鹿児島県上野原縄文の森 (公財) 鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター (公財) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター
MENU

鹿児島県立埋蔵文化財センター

鹿児島県上野原縄文の森 HOME 公財 鹿児島県文化振興財団鹿児島県上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター 公財 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター

第4回 鹿児島(鶴丸)城跡の瓦について

Ⅰ.鹿児島城の概要

 鹿児島城は鹿児島市城山町に築かれた島津氏の居城で,別名鶴丸城とも呼ばれています。城の範囲(城域)は黎明館・県立図書館のある場所だけではなく,西端は黎明館の背後にそびえる城山(上之山城跡),東端は外堀のあったみなと大通り公園,北端は国立医療センター,南端は照國神社や中央公園,山形屋のあたりまでが江戸時代における鹿児島城の範囲と考えられています。

 鹿児島城は初代薩摩藩主島津家久(忠恒)が関ヶ原の合戦直後の慶長6(1601)年頃に築城を始め,慶長末(1615年)頃にほぼ完成したとされています。城の正式な名称は鹿児島城で,「鶴丸城」の呼称は背後の城山の形が,鶴が舞っているように見え,鶴丸山と呼ばれたことにちなむと江戸時代後期の『三国名勝図会』に記されています。

 本来の鹿児島城は,背後の山城(上之山城)と麓の居館からなり,江戸時代前半の絵図では,山城部分の曲輪を本丸,二丸(二之丸)とし,麓の居館は居所(居宅)と記しています。江戸時代を通じて藩政の中心を担ったのは麓の居館部分で,江戸時代後半には,現在黎明館がある三方を石垣と濠に囲まれた藩主の居館を本丸,その西側を二之丸と呼ぶようになりました。また,天明5(1785)年から8代藩主島津重豪により,二之丸の整備拡大が図られました。

 その後,明治に入り,明治2(1869)年に知政所となり,明治4(1871)年の廃藩置県で12代藩主島津忠義が去るまで,270年余り島津氏の居城として,近世鹿児島の発展の中心でしたが,本丸や御楼門は明治6(1873)年の火災で,二之丸は明治10(1877)年の西南戦争で焼失しました。

 明治中期以降は,居館跡に中学造士館,次いで第七高等学校造士館が設立され,戦後は鹿児島大学の文理学部,次いで鹿児島大学医学部と移り変わり,昭和58(1983)年に黎明館が開館しました。

写真1 復元された御楼門

写真2 鹿児島城跡の空撮

図1 島津家久(忠恒)【尚古集成館所蔵】

Ⅱ.瓦の種類と特徴

 平成26年度から始まった発掘調査では,様々な種類の瓦が出土しました(写真3)。瓦は出土地点の近くの建物に葺かれていたものであったり,火災等で崩れた建物の瓦が寄せ集められて廃棄されたものと考えられます。御楼門跡周辺から出土した瓦は現代の瓦よりも一回り大きなものが多く,国内最大級の大きさと言われる御楼門に葺かれていた瓦と考えられます。

 瓦の葺き方には大きく「本瓦葺き」と「桟(さん)瓦葺き」の2種類があります。本瓦葺きは古代から続く古い瓦の葺き方で,丸瓦と平瓦を交互に重ねて葺く伝統的な手法です。一方,桟瓦葺きは江戸時代以降用いられた手法で断面形が「へ」の字になった瓦を重ねて(組み合わせて)葺く手法で,現代の屋根瓦にも多く用いられています。明治5年に撮影された鹿児島城の古写真を見ると,御楼門の瓦には本瓦を用いていますが,本丸屋敷の麒麟の間やサギの間には桟瓦が用いられているのが分かります(写真4,5)。屋根の最も低い部分(軒)には本瓦では軒丸瓦と軒平瓦,桟瓦では軒桟瓦とよばれる瓦当部分に文様を持った瓦が用いられています。出土した軒丸平の文様は,「連珠三巴紋」と呼ばれる全国的に普及した文様のものが多く,軒平瓦には「橘唐草文」と呼ばれる文様が多く出土し,この文様の種類や同じ型(同笵)などを調べることで製作時期や生産地などを推定することができます(図2-1~5)。

 その他にも,装飾瓦として鬼瓦や鯱(シャチ)瓦も出土しました。これらは建物の魔除けとしての意味を持ち,棟端に用いられます。本来は棟の端から雨水が入るのを防ぐ役割があるのですが,建物の目立つ場所にあるため,建物を象徴する意匠的な役割を持っているとも言えます。御楼門の壁には海鼠瓦という板状の瓦を多数用いていました。他にも鳥伏間(とりぶすま)瓦,熨斗(のし)瓦,小菊瓦等といった瓦も出土しています。

写真3 軒丸瓦,軒平・軒桟瓦,小菊瓦,鳥伏間瓦

 

写真4-1 明治初年の鹿児島城(鹿児島県立図書館所蔵)

写真4-2 本瓦葺き(鹿児島県立図書館所蔵,写真3-1の拡大)

写真5-1 島津御本丸池波畔景(鹿児島県立図書館所蔵)
写真5-2 桟瓦葺き(鹿児島県立図書館所蔵,写真5-1の拡大)

 

図2-1 A種(連珠三つ巴文)

図2-2 B種(牡丹文)

図2-3 C種(その他・図は花十字紋)

図2-4 軒平瓦

図2-5 軒桟瓦

Ⅲ.瓦当文様と刻印から見る生産と流通

 軒丸瓦,軒平瓦には連珠三巴紋(図2-1 A種)と橘唐草文以外にも様々な文様の軒瓦が出土しました。図2―2でB種とした牡丹紋や,図2-3のC種(その他)には花十字紋や桐紋等,出土数は少ないものの特徴的な文様の瓦が出土しました。よく知られている島津家の家紋は丸十紋ですが,当初の家紋はただの十字紋で,鹿児島城で出土した牡丹紋や桐紋も家紋として使っていたようです。牡丹紋は元々藤原家嫡流である近衛家の家紋で,近衛家と姻戚関係にあった島津家や上野松平家,伊達家,津軽家が使用していました。桐紋は御兵具所西側と昭和53年の本丸調査の際に出土していますが,牡丹紋に比べ希少な種類です。桐紋は足利幕府や豊臣秀吉が功績のあった家臣たちに使用を許したと言われる貴重な瓦で,中央との繋がりがうかがえる資料と言えます。

 軒丸瓦の中で,花十字紋と呼ばれる瓦が2点出土しました(図2-3 C類の文様)。これは鹿児島市が二ノ丸の調査をした際にも数点出土しており,非常に珍しい瓦です。十字の先端が花ビラのように開き,周囲を珠文が囲む文様で,一見,島津家の丸十紋のようにも見えます。鹿児島県以外では島原の乱でキリシタンが立てこもった原城跡や薩摩川内市の京泊から慶長14(1609)年に移築された長崎市のサントドミンゴ教会跡(勝山町遺跡)から多く出土しているため,キリスト教との関連がうかがえる資料と言えます。

 では,なぜ鹿児島城から出土したのかを考えてみると,島津家第15代当主の島津貴久は,天文18(1549)年に来日したフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教許可を出しています。しかし,豊臣秀吉の時代になり天正15(1587)年にバテレン追放令が出されキリスト教布教は禁止されました。また,初代薩摩藩主島津家久(忠恒)の義母にあたる永俊尼(カタリナ永俊)がキリスト教信者で,後のキリスト教弾圧の中,藩命を受けて種子島の西之表大長野に配流されたという記録があります。鹿児島城の近隣にキリスト教関連の瓦葺き施設が存在したのか,それとも花十字紋瓦を十字架やお守りのように扱っていたのか分かりませんが,当時の宗教観や政治的な背景を考える上で興味深い資料であり,遺構と併せて調査類例を待ちたいと思います。

 他にも,陶器(釉薬)瓦と呼ばれる,陶質で釉薬を塗った軒丸・軒平瓦,丸・平瓦が出土しました。この陶器瓦と類似したものが日置市東市来町にある堂平(どびら)窯跡からも出土しているため,陶器瓦の生産地の可能性があります。堂平窯跡は1620年代に始まり17世紀後半には閉窯したとされており,堂平窯出土の瓦は物原や瓦の調整痕から17世紀後半の所産と考えられています。鹿児島城の陶器瓦が同じものであれば,創建時ではなく城の建て替え時に使われたと考えられます。

 また,出土した瓦には屋号(生産者)や卸先(消費地)等を表したと思われる刻印も多く残されていました(図3)。「太喜」「太宗」「太左衛門」「河野」「上伊敷」「日置」などの他,「玉水堂」「山下小」などの文字がありました。これらの文字が表す意味や出土数量,他地域での出土例などを分析することで,当時の生産/消費地等の流通や社会情勢が見えてくる可能性があります。

図3 様々な刻印

Ⅳ.これからの鹿児島城

 これまでの発掘調査で,鹿児島城の歴史の一部分が解明されてきましたが,文献や絵図にも残っていない,説示できない課題も残されています。また,災害の多い日本列島において,今後地震や大雨などの自然災害により石垣や堀などが損傷を受ける可能性もあります。現代を生きる私たちは過去の教訓から学び,かけがえのない歴史遺産を守り,未来に伝えていかなければなりません。御楼門復元という歴史的転換期を迎えた現在,再度鹿児島城の持つ本質的価値や意義について調査・研究を進め,未来のまちづくりに活かしていきたいと考えています。

(鹿児島県歴史・美術センター黎明館提供)

文責 永濵功治