Ⅰ 19世紀前半の世界の中の日本
江戸時代,徳川幕府は長崎と沖縄で限られた国と行う貿易以外を禁止する鎖国政策をとっていました。しかし,その中で薩摩藩には諸外国の情報が多く入ってきていたので,諸外国の情勢をいち早く取り入れることができました。
19世紀,イギリスではじまった産業革命は諸国に広まり,航海技術が発達したイギリスやアメリカなどの国が次々とアジアに進出してきました。そのような中,1942年には清王朝(中国)がイギリスとの戦争で敗れるという大きな出来事がありました(アヘン戦争)。19世紀中ごろから,薩摩藩にもイギリス・フランスが大砲などの武力を誇示して貿易をするように迫ってきたため,アヘン戦争を機に薩摩藩では海外の国に対する危機感が高まっていきました。
Ⅱ 近代化の夜明け―強く豊かな国に―
海外諸国に対する危機感を感じた薩摩藩は,海外の国に対する情報を集めていきます。こうした情勢の中で嘉永4(1851)年に藩主になった島津斉彬は,幼いころから海外の文化や技術に興味を持ち,日本が海外諸国に軍事力で負けないこと,産業が発展し国が豊かになること,日本が一つになることが必要であると考え,これを実現するために,海外の造船や製鉄などの工業(産業)技術を積極的に学び,薩摩藩でもつくることができるように取り組みます。斉彬の死後もこの取り組みは多くの人に受け継がれ,産業や経済・政治など様々な分野で活躍する人材を生み出しました。
薩摩藩以外にも西洋の技術を取り入れ,西洋諸国に負けない力をつけようと努力する藩もありました。日本の近代化は,西洋に対する危機感をきっかけに日本各地で行われた努力によって進んでいきます。
薩摩藩の努力は日本の近代化が進む先駆け・礎(いしずえ)となったのです。
Ⅲ 西洋式産業への挑戦―集成館事業―
斉彬が藩主となる以前,藩内では鹿児島城下を中心に水車などを動力とした産業が発達していました。斉彬は現在の磯の仙厳園周辺にこれらを集約し日本随一の工場群を建設し,『集成館』と名付けました。また,原料の採取や製造が薩摩藩内各地で行われました。この集成館を中心に薩摩藩各地で行われた取り組みを『集成館事業』と呼んでいます。集成館事業では動力となる蒸気機関・製鉄などの西洋の技術を取り入れ,製鉄,造船,紡績など多くの技術が飛躍的に発展していきました。集成館事業は西洋の技術だけでなく,薩摩藩の各地で培われた在来の技術もその基礎として多く 活かされています。
Ⅳ欧米との力の差を知る―薩英戦争―
斉彬の死後,藩主は子の忠義になりました。その後見役となって藩政を進めたのが弟の久光でした。江戸からの帰り,久光の行列にイギリス人たちが入り込んでしまい,怒った薩摩藩の武士たちが彼らを殺傷してしまいました(文久2(1862)年,生麦事件)。これに怒ったイギリスは,薩摩藩に賠償と犯人の処罰を求める要求をしてきました。薩摩藩がこの要求を拒否し続けたため,イギリスは要求を認めさせるため,鹿児島湾に軍艦を来航させましたが,薩摩藩が要求を拒否したため,戦争になりました(文久3(1863)年,薩英戦争)。嵐の中で勃発した戦いは,両者に大きな被害をもたらしました。この戦争でイギリスの技術の高さを知った薩摩藩は,さらに西洋に学び技術力を高める必要性を感じ,元治2(1865)年に19名の若者をイギリスへ留学させ,西洋の技術の導入に努めました(薩摩藩英国留学生)。
この留学生たちは,薩摩藩の集成館事業の大きな役割を担い,その後日本各地で産業や経済・政治など各分野で活躍する人材となっていきました。
Ⅴ 日本初の西洋式紡績工場―鹿児島紡績所―
留学生の帰国後,集成館事業は留学生を中心に更に発展していきます。その中の1つに蒸気機関を動力とした大きな機械での紡績事業があります。西洋の技術を学び集成館事業に携わっていた石河確太郎(奈良県出身)は,イギリスから紡績機械を購入して紡績事業の拡大を行うことを提案しました。留学生として学んだ五代友厚らはイギリスから紡績機械を購入し,紡績の技術者を鹿児島に迎えて技術指導を受ける準備を行いました。この工場として建設されたのが「鹿児島紡績所」で,イギリス人技師の宿舎となったのが「鹿児島紡績所技師館(異人館)」です。これにより日本初の西洋式紡績工場が操業し,多くの人がイギリスの技師から技術を学び,わずか1年でこの技術を習得しました。工場の建設や短期間での技術の習得には,これまで薩摩藩で培ってきた技術が大きく貢献しました。
鹿児島紡績所は明治30年(1987)年まで操業し,そののち取り壊されました。機械の一部が尚古集成館に保存されています。現在は跡地を鹿児島紡績所跡と呼んでいます。
Ⅵ 位置を探る
鹿児島紡績所は操業停止後取り壊され,鹿児島紡績所技師館(異人館)は明治17(1884)年,鹿児島県立中学造士館の建設時に鹿児島城本丸跡へ校舎の一部として移築されましたが,昭和11(1936)年に元の位置と異なる現在の位置に再移築されたため,元の位置が分からなくなりました。そのため,この2つの建物の位置を推定する取り組みが数回にわたり実施されました。そのなかで,「薩摩のものつくり研究会」が行った現在の状況と古写真とを比較し推定した位置は,発掘調査の成果で得た建物跡の位置特定(図2)とほぼ一致するものでした。
Ⅶ 鹿児島紡績所跡の発掘調査
これまで,鹿児島紡績所の跡地は数回発掘調査されています。鹿児島市教育委員会が平成11(1999)年に行った調査と,平成22(2010)年に鹿児島県教育委員会が行った調査の成果を合わせた結果,鹿児島紡績所は図2のように現在のファミリーレストラン・コンビニエンスストア・ガラス工芸館が建っている場所に位置していたことが明らかとなりました。
また,鹿児島紡績所は集成館事業のその他の工場を取り壊してその上に建てられていることも発掘調査で裏付けられています。
【平成22年 鹿児島県教育委員会発掘調査成果】
3つのトレンチ(試掘坑)を設定して発掘調査を行いました。その結果,幕末~明治時代初期の地層から鹿児島紡績所と紡績所に関連する建物の基礎と紡績所以前の建物の基礎を検出しました。
2トレンチ
鹿児島紡績所の基礎を検出しました。大きなレンガ・鉄製の管などが出土しました。
この基礎は,発掘調査では細長い建物の本館側の基礎であるのか,本館のものであるのか正確な特定はできませんでした。鹿児島紡績所の設計図が残っており,そこに書かれた大きさと,1トレンチでの成果から位置の想定は本館のものと考えています。
3トレンチ
鹿児島紡績所の本館玄関付近の基礎を検出しました。
この基礎は,発掘調査では本館のどの位置のものであるのか正確な特定はできませんでした。1トレンチと2トレンチの結果から本館玄関付近のものと考えています。
写真の右が海側で左側が国道10号側です。
写真4~6『鹿児島紡績所・祇園之洲砲台跡・天保山砲台跡』鹿児島県教育委員会 2012年から転載
検出した遺構はこの状態で埋め戻してあります。遺構の上にはシラスを敷いて再発掘することがあったときに遺構の場所と地層が分かるようにしてあります。
Ⅷ 鹿児島紡績所跡技師館(異人館)の発掘調査
平成12(2000)年から複数回位置確認のための発掘調査が行われました。その結果,現在の位置から鹿児島紡績所技師館の建物1つ分海側へ移動した位置にあったことが分かりました。(図2)
その他,発掘調査成果を基に古い絵図に描かれている道路と現在の道路とを比較し,鹿児島紡績所技師館周辺の道路が江戸時代の終わり頃からあまり変化していないことも分かりました。(図2)
Ⅸ 出土遺物
これらの発掘調査では,生活に必要な器などとともに集成館事業で使用した耐火レンガ・レンガ・石・鉄や銅などの金属製品・ガラス,陶磁器・金属・ガラス製品製作の道具など様々な遺物が出土しています。
Ⅹ 鹿児島紡績所・鹿児島紡績所跡技師館(異人館)以後
鹿児島紡績所・鹿児島紡績所技師館の周辺は,鉄道や国道10号を建設する際に幕末から明治初期にかけての建物跡の上に多量の土砂を敷いて建設されました。この土砂の上に現在は,住宅,店舗,駐車場などが建てられています。
発掘調査でつかめなかった建物の跡がその土砂に守られ,まだ多く残されています。
Ⅺ おわりに
明治時代になると,日本は工業立国の基盤整備に取り組み,日本の基幹産業として重要な位置づけとなる造船や製鉄・製鋼,石炭と重工業において急速な産業化を成し遂げていきます。
そして,西洋から日本独自の産業化への取り組みが成功したことを示す重要な産業遺産群が,平成27(2015)年に,薩摩藩が創設した旧集成館(現・尚古集成館)や旧集成館機械工場を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界文化遺産に登録されました。
磯地区の地下に残っている遺構や現存する集成館事業の建物,島津氏の屋敷跡・庭園などと集成館事業で重要な役割をした寺山の炭窯跡・関吉の疎水溝は国の指定文化財として保護されています。そのほかにも,県内各地に集成館事業に関わる遺跡がまだ多く残っています。
鹿児島紡績所は現在見ることができませんが,尚古集成館での展示で紡績所で使用した機械の一部や集成館事業,薩摩藩の歴史などの史料について見学することができます。そのほか,鹿児島紡績所技師館,集成館事業の建物の一部,燃料となる木炭を作った寺山の炭窯跡(※令和3年1月現在 寺山の炭窯跡は見学できません。),動力となる水車のための水路とその取水口の関吉の疎水溝,薩英戦争の砲台の一部など,現在見学することができる遺跡(遺構)が鹿児島市を中心に鹿児島県内にたくさんあります。また,薩摩藩英国留学生に関する展示などが,いちき串木野市の薩摩藩英国留学生記念館でも見学できます。
近代の礎に触れることのできる各地を,ぜひ訪問してください。
文責 西園勝彦