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カテゴリー: デジタルコンテンツ「かごしまの考古学」

鹿児島県立埋蔵文化財センターでは,令和2年から「かごしまの考古学」という名称で,鹿児島県内の考古学に関する情報を発信していきます。最新の調査成果やこれまでの研究で明らかになったことなどを,年間を通して紹介します。
(掲載は月1回の予定です)

薩摩焼のルーツを探る~堂平(どびら)窯跡(日置市東市来町美山)

Ⅰ はじめに

 薩摩焼は,朝鮮半島と日本の間に起こった不幸な歴史から始まります。当時日本の国を統治していた豊臣秀吉の号令により,多くの日本の武将が朝鮮半島に侵攻しました。(文禄・慶長の役:1592-1598)。これに参戦した薩摩の武将島津義弘が連れ帰った朝鮮陶工らによってはじめられたのが薩摩焼です。
 江戸時代の幕開けとともにはじまった近世薩摩焼は,考古学的立場から定義すると,「近世に薩摩藩内(現在の鹿児島県と宮崎県の一部)で生産された陶磁器の総称」としており,竪野系,苗代川系,龍門司系,元立院系,薩摩磁器などの大きく5つの系統に分けることができます。
 薩摩に連れてこられた朝鮮陶工らにより最も早く築かれた窯は,苗代川系の串木野窯(鹿児島県いちき串木野市下名)といわれています。その後,陶工集団は鹿児島県日置市東市来町美山に移動し,元屋敷窯を開いたと伝えられていますが,この窯の正確な位置や窯体は分かっていません。次に開窯したのが,堂平窯といわれており,現在,苗代川(日置市東市来町美山)において最も古い窯跡となっています。

 

Ⅱ 堂平窯跡の概要

 堂平窯跡は,鹿児島県日置市東市来町美山字堂平に所在する薩摩焼の古窯の一つです。
 南九州西回り自動車道建設に伴い,平成10年に県立埋蔵文化財センターによって発掘調査が行われました。発掘調査は,堂平窯跡伝承地を対象としたもので,この結果,傾斜角約17度,長さ31.2m,窯幅1.2~1.4mの単室登窯と呼ばれる窯体1基が検出されました。周辺からは,窯へ流れ込む雨水を防ぐための溝や,作業場と思われる遺構等も検出されています。連房式登窯の新堂平窯跡も存在するとの見解もありましたが,(田澤・小山1941),調査を行った結果検出されませんでした。
 発見された窯跡は,串木野窯跡と同様の窯構造で,近年の韓国における発掘調査により16世紀代の朝鮮半島の築窯技術によりつくられたことが考古学的に判明しました。

正面から見た窯跡

横方向から観た窯跡

Ⅲ 堂平窯製品の特徴からそのルーツを探る

 窯体の周辺や少し離れた斜面からは,焼成に失敗し商品にならない製品を捨てた場所である物原(ものはら)が見つかっており,徳利・片口・擂鉢・甕・壷等の一般的に「黒薩摩」と呼ばれる日用雑器が大量に出土しました。これらの成形方法は,轆轤(ろくろ)上で粘土紐を巻き上げ,タタキ成形で作られており,器の厚さは非常に薄く,製品の内面には同心円状のあて具痕が残っていました。このような堂平窯の製品の成形技法は,16世紀末頃の朝鮮陶器と非常によく似ています。また,口縁部の形状や器形などもよく似ており,これらのことから,堂平窯跡の製品は朝鮮系製陶技術によって製作されていることがわかりました。
 さらに,16世紀代の朝鮮王朝時代の陶工は,轆轤成形技法で碗などをつくる「沙器匠」とタタキ成形技法で甕壷などをつくる「甕匠」の2つの集団があり(片山1998b),串木野窯や堂平窯を開いた朝鮮陶工は「甕匠」であり,現在も連綿と続く薩摩焼のルーツであることもわかってきました。

焼成に失敗した製品などを捨てた物原

内面にタタキ成形のあて具痕が残る陶片

堂平窯跡の出土品

 

Ⅳ 堂平窯製品の変化

 堂平窯の製品は,大きくⅠa期:1620~30年代,Ⅰb期:1630年代から1650年代と,Ⅱ期(17世紀後半)の3時期に分けることができます。

Ⅰa期
 最も古い時期に位置付けられる一群で,ほとんどが溝遺構内から出土した資料です。16世紀末の朝鮮陶器や薩摩焼で最初の窯と伝えられる串木野窯から出土した遺物と同様の器形や製陶技術が見られます。
 この時期の製品は,器壁が非常に薄く,口縁部の作りなどはシャープで,胴部内面にはタタキ成形時のあて具痕が同心円状に残っています。器種は,碗・蓋・水注・徳利・片口・擂鉢・甕・壺が中心です。島津義弘により連行され,串木野窯を経て苗代川に移った朝鮮陶工らにより製作された,朝鮮製陶技術そのものが色濃く残る製品と考えられます。

Ⅰa期の製品

Ⅰb期
 朝鮮陶器と同様の器形や製陶技術は引き続き残るものの,日本の需要などの影響を受け,朝鮮的な様相がやや消失し始める時期と考えられます。器形は,成形方法等には大きな変化は見られませんが,器壁は若干厚くなります。口縁部のつくりはややシャープさを失い始め,器種はⅠa期とほぼ同じですが,器形のバリエーションや法量が増大する傾向が見られます。

Ⅰb期の製品

Ⅱ期
 朝鮮的様相が消失していき,在地化していきます。器壁は厚くなり,口縁部のつくり等にはシャープさに欠けるものが多くなります。製作技法の変化としては,タタキ成形のあと,ヘラ状工具によるナデ調整が施されるようになり,横方向の筋状の調整痕が残るものが多く見られます。器種は増大し,碗・蓋・水注・徳利・片口・擂鉢・鉢・甕・壺のほか,皿・白薩摩の碗・皿・素焼きの鉢・植木鉢・瓦等が見られるようになります。特に瓦については,その出土量は膨大で,窯跡から少し離れた場所に形成された物原からは,大量の瓦が出土しました。瓦については鹿児島(鶴丸)城跡の創建瓦を焼いたという伝承がありましたが,物原から瓦とともに出土した甕や擂鉢の型式学的な年代観から,17世紀後半(Ⅱ期)のものと判明し,再建瓦である可能性が高まりました。
 肥前系の製陶技術も導入されるようになり,窯道具ではサヤ鉢やトチンが使用されるようになります。製品でも,甕の口縁部の形状は17世紀後半の肥前系陶器の影響を受けた口縁部形態に変化します。また,県内他窯との交流も考えられ,竪野系冷水窯のものと類似した上手の白色陶胎の製品や,口縁部形状が山元窯と類似する擂鉢も出土しています。

Ⅱ期の製品

 このように,堂平窯の製品にはⅠa期に色濃くみられた朝鮮系製陶技術が,日本の需要や世代交代,藩の関与や県内外の窯場からの技術導入などにより,Ⅱ期になると次第に消失していき,和様化(薩摩焼化)していく過程がみられることがわかりました。

 

Ⅴ おわりに

 堂平窯跡の出土品は,薩摩焼のルーツを解明し,また,薩摩に伝わった朝鮮系製陶技術で生産された焼き物が次第に変容し,薩摩焼に変化していくプロセスがわかる重要な資料であることから,平成22年4月23日に県の有形文化財(考古資料)に指定されました。

移築された堂平窯跡(日置市指定考古資料)

 

文責 関明恵

【参考文献】

鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(106)『堂平窯跡』
田沢金吾・小山富士夫1941『薩摩焼の研究』(国書刊行会復刻版1987 )
片山まび1998a「一六世紀の朝鮮陶磁と草創期の唐津焼との比較研究―「近世的な窯業」の萌芽を視座としてー」『朝鮮学報』167

 

堂平窯跡の発掘調査報告書は,以下のリンクからダウンロードできます。(PDF)

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(106) 「堂平窯跡」  第1分冊

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(106) 「堂平窯跡」  第2分冊

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(106) 「堂平窯跡」  第3分冊

 

 

国内最古の落とし穴~立切遺跡(中種子町)~

Ⅰ.海上の道

 鹿児島市を起点に,沖縄に向かう国道があるのをご存じでしょうか?
 国道58号線は,鹿児島の偉人,西郷隆盛の銅像がある場所からほど近く,「朝日通り」と呼ばれる道路から,種子島,奄美大島を経て沖縄県那覇市まで続く国道です。鹿児島市では陸上分は700mほどで,海上の航路部分も国道扱いになっていて,種子島,奄美大島を経て沖縄に続いています。海上区間(約600km)を含めると総延長は880kmあり,海上区間を含む国道としては,国内最長なんですって。

上空から撮影した立切遺跡

国道58号線と立切遺跡の位置

Ⅱ.発見された国内最古の落とし穴

 立切遺跡(大津保畑地区)は,その国道58号線の改築工事に伴って,平成18年度~平成19年度に発掘調査が行われました。
 遺跡は種子島中央部(中種子町坂井)にあり,標高112mの台地上に立地しています。平成18年度から19年度にかけて行われた発掘調査で,国内最古とみられる旧石器時代の落とし穴が12基発見され,注目を集めました。

遺跡の調査区(クリックで拡大)
見つかった落とし穴の写真
12基の落とし穴の配置

 

 

Ⅲ.遺構の特徴

 発見された落とし穴遺構(遺構=地面に残された生活の痕跡)は,発掘調査の結果,ほとんどが直径1mほどで上部がラッパ状に開く形をしていて,深さも1mほどのものでした。底が丸い形をしているのが特徴で,同じような形をした遺構がまとまって見つかりました。
 最上部には種Ⅳ火山灰といわれる約35,000千年前の火山灰がレンズ状に堆積していて,この火山灰が降った頃には,ほとんど埋まりかけていたようです。この火山灰によって,発見された遺構は,この火山灰とほぼ同時期(約35,000年前)ということが分かるわけです。

落とし穴の検出状況(落とし穴の部分は土の色が違う)

完掘した落とし穴の様子

落とし穴の断面(上部にレンズ状に積もっているのが種Ⅳ火山灰)

上部がラッパ状に開く
落とし穴の形や特徴を示した図面。グレー部分が種Ⅳ火山灰(クリックで拡大)

 

Ⅳ.比較と検討

 では,どうして落とし穴と分かったのでしょうか?
 静岡県などでは,この時代の落とし穴が発見されています。立切遺跡の事例と直径はほぼ同じですが,深さは約2mとかなり深いことが分かります。こうした深い穴が台地上に並んで構築されていることから,落とし穴と考えられているのです。
 立切遺跡の事例は,こうした事例と比較するとかなり浅いものです。また南九州では縄文時代早期(=約10,000年前)になると数多くの落とし穴が発見されていますが,こうした縄文時代早期の落とし穴と比較してもやや小ぶりで浅く,また逆茂木の痕跡が見られないなど,構造上の特徴には大きな違いがありました。
 調査担当者は,立切遺跡(大津保畑地区)の事例は上部がラッパ状に開く点や遺構が見つかった層には周囲に石器や調理施設などの生活痕跡がみられないことなどから,落とし穴の可能性が高いと結論づけましたが,発見された遺構はこれを本当に落とし穴と考えてよいか,その後も懐疑的な意見があったことも事実です。
 こうしたことから,平成20年から,中種子町教育委員会が遺跡や遺構の性格を評価するための発掘調査を継続して行うことになりました。

落とし穴は深さ約1m(人物との対比)

立切遺跡と初音ヶ原遺跡(静岡)・関山遺跡(鹿児島県)の落とし穴の比較(クリックで拡大)

 

Ⅴ.追加調査の努力と成果

 平成20年から中種子町教育委員会によって行われた発掘調査では,大変重要な成果が発見されることになります。それまでに遺構が見つかってた大津保畑地区だけでなく,周辺の広い範囲に,同じような遺構が広がっていることが分かりました。
 加えて当時の周辺地形も復元され,当時周辺に広がっていた浅い谷状の地形にそって,こうした遺構が構築されていることが分かりました。台地上に列状に配置された静岡県の事例とは異なりますが,地形に沿った配置の特徴から,落とし穴である可能性がさらに高まりました。こうした調査の成果によって,現在ではこの大津保畑地区で発見された遺構は,落とし穴とみてよい,というのが大方の研究者に支持された見解となっています。
 立切遺跡群は,少し離れた地点(=立切地区)で,生活の痕跡を示す礫群(=調理施設)や焼土跡(=炉跡)が発見されています。こうしたことから,3万年以上前の生活と狩猟の場をセットで知ることができる遺跡として,さらに高い評価を受けることになりました。

見つかった落し穴の位置と周辺地形(クリックで拡大)

 

Ⅵ.「今も昔も最先端」種子島の歴史を将来に

 立切遺跡群は,こうした評価を受けて,平成27年に県史跡として指定されることになりました。花粉分析の結果,遺跡周辺には現在と同じような照葉樹林が広がっていたことが分かっています。
 立切遺跡からは,そうした環境の中で,狩猟や植物の加工などを行い,日々の暮らしを営んでいた当時の人々の姿が浮かび上がります。集落の少し離れた森の中に落とし穴をつくり,時々見回りながら,周辺の環境を上手に利用して暮らしていたのでしょう。
 サトウキビが広がる畑の下には,はるか昔の人々の痕跡が,今でも眠っているのです。
 種子島には,立切遺跡群のほかにも,南種子町横峯遺跡など同じ時期の遺跡が発見されています。この時期の遺跡は宮崎県や静岡県で多く見つかっていますが,種子島もこの時期の遺跡がたくさん残されている地域のひとつです。
 また,当時は,今と同じように九州や外の島とも海で隔てられていたと考えられています。そうした場所に人々が暮らした痕跡があるということは,当時種子島に人々が到達する手段があった(=舟などを造って海を越える手段が既に存在していた)ということも示しています。
 現在の種子島には,国内最長の海上国道である国道58号線が通っていますが,ひょっとすると,35,000年前にも,海上の移動ルートが存在していて,当時の文化を携えた人々が種子島にも来て日々の暮らしの拠点にしていた,そんな想像を膨らますのも楽しいかもしれません。

別の地点で見つかった礫群
遺跡の周辺では今もサトウキビなどが作られている

調査時に行った現地説明会(2007年)

現地説明会と同時に行われた落とし穴シンポジウム(2007年)
文責 馬籠亮道

第6回 「重要文化財~鹿児島県三角山遺跡出土品」

はじめに

 鹿児島県種子島の西之表市と中種子町の接する丘陵地帯に,三角山遺跡群があります。新種子島空港の建設に先立って,平成7年度から平成14年度まで発掘調査が行われました。調査の結果,縄文時代草創期から古代まで各時代の遺構や遺物が出土しました。特に,桜島の大噴火による薩摩火山灰層(約12,800年前)の下から,縄文時代草創期の遺構,遺物が多数発見され,多く方々の関心を集めました。
 これらの出土遺物のうち,全形が復元できる多数の隆帯文土器や,文様の構成がよくわかる大型土器片に加えて,それらに伴う石器など,「土器・土器片」160点,「石器」144点,「附石核・剥片」60点の計364点が,「縄文時代草創期の南九州における生活・文化の様相を知る上で,学術的価値が高いものである」として,令和元年7月23日,国の重要文化財に指定されました。

重要文化財に指定された土器・石器

空からみた三角山遺跡(平成13年度撮影)

発掘当時の作業の様子

貴重な遺構と遺物

 縄文時代草創期では,竪穴住居跡2基やたくさんの集石・土坑などの遺構,2万点を超える土器や石器などの遺物が発見されました。竪穴住居跡は直径2m程度で,2基が隣り合っていました。その一つの中央には火をたいた跡がありました。床面に接して出土した土器片や石鏃などもあり,当時のくらしを知る上で貴重な資料です。
 また,遺跡内では,バラバラになった土器片が集中して出土した場所が多数確認されています(図1)。それらを水洗いし,丁寧に接合していくと,それぞれが一つの土器として,いにしえの姿を現しました。ほぼ完全な形に復元できた土器は16点。この時期の遺跡としては驚くべき数です。

竪穴住居跡と発掘作業員さんたち

図1 縄文時代草創期遺物出土状況図

多彩な隆帯文土器

 発見された土器は,南九州の縄文時代草創期を代表する隆帯文土器です。隆帯文とは,口縁部周辺にぐるりと粘土の帯を1~6条まわし,指先や貝殻などを押して模様をつけたもので,中には横だけでなく縦の帯や沈線のある土器もあります。形も尖底からサラダボウルのような丸底,中には底部中央が内側にせり上がった茶碗のようなものまで,非常に多彩です。
 また,器の内外にススや炭化物が付着した例が多いことから,実際に煮炊きに使われたものと考えられています。放射性炭素年代測定の結果(補正)は,紀元前12,140~11,830年で,縄文時代草創期末にあたります。
 このように,当時の生活の様子を如実に示す貴重な資料であることから,国の重要文化財に指定されました。

多彩な隆帯文土器

指紋が残る隆帯文土器

手作りの「服」を着ていた? 縄文時代草創期の人々

 出土した土器の底に「もじり編み」と思われる圧痕のある隆帯文土器が1点あります。織物の痕跡としては,日本最古級の資料です。当時の人々が植物からとった繊維で織物を作り,土器を作る際の敷物にしていたことがわかります。植物の繊維を工夫して,”縄文服”も着用していたのかも知れません。
 

圧痕のある隆帯文土器

底部の圧痕

型取りでよみがえった「もじり編み」

断面の薄い大型土器

 三角山遺跡群の土器の中で最大級の大きさで,直径35cmを超えます。隆帯は6条。ヒダのある貝殻を押し当ててつけられた美しい文様で,指紋や爪の跡まで観察できます。
 サラダボウルに似た形で,大型にもかかわらず,厚みもできるだけ薄く作ろうと努力した様子がうかがえます。この薄さで長期間の使用に耐えられるのか心配してしまいますが,後から薄い断面を観察できるように,一部分を開けた状態で復元しました。

三角山最大の隆帯文土器

磨製石鏃

 三角山遺跡群では,特徴的な石器も出土しています。写真の磨製石鏃は,ホルンフェルスや頁岩を磨いて形作っていますが,一般的な石鏃より厚みが薄いようです。穴が開けられたものもあり,どのように使用されたか注目されます。

おわりに

 種子島空港ロビーの一角に三角山遺跡群のコーナーがあり,遺跡の紹介をしています。実物こそ県立埋蔵文化財センターにあるものの,これらのパネルを見て,地域の方々だけでなく,種子島を訪れた人にも,悠久の歴史に触れる機会になってくれればと思います。

貝殻模様の美しい隆帯文土器

文責 藤﨑光洋

第5回 鹿児島の戦争遺跡について

Ⅰ.戦争遺跡保存に至るまで

 2020年は戦後75年目の年です。当時20歳の若者は今年95歳,ということになります。これは戦争体験者の激減を意味し,次世代に戦争体験をどのように伝えるかという問題にも繋がってきます。戦争遺跡には地表に露出したものや,地下に埋もれたもの等がありますが,多くは戦後長い間放置され,老朽化や開発などで風化や解体が進んできています。

 そのような中,1970年代ごろから,全国各地で戦争遺跡を調査する事例が少しずつ見られるようになりました。さらに,沖縄県南風原町の南風原(はえばる)陸軍病院壕が1990年に日本初の指定史跡(町指定)になったことで徐々に関心が高まり,1995年には広島原爆ドームが国の史跡に指定され,ユネスコの世界文化遺産にも登録されることとなりました。この原爆ドームの文化財指定は,全国の戦争遺跡に対する意識が見直され,後世に語り継ぐべき遺産として把握・保護される大きなきっかけとなりました。

資料1 鹿児島県内で指定・登録文化財となった戦争遺跡等(2019年7月末)
番号 市町村名 名称 内容 時代
1 薩摩川内市 天狗鼻海軍望楼台 市指定 明治
2 鹿児島市 天保山砲台跡 市指定 幕末
3   〃 祇園之洲砲台跡   〃 幕末
4   〃 沖小島砲台跡   〃 幕末
5 南九州市 陸軍知覧飛行場給水塔跡 市指定 昭和
6   〃 陸軍知覧飛行場弾薬庫跡 国登録 昭和
7   〃 陸軍知覧飛行場着陸訓練施設遺構   〃 昭和
8   〃 陸軍知覧飛行場水風呂(防火水槽跡)   〃 昭和
9 姶良市 山田の凱旋門 国登録 明治
10 曽於市 岩川官軍墓地 市指定 明治
11 鹿屋市 海軍笠野原航空基地跡川東掩体壕 市指定 昭和
12   〃 海軍串良航空基地地下壕電信司令室   〃 昭和
13 志布志市 権現島砲台遺構(水際陣地跡)   〃 昭和
14   〃 海軍岩川航空隊基地通信壕跡   〃 昭和
15   〃 平床通信壕跡   〃 昭和
16 南大隅町 原の台場跡 県指定 幕末
17 大和村 今里小中学校奉安殿 国登録 昭和
18 瀬戸内町 久慈小学校奉安殿   〃 昭和
19   〃 須子茂小学校奉安殿   〃 昭和
20   〃 薩川小学校奉安殿   〃 昭和
21   〃 池地小中学校奉安殿   〃 昭和
22   〃 節子小中学校奉安殿   〃 昭和
23   〃 古仁屋小学校奉安殿   〃 昭和
24 伊仙町 鹿浦小学校奉安殿   〃 昭和

Ⅱ.戦争遺跡の分類

 本稿では戦争遺跡を幕末・明治初期からアジア・太平洋戦争終結までのものとします。この間の80年余り,主なもので薩英戦争,戊辰戦争,西南戦争,日清戦争,日露戦争,第1次世界大戦,日中戦争,アジア・太平洋戦争があります。近代的中央集権国家として帝国主義の時代を生き抜いていくために,日本はこれだけの戦争を行ってきました。

 ところで,鹿児島県はこの中で特にアジア・太平洋戦争に係る戦争遺跡が多く所在します。これらを大まかに分類すると,
①航空基地関係(滑走路・掩体壕・建物や施設)
②沿岸施設(砲台・観測施設・哨戒施設・防備所・水上水中特攻基地・建物や施設)
③軍事施設(建物や施設・要塞・塹壕)
④その他(奉安殿【注1】・防空壕・記念施設・慰霊碑・墓地)
などに分けられます。
【注1】 戦前の日本において,学校等にあった天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物

 

Ⅲ.鹿児島県の戦争遺跡

 鹿児島県にアジア・太平洋戦争関連の遺跡が多いのは①~④の理由によると考えられます。
①1945年3月の沖縄戦以後は本土防衛の最前線となり,陸海軍の出撃,防御拠点が集中しました。
(資料2,3 写真6)

資料2 県内の航空基地(昭和20年)

 

資料3 県内の水上(震洋)・水中(回天)特攻艇施設(昭和20年)

②吹上浜と志布志湾が本土上陸作戦(オリンピック作戦)の目標地点となっていたことから,コンクリート製の永久築城の要塞や素掘りの洞窟式陣地,トーチカ等の施設が昭和19~20年に多数構築されました。(写真1~3 )

写真1 榴弾砲陣地(観測所)跡(大崎町)
写真2 写真1を踏査する民間団体の活動
写真3 志布志湾岸のトーチカ(大崎町)
写真4 坊津電探基地跡(南さつま市)
写真5 写真4を踏査する民間団体の活動

③南九州一帯にひろがるシラスの崖は掘りやすく,本土防衛の最前線である鹿児島への空襲が激しくなるにつれて防空壕が県内に多く作られました。(資料4)

資料4 都道府県別の空襲による犠牲者数【『戦争遺跡から学ぶ』(岩波ジュニア新書)より】
北海道 1,210 山  梨 1,181 広  島 262,425
青  森 946 長  野 53 島  根 38
秋  田 94 富  山 2,300 山  口 3,362
岩  手 616 石  川 27 香  川 1,359
宮  城 1,118 岐  阜 1,191 徳  島 1,710
山  形 41 愛  知 12,379 高  知 487
新  潟 1,467 三  重 5,612 愛  媛 1,097
福  島 661 滋  賀 35 福  岡 5,570
茨  城 2,452 福  井 1,809 佐  賀 138
栃  木 612 京  都 215 長  崎 75,380
群  馬 967 奈  良 32 大  分 710
埼  玉 392 和歌山 1,781 熊  本 869
東  京 116,959 大  阪 14,770 宮  崎 646
千  葉 1,450 兵  庫 11,997 鹿児島 4,604
神奈川 9,197 鳥  取 61 沖  縄 約1,500
静  岡 6,234 岡  山 1,773 (人)
写真6 青戸基地トーチカ(南九州市)

④奄美大島の大島海峡は複雑に入り組んだリアス海岸からなり,海軍艦艇の絶好の泊地となり両岸に関連する軍事施設が集中しました。(写真7~10 )

写真7 大島防衛隊与路派遣基地(瀬戸内町)
写真8 金子手崎潜水艦防備衛所(瀬戸内町)
写真9 金子手崎弾薬庫(瀬戸内町)
写真10 呑之浦特攻艇震洋の格納施設(瀬戸内町)

 これらの施設は戦後の開発による消失を免れてそのまま残っているものが多数みられます。その中の一部はコンクリート製の耐弾構造となっているため,当時の構造がほぼそのまま残っているものもあります。

Ⅳ.保存と活用

 最近,全国各地で「身近にある戦争遺跡から戦争のことを知り平和の大切さを学ぼう」という活動を行う各種団体が現れています。また,個人的に踏査や集成を行い,紹介や普及活動を行っている人もいます(写真2,5)。市町村では戦争遺跡が多く所在する自治体(南九州市,出水市,霧島市,曽於市,鹿屋市,瀬戸内町その他)で積極的に保存・活用する動きが,いわゆる“まちおこし”と絡めて見られます。そして今後県内で埋蔵文化財の発掘調査が行われるに伴い,新たな戦争遺跡や遺物が確認され,この時代に対する認識と評価が深まっていくことでしょう。

写真11 天保山砲台跡(幕末・鹿児島市)
写真12 天狗鼻海軍望楼台(明治・薩摩川内市)

Ⅴ.埋蔵文化財発掘調査報告書に記載された戦争遺跡

 古い時代(縄文時代や弥生時代等)の遺跡の発掘調査中に偶然出土した戦争に関連する遺構や遺物はこれまでも様々な報告書に掲載されています。また,最近では戦争遺跡そのものを保護,記録保存するために発掘調査を行い,それらの報告書が刊行されています。ここでは前者の例として霧島市の上野原遺跡を,後者の例として南九州市の知覧飛行場跡を紹介します。

 上野原遺跡(霧島市)の調査で,2基の探照灯跡と配線ケーブルを埋めた溝が検出されています(第10地点)。探照灯跡は直径3.5mの円形の掘り込みが2段に掘り下げられており,礎石の上に円形のコンクリートの台座が据えてあります。台座にはボルトが6か所あります。周囲からは昭和19年12月製造の四式電話機のラベルが出土しています。これらは海軍の国分第一基地に関わる施設の一部であると考えられます。

資料5 上野原遺跡1号探照灯跡(霧島市)
写真13 上野原遺跡1号探照灯跡

 知覧飛行場跡(南九州市)の調査で,排水施設と考えられるコンクリート製溜枡とそれに繋がる土側溝2条が検出されています。溜枡は,上幅約4m,底幅約70cm,深さ約1.6mの台形断面で,コンクリートの厚さは約8cmで,不揃いの玉砂利が用いられ型枠痕が見られないことから,現場打ちによって構築されたと考えられます。これらの施設は終戦直前の昭和20年7月22日米軍の偵察機が上空から撮った写真でも存在が確認できます。また,周辺からは明治から昭和初期にかけて鋳造された貨幣,統制食器,ガラス瓶,碍子その他が出土しています。

写真14 知覧飛行場跡(南九州市)の遺構
写真15 知覧飛行場跡の遺物

 

資料6 特別攻撃隊の基地別出撃数等 【『知っていますか?身近な「戦争遺跡」』(古場昌彦2004)より】
海軍
出撃基地 出撃隊員
(未帰還機含)
機数
(未帰還機含)
備考
鹿  屋 832 445
串  良 334 122
国  分 354 224
出  水 41 14
指  宿 82 41 古仁屋含む
鹿児島 12 1
喜界島 19 11
合 計 1,674 858
陸軍
出撃基地 出撃隊員
(未帰還機含)
機数
(未帰還機含)
備考
知  覧 439 354

 

※戦争遺跡の調査を報告した埋蔵文化財発掘調査報告書

  • 鹿児島県立教育委員会 「西原掩体壕跡」1990
  • 鹿児島県立埋蔵文化財センター 「知覧飛行場跡」2017
  • 鹿児島県立埋蔵文化財センター 「敷根火薬製造所跡 根占原台場跡 久慈白糖工場跡」 2018
  • 南九州市教育委員会 「知覧飛行場跡」 2015,2016
  • 出水市教育委員会 2014 『出水市埋蔵文化財発掘調査報告書25:旧海軍出水航空基地 掩体壕 発掘調査報告書』
  • 瀬戸内町教育委員会 2017 『瀬戸内町文化財調査報告書第6集:瀬戸内町内の遺跡2』

Ⅵ.負けた戦争の大切さ

 近・現代の歴史は戦争と軍隊の存在抜きには語れません。戦争遺跡を保存し活用することの最大の目的は,「過去にこのようなことがあった。二度と繰り返してはならない」と「自分達の身近な地域では過去にこのような人や物の動きがあった。現在はその上に成り立っている」ことを学ぶことであると思います。歴史を見ると人類は勝った戦争よりも,負けた戦争から多くの戦訓や教訓を学んできているようです。

 近・現代の歴史は,日本が世界の中で今後どのようにあるべきかという問いに直接答えられる要素を他のどの時代よりも遙かに多く含んでいます。戦争遺跡を保存し周辺の安全管理を行ったうえで,これを積極的に活用していきたいと考えています。

 

文責 抜水茂樹

第4回 鹿児島(鶴丸)城跡の瓦について

Ⅰ.鹿児島城の概要

 鹿児島城は鹿児島市城山町に築かれた島津氏の居城で,別名鶴丸城とも呼ばれています。城の範囲(城域)は黎明館・県立図書館のある場所だけではなく,西端は黎明館の背後にそびえる城山(上之山城跡),東端は外堀のあったみなと大通り公園,北端は国立医療センター,南端は照國神社や中央公園,山形屋のあたりまでが江戸時代における鹿児島城の範囲と考えられています。

 鹿児島城は初代薩摩藩主島津家久(忠恒)が関ヶ原の合戦直後の慶長6(1601)年頃に築城を始め,慶長末(1615年)頃にほぼ完成したとされています。城の正式な名称は鹿児島城で,「鶴丸城」の呼称は背後の城山の形が,鶴が舞っているように見え,鶴丸山と呼ばれたことにちなむと江戸時代後期の『三国名勝図会』に記されています。

 本来の鹿児島城は,背後の山城(上之山城)と麓の居館からなり,江戸時代前半の絵図では,山城部分の曲輪を本丸,二丸(二之丸)とし,麓の居館は居所(居宅)と記しています。江戸時代を通じて藩政の中心を担ったのは麓の居館部分で,江戸時代後半には,現在黎明館がある三方を石垣と濠に囲まれた藩主の居館を本丸,その西側を二之丸と呼ぶようになりました。また,天明5(1785)年から8代藩主島津重豪により,二之丸の整備拡大が図られました。

 その後,明治に入り,明治2(1869)年に知政所となり,明治4(1871)年の廃藩置県で12代藩主島津忠義が去るまで,270年余り島津氏の居城として,近世鹿児島の発展の中心でしたが,本丸や御楼門は明治6(1873)年の火災で,二之丸は明治10(1877)年の西南戦争で焼失しました。

 明治中期以降は,居館跡に中学造士館,次いで第七高等学校造士館が設立され,戦後は鹿児島大学の文理学部,次いで鹿児島大学医学部と移り変わり,昭和58(1983)年に黎明館が開館しました。

写真1 復元された御楼門

写真2 鹿児島城跡の空撮

図1 島津家久(忠恒)【尚古集成館所蔵】

Ⅱ.瓦の種類と特徴

 平成26年度から始まった発掘調査では,様々な種類の瓦が出土しました(写真3)。瓦は出土地点の近くの建物に葺かれていたものであったり,火災等で崩れた建物の瓦が寄せ集められて廃棄されたものと考えられます。御楼門跡周辺から出土した瓦は現代の瓦よりも一回り大きなものが多く,国内最大級の大きさと言われる御楼門に葺かれていた瓦と考えられます。

 瓦の葺き方には大きく「本瓦葺き」と「桟(さん)瓦葺き」の2種類があります。本瓦葺きは古代から続く古い瓦の葺き方で,丸瓦と平瓦を交互に重ねて葺く伝統的な手法です。一方,桟瓦葺きは江戸時代以降用いられた手法で断面形が「へ」の字になった瓦を重ねて(組み合わせて)葺く手法で,現代の屋根瓦にも多く用いられています。明治5年に撮影された鹿児島城の古写真を見ると,御楼門の瓦には本瓦を用いていますが,本丸屋敷の麒麟の間やサギの間には桟瓦が用いられているのが分かります(写真4,5)。屋根の最も低い部分(軒)には本瓦では軒丸瓦と軒平瓦,桟瓦では軒桟瓦とよばれる瓦当部分に文様を持った瓦が用いられています。出土した軒丸平の文様は,「連珠三巴紋」と呼ばれる全国的に普及した文様のものが多く,軒平瓦には「橘唐草文」と呼ばれる文様が多く出土し,この文様の種類や同じ型(同笵)などを調べることで製作時期や生産地などを推定することができます(図2-1~5)。

 その他にも,装飾瓦として鬼瓦や鯱(シャチ)瓦も出土しました。これらは建物の魔除けとしての意味を持ち,棟端に用いられます。本来は棟の端から雨水が入るのを防ぐ役割があるのですが,建物の目立つ場所にあるため,建物を象徴する意匠的な役割を持っているとも言えます。御楼門の壁には海鼠瓦という板状の瓦を多数用いていました。他にも鳥伏間(とりぶすま)瓦,熨斗(のし)瓦,小菊瓦等といった瓦も出土しています。

写真3 軒丸瓦,軒平・軒桟瓦,小菊瓦,鳥伏間瓦

 

写真4-1 明治初年の鹿児島城(鹿児島県立図書館所蔵)

写真4-2 本瓦葺き(鹿児島県立図書館所蔵,写真3-1の拡大)

写真5-1 島津御本丸池波畔景(鹿児島県立図書館所蔵)
写真5-2 桟瓦葺き(鹿児島県立図書館所蔵,写真5-1の拡大)

 

図2-1 A種(連珠三つ巴文)

図2-2 B種(牡丹文)

図2-3 C種(その他・図は花十字紋)

図2-4 軒平瓦

図2-5 軒桟瓦

Ⅲ.瓦当文様と刻印から見る生産と流通

 軒丸瓦,軒平瓦には連珠三巴紋(図2-1 A種)と橘唐草文以外にも様々な文様の軒瓦が出土しました。図2―2でB種とした牡丹紋や,図2-3のC種(その他)には花十字紋や桐紋等,出土数は少ないものの特徴的な文様の瓦が出土しました。よく知られている島津家の家紋は丸十紋ですが,当初の家紋はただの十字紋で,鹿児島城で出土した牡丹紋や桐紋も家紋として使っていたようです。牡丹紋は元々藤原家嫡流である近衛家の家紋で,近衛家と姻戚関係にあった島津家や上野松平家,伊達家,津軽家が使用していました。桐紋は御兵具所西側と昭和53年の本丸調査の際に出土していますが,牡丹紋に比べ希少な種類です。桐紋は足利幕府や豊臣秀吉が功績のあった家臣たちに使用を許したと言われる貴重な瓦で,中央との繋がりがうかがえる資料と言えます。

 軒丸瓦の中で,花十字紋と呼ばれる瓦が2点出土しました(図2-3 C類の文様)。これは鹿児島市が二ノ丸の調査をした際にも数点出土しており,非常に珍しい瓦です。十字の先端が花ビラのように開き,周囲を珠文が囲む文様で,一見,島津家の丸十紋のようにも見えます。鹿児島県以外では島原の乱でキリシタンが立てこもった原城跡や薩摩川内市の京泊から慶長14(1609)年に移築された長崎市のサントドミンゴ教会跡(勝山町遺跡)から多く出土しているため,キリスト教との関連がうかがえる資料と言えます。

 では,なぜ鹿児島城から出土したのかを考えてみると,島津家第15代当主の島津貴久は,天文18(1549)年に来日したフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教許可を出しています。しかし,豊臣秀吉の時代になり天正15(1587)年にバテレン追放令が出されキリスト教布教は禁止されました。また,初代薩摩藩主島津家久(忠恒)の義母にあたる永俊尼(カタリナ永俊)がキリスト教信者で,後のキリスト教弾圧の中,藩命を受けて種子島の西之表大長野に配流されたという記録があります。鹿児島城の近隣にキリスト教関連の瓦葺き施設が存在したのか,それとも花十字紋瓦を十字架やお守りのように扱っていたのか分かりませんが,当時の宗教観や政治的な背景を考える上で興味深い資料であり,遺構と併せて調査類例を待ちたいと思います。

 他にも,陶器(釉薬)瓦と呼ばれる,陶質で釉薬を塗った軒丸・軒平瓦,丸・平瓦が出土しました。この陶器瓦と類似したものが日置市東市来町にある堂平(どびら)窯跡からも出土しているため,陶器瓦の生産地の可能性があります。堂平窯跡は1620年代に始まり17世紀後半には閉窯したとされており,堂平窯出土の瓦は物原や瓦の調整痕から17世紀後半の所産と考えられています。鹿児島城の陶器瓦が同じものであれば,創建時ではなく城の建て替え時に使われたと考えられます。

 また,出土した瓦には屋号(生産者)や卸先(消費地)等を表したと思われる刻印も多く残されていました(図3)。「太喜」「太宗」「太左衛門」「河野」「上伊敷」「日置」などの他,「玉水堂」「山下小」などの文字がありました。これらの文字が表す意味や出土数量,他地域での出土例などを分析することで,当時の生産/消費地等の流通や社会情勢が見えてくる可能性があります。

図3 様々な刻印

Ⅳ.これからの鹿児島城

 これまでの発掘調査で,鹿児島城の歴史の一部分が解明されてきましたが,文献や絵図にも残っていない,説示できない課題も残されています。また,災害の多い日本列島において,今後地震や大雨などの自然災害により石垣や堀などが損傷を受ける可能性もあります。現代を生きる私たちは過去の教訓から学び,かけがえのない歴史遺産を守り,未来に伝えていかなければなりません。御楼門復元という歴史的転換期を迎えた現在,再度鹿児島城の持つ本質的価値や意義について調査・研究を進め,未来のまちづくりに活かしていきたいと考えています。

(鹿児島県歴史・美術センター黎明館提供)

文責 永濵功治

第3回 「奄美大島の赤煉瓦(れんが)」

Ⅰ.日本における赤煉瓦(れんが)の導入

 日本における建築用煉瓦(いわゆる「赤煉瓦」)の生産は長崎で始まりました。幕末に鎖国が解かれると,長崎は他の地域に先駆けて欧米からの科学技術の導入と定着化が一挙に進行しました。製鉄所と船舶の修理・建造を行う工場(長崎製鉄所・文久元(1861)年完成)や蒸気機関を動力とする引揚げ装置を整備したドック(小菅修船場(こすげしゅうせんば)・明治元(1868)年完成),旧グラバー邸(文久3(1863)年完成)のある外国人居留地などの建設が行われ,このような建造物の部材として赤煉瓦が導入されたのがきっかけです。
 国産初の赤煉瓦が生産されたのは,安政5(1858)年と考えられています。前年に起工した長崎製鉄所の建設のため,建設を監督したオランダ海軍の軍人ハルデスが瓦職人を指導し,生産したとされています。しかし,その煉瓦は現在の煉瓦に比べて薄く長い扁平な形(蒟蒻によく似た形をしていることから「蒟蒻(こんにゃく)煉瓦」と呼ばれています)をしています。
 一方,鹿児島で赤煉瓦が初めて生産されたのは,国産初の赤煉瓦が生産された7年後の慶応元(1865)年と考えられています。薩摩藩は,奄美大島で白糖工場の建設を計画し,アイルランド人技師のウォートルスの指導のもと,4つの工場を建設しました。金久(かねく:現奄美市)と須古(すこ:現宇検村)が慶応2(1866)年に,久慈(くじ:現瀬戸内町)と瀬留(せどめ:現龍郷町)は翌3(1867)年に完成しました。これら白糖工場の建築部材として,奄美大島で赤煉瓦が生産されたのが,鹿児島における赤煉瓦生産の始まりです。
 関東での赤煉瓦生産は,慶応2(1866)年の横須賀製鉄所建設,関西では明治元年(1868)年の造幣局(ぞうへいきょく)建設を契機として開始されたと考えられており,鹿児島はわが国の中でも早い時期に赤煉瓦生産が開始された地域であるといえます。

奄美大島に建設された4つの白糖工場の位置
久慈白糖工場が建っていた久慈湾

Ⅱ.奄美大島白糖工場の赤煉瓦の特徴

 平成27~29年度にかけて,鹿児島県教育委員会が実施した「かごしま近代化遺産調査事業」で,久慈白糖工場跡を発掘調査しました。発掘調査の結果出土した大量の赤煉瓦は,いずれも表面がくぼむという特徴があります。この特徴は,わが国初期の洋風建築に時折見受けられますが,類例は多くありません。また,刻印(「△」「□」「×」「-」「○」)が施されているものや,「九十」「八」「三百八十」などの数字が刻まれているものがあることも特徴といえます。
 なお,出土した赤煉瓦は以下の3種類に分けることができました。

  1. 煉瓦の表面が両面ともくぼんだもの。規格は長さ25.8㎝,幅12.8㎝,厚さ8.8㎝程度(推定値)。小礫をあまり含まず,精製した粘土を使用しており,比較的焼きが良く,堅緻。
  2. 煉瓦の表面が片面のみくぼんだもの。規格が長さ25.8㎝,幅12.8㎝,厚さ8.8㎝程度でAと同規模。
  3. 煉瓦の表面が片面のみくぼんだもの。規格が長さ23.8㎝,幅10.9㎝,厚さ6.2㎝程度とBに比べ,一回り小さいもの。久慈白糖工場跡で出土したイギリスもしくはイギリスの植民地で生産されたと考えられている耐火煉瓦(白煉瓦とも呼ばれ,「STEPENSON」,「COWEN」の刻印があるもの)と同規模。

 

 いずれの種類も長﨑の蒟蒻煉瓦より分厚い煉瓦です。特にAのような赤煉瓦は,奄美大島以外の日本国内で発見されていないことから,外国で生産された可能性が高いと思われます。類例としてイギリスなどで両面ともくぼんだ赤煉瓦があることから,それがイギリス植民地の拡大と共にアジアに伝来して奄美大島にもたらされたとも考えられます。つまり,Aの赤煉瓦は,ウォートルスの前任地であった香港や上海などで生産されていた煉瓦であり,見本として奄美大島に持ち込まれた可能性が最も高いと思われます。
 一方B・Cの赤煉瓦はAの赤煉瓦に比べ,奄美大島で産出する石材を多く含むことから,奄美大島で造られた赤煉瓦と考えられます。また,焼きが甘く,瓦職人などによる粘土精製技術も窺えません。奄美大島では高品質な煉瓦の焼成を行える瓦職人や原料の確保ができなかったという事情もあるのかもしれませんが,素人が見まねで製作した感が否めない煉瓦です。BはAの赤煉瓦の規格に,Cは耐火煉瓦の規格に合わせて,生産されたものでしょう。

久慈白糖工場跡で見つかった煉瓦積みの遺構
久慈白糖工場跡から出土した煉瓦
「COWEN」の刻印がある煉瓦
「×」や「〇」の刻印がある煉瓦

Ⅲ.赤煉瓦生産技術の拡大

 明治4(1871)年の久慈白糖工場の廃止をもって,奄美大島の白糖工場は全て閉鎖となり,奄美大島での赤煉瓦生産も行われなくなります。一方,奄美大島で白糖工場建設を指導したウォートルスは,明治元(1867)年に鹿児島を離れた後,明治政府のお雇い技師となり,大阪の造幣局の建設に携わりました。造幣局の建設には建築材として大量の赤煉瓦が必要でしたが,その当時の国内の煉瓦焼成技術や生産能力は未熟だったため,ウォートルス自ら指導し,堺や兵庫,広島などで赤煉瓦を焼成し,調達しました。この時に,奄美大島で赤煉瓦生産を指導した経験が,活かされたことは想像に難くありません。
 その後ウォートルスは東京に移り,明治4(1871)年に設置された大蔵省金銀分析所を手始めに,当時のビッグプロジェクトの一つでもある銀座煉瓦街の建設にも携わります。なお,これらの建造物に使用された赤煉瓦の規格は,長崎の蒟蒻煉瓦より,奄美大島で造られた上記Cの煉瓦の規格に近いものです。ウォートルスが奄美大島での経験を活かし,日本人の手の大きさに合う煉瓦の規格を採用したことが窺えます。
 さて,ウォートルスが去った大阪では,明治5(1872)年に元岸和田藩士山岡尹方(ただかた)により赤煉瓦製造が開始されました(岸和田煉瓦)。岸和田の赤煉瓦製造には,造幣局建設時にウォートルスが指導した赤煉瓦製造のノウハウが活かされたことでしょう。なお,この岸和田煉瓦には社印「×」が刻印されていますが,奄美大島の赤煉瓦に刻印されている「×」と非常に酷似していることも興味深いです。

Ⅳ.煉瓦を通じた奄美大島と大阪のつながり

 久慈白糖工場跡のある集落内には,明治28(1895)年に建設された赤煉瓦の構造物が残っています。佐世保海軍軍需部大島支庫跡です。この構造物に使用されている煉瓦は,関西系の煉瓦と考えられています。つまり,奄美大島での白糖工場閉鎖から20年以上の時を経て,奄美大島の赤煉瓦をルーツとした関西系の煉瓦が,奄美大島に建設された施設の構築材として里帰りしたともいえるでしょう。赤煉瓦を通して,奄美大島と大阪との不思議な縁が感じられます。

久慈の佐世保海軍軍需部大島支庫跡

文責 今村結記

 

第2回「鹿児島県の製鉄・鍛冶遺跡」

Ⅰ.製鉄・鍛冶とは

  1.  製鉄とは,鉄鉱石や砂鉄などの材料から鉄製品の材料となる鉄を作る作業のことを言い,製錬(せいれん)とも言います。この製鉄によって鉄塊という鉄製品を作る基ができます。鉄の原材料の一つである砂鉄は,鹿児島では特に種子島産が有名です。
  2.  鍛冶とは製鉄によりできた鉄塊から鉄製品を作る作業のことです。鉄塊から不純物を取り出す精錬鍛冶と,鉄を加熱して叩いて鉄製品を作る鍛錬鍛冶の2つに分けられます。皆さんがテレビなどでよく見る鉄をハンマーで叩いているシーンは鍛錬鍛冶になります。昔の人々はこの鍛冶により生活に必要な鍋,農業で使う鎌・鋤・鍬など,武器である剣・刀・鏃などを作ったり,修理したりしていました。

Ⅱ.鹿児島県の製鉄遺跡

  1.  鹿児島県では10年程前までは中世(鎌倉時代~室町時代)以前の古い製鉄遺跡は発見されていませんでした。唯一,南大隅町に13世紀(鎌倉時代)の製鉄遺跡ではないかとされる炭屋製鉄遺跡がありますが,出土している遺物は18世紀(江戸時代)の物なので,はっきりはしていません。鹿児島では南九州市知覧にある近世(江戸時代)の厚地松山製鉄遺跡などが有名でした。
  2.  ところが,ここ10年程でまずは奄美諸島の喜界島(地図中①)で相次いで製鉄遺跡が見つかりました。喜界町大ウフ遺跡では製鉄作業の時に出る製錬滓が出土し,前畑遺跡では砂鉄が出土しました。どちらも10~12世紀(平安時代~鎌倉時代の初め)と考えられています。また,崩リ(くんでぃー)遺跡からは11世紀末~12世紀と考えられる製鉄炉の炉跡や製錬滓が出土しました。
  3.  喜界島での製鉄遺跡の発見から数年後,鹿屋市串良町細山田にある川久保遺跡(地図中②)で7世紀後半~8世紀(飛鳥時代~奈良時代)の製鉄炉が出土しました。また,志布志市の上苑A(うぇんそん)遺跡(地図中③)からも6世紀末~7世紀(古墳時代~飛鳥時代)の土器とともに製錬滓が出土しました。
川久保遺跡 製鉄関連遺構(土坑270号・271号)

Ⅲ.鹿児島県の鍛冶遺跡

  1.  鍛冶作業は製鉄作業と違い,材料となる鉄塊さえあれば作業ができるため,鹿児島県でも古くから見つかっています。鍛冶を行っていた鍛冶炉は指宿市橋牟礼川遺跡(地図中④)で8世紀のものが,薩摩川内市の鍛冶屋馬場遺跡(地図中⑤)で10世紀中ごろ,日置市の犬ヶ原遺跡(地図中⑥)で11~12世紀のものがそれぞれ見つかっています。また,最近では製鉄遺跡でも紹介した川久保遺跡でも鍛冶炉を持つ2基の竪穴建物跡が見つかっています(4~5世紀)。
  2.  また,鍛冶炉自体は見つかっていませんが,たくさんの遺跡で鍛冶作業に関わる遺物である鉄滓(鍛冶作業の時に出る不純物のかたまり)や,鞴(ふいご)の羽口(鍛冶炉に空気を送り込む送風機の部品)といったものが出土しています。なかには鹿屋市王子遺跡(地図中⑦)のように弥生時代の遺跡から鉄滓が出土している例もあり,鍛冶作業は弥生時代から行われていたことが分かります。

文責 岩永勇亮

川久保遺跡 16号竪穴建物跡(鍛冶建物)
川久保遺跡出土 鞴の羽口 上から(転用品)
川久保遺跡出土 鞴の羽口 横から(転用品)

 

第1回「令和元年度に埋蔵文化財センターが調査した主な遺跡」

廣牧遺跡(ひろまきいせき)

 鹿屋市吾平町の姶良川と大姶良川に挟まれたシラス台地に立地する遺跡です。平成30年度から主要地方道鹿屋吾平佐多線(吾平道路)の建設に伴い,発掘調査が行われています。
 縄文時代晩期から弥生時代前期(約3,000~2,400年前)の地層の中に,遺物が集中して出土する場所がありました。そこの浅い掘り込みの中から刻目突帯文土器の破片と共に5点の打製石斧が重なった状態 (集積遺構)で出土しました。 これらは,石斧というよりも土掘り具と考えられる石器ですが,なぜ5点もそろえて埋めてあったのか,興味が持たれるところです。
 この土掘り具と考えられる石器は,畑などを耕したり,地中で育った植物食料を収穫したりする際の道具ではなかったかといわれており,この地域で農耕が営まれていた可能性を感じさせる遺物として注目されます。

遺跡の位置
積み重なって見つかった打製石斧

久保田牧遺跡(くぼたまきいせき)

 廣牧遺跡と同じく,鹿屋市吾平町にある遺跡です。縄文時代早期(約8,000年前)の集石遺構や土器・石器,古墳時代(5~6世紀)の大型竪穴建物跡,中世(12~15世紀)の掘立柱建物跡などの遺構・遺物が発見されており,大隅半島南部の先史・古代の人々の様子がわかる貴重な遺跡です。また,池田湖の大噴火による噴出物(約6,300年前)の堆積も観察できます。
 古代(9~10世紀)の地層からは,墨書土器(墨で文字が書かれた土器)が見つかりました。はっきりとは読み取れませんが,当時の人々の生活の中で,文字が使われていた可能性を示す資料です。

遺跡の位置
墨で文字が書かれた土器

 

牧B遺跡(まきびーいせき)

 曽於市末吉町にある遺跡で,県道飯野松山都城線(末吉道路)改築に伴い,令和元年6月から10月まで調査を実施しました。
 縄文時代後・晩期(約3,300~2,800年前)の遺物を含む地層を掘り下げたところ,約500点の土器や石器が出土しました。また,中央に土坑のある住居状の遺構が1基検出され,縄文時代後期(約3,300年前)の御領式土器や軽石,磨石,炭化物などが出土しました。
 縄文時代早期(約9,000~8,000年前)の遺物を含む地層からは,下剥峯式土器や押型文土器,塞ノ神式土器,石鏃,スクレイパー,磨石などが出土しました。

遺跡の位置
土器や石器が出土した竪穴建物跡

笠取戦跡(かさとりいくさあと)

 霧島市牧園町三体堂付近(標高 296m)の尾根に位置しています。西南戦争時の1877(明治10)年7月に,薩軍が堡塁(ほうるい),塹壕(ざんごう)を構築して陣を構え,官軍との激しい戦いが行われました。
 このような堡塁跡は ,地元有志の方々によって, 牧園や横川を中心に約300基確認されています。調査を行った地点では,大型(長さ 10m・幅6m)の半円形堡塁が3基と,タコツボ形堡塁4基の計7基の堡塁を確認できました。
 これらは,官軍が攻めてきたと考えられる北側方面に対して守備しており,高台から下の道路を一望できます。

遺跡の位置
今も残る堡塁跡

鹿児島(鶴丸)城跡(かごしま(つるまる)じょうあと)

 鹿児島市城山町にある近世薩摩藩の本城跡で,鹿児島県歴史・美術センター黎明館が建っている場所が,ほぼ本丸の跡になります。
 御楼門建設や石垣整備等のために,平成27年から発掘調査を行っています。城の範囲を確認するために実施した令和元年度の発掘調査では,納戸や長屋など,建物の基礎と考えられる遺構が確認できました。
 また,これまでの発掘調査で得られた成果から,令和2年4月に完成した御楼門の鬼瓦などが復元されています。

遺跡の位置
石で作られた排水溝跡や建物の基礎