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令和2年度離任式・令和3年度新任式

令和3年度の人事異動に伴い,3月31日,令和2年度の離任式を実施しました。当センターから11名の転退職がありました。

また,翌4月1日に新任式が行われ,12名の職員が転入されました。

令和3年度は,総勢30名の職員で,埋蔵文化財センターの業務を進めていきます。よろしくお願いいたします。

 

 

第11回「古墳時代の大規模墓地が営まれた南摺ヶ浜遺跡(指宿市十二町)」

Ⅰ 1点の壺

 「大きな石かな」【写真2】これが,南摺ヶ浜遺跡で発掘調査の初日,作業員さんに掘り方の説明を終えて,掘削を開始してから5分ほどして出土した最初の遺物を見たときの感想でした。作業員さんが,「何か出てきた」と私を呼んでくれたのです。
 遺物の形がわかるように,移植ゴテを使い周辺の土を少し掘り下げてみました。「やけにきれいな曲線だなぁ」手のひらで遺物の表面を触ってみます。「うん?これは土器ではないか」周囲の土を半分残して掘り下げてみると,横倒しになった土器が姿を現しました。 【写真3】「完形品だ!」
 発掘調査では,完全な形で土器が見つかることはほとんどありません。手間暇かけて作った土器を壊れる前に捨てるなんてことは通常ないからです。完形品が出土する際は,何らかの意図を持って,掘った穴の中に埋めておいたものが見つかる例がほとんどです。
 「周囲に穴が見つかるはずだ」周囲の土をきれいに掃除してみましたが,穴の痕跡を見つけることはできませんでした。「うーん。自然に埋まったのかな」とりあえず,作業員さんが土を掘る道具を山鍬から小さなねじり鎌に変更して,慎重に掘り進めることにしました。
 ところが,その後,同じ層からは何も出てきません。平成17年度の調査で出土した古墳時代の遺物は,最初の5分で出てきた完形品の壺1点のみでした。その後,下の層から縄文時代や弥生時代の遺物が出てきましたが,私の頭の中は「???」クエスチョンマークだらけでした。

写真1 南摺ヶ浜遺跡

写真2 石かな?

写真3 土器でした

 

 

Ⅱ 大規模な墓地の発見

 平成19年度,より海に近い隣接地発掘調査を行うことになりました。その頃の私は,南摺ヶ浜遺跡がある薩摩半島の対岸に位置する大隅半島の山の中で発掘調査をしていました。
 そんな私のもとに「南摺ヶ浜遺跡で弥生時代の後半から古墳時代の大規模な墓地が見つかった」という連絡がきました。疑問は解けました。「そうか,あのときの土器は墓地の境にあったのか」墓地の主体部は,私たちが調査していたときには,まだ藪になっていた場所の下にあったのです。

写真4 平成19年度調査区

写真5 壺棺墓

 

Ⅲ 薩摩半島南部の埋葬習俗

 現在は,人が亡くなると葬儀の後,火葬し骨を骨壺に収め,墓あるいは納骨堂などに納めるのが一般的です。人の死は,遙か昔から近親者にショックを与えたことでしょう。南摺ヶ浜遺跡は,3世紀後半頃から5世紀の中頃までの人々が,死者をどのように見送ったのかを教えてくれる貴重な遺跡です。
 見つかった墓の種類は様々ですが,穴を掘って遺体を埋葬した土坑墓(72基),土坑墓の周囲に円形に溝を巡らす円形周溝墓(12基)【写真6】,甕棺墓(1基)や壺棺墓(16基)【写真7】などがありました。甕棺や壺棺として使われた甕や壺の多くには,1か所または2か所に小さな孔が穿たれています。通常の用途には使わないことを示す,葬送に伴う祭祀儀礼でしょう。甕棺や壺棺は口が小さく,亡くなった人の遺体を直接入れることはできないため,骨になってから入れて埋葬したと考えられます。壺棺のうち2基からは人骨がみつかっていますが,全体的に人骨の残りが良好ではないため,各甕棺・壺棺に何体分の人骨が入れられていたのか,はっきりしません。

写真6 円形周溝墓

写真7 壺棺墓

 また,墓標のような大きな板石(立石)【写真8】が,主に壺棺墓の周辺で見つかっています。土坑墓の周辺でも見つかっていますが,土坑墓の数と比べるとだいぶ少ない数でしかありません。板石(立石)を伴う土坑墓は,南摺ヶ浜遺跡から4kmほど離れた山川町(現指宿市)成川遺跡でも見つかっています。ちなみに成川遺跡は文化財保護委員会(現文化庁)が昭和33年に調査を行った遺跡で,その後の調査を含めて348体の人骨が見つかっています。

写真8 板石(立石)

 南摺ヶ浜遺跡で出土した土器は,甕や壺のほかに,葬送の際の祭祀やお供えに使われた長頸壺,高坏,鉢,蓋など多様であり,一般的な遺跡から出土する土器よりも作りが丁寧なことから葬送に使うために特別に作られたものであると考えています。磨製の石鏃や鉄鏃,鉄剣などの武器も供献されていました。

写真9 出土土器 【県指定有形文化財(考古資料)】

写真10 鉄製の武器など 【県指定有形文化財(考古資料)】

 現在の南摺ヶ浜遺跡は,指宿市の温泉街から国道方面に向かう砂むし温泉道路の下になっています。目の前に海を望むロケーションは,今でも旅人の心を癒やしてくれます。ここに佇むと墓地を営んだ人々の気持ちが伝わってくるような気がします。
 ちなみに,南摺ヶ浜遺跡の墓地は,数多くの火山を有する鹿児島県の遺跡らしく,薩摩富士と称される開聞岳から飛来した火山噴出物である紫ゴラ(9世紀),青ゴラ(7世紀)と暗紫ゴラ(弥生時代)の間にパックされて見つかっています。【写真11】

写真11 数々の火山灰に彩られた土層

文責 寺原 徹

 

【参考】本遺跡の報告書(PDF)を,以下のリンクからご覧いただけます。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(144) 「南摺ヶ浜遺跡」

かごしま遺跡フォーラムオンラインの動画を公開しました

これまで鹿児島県立埋蔵文化財調査センターは,遺跡の発掘調査成果を報告する「かごしま遺跡フォーラム」を毎年開催してきました。
今回は,調査担当者による解説動画を【YouTube】で配信します。
西南戦争関連遺跡及び昨年度刊行した報告書の中から,注目される遺跡を紹介し,新たな調査成果や歴史解明における今後の課題等について,全国に向けて広く発信します。

詳しくは,以下のリンクからご覧ください。

鹿児島県立埋蔵文化財センター【YouTube】

第10回 土器はタイムカプセル~圧痕から分かること~

※ スマートフォンでご覧の場合,画像の縦横比が歪むことがあります。画像をタップすると本来の画像が表示されます。

Ⅰ はじめに -圧痕とは何か?-

 遺跡を発掘して,最も多く見つかる遺物が土器です。土器の表面をよく見ると,穴が空いていることがあります。実はその穴は,土器作りの過程で植物の種実や昆虫・貝などが粘土の中に混入し,土器を焼成した際に焼け落ちて空洞になったものです。このように,穴やスタンプとして残っている痕跡を「圧痕(あっこん)」と呼びます。

 

 私たちの身の回りは,植物や昆虫,動物,その加工品であふれています。かつての人々はより自然に近い生活をしていたので,現在とは比べものにならない程多くの植物や昆虫が身の回りに存在したはずです。では,遺跡を発掘してみるとどうでしょうか。ほとんどの植物や昆虫は,長年地中に埋まっていたことで分解され,ほとんどは消滅してしまいます。遺跡で有機質のものが残るためには,火を受けて炭化しているか,低湿地や乾燥地などの稀な条件下でなければならず,通常の遺跡では,かつて存在したはずの資料の多くが,実は失われているのです。
 ここで活躍するのが,圧痕です。圧痕のもととなる植物等は,土器を作っている時にしか入ることはありません。つまり,土器を作っている瞬間にその場に存在していたものが“型”として記録されているのです。まさに,土器は当時の植物や昆虫の姿を伝えてくれるタイムカプセルと言えます。

 

Ⅱ 圧痕調査は第2の発掘

 圧痕の存在は,1980年代にはすでに論文でも取り上げられ,特に弥生土器に残るイネ籾の圧痕は,稲作の証拠として注目されてきました。当時から,圧痕を何とか立体的に復元して観察しようと,石膏やガラスをはめるパテ,和紙を細かくしたものなど,様々な素材が試されました。1991年,「レプリカ法」というシリコーン・ゴムを用いて型取りする手法が提唱されました(丑野・田川1991)。これ以降,歯科用や模型用のシリコーン・ゴムを用いた型取り方法が一般的になりました。この手法によって,より鮮明に型取りできるようになり,作製したレプリカを走査型電子顕微鏡(SEM)で観察することで,さらに細かい分析が可能となりました。先ほど写真で挙げた土器のレプリカとSEMの画像が下です。表面の凹凸や網目状の構造などがよく分かり,現生資料と比べることで何の種子であるかが同定できます。

 圧痕は,当初,イネ籾の圧痕のように,偶然見つかったものだけが着目されてきました。2000年代に入り,遺跡から出土する土器を破片の大きさや部位に関わらず全て観察する「悉皆(しっかい)調査」が開始されました。その結果,これまで見つかっていなかった種実や昆虫類が数多く発見されたのです。
 圧痕調査は,多量の土器を一つ一つ手にとって,表面をくまなく探す,一見すると地味で根気のいる作業です。しかし,その学術的成果は大きく,新たな歴史的事実が多く発見されました。圧痕調査は,これまで発掘された膨大な資料を新しい視点で見直す契機にもなるため,「第2の発掘」(小畑2016b)とも呼ばれています。

 

Ⅲ 圧痕から見える縄文時代の暮らし

 圧痕調査は,縄文時代~近世までの幅広い時代の焼き物を対象に行われています。圧痕で見つかる植物や昆虫は,食用・薬用などの有用植物やいわゆる害虫など,人間の身近な植物・昆虫相が多いということが分かってきています。
 ここでは,縄文時代の暮らしぶりを示す研究成果の一部を紹介します。

1 縄文時代のマメ栽培

 ダイズやアズキは,日本人に身近な植物です。かつて,ダイズやアズキは中国大陸から伝播したものと言われていました。ところが,縄文土器からダイズやアズキの圧痕が見つかる事例が増え,さらには縄文時代の後半になるにつれて,種実自体が大きくなる傾向が見えてきたのです。日本には,ツルマメやヤブツルアズキといったダイズ・アズキの祖先野生種が存在します。
 圧痕や炭化物で見つかったマメを研究した結果,縄文人がより大きいマメを獲得しようと,栽培したことが分かってきました(小畑2016a)。九州地方でも,縄文時代後期後葉には現在とあまり変わらないサイズのマメが圧痕で見つかっています。

 日本人は,納豆に醤油,みそ汁に豆腐と,豆製品同士を掛け合わせて使う食文化があります。縄文人はどのような食べ方をしていたのか,気になりますね。

2 縄文人と害虫との関わり

 圧痕調査で検出されるムシの多くは,ダニ,ゴキブリ(卵),シラミなど,現代人にとって聞けばゾクゾクする,いわゆる“害虫”と呼ばれる類です。中でも,最も多く見つかっているのがコクゾウムシです。コクゾウムシは,最近こそ米櫃で見かけなくなりましたが,米を食べる貯穀害虫として知られています。かつて,コクゾウムシは弥生時代に稲作と共に日本にやってきたムシと考えられていました。しかし,2010(平成22)年に衝撃的な発見がありました。
 種子島西之表市に所在する三本松遺跡の縄文時代早期土器から,コクゾウムシの圧痕が7点見つかりました。後の研究によって,このコクゾウムシは貯蔵食料を加害する世界最古の害虫と評価されました(Obata et al.2011)。

 では,縄文時代の古い頃に生息していたコクゾウムシは米を食べていたのかというと,そうではありません。縄文時代の主要な食糧はドングリです。コクゾウムシは,乾燥したデンプン質に富んだ種子を加害するムシなので,当時縄文人が貯蔵していたドングリやクリを加害していたと考えられます。よって,コクゾウムシの圧痕が見つかるということは,土器作りの場の近くに貯蔵食物があったということであり,当時の暮らしぶりの一部を垣間見ることができます。
 さて,コクゾウムシに対して縄文人が何も対処しなかったのかというと,そうではなさそうです。圧痕調査を進める中で,縄文土器からコクゾウムシ圧痕と共にカラスザンショウの種実や果実がよく見つかることに気づきました。カラスザンショウは,ミカン科サンショウ属の落葉高木樹で,探してみればあちこちにある身近な木です。果実の化学成分を調べてみると,特殊な精油成分が含まれ,それが貯穀害虫の防虫・駆虫に効果があるものであることが分かりました(真邉・小畑2017)。つまり,縄文時代の虫除け剤として,カラスザンショウが使われていた可能性が指摘できます。

 このように,圧痕調査では発掘調査ではなかなか見つけられない小さな植物や昆虫が多く見つかり,その小さな痕跡から当時の生活の一端を復元することができるのです。

 

Ⅳ 隠れ圧痕を探せ! 第3の発掘!

 実は,圧痕は土器の表面に見えているものだけではありません。粘土の中に隠れて表面から見えないものがあり,これらを「潜在圧痕」と呼びます。近年,潜在圧痕を調査するため,Ⅹ線ⅭT装置が導入されています。これらの装置で土器の内部を観察すると,粘土中の空隙が見え,その空隙の形を解析すると,植物や昆虫であることが分かりました。また,圧痕では復元が難しい細かい部位などを確認できます。

 中には,土器の中に数百点ものタネやムシが入った事例が県外で見つかり始め,偶然粘土に入ったのではなく,当時の人々が意図的にタネやムシを混ぜ込んだ可能性が出てきました。このような最新技術を用いた圧痕調査は,まさに第3の発掘(小畑2019)と言えます。

 

Ⅴ おわりに

 私たちにとって身近な植物や昆虫が土器から見つかると,当時の人々とのつながりを感じ,嬉しくなるものです。鹿児島県内には数多くの遺跡が存在します。圧痕調査を進めることで,今まで見えていなかった当時の人々の暮らしが見えてくるかもしれません。
 これからの,第2・第3の発掘にご期待ください。

文責 眞邉 彩

【引用文献】

丑野 毅・田川裕美
1991「レプリカ法による土器圧痕の観察」『考古学と自然科学』24 日本文化財科学会

小畑弘己
2016a『タネをまく縄文人 最新科学が覆す農耕の起源』吉川弘文館
2016b「アッコン(圧痕)とはなにか」『いま,アッコンが面白い!-タネ・ムシ圧痕が語る先史・古代の農とくらし-』熊本大学文学部小畑研究室
2019『縄文時代の植物利用と家屋害虫 圧痕法のイノベーション』吉川弘文館

眞邉 彩・小畑弘己
2017「産状と成分からみたカラスザンショウ果実の利用法について」『植生史研究』第26巻第1号 日本植生史学会

Obata H.,Manabe A.,Nakamura N.,Onishi T.,and Senba Y. 2011 A new light on the evolution and propagation of prehistoric grain pests: the world’s oldest maize weevils found in Jomon potteries, Japan. PLoS ONE

業務報告会

 2月25日(木)に,業務報告会を行いました。業務報告会とは,その年度に県立埋蔵文化財センターと(公財)埋蔵文化財調査センターが行った,発掘調査や整理作業の調査成果を報告する会です。報告対象は,両センター職員,発掘調査や整理作業で指導をいただいた方々,県内の大学で考古学を研究されている先生方,市町村の埋蔵文化財担当職員や発掘調査支援会社の方々などです。

 昨年度までは,埋蔵文化財センターの研修室に集まり報告会を開いていましたが,今年度は新型コロナウイルス感染症対策として,オンライン会議システムを導入しました。

 具体的には,発表者の報告を研修室で聞く職員と,オンラインでつないだ別会場で聞く職員に分かれて,会場が密になることを避けました。

 また外部からの参加者には,それぞれの職場等からオンライン会議システムで参加していただきました。オンラインで18名の参加があり,調査に対する質問や感想をリモートで聞くことができました。

担当者が調査成果を報告

研修室で報告を直接視聴

別会場で報告をオンライン視聴

オンライン参加者と意見交換

【参考】 今回報告を行った遺跡
 立塚遺跡(鹿屋市),原村遺跡(曽於市),牧B遺跡(曽於市),北山遺跡(阿久根市),牧山遺跡(鹿屋市)

第9回 近代化遺産群の発掘調査から~鹿児島紡績所跡~

Ⅰ 19世紀前半の世界の中の日本

 江戸時代,徳川幕府は長崎と沖縄で限られた国と行う貿易以外を禁止する鎖国政策をとっていました。しかし,その中で薩摩藩には諸外国の情報が多く入ってきていたので,諸外国の情勢をいち早く取り入れることができました。
 19世紀,イギリスではじまった産業革命は諸国に広まり,航海技術が発達したイギリスやアメリカなどの国が次々とアジアに進出してきました。そのような中,1942年には清王朝(中国)がイギリスとの戦争で敗れるという大きな出来事がありました(アヘン戦争)。19世紀中ごろから,薩摩藩にもイギリス・フランスが大砲などの武力を誇示して貿易をするように迫ってきたため,アヘン戦争を機に薩摩藩では海外の国に対する危機感が高まっていきました。

 

Ⅱ 近代化の夜明け―強く豊かな国に―

 海外諸国に対する危機感を感じた薩摩藩は,海外の国に対する情報を集めていきます。こうした情勢の中で嘉永4(1851)年に藩主になった島津斉彬は,幼いころから海外の文化や技術に興味を持ち,日本が海外諸国に軍事力で負けないこと,産業が発展し国が豊かになること,日本が一つになることが必要であると考え,これを実現するために,海外の造船や製鉄などの工業(産業)技術を積極的に学び,薩摩藩でもつくることができるように取り組みます。斉彬の死後もこの取り組みは多くの人に受け継がれ,産業や経済・政治など様々な分野で活躍する人材を生み出しました。
 薩摩藩以外にも西洋の技術を取り入れ,西洋諸国に負けない力をつけようと努力する藩もありました。日本の近代化は,西洋に対する危機感をきっかけに日本各地で行われた努力によって進んでいきます。
 薩摩藩の努力は日本の近代化が進む先駆け・礎(いしずえ)となったのです。

 

Ⅲ 西洋式産業への挑戦―集成館事業―

 斉彬が藩主となる以前,藩内では鹿児島城下を中心に水車などを動力とした産業が発達していました。斉彬は現在の磯の仙厳園周辺にこれらを集約し日本随一の工場群を建設し,『集成館』と名付けました。また,原料の採取や製造が薩摩藩内各地で行われました。この集成館を中心に薩摩藩各地で行われた取り組みを『集成館事業』と呼んでいます。集成館事業では動力となる蒸気機関・製鉄などの西洋の技術を取り入れ,製鉄,造船,紡績など多くの技術が飛躍的に発展していきました。集成館事業は西洋の技術だけでなく,薩摩藩の各地で培われた在来の技術もその基礎として多く 活かされています。

 

Ⅳ欧米との力の差を知る―薩英戦争―

 斉彬の死後,藩主は子の忠義になりました。その後見役となって藩政を進めたのが弟の久光でした。江戸からの帰り,久光の行列にイギリス人たちが入り込んでしまい,怒った薩摩藩の武士たちが彼らを殺傷してしまいました(文久2(1862)年,生麦事件)。これに怒ったイギリスは,薩摩藩に賠償と犯人の処罰を求める要求をしてきました。薩摩藩がこの要求を拒否し続けたため,イギリスは要求を認めさせるため,鹿児島湾に軍艦を来航させましたが,薩摩藩が要求を拒否したため,戦争になりました(文久3(1863)年,薩英戦争)。嵐の中で勃発した戦いは,両者に大きな被害をもたらしました。この戦争でイギリスの技術の高さを知った薩摩藩は,さらに西洋に学び技術力を高める必要性を感じ,元治2(1865)年に19名の若者をイギリスへ留学させ,西洋の技術の導入に努めました(薩摩藩英国留学生)。
 この留学生たちは,薩摩藩の集成館事業の大きな役割を担い,その後日本各地で産業や経済・政治など各分野で活躍する人材となっていきました。

 

Ⅴ 日本初の西洋式紡績工場―鹿児島紡績所―

 留学生の帰国後,集成館事業は留学生を中心に更に発展していきます。その中の1つに蒸気機関を動力とした大きな機械での紡績事業があります。西洋の技術を学び集成館事業に携わっていた石河確太郎(奈良県出身)は,イギリスから紡績機械を購入して紡績事業の拡大を行うことを提案しました。留学生として学んだ五代友厚らはイギリスから紡績機械を購入し,紡績の技術者を鹿児島に迎えて技術指導を受ける準備を行いました。この工場として建設されたのが「鹿児島紡績所」で,イギリス人技師の宿舎となったのが「鹿児島紡績所技師館(異人館)」です。これにより日本初の西洋式紡績工場が操業し,多くの人がイギリスの技師から技術を学び,わずか1年でこの技術を習得しました。工場の建設や短期間での技術の習得には,これまで薩摩藩で培ってきた技術が大きく貢献しました。
 鹿児島紡績所は明治30年(1987)年まで操業し,そののち取り壊されました。機械の一部が尚古集成館に保存されています。現在は跡地を鹿児島紡績所跡と呼んでいます。

【写真1】明治5年の磯地区 尚古集成館蔵
 写真の左側に大きな建物が写っています。
 手前から鹿児島紡績所技師館(異人館),鹿児島紡績所,その奥に集成館事業の工場群です。
 写真3にある現在の磯地区の写真と比べてください。 
【写真2】鹿児島紡績所 尚古集成館蔵
 鹿児島紡績所を東側から写したものです。
 明治5年(写真1)よりも古い写真です。
 この写真と明治5年の写真では、鹿児島紡績所周辺の建物が異なっています。 
【図1】当時の磯地区の様子(古写真を元にした想像図)
『かごしまタイムトラベル』鹿児島県企画部世界遺産課から転載 
【写真3】現在の磯地区
 

 

Ⅵ 位置を探る

 鹿児島紡績所は操業停止後取り壊され,鹿児島紡績所技師館(異人館)は明治17(1884)年,鹿児島県立中学造士館の建設時に鹿児島城本丸跡へ校舎の一部として移築されましたが,昭和11(1936)年に元の位置と異なる現在の位置に再移築されたため,元の位置が分からなくなりました。そのため,この2つの建物の位置を推定する取り組みが数回にわたり実施されました。そのなかで,「薩摩のものつくり研究会」が行った現在の状況と古写真とを比較し推定した位置は,発掘調査の成果で得た建物跡の位置特定(図2)とほぼ一致するものでした。

【図2】 クリックで拡大

 

Ⅶ 鹿児島紡績所跡の発掘調査

 これまで,鹿児島紡績所の跡地は数回発掘調査されています。鹿児島市教育委員会が平成11(1999)年に行った調査と,平成22(2010)年に鹿児島県教育委員会が行った調査の成果を合わせた結果,鹿児島紡績所は図2のように現在のファミリーレストラン・コンビニエンスストア・ガラス工芸館が建っている場所に位置していたことが明らかとなりました。
 また,鹿児島紡績所は集成館事業のその他の工場を取り壊してその上に建てられていることも発掘調査で裏付けられています。

 

【平成22年 鹿児島県教育委員会発掘調査成果】
 3つのトレンチ(試掘坑)を設定して発掘調査を行いました。その結果,幕末~明治時代初期の地層から鹿児島紡績所と紡績所に関連する建物の基礎と紡績所以前の建物の基礎を検出しました。

 

1トレンチ
 幕末から現在の様々な遺物とともに①から④の4つの遺構を検出しました。
 この4つの遺構は,検出した地層から幕末から明治時代初期のものであることが分かりました。
 
①:約30cm×30cm×90cmの切り石で構成された石造建築物の基礎。石が抜かれているが「L」字形をしていることが分かった。。
②:木造建築物の建物の柱の基礎(礎石)
③:大小様々な石で造った建物の基礎または土地の区画のための石積み
④:緑色をした床 重なり合いや地層の観察から①~④は次のように判断できます。 ①が④を壊して造られているため,①が④より新しい。
 ②が③よりも上の地層のものであるため,②が③より新しい。
 ①と②は,接してはいないが地層の観察から同じ時期のものである。
 ④が③よりも上の地層のものであるため,④が③より新しい。
 結果,③が一番古く,④が次になり,①・②が一番新しい,と判断できます。
 また,④の緑色をした建物の床は,科学分析の結果,銅に由来することが分かりました。
 鹿児島紡績所に関する史料から,鹿児島紡績所の建設以前この場所には「今泉島津家の屋敷」があり,その後幕府からの許可を得て造った「琉球通宝」という貨幣の製造所(「鋳銭所」)となったことが分かっています。
 幕末から明治初期にかけて撮影された写真1とそれよりも古い写真2を見ると,この場所で①のような石造りの頑丈な基礎を必要とする建物は,鹿児島紡績所のみであること,鹿児島紡績所は大きな本館と北側(写真1左)に屋根のある廊下でつながれた細長い建物で構成されること,写真1から鹿児島紡績所の西側(写真手前)には石造建築物と木造建築物が3つあることが分かります。
 さらに写真2からは,この3つの建物の建築以前には,木造建築物があったことが分かります。
 これらと発掘調査結果を比べてみます。
 ①の基礎は,石の配列から建物の南北東の角で基礎・建物は北側(国道10号側)へ伸びることが想定できることから,本館のものとすると国道10号側に寄りすぎています。そのため,①は写真1の鹿児島紡績所の手前にある三つの建物のうち真ん中の石造建築物であると判断できます。そのため,②がその右側の木造建築物の基礎となります。
 このことから,③と④は,①・②よりも古いので鹿児島紡績所以前の建物と判断できます。
 鹿児島紡績所が建設される前は,「今泉島津家の屋敷」から「鋳銭所」へ変遷したことが分かっているので,③が「今泉島津家の屋敷」の時期のもので,④が「鋳銭所」の時期のものと想定でき,④が銅に由来することで裏付けられます。
 このように,1トレンチの発掘調査結果=遺構の重なりと史料・古写真から読み取れる史実が見事に一致する結果となりました。
 しかし,残念ながら③が「今泉島津家の屋敷」のどの建物であるか,④が「鋳銭所」のどの位置のものであるかという特定はできませんでした。
 そのほか,①,②,③は3つとも平行に並んでいるため,当時の区画が変更されることなく区画に従って建設されていることも分かりました。
 写真1と写真2を比較すると写っている建物が異なっています。発掘調査はこの地区の一部を調査したに過ぎないため,鹿児島紡績所付近のこれら全てを特定できたわけでありません。
 発掘調査や史料等で分かっていない建物の変遷もあると考えます。

 

2トレンチ

【写真5】2トレンチ検出遺構

 鹿児島紡績所の基礎を検出しました。大きなレンガ・鉄製の管などが出土しました。
 この基礎は,発掘調査では細長い建物の本館側の基礎であるのか,本館のものであるのか正確な特定はできませんでした。鹿児島紡績所の設計図が残っており,そこに書かれた大きさと,1トレンチでの成果から位置の想定は本館のものと考えています。

3トレンチ

【写真6】3トレンチ検出遺構

 鹿児島紡績所の本館玄関付近の基礎を検出しました。
 この基礎は,発掘調査では本館のどの位置のものであるのか正確な特定はできませんでした。1トレンチと2トレンチの結果から本館玄関付近のものと考えています。
 写真の右が海側で左側が国道10号側です。

写真4~6『鹿児島紡績所・祇園之洲砲台跡・天保山砲台跡』鹿児島県教育委員会 2012年から転載

 検出した遺構はこの状態で埋め戻してあります。遺構の上にはシラスを敷いて再発掘することがあったときに遺構の場所と地層が分かるようにしてあります。

 

Ⅷ 鹿児島紡績所跡技師館(異人館)の発掘調査

 平成12(2000)年から複数回位置確認のための発掘調査が行われました。その結果,現在の位置から鹿児島紡績所技師館の建物1つ分海側へ移動した位置にあったことが分かりました。(図2)
 その他,発掘調査成果を基に古い絵図に描かれている道路と現在の道路とを比較し,鹿児島紡績所技師館周辺の道路が江戸時代の終わり頃からあまり変化していないことも分かりました。(図2)

 

Ⅸ 出土遺物

 これらの発掘調査では,生活に必要な器などとともに集成館事業で使用した耐火レンガ・レンガ・石・鉄や銅などの金属製品・ガラス,陶磁器・金属・ガラス製品製作の道具など様々な遺物が出土しています。

 

Ⅹ 鹿児島紡績所・鹿児島紡績所跡技師館(異人館)以後

 鹿児島紡績所・鹿児島紡績所技師館の周辺は,鉄道や国道10号を建設する際に幕末から明治初期にかけての建物跡の上に多量の土砂を敷いて建設されました。この土砂の上に現在は,住宅,店舗,駐車場などが建てられています。
 発掘調査でつかめなかった建物の跡がその土砂に守られ,まだ多く残されています。

 

Ⅺ おわりに

 明治時代になると,日本は工業立国の基盤整備に取り組み,日本の基幹産業として重要な位置づけとなる造船や製鉄・製鋼,石炭と重工業において急速な産業化を成し遂げていきます。
 そして,西洋から日本独自の産業化への取り組みが成功したことを示す重要な産業遺産群が,平成27(2015)年に,薩摩藩が創設した旧集成館(現・尚古集成館)や旧集成館機械工場を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界文化遺産に登録されました。
 磯地区の地下に残っている遺構や現存する集成館事業の建物,島津氏の屋敷跡・庭園などと集成館事業で重要な役割をした寺山の炭窯跡・関吉の疎水溝は国の指定文化財として保護されています。そのほかにも,県内各地に集成館事業に関わる遺跡がまだ多く残っています。
 鹿児島紡績所は現在見ることができませんが,尚古集成館での展示で紡績所で使用した機械の一部や集成館事業,薩摩藩の歴史などの史料について見学することができます。そのほか,鹿児島紡績所技師館,集成館事業の建物の一部,燃料となる木炭を作った寺山の炭窯跡(※令和3年1月現在 寺山の炭窯跡は見学できません。),動力となる水車のための水路とその取水口の関吉の疎水溝,薩英戦争の砲台の一部など,現在見学することができる遺跡(遺構)が鹿児島市を中心に鹿児島県内にたくさんあります。また,薩摩藩英国留学生に関する展示などが,いちき串木野市の薩摩藩英国留学生記念館でも見学できます。
 近代の礎に触れることのできる各地を,ぜひ訪問してください。

 

文責 西園勝彦