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  • 平成25年9月19日(木)
  • 小さな体に大きな使命を背負って… 〜薩摩を救った茶入たち(その2)〜
  •   さて,「Ⅰ類茶入」は,関ヶ原(せきがはら)(たたか)いの「敵中突破(てきちゅうとっぱ)」で徳川家康(とくがわいえやす)(ふる)え上がらせた島津義弘が,帖佐(ちょうさ)宇都窯(うとがま)加治木(かじき)御里窯(おさとがま)で作らせたものです。義弘は勇猛(ゆうもう)武将(ぶしょう)でありながら,医学や茶の湯,学問にも(ひい)でた才能(さいのう)を持つ文化人でもありました。そこで,当時「天下の茶人」と呼ばれていた古田織部(ふるたおりべ)指導(しどう)を受け,織部の好みが色濃(いろこ)反映(はんえい)された「Ⅰ類茶入」を大量(たいりょう)に作らせました。なぜ,義弘は織部好みの「Ⅰ類茶入」を大量に作らせたのでしょう。その(なぞ)()(かぎ)は,古田織部という人物が(にぎ)っています。
     古田織部は,安土桃山時代(あづちももやまじだい)に「織部好み」と呼ばれる一大流行(いちだいりゅうこう)をもたらした人物で,茶の湯を通じて,朝廷(ちょうてい)貴族(きぞく)寺社(じしゃ)経済界(けいざいかい)様々(さまざま)なつながりを持ち,全国の大名に大きな影響(えいきょう)を与えました。その織部が薩摩の茶入に注目(ちゅうもく)したため,当時の茶人たちがこぞって薩摩の茶入を求めるようになりました。そこで,義弘は織部の好みが色濃く反映された「Ⅰ類茶入」を大量に作らせ,島津氏が生き()びるための政治的(せいじてき)贈答品(ぞうとうひん)としてこの「Ⅰ類茶入」を利用(りよう)したのです。
     このように,薩摩の「茶入」たちは,見た目は小さく可愛(かわい)らしいですが,実はとてつもなく大きな使命(しめい)(「薩摩を救う」という使命)を背負って,全国の有力な大名たちへ送られたものだったのです。
     
    島津義弘像(尚古集成館蔵) 古田織部画像(大阪城天守閣蔵) 「茶入」は小さな巨人です