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考古ガイダンス第12回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第12回 かごしまで焼かれた焼き物
  • ■焼き物でみる古代の鹿児島■
  • 遺跡を発掘して最も多く出土するモノが焼き物すなわち土器です。これらを分析することによって,当時の食卓にのぼった食器の種類がわかります。また土器をひとつの製品としてみれば,窯業生産と流通・消費という経済活動を知ることができます。このように土器から当時の食文化を知り,さらに当時の社会の側面をうかがい知ることができます。
    古代(奈良・平安時代-今から約1,300年から800年前)にかごしまで焼かれた焼き物は,須恵器(すえき),土師器(はじき),黒色土器,瓦です。
  • 遺跡分布図今回取り上げた主な遺跡
    1 岡野窯跡群 / 2 鶴峯窯跡群
    3 薩摩国分寺跡 / 4 中尾田遺跡
    5 宮田ケ岡瓦窯跡群 / 6 小瀬戸遺跡
    7 城山山頂遺跡 / 8 妻山元遺跡
    9 大隅国分寺跡 / 10 中岳山麓窯跡群
    11 榎崎A遺跡

    宮田ケ岡瓦窯跡
    【写真 宮田ケ岡瓦窯跡】
  • ■古代の食器■
  • 土師器・杯
    土師器・杯
    (口径14.8cm高さ4cm)
    須惠器・かめ
    須惠器・かめ
    (口径19cm高さ32.5cm)
    黒色土器A類・椀
    黒色土器A類・椀
    (口径15.6cm高さ5.5cm)
  • 当時,土師器,黒色土器,須恵器は日常的に使用された土器です。これらの土器は,その用途によって食膳具(椀,坏,皿,高坏),煮炊具(カメ,鍋),貯蔵具(壺,カメ),調理具(鉢)に分類され,多様な形があることがわかります。
    土師器とは古墳時代以降の素焼き土器の総称で,この時代のものは須恵器の形を真似た坏や皿などが薩摩・大隅といった国単位で製作されていたと考えられていますが,その窯跡は不明です。

    黒色土器は,土師器の表面を丁寧に磨いた後に表面を煙で黒く燻して仕上げる土器で,器の中だけを燻す内黒土師器とよばれるものが多く出土しています。

    須恵器とは,古墳時代中頃(5世紀中頃)以降,朝鮮半島から技術が伝来した焼き物です。整備された窯で1,100度以上の還元焔で焼成(焼き上げる時に酸素を供給しない焼き方)された焼き物です。色は青灰色のものが多く,釉薬はかけていません。古墳時代は大阪・陶邑(すえむら)窯群などで焼かれたものが移入されています。古代になると,熊本の荒尾窯などで焼かれた製品も移入されていますが,鹿児島でも窯が整備されて生産されるようになりました。
  • ■かごしまの須恵器生産窯■
  • 三か所の窯跡が知られています。操業期間や器種に差異があります。

    鶴峯3号窯(川内市中郷町鶴峯)
    昭和41年,1・2号窯跡(瓦窯)とともに県内で初めて発見された須恵器窯で,フタ,椀,カメが出土しています。8世紀代に操業していたものと考えられています。

    岡野窯跡群(伊佐郡菱刈町田中岡野)
    昭和57年,林道の工事中に発見されました。工事によってかなり破壊されていましたが,5基ほどが存在したものと推定されました。うち4基が発掘調査され,8世紀末から9世紀前半にかけ て,坏,椀,鉢,盤,壺,カメが作られました。

    中岳山麓古窯跡群(日置郡金峰町花瀬)
    昭和59年,地元在住の諏訪下忠雄氏によって発見され,上村俊雄氏(鹿児島国際大教授・考古学)らによって確認された窯跡群です。発掘調査はなされていませんが壺,カメのほか焼台といった窯道具が採集されています。製作技法は熊本県荒尾窯群との関連が深いとみられています。

    9世紀後半以降のかごしまの須恵器生産は食膳具が生産されなくなり,壺やカメだけが生産されました。大きく硬い須恵器の貯蔵具だけ需要があったようです。それを補うように土師器の食膳具の量が増えていきました。
  • 国分寺の屋根を飾った瓦
  • 薩摩国分寺創建時の軒丸瓦古代の瓦生産は,須恵器の製作技術を基礎にしています。そこに瓦の技術と仏教の思想が伝来し,飛鳥寺など寺院建立を期に本格化しました。さらに8世紀中頃以降,全国に国分寺・国分尼寺が建立され,これに伴ない全国に瓦生産が広がっていきました。現在瓦は一般的ですが,当時は官衙(役所)あるいは寺院で使用される特別なものでした。古代の瓦は,型に布を敷いてその上に粘土を置き,叩いて型に広げ仕上げます。布目がつくので布目瓦ともよばれています。
  • 【図 薩摩国分寺創建時の軒丸瓦(拓本と断面図/川内市教育委員会)】
  • ■かごしまの古代瓦窯■
  • 発掘された宮田ケ岡3号瓦窯跡二か所の瓦窯跡が知られています。

    鶴峯瓦窯跡群(川内市中郷町鶴峯)
    薩摩国分寺跡から北東へ1キロメートルの地点に位置しています。昭和41年,2基発掘調査されました。その結果ここで8世紀後半以降,薩摩国分寺を創建するために瓦が生産されたことがわかりました。また,肥後国分寺や大宰府で出土する瓦に類似するものがあることから,操業するにあたって北部九州から工人集団が移住したと考えられています。1基は焼成部に瓦がつまったままの状態で発見され,平瓦320枚,丸瓦140枚,計460枚が一度に焼かれたと推定されています。
  • 【写真 発掘された宮田ケ岡3号瓦窯跡】
  • 宮田ケ岡瓦窯跡群(姶良郡姶良町船津)
    昭和45年九州縦貫自動車道建設に伴う分布調査の際に発見され,姶良町は平成8年から史跡整備を目的とした発掘調査を実施しました。3基が発掘調査され,軒丸(のきまる),軒平(のきひら),丸,平,のし瓦などが出土しまし た。文献により8世紀後半から9世紀前半に操業していたと考えられています。
  • ■消費地を追及する■
  • これらの窯で生産された須恵器や瓦はどこで消費されたのか?この問いに対して,考古学ではまず生産地と消費地とのモノの類似性(形・文様・作り方=製作技法)に注目します。さらに,胎土分析(蛍光X線分析)という理化学的な技術を用います。この分析は試料にX線を当て,その際に発生する蛍光X線(元素によって異なる)を計測するものです。試料に含まれるルビジウム,ストロンチウムなどの元素量を調べて,この元素比率を生産窯と消費遺跡との間で比較したり相違をみたりします。

    さて,宮田ケ岡瓦窯群の製品については同じ大隅国に所在する大隅国分寺との関連が以前から指摘されていました。胎土分析の結果,宮田ケ岡瓦窯群の瓦は大隅国分寺(霧島市),小瀬戸遺跡(姶良町)へ供給されたことが推定されました。宮田ケ岡と大隅国分寺は直線距離でも約15キロメートルありますが,宮田ケ岡は別府川に近いことから,水運を利用したのではないかと想像されています。

    須恵器の胎土分析では岡野3号窯の製品が中尾田遺跡(横川町)や城山山頂遺跡(霧島市)へ,中岳山麓窯跡群の製品は妻山元遺跡(霧島市)に供給されたと推定されました。霧島市内の近い位置にある遺跡間でこのような結果が出たことは当時の流通を考える上で重要なことでしょう。
  • (文責)中村 和美