- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第17回 海や山へ広がる縄文人の活動 - ■4,000年前の人々とは■
- 今から約4,000年前の縄文時代後期の人々とはいったいどんな人々だったのでしょうか。実は,現在の私たちととても深い関係にある人たちなのです。
4,000年前というと想像もつかないほど昔のことのような気がしますが,自分自身の先祖をさかのぼっていくと,3世代で約100年経つことになります。同じように考えていくと,30世代で1,000年,4,000年前だと現在の私たちのおよそ『120世代前の祖先の生きた時代』と考えることができます。 - 【写真 山ノ中遺跡全景】
- それでは,120世代前つまり,縄文時代後期の人びとの生活を山ノ中遺跡(鹿児島市西別府町)を中心にのぞいてみることにしましょう。
- ■幅広い交流範囲■
- 山ノ中遺跡からは,縄文時代後期前半(約3,800年前)の指宿式土器を中心とする土器が大量に出土しました。それ以外にも,開聞岳周辺で作られたと推定される土器の表面が紫色を帯びた土器や,出水地方で作られたと推定される粘土に滑石を含むもの,志布志湾沿岸でよく見られる貝殻を使った口縁部を廻る刺突文が施された土器等も出土しています。
- 【イラスト 各地域の3,800年前頃の土器:右から堀之内Ⅱ式土器・松ノ木式土器・指宿式土器】
- さらに,南九州以外の地域で作られたと考えられる「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)も出土しています。磨消縄文土器は,初めに縄文を施し,その上から沈線等で区画を加え,区画外の縄文を磨り消して文様を描くもので,縄文時代中期後半(約4,200年前)以降になってから日本全国に普及したものです。南九州では,指宿式土器の頃から(約3,800年前)磨消縄文の影響が見られます。
- 山ノ中遺跡で出土した磨消縄文土器は,高知県長岡郡本山町の松ノ木遺跡から出土したものと文様の描き方・形・材料に使われた粘土等類似しています。縄文人の交流の深さが指摘されています。
また,鹿児島県の縄文後期前半の遺跡を見てみると,薩摩半島よりも大隅半島に多くの遺跡があったことがわかっています。特に曽於郡内だけで66か所の遺跡が周知されており,これは県内全体の40%近くを占めています。関東地方に初源のある磨消縄文土器が瀬戸内地方や四国を経て南九州に波及してくるときに大隅半島側がその受け入れ口になったのではないかと考えられています。 - ■肉より木の実が好きだった?■
- 縄文時代は弓矢を使って動物を捕り食料等にしていたと考えられるため,各々の遺跡においても多くの石鏃(せきぞく)が出土していますが,山ノ中遺跡では少々様子が違っています。
【写真 出土した磨製石斧と現代の斧】
例えば,石鏃や動物をさばくための石匙(いしさじ:小型のナイフのような石器)は合わせて10数点しか見つかっていないのに対し,木を切り倒したり加工するための磨製石斧(ませいせきふ)が約200本,木の実をすりつぶしたりするための道具である石皿や磨石(すりいし)や敲石(たたきいし)も多く発見されました。これらの道具は,そのほとんどが完形品ではなく,割れた状態のものであることからこの場所で使用されていたと推定されています。 - 縄文時代の人びとは狩猟・採集をして暮らしていたといわれていますが,山ノ中遺跡では狩猟よりも採集の方に重きをおいていたようです。
これはこの時期に一般的な傾向だったのか,それとも山ノ中遺跡だけのものなのかは他の遺跡と比較しながらその理由を考えていかなければなりません。
- 【写真 山ノ中遺跡出土の土器・石皿・石斧等】
- 当時の生活の様子を知る手がかりとしてゴミ捨て場は貴重な存在です。山ノ中遺跡の地形を見てみると,住居跡が見つかっている北側は平坦地になっているのに対し,土器や石器が大量に出土した場所は急な谷になっています。
- このような遺跡の在り方は,鹿児島市草野貝塚や志布志町中原遺跡とよく似ています。草野貝塚は海に近く,貝をたくさん食べ貝殻を捨てたのでゴミ捨て場は貝塚となりましたが,山ノ中遺跡や中原遺跡は海から遠く貝はほとんど食べていなかったために貝塚として残るにはいたっていません。しかし,「土器廃棄場」と呼ばれる大量の土器が発見される場所があるのです。
- 【写真 土器廃棄場の検出状況】
- この土器廃棄場の土器がより完形に近い形で捨てられていることから,採集した木の実をすりつぶし,土器の中に水を入れ沈殿・乾燥させ,土器の底にたまったデンプンをかき出すのではなく,土器を割ってデンプンを取り出し,不要になった土器を谷部に捨てたのではないかという説もあります。
- 秋には木の実を拾い集め,冬の食料のために穴を掘って保存したり,竪穴住居の中で石皿や磨石を使って木の実をすりつぶしていたのではないでしょうか。
身近な自然の恵みを糧(かて)に様々な工夫を凝らし,幅広い範囲の人々と交流をもちながら生活していた私たちの祖先の生活に想像をめぐらせば興味も尽きませんね。 - (文責)高岡 利也