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第3回 「奄美大島の赤煉瓦(れんが)」

Ⅰ.日本における赤煉瓦(れんが)の導入

 日本における建築用煉瓦(いわゆる「赤煉瓦」)の生産は長崎で始まりました。幕末に鎖国が解かれると,長崎は他の地域に先駆けて欧米からの科学技術の導入と定着化が一挙に進行しました。製鉄所と船舶の修理・建造を行う工場(長崎製鉄所・文久元(1861)年完成)や蒸気機関を動力とする引揚げ装置を整備したドック(小菅修船場(こすげしゅうせんば)・明治元(1868)年完成),旧グラバー邸(文久3(1863)年完成)のある外国人居留地などの建設が行われ,このような建造物の部材として赤煉瓦が導入されたのがきっかけです。
 国産初の赤煉瓦が生産されたのは,安政5(1858)年と考えられています。前年に起工した長崎製鉄所の建設のため,建設を監督したオランダ海軍の軍人ハルデスが瓦職人を指導し,生産したとされています。しかし,その煉瓦は現在の煉瓦に比べて薄く長い扁平な形(蒟蒻によく似た形をしていることから「蒟蒻(こんにゃく)煉瓦」と呼ばれています)をしています。
 一方,鹿児島で赤煉瓦が初めて生産されたのは,国産初の赤煉瓦が生産された7年後の慶応元(1865)年と考えられています。薩摩藩は,奄美大島で白糖工場の建設を計画し,アイルランド人技師のウォートルスの指導のもと,4つの工場を建設しました。金久(かねく:現奄美市)と須古(すこ:現宇検村)が慶応2(1866)年に,久慈(くじ:現瀬戸内町)と瀬留(せどめ:現龍郷町)は翌3(1867)年に完成しました。これら白糖工場の建築部材として,奄美大島で赤煉瓦が生産されたのが,鹿児島における赤煉瓦生産の始まりです。
 関東での赤煉瓦生産は,慶応2(1866)年の横須賀製鉄所建設,関西では明治元年(1868)年の造幣局(ぞうへいきょく)建設を契機として開始されたと考えられており,鹿児島はわが国の中でも早い時期に赤煉瓦生産が開始された地域であるといえます。

奄美大島に建設された4つの白糖工場の位置
久慈白糖工場が建っていた久慈湾

Ⅱ.奄美大島白糖工場の赤煉瓦の特徴

 平成27~29年度にかけて,鹿児島県教育委員会が実施した「かごしま近代化遺産調査事業」で,久慈白糖工場跡を発掘調査しました。発掘調査の結果出土した大量の赤煉瓦は,いずれも表面がくぼむという特徴があります。この特徴は,わが国初期の洋風建築に時折見受けられますが,類例は多くありません。また,刻印(「△」「□」「×」「-」「○」)が施されているものや,「九十」「八」「三百八十」などの数字が刻まれているものがあることも特徴といえます。
 なお,出土した赤煉瓦は以下の3種類に分けることができました。

  1. 煉瓦の表面が両面ともくぼんだもの。規格は長さ25.8㎝,幅12.8㎝,厚さ8.8㎝程度(推定値)。小礫をあまり含まず,精製した粘土を使用しており,比較的焼きが良く,堅緻。
  2. 煉瓦の表面が片面のみくぼんだもの。規格が長さ25.8㎝,幅12.8㎝,厚さ8.8㎝程度でAと同規模。
  3. 煉瓦の表面が片面のみくぼんだもの。規格が長さ23.8㎝,幅10.9㎝,厚さ6.2㎝程度とBに比べ,一回り小さいもの。久慈白糖工場跡で出土したイギリスもしくはイギリスの植民地で生産されたと考えられている耐火煉瓦(白煉瓦とも呼ばれ,「STEPENSON」,「COWEN」の刻印があるもの)と同規模。

 

 いずれの種類も長﨑の蒟蒻煉瓦より分厚い煉瓦です。特にAのような赤煉瓦は,奄美大島以外の日本国内で発見されていないことから,外国で生産された可能性が高いと思われます。類例としてイギリスなどで両面ともくぼんだ赤煉瓦があることから,それがイギリス植民地の拡大と共にアジアに伝来して奄美大島にもたらされたとも考えられます。つまり,Aの赤煉瓦は,ウォートルスの前任地であった香港や上海などで生産されていた煉瓦であり,見本として奄美大島に持ち込まれた可能性が最も高いと思われます。
 一方B・Cの赤煉瓦はAの赤煉瓦に比べ,奄美大島で産出する石材を多く含むことから,奄美大島で造られた赤煉瓦と考えられます。また,焼きが甘く,瓦職人などによる粘土精製技術も窺えません。奄美大島では高品質な煉瓦の焼成を行える瓦職人や原料の確保ができなかったという事情もあるのかもしれませんが,素人が見まねで製作した感が否めない煉瓦です。BはAの赤煉瓦の規格に,Cは耐火煉瓦の規格に合わせて,生産されたものでしょう。

久慈白糖工場跡で見つかった煉瓦積みの遺構
久慈白糖工場跡から出土した煉瓦
「COWEN」の刻印がある煉瓦
「×」や「〇」の刻印がある煉瓦

Ⅲ.赤煉瓦生産技術の拡大

 明治4(1871)年の久慈白糖工場の廃止をもって,奄美大島の白糖工場は全て閉鎖となり,奄美大島での赤煉瓦生産も行われなくなります。一方,奄美大島で白糖工場建設を指導したウォートルスは,明治元(1867)年に鹿児島を離れた後,明治政府のお雇い技師となり,大阪の造幣局の建設に携わりました。造幣局の建設には建築材として大量の赤煉瓦が必要でしたが,その当時の国内の煉瓦焼成技術や生産能力は未熟だったため,ウォートルス自ら指導し,堺や兵庫,広島などで赤煉瓦を焼成し,調達しました。この時に,奄美大島で赤煉瓦生産を指導した経験が,活かされたことは想像に難くありません。
 その後ウォートルスは東京に移り,明治4(1871)年に設置された大蔵省金銀分析所を手始めに,当時のビッグプロジェクトの一つでもある銀座煉瓦街の建設にも携わります。なお,これらの建造物に使用された赤煉瓦の規格は,長崎の蒟蒻煉瓦より,奄美大島で造られた上記Cの煉瓦の規格に近いものです。ウォートルスが奄美大島での経験を活かし,日本人の手の大きさに合う煉瓦の規格を採用したことが窺えます。
 さて,ウォートルスが去った大阪では,明治5(1872)年に元岸和田藩士山岡尹方(ただかた)により赤煉瓦製造が開始されました(岸和田煉瓦)。岸和田の赤煉瓦製造には,造幣局建設時にウォートルスが指導した赤煉瓦製造のノウハウが活かされたことでしょう。なお,この岸和田煉瓦には社印「×」が刻印されていますが,奄美大島の赤煉瓦に刻印されている「×」と非常に酷似していることも興味深いです。

Ⅳ.煉瓦を通じた奄美大島と大阪のつながり

 久慈白糖工場跡のある集落内には,明治28(1895)年に建設された赤煉瓦の構造物が残っています。佐世保海軍軍需部大島支庫跡です。この構造物に使用されている煉瓦は,関西系の煉瓦と考えられています。つまり,奄美大島での白糖工場閉鎖から20年以上の時を経て,奄美大島の赤煉瓦をルーツとした関西系の煉瓦が,奄美大島に建設された施設の構築材として里帰りしたともいえるでしょう。赤煉瓦を通して,奄美大島と大阪との不思議な縁が感じられます。

久慈の佐世保海軍軍需部大島支庫跡

文責 今村結記