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照信院跡(曽於郡大崎町神領)の発掘調査

当センターでは,「廃寺は語る!よみがえる鹿児島の仏教文化」事業を実施しています。本事業では,廃仏毀釈で失われた寺院の発掘調査を実施することで寺院の状況を解明し,歴史的価値をよみがえらせ,調査成果を報告書にまとめる計画です。また,調査成果は学校での出前授業で活用して,児童生徒の郷土を誇り愛する心の醸成などに役立てることを目的としています。

本年度は,曽於郡大崎町に所在する「照信院(しょうしんいん)跡」 の発掘調査を行っています(調査期間:令和4年6月1日~28日)。 照信院は,和銅元(708 )年に修験道開祖役小角(えんのおづの)の弟子である義覚(ぎかく)がこの地にやってきて,飯隈山(いいくまやま)を開山し,新熊野三社権現を勧請し,本地阿弥・薬師・観音の三尊を安置したことが由来とされています。また,天平15 (743)年に聖武天皇の勅願所(ちょくがんじょ)の宣旨を受けたとも伝えられています。中世以降も京都天台宗聖護院(しょうごいん)や近衛家などの中央勢力や,島津各代の藩主と深く関わり南九州最大の修験道場として君臨したとされています。しかし,廃仏毀釈で飯隈山の寺院は破壊され,現在は,飯福寺照信院本社跡に熊野神社が残るだけです。

これまでの調査の結果,懸仏(かけほとけ)の一部と思われる青銅製の仏具,13世紀ぐらいの青磁(せいじ)や,近世の薩摩焼などが出土しています。また,写真のような小石が詰まったピット(穴)や,かまどと推定される痕,回廊(かいろう)のあったと考えられる付近に溝状の掘り込みが確認されています。

期間は残り少ないですが,発掘調査を進めさらなる実態解明を進めていきます。

 

※廃仏毀釈とは

江戸時代には,幕府の仏教保護政策の影響もあって,仏像をもって神体とする神社があるなど神仏混淆(しんぶつこんこう)の傾向がありました。幕末から明治時代はじめ,王政復古(天皇中心の政治へ戻すこと)によって祭政一致をめざす新政府は,明治元(1868)年神仏分離令を出し,神社からの仏教的色彩の払拭に努めました。鹿児島藩は神仏分離に止まらず,寺院・仏像の破壊,経典・仏具の焼却などの廃仏を断行し,鹿児島では,すべての寺院が破壊され,鹿児島の仏教文化は大きなダメージを受けました。

図1 照信院絵図(『三国名勝図会』国立国会図書館デジタルコレクションから転載 改変)

図2 小石が詰まったピット

図3 かまど状の遺構