Ⅰ 1点の壺
「大きな石かな」【写真2】これが,南摺ヶ浜遺跡で発掘調査の初日,作業員さんに掘り方の説明を終えて,掘削を開始してから5分ほどして出土した最初の遺物を見たときの感想でした。作業員さんが,「何か出てきた」と私を呼んでくれたのです。
遺物の形がわかるように,移植ゴテを使い周辺の土を少し掘り下げてみました。「やけにきれいな曲線だなぁ」手のひらで遺物の表面を触ってみます。「うん?これは土器ではないか」周囲の土を半分残して掘り下げてみると,横倒しになった土器が姿を現しました。 【写真3】「完形品だ!」
発掘調査では,完全な形で土器が見つかることはほとんどありません。手間暇かけて作った土器を壊れる前に捨てるなんてことは通常ないからです。完形品が出土する際は,何らかの意図を持って,掘った穴の中に埋めておいたものが見つかる例がほとんどです。
「周囲に穴が見つかるはずだ」周囲の土をきれいに掃除してみましたが,穴の痕跡を見つけることはできませんでした。「うーん。自然に埋まったのかな」とりあえず,作業員さんが土を掘る道具を山鍬から小さなねじり鎌に変更して,慎重に掘り進めることにしました。
ところが,その後,同じ層からは何も出てきません。平成17年度の調査で出土した古墳時代の遺物は,最初の5分で出てきた完形品の壺1点のみでした。その後,下の層から縄文時代や弥生時代の遺物が出てきましたが,私の頭の中は「???」クエスチョンマークだらけでした。
Ⅱ 大規模な墓地の発見
平成19年度,より海に近い隣接地発掘調査を行うことになりました。その頃の私は,南摺ヶ浜遺跡がある薩摩半島の対岸に位置する大隅半島の山の中で発掘調査をしていました。
そんな私のもとに「南摺ヶ浜遺跡で弥生時代の後半から古墳時代の大規模な墓地が見つかった」という連絡がきました。疑問は解けました。「そうか,あのときの土器は墓地の境にあったのか」墓地の主体部は,私たちが調査していたときには,まだ藪になっていた場所の下にあったのです。
Ⅲ 薩摩半島南部の埋葬習俗
現在は,人が亡くなると葬儀の後,火葬し骨を骨壺に収め,墓あるいは納骨堂などに納めるのが一般的です。人の死は,遙か昔から近親者にショックを与えたことでしょう。南摺ヶ浜遺跡は,3世紀後半頃から5世紀の中頃までの人々が,死者をどのように見送ったのかを教えてくれる貴重な遺跡です。
見つかった墓の種類は様々ですが,穴を掘って遺体を埋葬した土坑墓(72基),土坑墓の周囲に円形に溝を巡らす円形周溝墓(12基)【写真6】,甕棺墓(1基)や壺棺墓(16基)【写真7】などがありました。甕棺や壺棺として使われた甕や壺の多くには,1か所または2か所に小さな孔が穿たれています。通常の用途には使わないことを示す,葬送に伴う祭祀儀礼でしょう。甕棺や壺棺は口が小さく,亡くなった人の遺体を直接入れることはできないため,骨になってから入れて埋葬したと考えられます。壺棺のうち2基からは人骨がみつかっていますが,全体的に人骨の残りが良好ではないため,各甕棺・壺棺に何体分の人骨が入れられていたのか,はっきりしません。
また,墓標のような大きな板石(立石)【写真8】が,主に壺棺墓の周辺で見つかっています。土坑墓の周辺でも見つかっていますが,土坑墓の数と比べるとだいぶ少ない数でしかありません。板石(立石)を伴う土坑墓は,南摺ヶ浜遺跡から4kmほど離れた山川町(現指宿市)成川遺跡でも見つかっています。ちなみに成川遺跡は文化財保護委員会(現文化庁)が昭和33年に調査を行った遺跡で,その後の調査を含めて348体の人骨が見つかっています。
南摺ヶ浜遺跡で出土した土器は,甕や壺のほかに,葬送の際の祭祀やお供えに使われた長頸壺,高坏,鉢,蓋など多様であり,一般的な遺跡から出土する土器よりも作りが丁寧なことから葬送に使うために特別に作られたものであると考えています。磨製の石鏃や鉄鏃,鉄剣などの武器も供献されていました。
現在の南摺ヶ浜遺跡は,指宿市の温泉街から国道方面に向かう砂むし温泉道路の下になっています。目の前に海を望むロケーションは,今でも旅人の心を癒やしてくれます。ここに佇むと墓地を営んだ人々の気持ちが伝わってくるような気がします。
ちなみに,南摺ヶ浜遺跡の墓地は,数多くの火山を有する鹿児島県の遺跡らしく,薩摩富士と称される開聞岳から飛来した火山噴出物である紫ゴラ(9世紀),青ゴラ(7世紀)と暗紫ゴラ(弥生時代)の間にパックされて見つかっています。【写真11】
文責 寺原 徹
【参考】本遺跡の報告書(PDF)を,以下のリンクからご覧いただけます。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(144) 「南摺ヶ浜遺跡」