鹿児島県上野原縄文の森 (公財) 鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター (公財) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター
MENU

鹿児島県立埋蔵文化財センター

鹿児島県上野原縄文の森 HOME 公財 鹿児島県文化振興財団鹿児島県上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター 公財 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター

カテゴリー: デジタルコンテンツ「かごしまの考古学」

鹿児島県立埋蔵文化財センターでは,令和2年から「かごしまの考古学」という名称で,鹿児島県内の考古学に関する情報を発信していきます。最新の調査成果やこれまでの研究で明らかになったことなどを,年間を通して紹介します。
(掲載は月1回の予定です)

第11回「古墳時代の大規模墓地が営まれた南摺ヶ浜遺跡(指宿市十二町)」

Ⅰ 1点の壺

 「大きな石かな」【写真2】これが,南摺ヶ浜遺跡で発掘調査の初日,作業員さんに掘り方の説明を終えて,掘削を開始してから5分ほどして出土した最初の遺物を見たときの感想でした。作業員さんが,「何か出てきた」と私を呼んでくれたのです。
 遺物の形がわかるように,移植ゴテを使い周辺の土を少し掘り下げてみました。「やけにきれいな曲線だなぁ」手のひらで遺物の表面を触ってみます。「うん?これは土器ではないか」周囲の土を半分残して掘り下げてみると,横倒しになった土器が姿を現しました。 【写真3】「完形品だ!」
 発掘調査では,完全な形で土器が見つかることはほとんどありません。手間暇かけて作った土器を壊れる前に捨てるなんてことは通常ないからです。完形品が出土する際は,何らかの意図を持って,掘った穴の中に埋めておいたものが見つかる例がほとんどです。
 「周囲に穴が見つかるはずだ」周囲の土をきれいに掃除してみましたが,穴の痕跡を見つけることはできませんでした。「うーん。自然に埋まったのかな」とりあえず,作業員さんが土を掘る道具を山鍬から小さなねじり鎌に変更して,慎重に掘り進めることにしました。
 ところが,その後,同じ層からは何も出てきません。平成17年度の調査で出土した古墳時代の遺物は,最初の5分で出てきた完形品の壺1点のみでした。その後,下の層から縄文時代や弥生時代の遺物が出てきましたが,私の頭の中は「???」クエスチョンマークだらけでした。

写真1 南摺ヶ浜遺跡

写真2 石かな?

写真3 土器でした

 

 

Ⅱ 大規模な墓地の発見

 平成19年度,より海に近い隣接地発掘調査を行うことになりました。その頃の私は,南摺ヶ浜遺跡がある薩摩半島の対岸に位置する大隅半島の山の中で発掘調査をしていました。
 そんな私のもとに「南摺ヶ浜遺跡で弥生時代の後半から古墳時代の大規模な墓地が見つかった」という連絡がきました。疑問は解けました。「そうか,あのときの土器は墓地の境にあったのか」墓地の主体部は,私たちが調査していたときには,まだ藪になっていた場所の下にあったのです。

写真4 平成19年度調査区

写真5 壺棺墓

 

Ⅲ 薩摩半島南部の埋葬習俗

 現在は,人が亡くなると葬儀の後,火葬し骨を骨壺に収め,墓あるいは納骨堂などに納めるのが一般的です。人の死は,遙か昔から近親者にショックを与えたことでしょう。南摺ヶ浜遺跡は,3世紀後半頃から5世紀の中頃までの人々が,死者をどのように見送ったのかを教えてくれる貴重な遺跡です。
 見つかった墓の種類は様々ですが,穴を掘って遺体を埋葬した土坑墓(72基),土坑墓の周囲に円形に溝を巡らす円形周溝墓(12基)【写真6】,甕棺墓(1基)や壺棺墓(16基)【写真7】などがありました。甕棺や壺棺として使われた甕や壺の多くには,1か所または2か所に小さな孔が穿たれています。通常の用途には使わないことを示す,葬送に伴う祭祀儀礼でしょう。甕棺や壺棺は口が小さく,亡くなった人の遺体を直接入れることはできないため,骨になってから入れて埋葬したと考えられます。壺棺のうち2基からは人骨がみつかっていますが,全体的に人骨の残りが良好ではないため,各甕棺・壺棺に何体分の人骨が入れられていたのか,はっきりしません。

写真6 円形周溝墓

写真7 壺棺墓

 また,墓標のような大きな板石(立石)【写真8】が,主に壺棺墓の周辺で見つかっています。土坑墓の周辺でも見つかっていますが,土坑墓の数と比べるとだいぶ少ない数でしかありません。板石(立石)を伴う土坑墓は,南摺ヶ浜遺跡から4kmほど離れた山川町(現指宿市)成川遺跡でも見つかっています。ちなみに成川遺跡は文化財保護委員会(現文化庁)が昭和33年に調査を行った遺跡で,その後の調査を含めて348体の人骨が見つかっています。

写真8 板石(立石)

 南摺ヶ浜遺跡で出土した土器は,甕や壺のほかに,葬送の際の祭祀やお供えに使われた長頸壺,高坏,鉢,蓋など多様であり,一般的な遺跡から出土する土器よりも作りが丁寧なことから葬送に使うために特別に作られたものであると考えています。磨製の石鏃や鉄鏃,鉄剣などの武器も供献されていました。

写真9 出土土器 【県指定有形文化財(考古資料)】

写真10 鉄製の武器など 【県指定有形文化財(考古資料)】

 現在の南摺ヶ浜遺跡は,指宿市の温泉街から国道方面に向かう砂むし温泉道路の下になっています。目の前に海を望むロケーションは,今でも旅人の心を癒やしてくれます。ここに佇むと墓地を営んだ人々の気持ちが伝わってくるような気がします。
 ちなみに,南摺ヶ浜遺跡の墓地は,数多くの火山を有する鹿児島県の遺跡らしく,薩摩富士と称される開聞岳から飛来した火山噴出物である紫ゴラ(9世紀),青ゴラ(7世紀)と暗紫ゴラ(弥生時代)の間にパックされて見つかっています。【写真11】

写真11 数々の火山灰に彩られた土層

文責 寺原 徹

 

【参考】本遺跡の報告書(PDF)を,以下のリンクからご覧いただけます。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(144) 「南摺ヶ浜遺跡」

第10回 土器はタイムカプセル~圧痕から分かること~

※ スマートフォンでご覧の場合,画像の縦横比が歪むことがあります。画像をタップすると本来の画像が表示されます。

Ⅰ はじめに -圧痕とは何か?-

 遺跡を発掘して,最も多く見つかる遺物が土器です。土器の表面をよく見ると,穴が空いていることがあります。実はその穴は,土器作りの過程で植物の種実や昆虫・貝などが粘土の中に混入し,土器を焼成した際に焼け落ちて空洞になったものです。このように,穴やスタンプとして残っている痕跡を「圧痕(あっこん)」と呼びます。

 

 私たちの身の回りは,植物や昆虫,動物,その加工品であふれています。かつての人々はより自然に近い生活をしていたので,現在とは比べものにならない程多くの植物や昆虫が身の回りに存在したはずです。では,遺跡を発掘してみるとどうでしょうか。ほとんどの植物や昆虫は,長年地中に埋まっていたことで分解され,ほとんどは消滅してしまいます。遺跡で有機質のものが残るためには,火を受けて炭化しているか,低湿地や乾燥地などの稀な条件下でなければならず,通常の遺跡では,かつて存在したはずの資料の多くが,実は失われているのです。
 ここで活躍するのが,圧痕です。圧痕のもととなる植物等は,土器を作っている時にしか入ることはありません。つまり,土器を作っている瞬間にその場に存在していたものが“型”として記録されているのです。まさに,土器は当時の植物や昆虫の姿を伝えてくれるタイムカプセルと言えます。

 

Ⅱ 圧痕調査は第2の発掘

 圧痕の存在は,1980年代にはすでに論文でも取り上げられ,特に弥生土器に残るイネ籾の圧痕は,稲作の証拠として注目されてきました。当時から,圧痕を何とか立体的に復元して観察しようと,石膏やガラスをはめるパテ,和紙を細かくしたものなど,様々な素材が試されました。1991年,「レプリカ法」というシリコーン・ゴムを用いて型取りする手法が提唱されました(丑野・田川1991)。これ以降,歯科用や模型用のシリコーン・ゴムを用いた型取り方法が一般的になりました。この手法によって,より鮮明に型取りできるようになり,作製したレプリカを走査型電子顕微鏡(SEM)で観察することで,さらに細かい分析が可能となりました。先ほど写真で挙げた土器のレプリカとSEMの画像が下です。表面の凹凸や網目状の構造などがよく分かり,現生資料と比べることで何の種子であるかが同定できます。

 圧痕は,当初,イネ籾の圧痕のように,偶然見つかったものだけが着目されてきました。2000年代に入り,遺跡から出土する土器を破片の大きさや部位に関わらず全て観察する「悉皆(しっかい)調査」が開始されました。その結果,これまで見つかっていなかった種実や昆虫類が数多く発見されたのです。
 圧痕調査は,多量の土器を一つ一つ手にとって,表面をくまなく探す,一見すると地味で根気のいる作業です。しかし,その学術的成果は大きく,新たな歴史的事実が多く発見されました。圧痕調査は,これまで発掘された膨大な資料を新しい視点で見直す契機にもなるため,「第2の発掘」(小畑2016b)とも呼ばれています。

 

Ⅲ 圧痕から見える縄文時代の暮らし

 圧痕調査は,縄文時代~近世までの幅広い時代の焼き物を対象に行われています。圧痕で見つかる植物や昆虫は,食用・薬用などの有用植物やいわゆる害虫など,人間の身近な植物・昆虫相が多いということが分かってきています。
 ここでは,縄文時代の暮らしぶりを示す研究成果の一部を紹介します。

1 縄文時代のマメ栽培

 ダイズやアズキは,日本人に身近な植物です。かつて,ダイズやアズキは中国大陸から伝播したものと言われていました。ところが,縄文土器からダイズやアズキの圧痕が見つかる事例が増え,さらには縄文時代の後半になるにつれて,種実自体が大きくなる傾向が見えてきたのです。日本には,ツルマメやヤブツルアズキといったダイズ・アズキの祖先野生種が存在します。
 圧痕や炭化物で見つかったマメを研究した結果,縄文人がより大きいマメを獲得しようと,栽培したことが分かってきました(小畑2016a)。九州地方でも,縄文時代後期後葉には現在とあまり変わらないサイズのマメが圧痕で見つかっています。

 日本人は,納豆に醤油,みそ汁に豆腐と,豆製品同士を掛け合わせて使う食文化があります。縄文人はどのような食べ方をしていたのか,気になりますね。

2 縄文人と害虫との関わり

 圧痕調査で検出されるムシの多くは,ダニ,ゴキブリ(卵),シラミなど,現代人にとって聞けばゾクゾクする,いわゆる“害虫”と呼ばれる類です。中でも,最も多く見つかっているのがコクゾウムシです。コクゾウムシは,最近こそ米櫃で見かけなくなりましたが,米を食べる貯穀害虫として知られています。かつて,コクゾウムシは弥生時代に稲作と共に日本にやってきたムシと考えられていました。しかし,2010(平成22)年に衝撃的な発見がありました。
 種子島西之表市に所在する三本松遺跡の縄文時代早期土器から,コクゾウムシの圧痕が7点見つかりました。後の研究によって,このコクゾウムシは貯蔵食料を加害する世界最古の害虫と評価されました(Obata et al.2011)。

 では,縄文時代の古い頃に生息していたコクゾウムシは米を食べていたのかというと,そうではありません。縄文時代の主要な食糧はドングリです。コクゾウムシは,乾燥したデンプン質に富んだ種子を加害するムシなので,当時縄文人が貯蔵していたドングリやクリを加害していたと考えられます。よって,コクゾウムシの圧痕が見つかるということは,土器作りの場の近くに貯蔵食物があったということであり,当時の暮らしぶりの一部を垣間見ることができます。
 さて,コクゾウムシに対して縄文人が何も対処しなかったのかというと,そうではなさそうです。圧痕調査を進める中で,縄文土器からコクゾウムシ圧痕と共にカラスザンショウの種実や果実がよく見つかることに気づきました。カラスザンショウは,ミカン科サンショウ属の落葉高木樹で,探してみればあちこちにある身近な木です。果実の化学成分を調べてみると,特殊な精油成分が含まれ,それが貯穀害虫の防虫・駆虫に効果があるものであることが分かりました(真邉・小畑2017)。つまり,縄文時代の虫除け剤として,カラスザンショウが使われていた可能性が指摘できます。

 このように,圧痕調査では発掘調査ではなかなか見つけられない小さな植物や昆虫が多く見つかり,その小さな痕跡から当時の生活の一端を復元することができるのです。

 

Ⅳ 隠れ圧痕を探せ! 第3の発掘!

 実は,圧痕は土器の表面に見えているものだけではありません。粘土の中に隠れて表面から見えないものがあり,これらを「潜在圧痕」と呼びます。近年,潜在圧痕を調査するため,Ⅹ線ⅭT装置が導入されています。これらの装置で土器の内部を観察すると,粘土中の空隙が見え,その空隙の形を解析すると,植物や昆虫であることが分かりました。また,圧痕では復元が難しい細かい部位などを確認できます。

 中には,土器の中に数百点ものタネやムシが入った事例が県外で見つかり始め,偶然粘土に入ったのではなく,当時の人々が意図的にタネやムシを混ぜ込んだ可能性が出てきました。このような最新技術を用いた圧痕調査は,まさに第3の発掘(小畑2019)と言えます。

 

Ⅴ おわりに

 私たちにとって身近な植物や昆虫が土器から見つかると,当時の人々とのつながりを感じ,嬉しくなるものです。鹿児島県内には数多くの遺跡が存在します。圧痕調査を進めることで,今まで見えていなかった当時の人々の暮らしが見えてくるかもしれません。
 これからの,第2・第3の発掘にご期待ください。

文責 眞邉 彩

【引用文献】

丑野 毅・田川裕美
1991「レプリカ法による土器圧痕の観察」『考古学と自然科学』24 日本文化財科学会

小畑弘己
2016a『タネをまく縄文人 最新科学が覆す農耕の起源』吉川弘文館
2016b「アッコン(圧痕)とはなにか」『いま,アッコンが面白い!-タネ・ムシ圧痕が語る先史・古代の農とくらし-』熊本大学文学部小畑研究室
2019『縄文時代の植物利用と家屋害虫 圧痕法のイノベーション』吉川弘文館

眞邉 彩・小畑弘己
2017「産状と成分からみたカラスザンショウ果実の利用法について」『植生史研究』第26巻第1号 日本植生史学会

Obata H.,Manabe A.,Nakamura N.,Onishi T.,and Senba Y. 2011 A new light on the evolution and propagation of prehistoric grain pests: the world’s oldest maize weevils found in Jomon potteries, Japan. PLoS ONE

第9回 近代化遺産群の発掘調査から~鹿児島紡績所跡~

Ⅰ 19世紀前半の世界の中の日本

 江戸時代,徳川幕府は長崎と沖縄で限られた国と行う貿易以外を禁止する鎖国政策をとっていました。しかし,その中で薩摩藩には諸外国の情報が多く入ってきていたので,諸外国の情勢をいち早く取り入れることができました。
 19世紀,イギリスではじまった産業革命は諸国に広まり,航海技術が発達したイギリスやアメリカなどの国が次々とアジアに進出してきました。そのような中,1942年には清王朝(中国)がイギリスとの戦争で敗れるという大きな出来事がありました(アヘン戦争)。19世紀中ごろから,薩摩藩にもイギリス・フランスが大砲などの武力を誇示して貿易をするように迫ってきたため,アヘン戦争を機に薩摩藩では海外の国に対する危機感が高まっていきました。

 

Ⅱ 近代化の夜明け―強く豊かな国に―

 海外諸国に対する危機感を感じた薩摩藩は,海外の国に対する情報を集めていきます。こうした情勢の中で嘉永4(1851)年に藩主になった島津斉彬は,幼いころから海外の文化や技術に興味を持ち,日本が海外諸国に軍事力で負けないこと,産業が発展し国が豊かになること,日本が一つになることが必要であると考え,これを実現するために,海外の造船や製鉄などの工業(産業)技術を積極的に学び,薩摩藩でもつくることができるように取り組みます。斉彬の死後もこの取り組みは多くの人に受け継がれ,産業や経済・政治など様々な分野で活躍する人材を生み出しました。
 薩摩藩以外にも西洋の技術を取り入れ,西洋諸国に負けない力をつけようと努力する藩もありました。日本の近代化は,西洋に対する危機感をきっかけに日本各地で行われた努力によって進んでいきます。
 薩摩藩の努力は日本の近代化が進む先駆け・礎(いしずえ)となったのです。

 

Ⅲ 西洋式産業への挑戦―集成館事業―

 斉彬が藩主となる以前,藩内では鹿児島城下を中心に水車などを動力とした産業が発達していました。斉彬は現在の磯の仙厳園周辺にこれらを集約し日本随一の工場群を建設し,『集成館』と名付けました。また,原料の採取や製造が薩摩藩内各地で行われました。この集成館を中心に薩摩藩各地で行われた取り組みを『集成館事業』と呼んでいます。集成館事業では動力となる蒸気機関・製鉄などの西洋の技術を取り入れ,製鉄,造船,紡績など多くの技術が飛躍的に発展していきました。集成館事業は西洋の技術だけでなく,薩摩藩の各地で培われた在来の技術もその基礎として多く 活かされています。

 

Ⅳ欧米との力の差を知る―薩英戦争―

 斉彬の死後,藩主は子の忠義になりました。その後見役となって藩政を進めたのが弟の久光でした。江戸からの帰り,久光の行列にイギリス人たちが入り込んでしまい,怒った薩摩藩の武士たちが彼らを殺傷してしまいました(文久2(1862)年,生麦事件)。これに怒ったイギリスは,薩摩藩に賠償と犯人の処罰を求める要求をしてきました。薩摩藩がこの要求を拒否し続けたため,イギリスは要求を認めさせるため,鹿児島湾に軍艦を来航させましたが,薩摩藩が要求を拒否したため,戦争になりました(文久3(1863)年,薩英戦争)。嵐の中で勃発した戦いは,両者に大きな被害をもたらしました。この戦争でイギリスの技術の高さを知った薩摩藩は,さらに西洋に学び技術力を高める必要性を感じ,元治2(1865)年に19名の若者をイギリスへ留学させ,西洋の技術の導入に努めました(薩摩藩英国留学生)。
 この留学生たちは,薩摩藩の集成館事業の大きな役割を担い,その後日本各地で産業や経済・政治など各分野で活躍する人材となっていきました。

 

Ⅴ 日本初の西洋式紡績工場―鹿児島紡績所―

 留学生の帰国後,集成館事業は留学生を中心に更に発展していきます。その中の1つに蒸気機関を動力とした大きな機械での紡績事業があります。西洋の技術を学び集成館事業に携わっていた石河確太郎(奈良県出身)は,イギリスから紡績機械を購入して紡績事業の拡大を行うことを提案しました。留学生として学んだ五代友厚らはイギリスから紡績機械を購入し,紡績の技術者を鹿児島に迎えて技術指導を受ける準備を行いました。この工場として建設されたのが「鹿児島紡績所」で,イギリス人技師の宿舎となったのが「鹿児島紡績所技師館(異人館)」です。これにより日本初の西洋式紡績工場が操業し,多くの人がイギリスの技師から技術を学び,わずか1年でこの技術を習得しました。工場の建設や短期間での技術の習得には,これまで薩摩藩で培ってきた技術が大きく貢献しました。
 鹿児島紡績所は明治30年(1987)年まで操業し,そののち取り壊されました。機械の一部が尚古集成館に保存されています。現在は跡地を鹿児島紡績所跡と呼んでいます。

【写真1】明治5年の磯地区 尚古集成館蔵
 写真の左側に大きな建物が写っています。
 手前から鹿児島紡績所技師館(異人館),鹿児島紡績所,その奥に集成館事業の工場群です。
 写真3にある現在の磯地区の写真と比べてください。 
【写真2】鹿児島紡績所 尚古集成館蔵
 鹿児島紡績所を東側から写したものです。
 明治5年(写真1)よりも古い写真です。
 この写真と明治5年の写真では、鹿児島紡績所周辺の建物が異なっています。 
【図1】当時の磯地区の様子(古写真を元にした想像図)
『かごしまタイムトラベル』鹿児島県企画部世界遺産課から転載 
【写真3】現在の磯地区
 

 

Ⅵ 位置を探る

 鹿児島紡績所は操業停止後取り壊され,鹿児島紡績所技師館(異人館)は明治17(1884)年,鹿児島県立中学造士館の建設時に鹿児島城本丸跡へ校舎の一部として移築されましたが,昭和11(1936)年に元の位置と異なる現在の位置に再移築されたため,元の位置が分からなくなりました。そのため,この2つの建物の位置を推定する取り組みが数回にわたり実施されました。そのなかで,「薩摩のものつくり研究会」が行った現在の状況と古写真とを比較し推定した位置は,発掘調査の成果で得た建物跡の位置特定(図2)とほぼ一致するものでした。

【図2】 クリックで拡大

 

Ⅶ 鹿児島紡績所跡の発掘調査

 これまで,鹿児島紡績所の跡地は数回発掘調査されています。鹿児島市教育委員会が平成11(1999)年に行った調査と,平成22(2010)年に鹿児島県教育委員会が行った調査の成果を合わせた結果,鹿児島紡績所は図2のように現在のファミリーレストラン・コンビニエンスストア・ガラス工芸館が建っている場所に位置していたことが明らかとなりました。
 また,鹿児島紡績所は集成館事業のその他の工場を取り壊してその上に建てられていることも発掘調査で裏付けられています。

 

【平成22年 鹿児島県教育委員会発掘調査成果】
 3つのトレンチ(試掘坑)を設定して発掘調査を行いました。その結果,幕末~明治時代初期の地層から鹿児島紡績所と紡績所に関連する建物の基礎と紡績所以前の建物の基礎を検出しました。

 

1トレンチ
 幕末から現在の様々な遺物とともに①から④の4つの遺構を検出しました。
 この4つの遺構は,検出した地層から幕末から明治時代初期のものであることが分かりました。
 
①:約30cm×30cm×90cmの切り石で構成された石造建築物の基礎。石が抜かれているが「L」字形をしていることが分かった。。
②:木造建築物の建物の柱の基礎(礎石)
③:大小様々な石で造った建物の基礎または土地の区画のための石積み
④:緑色をした床 重なり合いや地層の観察から①~④は次のように判断できます。 ①が④を壊して造られているため,①が④より新しい。
 ②が③よりも上の地層のものであるため,②が③より新しい。
 ①と②は,接してはいないが地層の観察から同じ時期のものである。
 ④が③よりも上の地層のものであるため,④が③より新しい。
 結果,③が一番古く,④が次になり,①・②が一番新しい,と判断できます。
 また,④の緑色をした建物の床は,科学分析の結果,銅に由来することが分かりました。
 鹿児島紡績所に関する史料から,鹿児島紡績所の建設以前この場所には「今泉島津家の屋敷」があり,その後幕府からの許可を得て造った「琉球通宝」という貨幣の製造所(「鋳銭所」)となったことが分かっています。
 幕末から明治初期にかけて撮影された写真1とそれよりも古い写真2を見ると,この場所で①のような石造りの頑丈な基礎を必要とする建物は,鹿児島紡績所のみであること,鹿児島紡績所は大きな本館と北側(写真1左)に屋根のある廊下でつながれた細長い建物で構成されること,写真1から鹿児島紡績所の西側(写真手前)には石造建築物と木造建築物が3つあることが分かります。
 さらに写真2からは,この3つの建物の建築以前には,木造建築物があったことが分かります。
 これらと発掘調査結果を比べてみます。
 ①の基礎は,石の配列から建物の南北東の角で基礎・建物は北側(国道10号側)へ伸びることが想定できることから,本館のものとすると国道10号側に寄りすぎています。そのため,①は写真1の鹿児島紡績所の手前にある三つの建物のうち真ん中の石造建築物であると判断できます。そのため,②がその右側の木造建築物の基礎となります。
 このことから,③と④は,①・②よりも古いので鹿児島紡績所以前の建物と判断できます。
 鹿児島紡績所が建設される前は,「今泉島津家の屋敷」から「鋳銭所」へ変遷したことが分かっているので,③が「今泉島津家の屋敷」の時期のもので,④が「鋳銭所」の時期のものと想定でき,④が銅に由来することで裏付けられます。
 このように,1トレンチの発掘調査結果=遺構の重なりと史料・古写真から読み取れる史実が見事に一致する結果となりました。
 しかし,残念ながら③が「今泉島津家の屋敷」のどの建物であるか,④が「鋳銭所」のどの位置のものであるかという特定はできませんでした。
 そのほか,①,②,③は3つとも平行に並んでいるため,当時の区画が変更されることなく区画に従って建設されていることも分かりました。
 写真1と写真2を比較すると写っている建物が異なっています。発掘調査はこの地区の一部を調査したに過ぎないため,鹿児島紡績所付近のこれら全てを特定できたわけでありません。
 発掘調査や史料等で分かっていない建物の変遷もあると考えます。

 

2トレンチ

【写真5】2トレンチ検出遺構

 鹿児島紡績所の基礎を検出しました。大きなレンガ・鉄製の管などが出土しました。
 この基礎は,発掘調査では細長い建物の本館側の基礎であるのか,本館のものであるのか正確な特定はできませんでした。鹿児島紡績所の設計図が残っており,そこに書かれた大きさと,1トレンチでの成果から位置の想定は本館のものと考えています。

3トレンチ

【写真6】3トレンチ検出遺構

 鹿児島紡績所の本館玄関付近の基礎を検出しました。
 この基礎は,発掘調査では本館のどの位置のものであるのか正確な特定はできませんでした。1トレンチと2トレンチの結果から本館玄関付近のものと考えています。
 写真の右が海側で左側が国道10号側です。

写真4~6『鹿児島紡績所・祇園之洲砲台跡・天保山砲台跡』鹿児島県教育委員会 2012年から転載

 検出した遺構はこの状態で埋め戻してあります。遺構の上にはシラスを敷いて再発掘することがあったときに遺構の場所と地層が分かるようにしてあります。

 

Ⅷ 鹿児島紡績所跡技師館(異人館)の発掘調査

 平成12(2000)年から複数回位置確認のための発掘調査が行われました。その結果,現在の位置から鹿児島紡績所技師館の建物1つ分海側へ移動した位置にあったことが分かりました。(図2)
 その他,発掘調査成果を基に古い絵図に描かれている道路と現在の道路とを比較し,鹿児島紡績所技師館周辺の道路が江戸時代の終わり頃からあまり変化していないことも分かりました。(図2)

 

Ⅸ 出土遺物

 これらの発掘調査では,生活に必要な器などとともに集成館事業で使用した耐火レンガ・レンガ・石・鉄や銅などの金属製品・ガラス,陶磁器・金属・ガラス製品製作の道具など様々な遺物が出土しています。

 

Ⅹ 鹿児島紡績所・鹿児島紡績所跡技師館(異人館)以後

 鹿児島紡績所・鹿児島紡績所技師館の周辺は,鉄道や国道10号を建設する際に幕末から明治初期にかけての建物跡の上に多量の土砂を敷いて建設されました。この土砂の上に現在は,住宅,店舗,駐車場などが建てられています。
 発掘調査でつかめなかった建物の跡がその土砂に守られ,まだ多く残されています。

 

Ⅺ おわりに

 明治時代になると,日本は工業立国の基盤整備に取り組み,日本の基幹産業として重要な位置づけとなる造船や製鉄・製鋼,石炭と重工業において急速な産業化を成し遂げていきます。
 そして,西洋から日本独自の産業化への取り組みが成功したことを示す重要な産業遺産群が,平成27(2015)年に,薩摩藩が創設した旧集成館(現・尚古集成館)や旧集成館機械工場を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」として世界文化遺産に登録されました。
 磯地区の地下に残っている遺構や現存する集成館事業の建物,島津氏の屋敷跡・庭園などと集成館事業で重要な役割をした寺山の炭窯跡・関吉の疎水溝は国の指定文化財として保護されています。そのほかにも,県内各地に集成館事業に関わる遺跡がまだ多く残っています。
 鹿児島紡績所は現在見ることができませんが,尚古集成館での展示で紡績所で使用した機械の一部や集成館事業,薩摩藩の歴史などの史料について見学することができます。そのほか,鹿児島紡績所技師館,集成館事業の建物の一部,燃料となる木炭を作った寺山の炭窯跡(※令和3年1月現在 寺山の炭窯跡は見学できません。),動力となる水車のための水路とその取水口の関吉の疎水溝,薩英戦争の砲台の一部など,現在見学することができる遺跡(遺構)が鹿児島市を中心に鹿児島県内にたくさんあります。また,薩摩藩英国留学生に関する展示などが,いちき串木野市の薩摩藩英国留学生記念館でも見学できます。
 近代の礎に触れることのできる各地を,ぜひ訪問してください。

 

文責 西園勝彦

薩摩焼のルーツを探る~堂平(どびら)窯跡(日置市東市来町美山)

Ⅰ はじめに

 薩摩焼は,朝鮮半島と日本の間に起こった不幸な歴史から始まります。当時日本の国を統治していた豊臣秀吉の号令により,多くの日本の武将が朝鮮半島に侵攻しました。(文禄・慶長の役:1592-1598)。これに参戦した薩摩の武将島津義弘が連れ帰った朝鮮陶工らによってはじめられたのが薩摩焼です。
 江戸時代の幕開けとともにはじまった近世薩摩焼は,考古学的立場から定義すると,「近世に薩摩藩内(現在の鹿児島県と宮崎県の一部)で生産された陶磁器の総称」としており,竪野系,苗代川系,龍門司系,元立院系,薩摩磁器などの大きく5つの系統に分けることができます。
 薩摩に連れてこられた朝鮮陶工らにより最も早く築かれた窯は,苗代川系の串木野窯(鹿児島県いちき串木野市下名)といわれています。その後,陶工集団は鹿児島県日置市東市来町美山に移動し,元屋敷窯を開いたと伝えられていますが,この窯の正確な位置や窯体は分かっていません。次に開窯したのが,堂平窯といわれており,現在,苗代川(日置市東市来町美山)において最も古い窯跡となっています。

 

Ⅱ 堂平窯跡の概要

 堂平窯跡は,鹿児島県日置市東市来町美山字堂平に所在する薩摩焼の古窯の一つです。
 南九州西回り自動車道建設に伴い,平成10年に県立埋蔵文化財センターによって発掘調査が行われました。発掘調査は,堂平窯跡伝承地を対象としたもので,この結果,傾斜角約17度,長さ31.2m,窯幅1.2~1.4mの単室登窯と呼ばれる窯体1基が検出されました。周辺からは,窯へ流れ込む雨水を防ぐための溝や,作業場と思われる遺構等も検出されています。連房式登窯の新堂平窯跡も存在するとの見解もありましたが,(田澤・小山1941),調査を行った結果検出されませんでした。
 発見された窯跡は,串木野窯跡と同様の窯構造で,近年の韓国における発掘調査により16世紀代の朝鮮半島の築窯技術によりつくられたことが考古学的に判明しました。

正面から見た窯跡

横方向から観た窯跡

Ⅲ 堂平窯製品の特徴からそのルーツを探る

 窯体の周辺や少し離れた斜面からは,焼成に失敗し商品にならない製品を捨てた場所である物原(ものはら)が見つかっており,徳利・片口・擂鉢・甕・壷等の一般的に「黒薩摩」と呼ばれる日用雑器が大量に出土しました。これらの成形方法は,轆轤(ろくろ)上で粘土紐を巻き上げ,タタキ成形で作られており,器の厚さは非常に薄く,製品の内面には同心円状のあて具痕が残っていました。このような堂平窯の製品の成形技法は,16世紀末頃の朝鮮陶器と非常によく似ています。また,口縁部の形状や器形などもよく似ており,これらのことから,堂平窯跡の製品は朝鮮系製陶技術によって製作されていることがわかりました。
 さらに,16世紀代の朝鮮王朝時代の陶工は,轆轤成形技法で碗などをつくる「沙器匠」とタタキ成形技法で甕壷などをつくる「甕匠」の2つの集団があり(片山1998b),串木野窯や堂平窯を開いた朝鮮陶工は「甕匠」であり,現在も連綿と続く薩摩焼のルーツであることもわかってきました。

焼成に失敗した製品などを捨てた物原

内面にタタキ成形のあて具痕が残る陶片

堂平窯跡の出土品

 

Ⅳ 堂平窯製品の変化

 堂平窯の製品は,大きくⅠa期:1620~30年代,Ⅰb期:1630年代から1650年代と,Ⅱ期(17世紀後半)の3時期に分けることができます。

Ⅰa期
 最も古い時期に位置付けられる一群で,ほとんどが溝遺構内から出土した資料です。16世紀末の朝鮮陶器や薩摩焼で最初の窯と伝えられる串木野窯から出土した遺物と同様の器形や製陶技術が見られます。
 この時期の製品は,器壁が非常に薄く,口縁部の作りなどはシャープで,胴部内面にはタタキ成形時のあて具痕が同心円状に残っています。器種は,碗・蓋・水注・徳利・片口・擂鉢・甕・壺が中心です。島津義弘により連行され,串木野窯を経て苗代川に移った朝鮮陶工らにより製作された,朝鮮製陶技術そのものが色濃く残る製品と考えられます。

Ⅰa期の製品

Ⅰb期
 朝鮮陶器と同様の器形や製陶技術は引き続き残るものの,日本の需要などの影響を受け,朝鮮的な様相がやや消失し始める時期と考えられます。器形は,成形方法等には大きな変化は見られませんが,器壁は若干厚くなります。口縁部のつくりはややシャープさを失い始め,器種はⅠa期とほぼ同じですが,器形のバリエーションや法量が増大する傾向が見られます。

Ⅰb期の製品

Ⅱ期
 朝鮮的様相が消失していき,在地化していきます。器壁は厚くなり,口縁部のつくり等にはシャープさに欠けるものが多くなります。製作技法の変化としては,タタキ成形のあと,ヘラ状工具によるナデ調整が施されるようになり,横方向の筋状の調整痕が残るものが多く見られます。器種は増大し,碗・蓋・水注・徳利・片口・擂鉢・鉢・甕・壺のほか,皿・白薩摩の碗・皿・素焼きの鉢・植木鉢・瓦等が見られるようになります。特に瓦については,その出土量は膨大で,窯跡から少し離れた場所に形成された物原からは,大量の瓦が出土しました。瓦については鹿児島(鶴丸)城跡の創建瓦を焼いたという伝承がありましたが,物原から瓦とともに出土した甕や擂鉢の型式学的な年代観から,17世紀後半(Ⅱ期)のものと判明し,再建瓦である可能性が高まりました。
 肥前系の製陶技術も導入されるようになり,窯道具ではサヤ鉢やトチンが使用されるようになります。製品でも,甕の口縁部の形状は17世紀後半の肥前系陶器の影響を受けた口縁部形態に変化します。また,県内他窯との交流も考えられ,竪野系冷水窯のものと類似した上手の白色陶胎の製品や,口縁部形状が山元窯と類似する擂鉢も出土しています。

Ⅱ期の製品

 このように,堂平窯の製品にはⅠa期に色濃くみられた朝鮮系製陶技術が,日本の需要や世代交代,藩の関与や県内外の窯場からの技術導入などにより,Ⅱ期になると次第に消失していき,和様化(薩摩焼化)していく過程がみられることがわかりました。

 

Ⅴ おわりに

 堂平窯跡の出土品は,薩摩焼のルーツを解明し,また,薩摩に伝わった朝鮮系製陶技術で生産された焼き物が次第に変容し,薩摩焼に変化していくプロセスがわかる重要な資料であることから,平成22年4月23日に県の有形文化財(考古資料)に指定されました。

移築された堂平窯跡(日置市指定考古資料)

 

文責 関明恵

【参考文献】

鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(106)『堂平窯跡』
田沢金吾・小山富士夫1941『薩摩焼の研究』(国書刊行会復刻版1987 )
片山まび1998a「一六世紀の朝鮮陶磁と草創期の唐津焼との比較研究―「近世的な窯業」の萌芽を視座としてー」『朝鮮学報』167

 

堂平窯跡の発掘調査報告書は,以下のリンクからダウンロードできます。(PDF)

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(106) 「堂平窯跡」  第1分冊

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(106) 「堂平窯跡」  第2分冊

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(106) 「堂平窯跡」  第3分冊

 

 

国内最古の落とし穴~立切遺跡(中種子町)~

Ⅰ.海上の道

 鹿児島市を起点に,沖縄に向かう国道があるのをご存じでしょうか?
 国道58号線は,鹿児島の偉人,西郷隆盛の銅像がある場所からほど近く,「朝日通り」と呼ばれる道路から,種子島,奄美大島を経て沖縄県那覇市まで続く国道です。鹿児島市では陸上分は700mほどで,海上の航路部分も国道扱いになっていて,種子島,奄美大島を経て沖縄に続いています。海上区間(約600km)を含めると総延長は880kmあり,海上区間を含む国道としては,国内最長なんですって。

上空から撮影した立切遺跡

国道58号線と立切遺跡の位置

Ⅱ.発見された国内最古の落とし穴

 立切遺跡(大津保畑地区)は,その国道58号線の改築工事に伴って,平成18年度~平成19年度に発掘調査が行われました。
 遺跡は種子島中央部(中種子町坂井)にあり,標高112mの台地上に立地しています。平成18年度から19年度にかけて行われた発掘調査で,国内最古とみられる旧石器時代の落とし穴が12基発見され,注目を集めました。

遺跡の調査区(クリックで拡大)
見つかった落とし穴の写真
12基の落とし穴の配置

 

 

Ⅲ.遺構の特徴

 発見された落とし穴遺構(遺構=地面に残された生活の痕跡)は,発掘調査の結果,ほとんどが直径1mほどで上部がラッパ状に開く形をしていて,深さも1mほどのものでした。底が丸い形をしているのが特徴で,同じような形をした遺構がまとまって見つかりました。
 最上部には種Ⅳ火山灰といわれる約35,000千年前の火山灰がレンズ状に堆積していて,この火山灰が降った頃には,ほとんど埋まりかけていたようです。この火山灰によって,発見された遺構は,この火山灰とほぼ同時期(約35,000年前)ということが分かるわけです。

落とし穴の検出状況(落とし穴の部分は土の色が違う)

完掘した落とし穴の様子

落とし穴の断面(上部にレンズ状に積もっているのが種Ⅳ火山灰)

上部がラッパ状に開く
落とし穴の形や特徴を示した図面。グレー部分が種Ⅳ火山灰(クリックで拡大)

 

Ⅳ.比較と検討

 では,どうして落とし穴と分かったのでしょうか?
 静岡県などでは,この時代の落とし穴が発見されています。立切遺跡の事例と直径はほぼ同じですが,深さは約2mとかなり深いことが分かります。こうした深い穴が台地上に並んで構築されていることから,落とし穴と考えられているのです。
 立切遺跡の事例は,こうした事例と比較するとかなり浅いものです。また南九州では縄文時代早期(=約10,000年前)になると数多くの落とし穴が発見されていますが,こうした縄文時代早期の落とし穴と比較してもやや小ぶりで浅く,また逆茂木の痕跡が見られないなど,構造上の特徴には大きな違いがありました。
 調査担当者は,立切遺跡(大津保畑地区)の事例は上部がラッパ状に開く点や遺構が見つかった層には周囲に石器や調理施設などの生活痕跡がみられないことなどから,落とし穴の可能性が高いと結論づけましたが,発見された遺構はこれを本当に落とし穴と考えてよいか,その後も懐疑的な意見があったことも事実です。
 こうしたことから,平成20年から,中種子町教育委員会が遺跡や遺構の性格を評価するための発掘調査を継続して行うことになりました。

落とし穴は深さ約1m(人物との対比)

立切遺跡と初音ヶ原遺跡(静岡)・関山遺跡(鹿児島県)の落とし穴の比較(クリックで拡大)

 

Ⅴ.追加調査の努力と成果

 平成20年から中種子町教育委員会によって行われた発掘調査では,大変重要な成果が発見されることになります。それまでに遺構が見つかってた大津保畑地区だけでなく,周辺の広い範囲に,同じような遺構が広がっていることが分かりました。
 加えて当時の周辺地形も復元され,当時周辺に広がっていた浅い谷状の地形にそって,こうした遺構が構築されていることが分かりました。台地上に列状に配置された静岡県の事例とは異なりますが,地形に沿った配置の特徴から,落とし穴である可能性がさらに高まりました。こうした調査の成果によって,現在ではこの大津保畑地区で発見された遺構は,落とし穴とみてよい,というのが大方の研究者に支持された見解となっています。
 立切遺跡群は,少し離れた地点(=立切地区)で,生活の痕跡を示す礫群(=調理施設)や焼土跡(=炉跡)が発見されています。こうしたことから,3万年以上前の生活と狩猟の場をセットで知ることができる遺跡として,さらに高い評価を受けることになりました。

見つかった落し穴の位置と周辺地形(クリックで拡大)

 

Ⅵ.「今も昔も最先端」種子島の歴史を将来に

 立切遺跡群は,こうした評価を受けて,平成27年に県史跡として指定されることになりました。花粉分析の結果,遺跡周辺には現在と同じような照葉樹林が広がっていたことが分かっています。
 立切遺跡からは,そうした環境の中で,狩猟や植物の加工などを行い,日々の暮らしを営んでいた当時の人々の姿が浮かび上がります。集落の少し離れた森の中に落とし穴をつくり,時々見回りながら,周辺の環境を上手に利用して暮らしていたのでしょう。
 サトウキビが広がる畑の下には,はるか昔の人々の痕跡が,今でも眠っているのです。
 種子島には,立切遺跡群のほかにも,南種子町横峯遺跡など同じ時期の遺跡が発見されています。この時期の遺跡は宮崎県や静岡県で多く見つかっていますが,種子島もこの時期の遺跡がたくさん残されている地域のひとつです。
 また,当時は,今と同じように九州や外の島とも海で隔てられていたと考えられています。そうした場所に人々が暮らした痕跡があるということは,当時種子島に人々が到達する手段があった(=舟などを造って海を越える手段が既に存在していた)ということも示しています。
 現在の種子島には,国内最長の海上国道である国道58号線が通っていますが,ひょっとすると,35,000年前にも,海上の移動ルートが存在していて,当時の文化を携えた人々が種子島にも来て日々の暮らしの拠点にしていた,そんな想像を膨らますのも楽しいかもしれません。

別の地点で見つかった礫群
遺跡の周辺では今もサトウキビなどが作られている

調査時に行った現地説明会(2007年)

現地説明会と同時に行われた落とし穴シンポジウム(2007年)
文責 馬籠亮道

第6回 「重要文化財~鹿児島県三角山遺跡出土品」

はじめに

 鹿児島県種子島の西之表市と中種子町の接する丘陵地帯に,三角山遺跡群があります。新種子島空港の建設に先立って,平成7年度から平成14年度まで発掘調査が行われました。調査の結果,縄文時代草創期から古代まで各時代の遺構や遺物が出土しました。特に,桜島の大噴火による薩摩火山灰層(約12,800年前)の下から,縄文時代草創期の遺構,遺物が多数発見され,多く方々の関心を集めました。
 これらの出土遺物のうち,全形が復元できる多数の隆帯文土器や,文様の構成がよくわかる大型土器片に加えて,それらに伴う石器など,「土器・土器片」160点,「石器」144点,「附石核・剥片」60点の計364点が,「縄文時代草創期の南九州における生活・文化の様相を知る上で,学術的価値が高いものである」として,令和元年7月23日,国の重要文化財に指定されました。

重要文化財に指定された土器・石器

空からみた三角山遺跡(平成13年度撮影)

発掘当時の作業の様子

貴重な遺構と遺物

 縄文時代草創期では,竪穴住居跡2基やたくさんの集石・土坑などの遺構,2万点を超える土器や石器などの遺物が発見されました。竪穴住居跡は直径2m程度で,2基が隣り合っていました。その一つの中央には火をたいた跡がありました。床面に接して出土した土器片や石鏃などもあり,当時のくらしを知る上で貴重な資料です。
 また,遺跡内では,バラバラになった土器片が集中して出土した場所が多数確認されています(図1)。それらを水洗いし,丁寧に接合していくと,それぞれが一つの土器として,いにしえの姿を現しました。ほぼ完全な形に復元できた土器は16点。この時期の遺跡としては驚くべき数です。

竪穴住居跡と発掘作業員さんたち

図1 縄文時代草創期遺物出土状況図

多彩な隆帯文土器

 発見された土器は,南九州の縄文時代草創期を代表する隆帯文土器です。隆帯文とは,口縁部周辺にぐるりと粘土の帯を1~6条まわし,指先や貝殻などを押して模様をつけたもので,中には横だけでなく縦の帯や沈線のある土器もあります。形も尖底からサラダボウルのような丸底,中には底部中央が内側にせり上がった茶碗のようなものまで,非常に多彩です。
 また,器の内外にススや炭化物が付着した例が多いことから,実際に煮炊きに使われたものと考えられています。放射性炭素年代測定の結果(補正)は,紀元前12,140~11,830年で,縄文時代草創期末にあたります。
 このように,当時の生活の様子を如実に示す貴重な資料であることから,国の重要文化財に指定されました。

多彩な隆帯文土器

指紋が残る隆帯文土器

手作りの「服」を着ていた? 縄文時代草創期の人々

 出土した土器の底に「もじり編み」と思われる圧痕のある隆帯文土器が1点あります。織物の痕跡としては,日本最古級の資料です。当時の人々が植物からとった繊維で織物を作り,土器を作る際の敷物にしていたことがわかります。植物の繊維を工夫して,”縄文服”も着用していたのかも知れません。
 

圧痕のある隆帯文土器

底部の圧痕

型取りでよみがえった「もじり編み」

断面の薄い大型土器

 三角山遺跡群の土器の中で最大級の大きさで,直径35cmを超えます。隆帯は6条。ヒダのある貝殻を押し当ててつけられた美しい文様で,指紋や爪の跡まで観察できます。
 サラダボウルに似た形で,大型にもかかわらず,厚みもできるだけ薄く作ろうと努力した様子がうかがえます。この薄さで長期間の使用に耐えられるのか心配してしまいますが,後から薄い断面を観察できるように,一部分を開けた状態で復元しました。

三角山最大の隆帯文土器

磨製石鏃

 三角山遺跡群では,特徴的な石器も出土しています。写真の磨製石鏃は,ホルンフェルスや頁岩を磨いて形作っていますが,一般的な石鏃より厚みが薄いようです。穴が開けられたものもあり,どのように使用されたか注目されます。

おわりに

 種子島空港ロビーの一角に三角山遺跡群のコーナーがあり,遺跡の紹介をしています。実物こそ県立埋蔵文化財センターにあるものの,これらのパネルを見て,地域の方々だけでなく,種子島を訪れた人にも,悠久の歴史に触れる機会になってくれればと思います。

貝殻模様の美しい隆帯文土器

文責 藤﨑光洋

第5回 鹿児島の戦争遺跡について

Ⅰ.戦争遺跡保存に至るまで

 2020年は戦後75年目の年です。当時20歳の若者は今年95歳,ということになります。これは戦争体験者の激減を意味し,次世代に戦争体験をどのように伝えるかという問題にも繋がってきます。戦争遺跡には地表に露出したものや,地下に埋もれたもの等がありますが,多くは戦後長い間放置され,老朽化や開発などで風化や解体が進んできています。

 そのような中,1970年代ごろから,全国各地で戦争遺跡を調査する事例が少しずつ見られるようになりました。さらに,沖縄県南風原町の南風原(はえばる)陸軍病院壕が1990年に日本初の指定史跡(町指定)になったことで徐々に関心が高まり,1995年には広島原爆ドームが国の史跡に指定され,ユネスコの世界文化遺産にも登録されることとなりました。この原爆ドームの文化財指定は,全国の戦争遺跡に対する意識が見直され,後世に語り継ぐべき遺産として把握・保護される大きなきっかけとなりました。

資料1 鹿児島県内で指定・登録文化財となった戦争遺跡等(2019年7月末)
番号 市町村名 名称 内容 時代
1 薩摩川内市 天狗鼻海軍望楼台 市指定 明治
2 鹿児島市 天保山砲台跡 市指定 幕末
3   〃 祇園之洲砲台跡   〃 幕末
4   〃 沖小島砲台跡   〃 幕末
5 南九州市 陸軍知覧飛行場給水塔跡 市指定 昭和
6   〃 陸軍知覧飛行場弾薬庫跡 国登録 昭和
7   〃 陸軍知覧飛行場着陸訓練施設遺構   〃 昭和
8   〃 陸軍知覧飛行場水風呂(防火水槽跡)   〃 昭和
9 姶良市 山田の凱旋門 国登録 明治
10 曽於市 岩川官軍墓地 市指定 明治
11 鹿屋市 海軍笠野原航空基地跡川東掩体壕 市指定 昭和
12   〃 海軍串良航空基地地下壕電信司令室   〃 昭和
13 志布志市 権現島砲台遺構(水際陣地跡)   〃 昭和
14   〃 海軍岩川航空隊基地通信壕跡   〃 昭和
15   〃 平床通信壕跡   〃 昭和
16 南大隅町 原の台場跡 県指定 幕末
17 大和村 今里小中学校奉安殿 国登録 昭和
18 瀬戸内町 久慈小学校奉安殿   〃 昭和
19   〃 須子茂小学校奉安殿   〃 昭和
20   〃 薩川小学校奉安殿   〃 昭和
21   〃 池地小中学校奉安殿   〃 昭和
22   〃 節子小中学校奉安殿   〃 昭和
23   〃 古仁屋小学校奉安殿   〃 昭和
24 伊仙町 鹿浦小学校奉安殿   〃 昭和

Ⅱ.戦争遺跡の分類

 本稿では戦争遺跡を幕末・明治初期からアジア・太平洋戦争終結までのものとします。この間の80年余り,主なもので薩英戦争,戊辰戦争,西南戦争,日清戦争,日露戦争,第1次世界大戦,日中戦争,アジア・太平洋戦争があります。近代的中央集権国家として帝国主義の時代を生き抜いていくために,日本はこれだけの戦争を行ってきました。

 ところで,鹿児島県はこの中で特にアジア・太平洋戦争に係る戦争遺跡が多く所在します。これらを大まかに分類すると,
①航空基地関係(滑走路・掩体壕・建物や施設)
②沿岸施設(砲台・観測施設・哨戒施設・防備所・水上水中特攻基地・建物や施設)
③軍事施設(建物や施設・要塞・塹壕)
④その他(奉安殿【注1】・防空壕・記念施設・慰霊碑・墓地)
などに分けられます。
【注1】 戦前の日本において,学校等にあった天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物

 

Ⅲ.鹿児島県の戦争遺跡

 鹿児島県にアジア・太平洋戦争関連の遺跡が多いのは①~④の理由によると考えられます。
①1945年3月の沖縄戦以後は本土防衛の最前線となり,陸海軍の出撃,防御拠点が集中しました。
(資料2,3 写真6)

資料2 県内の航空基地(昭和20年)

 

資料3 県内の水上(震洋)・水中(回天)特攻艇施設(昭和20年)

②吹上浜と志布志湾が本土上陸作戦(オリンピック作戦)の目標地点となっていたことから,コンクリート製の永久築城の要塞や素掘りの洞窟式陣地,トーチカ等の施設が昭和19~20年に多数構築されました。(写真1~3 )

写真1 榴弾砲陣地(観測所)跡(大崎町)
写真2 写真1を踏査する民間団体の活動
写真3 志布志湾岸のトーチカ(大崎町)
写真4 坊津電探基地跡(南さつま市)
写真5 写真4を踏査する民間団体の活動

③南九州一帯にひろがるシラスの崖は掘りやすく,本土防衛の最前線である鹿児島への空襲が激しくなるにつれて防空壕が県内に多く作られました。(資料4)

資料4 都道府県別の空襲による犠牲者数【『戦争遺跡から学ぶ』(岩波ジュニア新書)より】
北海道 1,210 山  梨 1,181 広  島 262,425
青  森 946 長  野 53 島  根 38
秋  田 94 富  山 2,300 山  口 3,362
岩  手 616 石  川 27 香  川 1,359
宮  城 1,118 岐  阜 1,191 徳  島 1,710
山  形 41 愛  知 12,379 高  知 487
新  潟 1,467 三  重 5,612 愛  媛 1,097
福  島 661 滋  賀 35 福  岡 5,570
茨  城 2,452 福  井 1,809 佐  賀 138
栃  木 612 京  都 215 長  崎 75,380
群  馬 967 奈  良 32 大  分 710
埼  玉 392 和歌山 1,781 熊  本 869
東  京 116,959 大  阪 14,770 宮  崎 646
千  葉 1,450 兵  庫 11,997 鹿児島 4,604
神奈川 9,197 鳥  取 61 沖  縄 約1,500
静  岡 6,234 岡  山 1,773 (人)
写真6 青戸基地トーチカ(南九州市)

④奄美大島の大島海峡は複雑に入り組んだリアス海岸からなり,海軍艦艇の絶好の泊地となり両岸に関連する軍事施設が集中しました。(写真7~10 )

写真7 大島防衛隊与路派遣基地(瀬戸内町)
写真8 金子手崎潜水艦防備衛所(瀬戸内町)
写真9 金子手崎弾薬庫(瀬戸内町)
写真10 呑之浦特攻艇震洋の格納施設(瀬戸内町)

 これらの施設は戦後の開発による消失を免れてそのまま残っているものが多数みられます。その中の一部はコンクリート製の耐弾構造となっているため,当時の構造がほぼそのまま残っているものもあります。

Ⅳ.保存と活用

 最近,全国各地で「身近にある戦争遺跡から戦争のことを知り平和の大切さを学ぼう」という活動を行う各種団体が現れています。また,個人的に踏査や集成を行い,紹介や普及活動を行っている人もいます(写真2,5)。市町村では戦争遺跡が多く所在する自治体(南九州市,出水市,霧島市,曽於市,鹿屋市,瀬戸内町その他)で積極的に保存・活用する動きが,いわゆる“まちおこし”と絡めて見られます。そして今後県内で埋蔵文化財の発掘調査が行われるに伴い,新たな戦争遺跡や遺物が確認され,この時代に対する認識と評価が深まっていくことでしょう。

写真11 天保山砲台跡(幕末・鹿児島市)
写真12 天狗鼻海軍望楼台(明治・薩摩川内市)

Ⅴ.埋蔵文化財発掘調査報告書に記載された戦争遺跡

 古い時代(縄文時代や弥生時代等)の遺跡の発掘調査中に偶然出土した戦争に関連する遺構や遺物はこれまでも様々な報告書に掲載されています。また,最近では戦争遺跡そのものを保護,記録保存するために発掘調査を行い,それらの報告書が刊行されています。ここでは前者の例として霧島市の上野原遺跡を,後者の例として南九州市の知覧飛行場跡を紹介します。

 上野原遺跡(霧島市)の調査で,2基の探照灯跡と配線ケーブルを埋めた溝が検出されています(第10地点)。探照灯跡は直径3.5mの円形の掘り込みが2段に掘り下げられており,礎石の上に円形のコンクリートの台座が据えてあります。台座にはボルトが6か所あります。周囲からは昭和19年12月製造の四式電話機のラベルが出土しています。これらは海軍の国分第一基地に関わる施設の一部であると考えられます。

資料5 上野原遺跡1号探照灯跡(霧島市)
写真13 上野原遺跡1号探照灯跡

 知覧飛行場跡(南九州市)の調査で,排水施設と考えられるコンクリート製溜枡とそれに繋がる土側溝2条が検出されています。溜枡は,上幅約4m,底幅約70cm,深さ約1.6mの台形断面で,コンクリートの厚さは約8cmで,不揃いの玉砂利が用いられ型枠痕が見られないことから,現場打ちによって構築されたと考えられます。これらの施設は終戦直前の昭和20年7月22日米軍の偵察機が上空から撮った写真でも存在が確認できます。また,周辺からは明治から昭和初期にかけて鋳造された貨幣,統制食器,ガラス瓶,碍子その他が出土しています。

写真14 知覧飛行場跡(南九州市)の遺構
写真15 知覧飛行場跡の遺物

 

資料6 特別攻撃隊の基地別出撃数等 【『知っていますか?身近な「戦争遺跡」』(古場昌彦2004)より】
海軍
出撃基地 出撃隊員
(未帰還機含)
機数
(未帰還機含)
備考
鹿  屋 832 445
串  良 334 122
国  分 354 224
出  水 41 14
指  宿 82 41 古仁屋含む
鹿児島 12 1
喜界島 19 11
合 計 1,674 858
陸軍
出撃基地 出撃隊員
(未帰還機含)
機数
(未帰還機含)
備考
知  覧 439 354

 

※戦争遺跡の調査を報告した埋蔵文化財発掘調査報告書

  • 鹿児島県立教育委員会 「西原掩体壕跡」1990
  • 鹿児島県立埋蔵文化財センター 「知覧飛行場跡」2017
  • 鹿児島県立埋蔵文化財センター 「敷根火薬製造所跡 根占原台場跡 久慈白糖工場跡」 2018
  • 南九州市教育委員会 「知覧飛行場跡」 2015,2016
  • 出水市教育委員会 2014 『出水市埋蔵文化財発掘調査報告書25:旧海軍出水航空基地 掩体壕 発掘調査報告書』
  • 瀬戸内町教育委員会 2017 『瀬戸内町文化財調査報告書第6集:瀬戸内町内の遺跡2』

Ⅵ.負けた戦争の大切さ

 近・現代の歴史は戦争と軍隊の存在抜きには語れません。戦争遺跡を保存し活用することの最大の目的は,「過去にこのようなことがあった。二度と繰り返してはならない」と「自分達の身近な地域では過去にこのような人や物の動きがあった。現在はその上に成り立っている」ことを学ぶことであると思います。歴史を見ると人類は勝った戦争よりも,負けた戦争から多くの戦訓や教訓を学んできているようです。

 近・現代の歴史は,日本が世界の中で今後どのようにあるべきかという問いに直接答えられる要素を他のどの時代よりも遙かに多く含んでいます。戦争遺跡を保存し周辺の安全管理を行ったうえで,これを積極的に活用していきたいと考えています。

 

文責 抜水茂樹

第4回 鹿児島(鶴丸)城跡の瓦について

Ⅰ.鹿児島城の概要

 鹿児島城は鹿児島市城山町に築かれた島津氏の居城で,別名鶴丸城とも呼ばれています。城の範囲(城域)は黎明館・県立図書館のある場所だけではなく,西端は黎明館の背後にそびえる城山(上之山城跡),東端は外堀のあったみなと大通り公園,北端は国立医療センター,南端は照國神社や中央公園,山形屋のあたりまでが江戸時代における鹿児島城の範囲と考えられています。

 鹿児島城は初代薩摩藩主島津家久(忠恒)が関ヶ原の合戦直後の慶長6(1601)年頃に築城を始め,慶長末(1615年)頃にほぼ完成したとされています。城の正式な名称は鹿児島城で,「鶴丸城」の呼称は背後の城山の形が,鶴が舞っているように見え,鶴丸山と呼ばれたことにちなむと江戸時代後期の『三国名勝図会』に記されています。

 本来の鹿児島城は,背後の山城(上之山城)と麓の居館からなり,江戸時代前半の絵図では,山城部分の曲輪を本丸,二丸(二之丸)とし,麓の居館は居所(居宅)と記しています。江戸時代を通じて藩政の中心を担ったのは麓の居館部分で,江戸時代後半には,現在黎明館がある三方を石垣と濠に囲まれた藩主の居館を本丸,その西側を二之丸と呼ぶようになりました。また,天明5(1785)年から8代藩主島津重豪により,二之丸の整備拡大が図られました。

 その後,明治に入り,明治2(1869)年に知政所となり,明治4(1871)年の廃藩置県で12代藩主島津忠義が去るまで,270年余り島津氏の居城として,近世鹿児島の発展の中心でしたが,本丸や御楼門は明治6(1873)年の火災で,二之丸は明治10(1877)年の西南戦争で焼失しました。

 明治中期以降は,居館跡に中学造士館,次いで第七高等学校造士館が設立され,戦後は鹿児島大学の文理学部,次いで鹿児島大学医学部と移り変わり,昭和58(1983)年に黎明館が開館しました。

写真1 復元された御楼門

写真2 鹿児島城跡の空撮

図1 島津家久(忠恒)【尚古集成館所蔵】

Ⅱ.瓦の種類と特徴

 平成26年度から始まった発掘調査では,様々な種類の瓦が出土しました(写真3)。瓦は出土地点の近くの建物に葺かれていたものであったり,火災等で崩れた建物の瓦が寄せ集められて廃棄されたものと考えられます。御楼門跡周辺から出土した瓦は現代の瓦よりも一回り大きなものが多く,国内最大級の大きさと言われる御楼門に葺かれていた瓦と考えられます。

 瓦の葺き方には大きく「本瓦葺き」と「桟(さん)瓦葺き」の2種類があります。本瓦葺きは古代から続く古い瓦の葺き方で,丸瓦と平瓦を交互に重ねて葺く伝統的な手法です。一方,桟瓦葺きは江戸時代以降用いられた手法で断面形が「へ」の字になった瓦を重ねて(組み合わせて)葺く手法で,現代の屋根瓦にも多く用いられています。明治5年に撮影された鹿児島城の古写真を見ると,御楼門の瓦には本瓦を用いていますが,本丸屋敷の麒麟の間やサギの間には桟瓦が用いられているのが分かります(写真4,5)。屋根の最も低い部分(軒)には本瓦では軒丸瓦と軒平瓦,桟瓦では軒桟瓦とよばれる瓦当部分に文様を持った瓦が用いられています。出土した軒丸平の文様は,「連珠三巴紋」と呼ばれる全国的に普及した文様のものが多く,軒平瓦には「橘唐草文」と呼ばれる文様が多く出土し,この文様の種類や同じ型(同笵)などを調べることで製作時期や生産地などを推定することができます(図2-1~5)。

 その他にも,装飾瓦として鬼瓦や鯱(シャチ)瓦も出土しました。これらは建物の魔除けとしての意味を持ち,棟端に用いられます。本来は棟の端から雨水が入るのを防ぐ役割があるのですが,建物の目立つ場所にあるため,建物を象徴する意匠的な役割を持っているとも言えます。御楼門の壁には海鼠瓦という板状の瓦を多数用いていました。他にも鳥伏間(とりぶすま)瓦,熨斗(のし)瓦,小菊瓦等といった瓦も出土しています。

写真3 軒丸瓦,軒平・軒桟瓦,小菊瓦,鳥伏間瓦

 

写真4-1 明治初年の鹿児島城(鹿児島県立図書館所蔵)

写真4-2 本瓦葺き(鹿児島県立図書館所蔵,写真3-1の拡大)

写真5-1 島津御本丸池波畔景(鹿児島県立図書館所蔵)
写真5-2 桟瓦葺き(鹿児島県立図書館所蔵,写真5-1の拡大)

 

図2-1 A種(連珠三つ巴文)

図2-2 B種(牡丹文)

図2-3 C種(その他・図は花十字紋)

図2-4 軒平瓦

図2-5 軒桟瓦

Ⅲ.瓦当文様と刻印から見る生産と流通

 軒丸瓦,軒平瓦には連珠三巴紋(図2-1 A種)と橘唐草文以外にも様々な文様の軒瓦が出土しました。図2―2でB種とした牡丹紋や,図2-3のC種(その他)には花十字紋や桐紋等,出土数は少ないものの特徴的な文様の瓦が出土しました。よく知られている島津家の家紋は丸十紋ですが,当初の家紋はただの十字紋で,鹿児島城で出土した牡丹紋や桐紋も家紋として使っていたようです。牡丹紋は元々藤原家嫡流である近衛家の家紋で,近衛家と姻戚関係にあった島津家や上野松平家,伊達家,津軽家が使用していました。桐紋は御兵具所西側と昭和53年の本丸調査の際に出土していますが,牡丹紋に比べ希少な種類です。桐紋は足利幕府や豊臣秀吉が功績のあった家臣たちに使用を許したと言われる貴重な瓦で,中央との繋がりがうかがえる資料と言えます。

 軒丸瓦の中で,花十字紋と呼ばれる瓦が2点出土しました(図2-3 C類の文様)。これは鹿児島市が二ノ丸の調査をした際にも数点出土しており,非常に珍しい瓦です。十字の先端が花ビラのように開き,周囲を珠文が囲む文様で,一見,島津家の丸十紋のようにも見えます。鹿児島県以外では島原の乱でキリシタンが立てこもった原城跡や薩摩川内市の京泊から慶長14(1609)年に移築された長崎市のサントドミンゴ教会跡(勝山町遺跡)から多く出土しているため,キリスト教との関連がうかがえる資料と言えます。

 では,なぜ鹿児島城から出土したのかを考えてみると,島津家第15代当主の島津貴久は,天文18(1549)年に来日したフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教許可を出しています。しかし,豊臣秀吉の時代になり天正15(1587)年にバテレン追放令が出されキリスト教布教は禁止されました。また,初代薩摩藩主島津家久(忠恒)の義母にあたる永俊尼(カタリナ永俊)がキリスト教信者で,後のキリスト教弾圧の中,藩命を受けて種子島の西之表大長野に配流されたという記録があります。鹿児島城の近隣にキリスト教関連の瓦葺き施設が存在したのか,それとも花十字紋瓦を十字架やお守りのように扱っていたのか分かりませんが,当時の宗教観や政治的な背景を考える上で興味深い資料であり,遺構と併せて調査類例を待ちたいと思います。

 他にも,陶器(釉薬)瓦と呼ばれる,陶質で釉薬を塗った軒丸・軒平瓦,丸・平瓦が出土しました。この陶器瓦と類似したものが日置市東市来町にある堂平(どびら)窯跡からも出土しているため,陶器瓦の生産地の可能性があります。堂平窯跡は1620年代に始まり17世紀後半には閉窯したとされており,堂平窯出土の瓦は物原や瓦の調整痕から17世紀後半の所産と考えられています。鹿児島城の陶器瓦が同じものであれば,創建時ではなく城の建て替え時に使われたと考えられます。

 また,出土した瓦には屋号(生産者)や卸先(消費地)等を表したと思われる刻印も多く残されていました(図3)。「太喜」「太宗」「太左衛門」「河野」「上伊敷」「日置」などの他,「玉水堂」「山下小」などの文字がありました。これらの文字が表す意味や出土数量,他地域での出土例などを分析することで,当時の生産/消費地等の流通や社会情勢が見えてくる可能性があります。

図3 様々な刻印

Ⅳ.これからの鹿児島城

 これまでの発掘調査で,鹿児島城の歴史の一部分が解明されてきましたが,文献や絵図にも残っていない,説示できない課題も残されています。また,災害の多い日本列島において,今後地震や大雨などの自然災害により石垣や堀などが損傷を受ける可能性もあります。現代を生きる私たちは過去の教訓から学び,かけがえのない歴史遺産を守り,未来に伝えていかなければなりません。御楼門復元という歴史的転換期を迎えた現在,再度鹿児島城の持つ本質的価値や意義について調査・研究を進め,未来のまちづくりに活かしていきたいと考えています。

(鹿児島県歴史・美術センター黎明館提供)

文責 永濵功治

第3回 「奄美大島の赤煉瓦(れんが)」

Ⅰ.日本における赤煉瓦(れんが)の導入

 日本における建築用煉瓦(いわゆる「赤煉瓦」)の生産は長崎で始まりました。幕末に鎖国が解かれると,長崎は他の地域に先駆けて欧米からの科学技術の導入と定着化が一挙に進行しました。製鉄所と船舶の修理・建造を行う工場(長崎製鉄所・文久元(1861)年完成)や蒸気機関を動力とする引揚げ装置を整備したドック(小菅修船場(こすげしゅうせんば)・明治元(1868)年完成),旧グラバー邸(文久3(1863)年完成)のある外国人居留地などの建設が行われ,このような建造物の部材として赤煉瓦が導入されたのがきっかけです。
 国産初の赤煉瓦が生産されたのは,安政5(1858)年と考えられています。前年に起工した長崎製鉄所の建設のため,建設を監督したオランダ海軍の軍人ハルデスが瓦職人を指導し,生産したとされています。しかし,その煉瓦は現在の煉瓦に比べて薄く長い扁平な形(蒟蒻によく似た形をしていることから「蒟蒻(こんにゃく)煉瓦」と呼ばれています)をしています。
 一方,鹿児島で赤煉瓦が初めて生産されたのは,国産初の赤煉瓦が生産された7年後の慶応元(1865)年と考えられています。薩摩藩は,奄美大島で白糖工場の建設を計画し,アイルランド人技師のウォートルスの指導のもと,4つの工場を建設しました。金久(かねく:現奄美市)と須古(すこ:現宇検村)が慶応2(1866)年に,久慈(くじ:現瀬戸内町)と瀬留(せどめ:現龍郷町)は翌3(1867)年に完成しました。これら白糖工場の建築部材として,奄美大島で赤煉瓦が生産されたのが,鹿児島における赤煉瓦生産の始まりです。
 関東での赤煉瓦生産は,慶応2(1866)年の横須賀製鉄所建設,関西では明治元年(1868)年の造幣局(ぞうへいきょく)建設を契機として開始されたと考えられており,鹿児島はわが国の中でも早い時期に赤煉瓦生産が開始された地域であるといえます。

奄美大島に建設された4つの白糖工場の位置
久慈白糖工場が建っていた久慈湾

Ⅱ.奄美大島白糖工場の赤煉瓦の特徴

 平成27~29年度にかけて,鹿児島県教育委員会が実施した「かごしま近代化遺産調査事業」で,久慈白糖工場跡を発掘調査しました。発掘調査の結果出土した大量の赤煉瓦は,いずれも表面がくぼむという特徴があります。この特徴は,わが国初期の洋風建築に時折見受けられますが,類例は多くありません。また,刻印(「△」「□」「×」「-」「○」)が施されているものや,「九十」「八」「三百八十」などの数字が刻まれているものがあることも特徴といえます。
 なお,出土した赤煉瓦は以下の3種類に分けることができました。

  1. 煉瓦の表面が両面ともくぼんだもの。規格は長さ25.8㎝,幅12.8㎝,厚さ8.8㎝程度(推定値)。小礫をあまり含まず,精製した粘土を使用しており,比較的焼きが良く,堅緻。
  2. 煉瓦の表面が片面のみくぼんだもの。規格が長さ25.8㎝,幅12.8㎝,厚さ8.8㎝程度でAと同規模。
  3. 煉瓦の表面が片面のみくぼんだもの。規格が長さ23.8㎝,幅10.9㎝,厚さ6.2㎝程度とBに比べ,一回り小さいもの。久慈白糖工場跡で出土したイギリスもしくはイギリスの植民地で生産されたと考えられている耐火煉瓦(白煉瓦とも呼ばれ,「STEPENSON」,「COWEN」の刻印があるもの)と同規模。

 

 いずれの種類も長﨑の蒟蒻煉瓦より分厚い煉瓦です。特にAのような赤煉瓦は,奄美大島以外の日本国内で発見されていないことから,外国で生産された可能性が高いと思われます。類例としてイギリスなどで両面ともくぼんだ赤煉瓦があることから,それがイギリス植民地の拡大と共にアジアに伝来して奄美大島にもたらされたとも考えられます。つまり,Aの赤煉瓦は,ウォートルスの前任地であった香港や上海などで生産されていた煉瓦であり,見本として奄美大島に持ち込まれた可能性が最も高いと思われます。
 一方B・Cの赤煉瓦はAの赤煉瓦に比べ,奄美大島で産出する石材を多く含むことから,奄美大島で造られた赤煉瓦と考えられます。また,焼きが甘く,瓦職人などによる粘土精製技術も窺えません。奄美大島では高品質な煉瓦の焼成を行える瓦職人や原料の確保ができなかったという事情もあるのかもしれませんが,素人が見まねで製作した感が否めない煉瓦です。BはAの赤煉瓦の規格に,Cは耐火煉瓦の規格に合わせて,生産されたものでしょう。

久慈白糖工場跡で見つかった煉瓦積みの遺構
久慈白糖工場跡から出土した煉瓦
「COWEN」の刻印がある煉瓦
「×」や「〇」の刻印がある煉瓦

Ⅲ.赤煉瓦生産技術の拡大

 明治4(1871)年の久慈白糖工場の廃止をもって,奄美大島の白糖工場は全て閉鎖となり,奄美大島での赤煉瓦生産も行われなくなります。一方,奄美大島で白糖工場建設を指導したウォートルスは,明治元(1867)年に鹿児島を離れた後,明治政府のお雇い技師となり,大阪の造幣局の建設に携わりました。造幣局の建設には建築材として大量の赤煉瓦が必要でしたが,その当時の国内の煉瓦焼成技術や生産能力は未熟だったため,ウォートルス自ら指導し,堺や兵庫,広島などで赤煉瓦を焼成し,調達しました。この時に,奄美大島で赤煉瓦生産を指導した経験が,活かされたことは想像に難くありません。
 その後ウォートルスは東京に移り,明治4(1871)年に設置された大蔵省金銀分析所を手始めに,当時のビッグプロジェクトの一つでもある銀座煉瓦街の建設にも携わります。なお,これらの建造物に使用された赤煉瓦の規格は,長崎の蒟蒻煉瓦より,奄美大島で造られた上記Cの煉瓦の規格に近いものです。ウォートルスが奄美大島での経験を活かし,日本人の手の大きさに合う煉瓦の規格を採用したことが窺えます。
 さて,ウォートルスが去った大阪では,明治5(1872)年に元岸和田藩士山岡尹方(ただかた)により赤煉瓦製造が開始されました(岸和田煉瓦)。岸和田の赤煉瓦製造には,造幣局建設時にウォートルスが指導した赤煉瓦製造のノウハウが活かされたことでしょう。なお,この岸和田煉瓦には社印「×」が刻印されていますが,奄美大島の赤煉瓦に刻印されている「×」と非常に酷似していることも興味深いです。

Ⅳ.煉瓦を通じた奄美大島と大阪のつながり

 久慈白糖工場跡のある集落内には,明治28(1895)年に建設された赤煉瓦の構造物が残っています。佐世保海軍軍需部大島支庫跡です。この構造物に使用されている煉瓦は,関西系の煉瓦と考えられています。つまり,奄美大島での白糖工場閉鎖から20年以上の時を経て,奄美大島の赤煉瓦をルーツとした関西系の煉瓦が,奄美大島に建設された施設の構築材として里帰りしたともいえるでしょう。赤煉瓦を通して,奄美大島と大阪との不思議な縁が感じられます。

久慈の佐世保海軍軍需部大島支庫跡

文責 今村結記

 

第2回「鹿児島県の製鉄・鍛冶遺跡」

Ⅰ.製鉄・鍛冶とは

  1.  製鉄とは,鉄鉱石や砂鉄などの材料から鉄製品の材料となる鉄を作る作業のことを言い,製錬(せいれん)とも言います。この製鉄によって鉄塊という鉄製品を作る基ができます。鉄の原材料の一つである砂鉄は,鹿児島では特に種子島産が有名です。
  2.  鍛冶とは製鉄によりできた鉄塊から鉄製品を作る作業のことです。鉄塊から不純物を取り出す精錬鍛冶と,鉄を加熱して叩いて鉄製品を作る鍛錬鍛冶の2つに分けられます。皆さんがテレビなどでよく見る鉄をハンマーで叩いているシーンは鍛錬鍛冶になります。昔の人々はこの鍛冶により生活に必要な鍋,農業で使う鎌・鋤・鍬など,武器である剣・刀・鏃などを作ったり,修理したりしていました。

Ⅱ.鹿児島県の製鉄遺跡

  1.  鹿児島県では10年程前までは中世(鎌倉時代~室町時代)以前の古い製鉄遺跡は発見されていませんでした。唯一,南大隅町に13世紀(鎌倉時代)の製鉄遺跡ではないかとされる炭屋製鉄遺跡がありますが,出土している遺物は18世紀(江戸時代)の物なので,はっきりはしていません。鹿児島では南九州市知覧にある近世(江戸時代)の厚地松山製鉄遺跡などが有名でした。
  2.  ところが,ここ10年程でまずは奄美諸島の喜界島(地図中①)で相次いで製鉄遺跡が見つかりました。喜界町大ウフ遺跡では製鉄作業の時に出る製錬滓が出土し,前畑遺跡では砂鉄が出土しました。どちらも10~12世紀(平安時代~鎌倉時代の初め)と考えられています。また,崩リ(くんでぃー)遺跡からは11世紀末~12世紀と考えられる製鉄炉の炉跡や製錬滓が出土しました。
  3.  喜界島での製鉄遺跡の発見から数年後,鹿屋市串良町細山田にある川久保遺跡(地図中②)で7世紀後半~8世紀(飛鳥時代~奈良時代)の製鉄炉が出土しました。また,志布志市の上苑A(うぇんそん)遺跡(地図中③)からも6世紀末~7世紀(古墳時代~飛鳥時代)の土器とともに製錬滓が出土しました。
川久保遺跡 製鉄関連遺構(土坑270号・271号)

Ⅲ.鹿児島県の鍛冶遺跡

  1.  鍛冶作業は製鉄作業と違い,材料となる鉄塊さえあれば作業ができるため,鹿児島県でも古くから見つかっています。鍛冶を行っていた鍛冶炉は指宿市橋牟礼川遺跡(地図中④)で8世紀のものが,薩摩川内市の鍛冶屋馬場遺跡(地図中⑤)で10世紀中ごろ,日置市の犬ヶ原遺跡(地図中⑥)で11~12世紀のものがそれぞれ見つかっています。また,最近では製鉄遺跡でも紹介した川久保遺跡でも鍛冶炉を持つ2基の竪穴建物跡が見つかっています(4~5世紀)。
  2.  また,鍛冶炉自体は見つかっていませんが,たくさんの遺跡で鍛冶作業に関わる遺物である鉄滓(鍛冶作業の時に出る不純物のかたまり)や,鞴(ふいご)の羽口(鍛冶炉に空気を送り込む送風機の部品)といったものが出土しています。なかには鹿屋市王子遺跡(地図中⑦)のように弥生時代の遺跡から鉄滓が出土している例もあり,鍛冶作業は弥生時代から行われていたことが分かります。

文責 岩永勇亮

川久保遺跡 16号竪穴建物跡(鍛冶建物)
川久保遺跡出土 鞴の羽口 上から(転用品)
川久保遺跡出土 鞴の羽口 横から(転用品)