調査区はちょうど尾根部分にあたります。
当時の遺構として,掘立柱建物跡13棟や竪穴建物跡3棟,土坑墓2基,土坑15基,溝状遺構9条,ピット402基が検出されました。これらは,300年間使われ続けたのではなく,13~14世紀代のものと,15~16世紀代のものに分かれるようです。また,溝状遺構は,埋まっていく過程で繰り返し近世まで使われていました。
まず,13~14世紀の集落の様子を見てみましょう。掘立柱建物跡1~13号,竪穴建物跡4~6号,溝跡1号,焼土跡,ピットが該当します。なお,溝跡2~9号は16世紀まで使われていますが,掘立柱建物跡などの配置や向きから13~14世紀にはあったと考えられています。
掘立柱建物跡は住まいと考えられ,2間×3間が主体で,庇(ひさし)をもつものもあります。竪穴建物跡5号は2.66×2.72mの正方形で,検出面からの深さは0.3mです。掘り下げる途中で壁際に色や質の異なる土がみられ,壁板の痕跡と考えられています。竪穴建物跡6号も類似した形状です。用途としては明らかでありませんが,作業場として使われていた可能性もあります。竪穴建物跡4号は規模も形も異なりますので,別の用途であった可能性もあります。
尾根部分のやや南側に幅2~3m,深さ0.1~0.4mの溝跡2があり,それに直交して溝跡3・4があります。溝跡2は広くて浅いことから,単なる区画用ではなく道跡と考えられます。掘立柱建物跡4~10号は溝跡2の北側で,尾根上の最も高い位置に建てられています。当時の風景を想像すると,地形に合わせた通路が南側にあり,最も高い位置に住まいとその端に作業場のある様子が想定されます。
15~16世紀になると,溝跡2~9号,土坑墓1・2号,土坑2~14号と生活感がみられなくなります。土地の利用のされ方に,大きな変化があったようです。この辺の状況については,次回取り上げてみたいと思います。
13~14世紀の土地区画が,現在の畑の区画とぴったり重なり,地籍図に合っていることが興味深いです。山下小校区一帯が800年前の中世の様相を保ったまま,現在に引き継がれていると考えられます。山下小校区を歩くと,中世の痕跡に出会えるかもしれません。
※鮮明な画像や図は報告書でご覧いただけます。
『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(51)「北山遺跡1」