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考古ガイダンス第15回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第15回 “残された”鹿児島の大貝塚
  • ■-柊原(くぬぎばる)貝塚が語りかけるもの-■
  • その神社は,白っぽい小さな丘の上に建っていました。よく見ると丘のあちこちに貝殻がみえます。というよりも,丘そのものが貝殻でできているようです。土器の破片や骨のようなものも落ちています。神社はなんと「貝塚」の上に建てられていたのです。
    以前に筆者が,某県のとある縄文貝塚を探し歩いたときの話です。それは家々の間に突如として出現し,まるで現代人の生活の中に溶けこんでいるかのようでした。
    「ゴミ捨て場」,あるいは「古代のタイムカプセル」。教科書にのっている貝塚のイメージはさておいて,まずは身近なところから話を始めましょう。
  • 縄文時代後期の主な貝塚(3,000年-4,000年前)
  • 縄文時代後期の主な貝塚分布図1
    縄文時代後期の主な貝塚分布図2
    奄美大島
    縄文時代後期の主な貝塚分布図3
    喜界島
    縄文時代後期の主な貝塚分布図4
    徳之島
    1 江内 / 2 出水 / 3 麦之浦 / 4 石間伏 / 5 尾賀台
    6 市来 / 7 武 / 8 光山 / 9 草野 / 10 大泊
    11 宇宿 / 12 伊実久 / 13 喜念 / 14 面縄

  • ■眠る大貝塚を探せ■
  • 空からみた柊原貝塚垂水市柊原(くぬぎばる)の海岸沿いの平地一帯は,古くから“貝殻の産地”として知られ,江戸時代の観光ガイドブック『三国名勝図会』(さんごくめいしょうずえ)にも「古来これを取れども尽きることなし」と書かれています。地元でも,大正時代頃まで肥料などに用いる貝灰を製造していたほどです。
  • 【写真 空からみた柊原貝塚】
  • 「どこかに大貝塚が眠っているのでは?」と誰かが考えても不思議ではありません。大正3年,N.G.マンローというイギリス人の学者が実際に発掘調査を行い,土器を採集したという記録があるものの,はっきりした貝塚の場所などは長い間謎に包まれていました。
  • ところが近年になり,柊原沿岸に残るJR旧大隅線跡を農免農道として整備する計画が浮上し,平成7年度と平成9年度に発掘調査が行われたところ,ついに“それ”は姿をあらわしました。

    そこは柊原地区でも南のはずれで,ちょうど台地が切れて平地が広がる部分にあたり,かつては小さな入り江であったことを想像させるような地形です。土地の人は昔から「塚」と呼んでいたといいます。発見された貝塚の面積は約500平方メートルで厚さは約1メートル,地面に盛り上げるように築かれていました。周囲の畑部分や大隅線造成時に削られたと思われる部分も計算にいれると,実際の大きさは2倍近いものと想定できます。全国的にみても大規模で,これまで県内で発見された貝塚のなかでも最大級といえるでしょう。
  • ■タイムカプセルの中身■
  • 埋葬された縄文時代後期の人骨では柊原貝塚の中をのぞいてみましょう。貝殻のカルシウム分でアルカリ性に保たれた内部は,酸性の土やバクテリアの浸食から守られた天然の保存カプセルです。
    まずは食料から。
    貝の量・種類は豊富ですが,他の遺跡と比較して巻き貝の割合が高いことが特徴です。動物ではイノシシ・シカが圧倒的で,オオカミ・ツキノワグマなど珍しいものもみられます。
  • 【写真 埋葬された縄文時代後期の人骨(20歳前後の男性)】
  • また,南九州では初めて「埋葬された可能性があるイヌの遺体」が発見されたことが話題になりました。糞石(ふんせき)と呼ばれるウンコの化石の中からは,タイ類やイワシ類などの骨が出てきました。植物ではドングリ類が多く食べられていたようです。
  • 市来式土器次に生活用品をみてみましょう。
    貝層中にみられる土器は,市来式(いちきしき)土器など縄文時代後期中ごろのものが主体であることから,この貝塚が約3,500年前に形成されたことがわかりました。

    石斧(いしおの)や石錘(せきすい)・骨製釣り針などの実用品も多いですが,やはり貝輪(かいわ)・骨製髪飾り・牙製首飾りのように細工の施された装飾品の数々は,柊原人の感性がじかに伝わってくるようで興味深いものがあります。
  • 【写真 市来式土器】
  • 細かな装飾が施された骨製髪飾り軽石製岩偶当時の精神生活を物語る遺物にも注目です。軽石に線を刻んで人体あるいは性器を模したと考えられている岩偶(がんぐう)が,これまでになく大量に出土しています。また,動物の姿をかたどった獣形土製品(じゅうけいどせいひん)は県内で初めての例です。これらのものに,人々はどんな祈りや想いをこめたのでしょうか。さらには埋葬人骨も5体出土しています。発掘作業員は常に塩を身につけ,調査に臨んだといいます。
    【写真左:細かな装飾が施された骨製髪飾り(髪針) / 同右:軽石製岩偶 赤い顔料が塗られたものもある】
  • このように貝塚の中身を調べることで,当時の生活の様子や自然環境など多くの情報を得ることができます。そして私たちは,そこが単なるゴミ捨て場ではなく,現代人が失いつつある「役目を終えたものに対する畏敬(いけい)の気持ち」が込められた場所であることを知るのです。
  • ■海を渡った?柊原(くぬぎばる)人■
  • 舟形軽石製品柊原貝塚が形成された縄文時代後期,南九州の貝塚数はピークを迎えました。代表的な遺跡として,出水市出水貝塚・市来町市来貝塚・川内市麦之浦(むぎのうら)貝塚などがあげられます。

     なかでも錦江湾を隔てて柊原のほぼ対岸に位置する鹿児島市草野貝塚は,土器や軽石製岩偶・骨製髪飾り・舟形(ふながた)軽石製品など,出土遺物に柊原貝塚と共通するものが多くみられます。
  • 【写真 舟形軽石製品】
  • まるでお互いひんぱんに行き来していたかのように。それが事実ならば,まさに垂水フェリーのルーツといえますね。
  • この両遺跡に共通してみられる市来式土器は,遠く五島列島や沖縄本島にまで出土例があります。この土器を残した人々は,舟を操って果敢に大海原へと挑んだ海洋民であったのでしょうか。残念ながらどの遺跡からも舟は発見されていません。あるいは,木製の舟は腐って残らなかったのかもしれません。ただ,舟の形をした軽石製品の存在が私たちの想像力をかき立てるのです。
  • ■失われゆく,残された貝塚■
  • 現在コンクリートの岸壁によって,海岸線や干潟など人間と海との接点が確実に失われつつあります。遺跡としての貝塚の多くも,他の遺跡と同様に発掘調査終了後には消えていく運命です。貝塚は自分たちの祖先が生きていくために「豊かな海」と積極的な関わりを持ってきたという確かな記録です。私たちはまるで,海に関わる未来と過去を同時に亡くしているかのようです。
    整備された柊原の農道を走ってゆくと,遺跡名を記した標柱が立っているのがみえます。実はこの道路下には,その重要性から埋め戻しという極めて異例の措置がとられた大貝塚が,今再びの眠りについています。
    残されたものの意味や意義をどのように後世へと伝えていくのか,すべては私たちの手に委ねられています。

    再び白っぽい小さな丘にもどりましょう。
    貝殻を踏みしめながら歩いていると,縄文土器だけでなく古墳時代の土器や江戸時代の茶碗など,いろいろな時代のカケラがみつかりました。ジュースの空き缶までもが捨てられています。縄文時代に生まれたこの貝塚は,今もなお現代人の生活の中で生き続けています。そう考えると急にこの遺跡が身近に感じられ,少し明るい気持ちで帰路につきました。
  • 【写真提供・垂水市教育委員会】
  • 用語解説
  • 石錘 石の隅を打ち欠いて作った,漁猟に用いられたと考えられる錘(おもり)
    貝輪 貝をくり抜いて作った腕輪。遺体の副葬品として出土することもある。
    岩偶 石や軽石を彫り込んで作られた人や動物などの偶像。
    畏敬 相手を「おそれ」「うやまう」気持ち。
  • (文責)今村 敏照