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カテゴリー: 推しの逸品

これまでの発掘調査や整理作業で発見・掲載した遺物や遺構の中から,「これは」という「推しの逸品」を担当職員が紹介します。

「蛇紋岩製石斧」(中津野遺跡:南さつま市)

「蛇紋岩」とは,暗緑色から黄緑色の光沢のある岩石で,蛇の皮の模様に似ていることから名付けられました。地学的には蛇紋石を主成分とする岩石を蛇紋岩といいます。硬さはモース硬度で表すと「3」で,10円玉硬貨と同じくらいです。

下の2点は,蛇紋岩で作られた縄文時代の磨製石斧です。蛇紋岩製磨製石斧は,縄文時代早期から晩期まで継続的に出土し,特に後期から晩期にかけて出土量・遺跡数が増えます。分布は鹿児島湾周辺を中心として北薩・南薩に集中する傾向があります。

「蛇行剣」(南摺ヶ浜遺跡:指宿市)

南摺ヶ浜遺跡(指宿市)の発掘調査において多くの鉄製品が見つかり,その中に「蛇行剣」がありました。

「蛇行剣」とは,古墳時代の鉄剣のひとつです。名前のとおり,刀身が蛇のように曲がった形状をしています。

形状から実用性のある武器ではなく,祭祀的に利用されていた可能性があります。

石造りの排水溝(鹿児島城二之丸跡:鹿児島市)

令和5年度に行った鹿児島城二之丸跡の発掘調査で,排水溝と思われる遺構が見つかりました。直方体に切り出された凝灰岩を平行に並べて組み合わせ,底部には敷石となる石も検出されました。切り石の長さは約2m,高さ約25cmで,溝の幅は約90cmです。

調査区内では他にも水が溜まっていたと思われる溝状遺構が見つかっており,当時の排水技術の手がかりになればと思います。

出土した排水溝

3Dデータはこちらから

全国で4例目! 将棋盤出土(鹿児島城二之丸跡:鹿児島市)

令和5年度に行った鹿児島城二之丸跡の発掘調査で,将棋盤が出土しました。

自然科学分析の結果,17世紀以降の将棋盤と考えられ,発掘調査で見つかったものとしては,全国で4例目になります。

今回出土した将棋盤は,縦横ともに約27cm,厚さ1cmの大きさがあります。表面には9×9のマス目が刻まれており,将棋盤の脚と考えられる部材も一部出土しています。

出土した将棋盤。表面に9×9のマス目の溝が確認できます。

 

3Dデータはこちらから

「双口土器」(上加世田遺跡:南さつま市)

上加世田遺跡から採集された土器で,河口貞徳氏により二つの口が伸びるように復元されました。

渦巻き状の線で模様が描かれ,わずかに赤色に塗った痕が残っています。

縄文土器である可能性が高いですが,全国的にほぼ類例がない,珍しい形や文様で,謎の多い土器といえます。

 

「石製垂飾品」(出水貝塚:出水市)

垂飾品は装身具の一種で,いろいろな種類の石や土製品に穴をあけ紐を通し,現在のネックレスのようにして使われたと考えられています。

出水貝塚で出土した垂飾品は,乳白色の石を細長い半月状に加工し,中央付近に貫通する穴を開けています。側面をよく見ると,浅い溝のような窪みが縦方向に入っています。

この溝があったことから,この垂飾品は元々「大珠」というもっと大きい垂飾品であったこと,その大珠を再び加工して作られたものである可能性が高いことが分かりました。

 

石製垂飾品

実測図

加工方法

 

鹿児島県で初めて見つかった木簡:(京田遺跡:薩摩川内市)

九州新幹線鹿児島ルート建設に伴い平成11年度から13年度にかけて行われた京田遺跡の発掘調査において,県内初となる「木簡」が出土しました。

平安時代初めの嘉祥(かしょう)3年(西暦850年)3月14日の日付が記されています。長さは約40㎝,厚さ・幅は約3㎝で,当時の役人が,田の権利に関する内容を告知したものと思われます。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(81) 「京田遺跡」

見事に復元された土器(川骨遺跡:薩摩川内市)

川骨遺跡の発掘調査では,弥生時代後期後半から古墳時代初頭にかけての土器集中遺構が13か所見つかりました。

土器はそこに集めて割ったのか,ばらばらの状態で見つかりましたが,その多くをもとの形に復元することができました。

接合・復元した職員の努力の成果が見て取れます。

土器集中出土の様子(一部)
復元された土器

 

「かつてその先は・・・」(天保山砲台跡:鹿児島市)

天保山砲台は,嘉永3(1850)年に築かれました。文久3(1863)年の薩英戦争では,この砲台が火ぶたを切りました。
埋蔵文化財センターでは,2011年に,多くのトレンチ(試掘坑)を設定して発掘調査を行いました。
その中の一つから,「荷揚場」の石畳が見つかりました。
石畳の先は,現在埋め立てられて駐車場になっていますが,かつては甲突川河口でした。ここから様々な品物が届けられていたのでしょう。