- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第10回 畿内勢力の浸透 - 1 飯盛山古墳
2 横瀬古墳
3 唐仁古墳群
4 塚崎古墳群
5 岡崎古墳群
6 小浜崎古墳群
7 指江古墳群
8 鳥越古墳群
9 脇本古墳群
10 船間島古墳群
11 弥次ケ湯古墳 - 【地図 南九州の古墳の様相・畿内型古墳の分布域と南九州の墓制】
- 3世紀末から4世紀に,土を高く盛り上げて造る高塚墳(たかつかふん)と呼ばれる大型の墓が,近畿地方を中心に盛んに造られるようになりました。これらの墓は,当時の権力者(豪族)(ごうぞく)が,他の豪族や人々に権力を示すために造らせたものです。円墳や方墳などいろいろある高塚墳の中でも,前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は,この時代(古墳時代)の代表的な墓です。大阪府にある大山古墳(だいせんこふん・仁徳陵)は,長さ約480メートル,幅約300メートル,高さ約35メートルもあり,世界でも類をみない大きさです。
高塚墳は近畿地方を中心に造られ始めたため,畿内型古墳とも呼ばれます。5世紀までには東北から九州まで分布するようになりました。この畿内型古墳の分布は何を意味するものでしょうか。
南九州の古墳文化の様相を紹介しながら,その意義について考えてみます。 - ■南九州の畿内型古墳■
- 南九州への畿内型古墳の伝播には,大きく2つのルートがあります。1つは,佐賀,熊本から薩摩半島西岸沿いに伝播してくるルート。もう1つは,宮崎から大隅半島東岸沿いに伝播してくるルートです。
薩摩半島西岸沿いの地域では,4世紀中頃にはすでに阿久根市に鳥越1号墳が築かれています。この鳥越1号墳は,初期畿内型古墳の様相を示し,3世紀末に成立した大和朝廷の影響が急速に南九州まで及んでいったという事実が伺えます。 - 【画像 大崎町 横瀬古墳】
- 大隅半島の志布志湾沿岸地域では,5世紀前半に志布志町のダグリ岬に飯盛山古墳(いいもりやまこふん)が築かれました。その後大崎町の横瀬古墳(よこせこふん),東串良町の唐仁大塚古墳(とうじんおおつかこふん)などの巨大な前方後円墳が築かれていきます。
しばし,この巨大前方後円墳に目を向けてみましょう。 - ■志布志湾沿岸沿いの古墳■
- 肝属川(きもつきがわ)流域の肥沃な沖積平野を背景に,この地域には古墳が集中し,鹿児島県内最大規模の前方後円墳が存在します。大崎町の横瀬古墳(国指定史跡)は,水田の中に全長132メートル,高さ約12メートルの優美な姿を見せ,周囲には幅12~23メートル,深さ約1.5メートルの濠(ほり)も確認されています。
墳丘(ふんきゅう)や濠からは,須恵器(すえき)や埴輪(はにわ)などの破片が発見されています。本県で埴輪を有する古墳は,現在のところ志布志町の飯盛山古墳とこの横瀬古墳だけです。須恵器は,韓国南部の伽耶系(かやけい)の陶質土器である可能性が高いと思われます。 - 【写真 大崎町 横瀬古墳】
- 横瀬古墳の西約4キロメートル,隣接の東串良町新川西に前方後円墳4基,円墳133基からなる県内最大の唐仁古墳群(国指定史跡)があります。
その中の大塚古墳(1号墳)は,全長180メートル,後円部の高さ約10メートル,九州でも最大級の前方後円墳です。大塚古墳の後円部墳頂は,大塚神社が建てられる時に削平されたと思われます。そのため,竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)の天井部が露出しています。石室内部には石棺(せっかん)が置かれ,棺外に短甲(たんこう)が副葬(ふくそう)されていました。5世紀中頃の古墳と考えられています。
この他,串良町の岡崎古墳群,高山町の塚崎古墳群(国指定史跡)があり,肝属平野を中心に畿内型の古墳が集中しています - ■薩摩半島西岸沿いの古墳■
- 薩摩半島西岸沿いでは,どのような様相が見られるのでしょうか。
前述のように,いち早く畿内型古墳が出現するのは,阿久根市の鳥越1号墳です。墳丘は削平され形状は不明ですが,竪穴式石室は九州第2位の大きさで,初期畿内型古墳の特徴を備えています。その後も5世紀中頃以降,長島の小浜崎古墳群や指江古墳群,阿久根市の脇本古墳群など,畿内型古墳がみられます。
このような畿内型古墳は,川内市までみられ(船間島古墳等),川内市がその南限とされていました。平成10年,これまでの認識を一変させる発掘が指宿市でありました。弥次ケ湯(やじがゆ)古墳です。この発見は,古墳文化の南限の見直しと,階層社会がすでにこの地域でも成立していたことを認識させるものでした。 - ■南九州の古墳の様相■
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地下式横穴墓
地下式板石積石室墓
立石土坑墓 - ここまで,畿内型古墳を中心に目を向けてきましたが,南九州では,畿内型古墳のほかに,地下式横穴,地下式板石積石室(ちかしきいたいしづみせきしつ),土坑墓(どこうぼ)等の埋葬(まいそう)形態があります。
畿内権力浸透の現れである高塚墳と,南九州独特の墓制である地下式横穴,地下式板石積石室は混在しています。このことは,大和政権の影響が南九州まで及んでいたにもかかわらず,その全てを受け入れたのではなく,南九州の古墳文化がこれまでの文化を踏襲した中に,大和政権の影響を受け入れる形で形成されたことも示しています。
南九州のある地域は早くから大和の文化を受け入れ,ある地域は最後まで抵抗をしたものと思われます。そこには,喜怒哀楽を伴った人々のドラマがあり,古墳は悠久の時間,これらのドラマを眺めつつも,「黙して語らず」。今後も世の移ろいを眺め続けるでしょう。 - 用語解説
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墳丘 墓に付属する盛土・積石などで,墓標としての性格とともに,遺体をおおう役割をもつもの。 須恵器 古墳時代から平安時代までみられる陶質土器の総称。
登り窯(かま)を用いて,約1,100度の還元焔(かんげんえん)によって灰青色に焼き上げる。埴輪 古墳の周りや上に置かれた素焼の土製品の総称。円筒形や家,動物,人などの形をしたものがある。 伽耶 紀元4世紀頃,朝鮮半島の南部に群拠した小国家群。
連合体をなしながらも一国にまとまることなく,新羅に征服され滅亡する。竪穴式石室 古墳の埋葬施設の一種。棺(ひつぎ)を設置したのち,四方に扁平な割石を小口積みにして壁を築き,その上に天井石をのせ閉鎖する。 短甲 胴部分のみを防御するための鉄で出来た甲(よろい) - (文責)大保 秀樹