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考古ガイダンス第2回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第2回 国家形成と仏教
  • 遺跡位置図以前,テレビなどでお地蔵様の首がなくなるというミステリアスな事件が報道されたことがありました。鹿児島の寺・寺跡では,腕や首のない仁王像を見かけることがあります。これは失敗作やいたずらによるものではありません。

    今から130年ほど前,明治政府が出した神仏分離令(しんぶつぶんりれい)を機会に,寺や仏像が取り壊されたからです。明治政府に鹿児島出身の高官が多かったため,鹿児島では特に徹底していました。しかし,過去にさかのぼれば政府により仏教が手厚く保護されていた時代もありました。

    朝鮮半島から仏教が伝わり火葬の風習やその他新しい文化が広まりました。政府は社会の不安や動揺を仏の力で鎮めるため仏教を保護し,寺や僧侶らを管理しました。
  • 741年に聖武天皇(しょうむてんのう)は東大寺を総本山とする国分寺・国分尼寺を建設せよと命令しました。これを受けて,鹿児島にも薩摩国,大隅国,タネ嶋の三か所に国分寺・国分尼寺が建てられたのです。
  • 薩摩国分寺復元予想模型川内高校裏門から踏切を渡って北へ延びる道が,奈良・平安時代のメインストリートでした。歩いてみると昔ながらの細い道は古代の条里(土地区画)の跡を残していますし,付近の畑には土器や瓦のかけらも落ちています。

    このメインストリートの中央あたりが,古代の役所「国衙正庁」(こくがせいちょう)跡です。そして突きあたりを右に曲がると「薩摩国分寺」です。国分寺のある台地からは市街化した川内平野がよく見渡せます。聖武天皇の言った「必ずよい場所を選んで建てるように」にふさわしい場所でした。
  • 【写真 薩摩国分寺復元予想模型/『薩摩国分寺跡環境整備事業報告書』川内市教育委員会より】
  • 国府と国分寺跡発見のきっかけを作ったのは,川内高校の平田信芳(ひらたのぶよし)教諭と郷土史研究クラブの生徒達でした。彼らはまず,川内高校周辺の字絵図をつなぎ合わせ,実際にその現場を歩いて土器や瓦の落ちている場所を調べていきました。すると薩摩国府の碁盤(ごばん)の目状の土地区画が絵図上に浮かび上がり,遺物の出る範囲と一致しました。
  • 昭和39年には川内高校の名で発掘調査が行われ,国府に関係する建物跡を発見しました。この実績が鹿児島県や県内の考古学者を動かし,県教委主体の調査が始まりました。鹿児島県で初めて行政が乗り出した調査でした。そしてついに平田教諭らは国分寺金堂を掘り当てました。
    これまでの調査から,国分寺の範囲は,南北120~132メートル,東西121メートルで四方を大溝が,その外側に大垣が廻っていたことがわかりました。建物は中門,中金堂,講堂を中軸線上に置き,回廊の東に塔,西に西金堂が配されており,大和の川原寺の類型といわれています。

    薩摩国分寺が建てられたのは,文献の研究から奈良時代終末ころだと考えられています。発掘調査で出土した瓦の年代からも裏付けられています。薩摩国分寺は他国に比べて少し遅れて建てられたようです。しかし,都から遠く離れた国分寺としての実情や,実際に国分寺を経営していた役人の動向はわかっていません。
    現在は史跡公園として整備され,市民の憩いの場となっています。中に立ってみると華やかな国分寺の姿が目に浮かぶようです。
  • 史跡公園として整備された薩摩国分寺跡
    史跡公園として整備された薩摩国分寺跡
    『薩摩国分寺跡環境整備事業報告書』
    川内市教育委員会より
    薩摩国分寺より出土した瓦の文様のいろいろ
    薩摩国分寺より出土した瓦の文様のいろいろ
    『薩摩国分寺跡環境整備事業報告書』
    川内市教育委員会より
  • 大隅国分寺に残る康治元年銘の石造六重層塔と仁王像休日には家族連れでにぎわう城山公園を下り数百メートル歩くと市公民館が見えてきます。この敷地内に石塔と首・腕のない仁王像などがひっそりと残っています。この一帯が大隅国分寺跡と言われています。

    残念ながらここに国分寺の伽藍(がらん)があった当時の面影を見ることはできません。ここは,国の史跡「名勝天然記念物」として指定を受けています。

    これまで数回の調査が行われ,北端と思われる溝跡や瓦の集中区などが見つかりましたが,まだその範囲や伽藍配置などはわかっていません。

    多数出土する軒丸・軒平瓦は4種類あり,日向国分寺のものに似ています。
  • 【写真 大隅国分寺に残る康治元年銘の石造六重層塔と仁王像】
  • 大隅国分寺を建てるに当たっては日向国の援助と影響を受けたものと考えられます。平成12年度から霧島市教育委員会により重要遺跡確認調査が行われており,今後,大隅国分寺について研究が進んでいくことでしょう。
  • 蔵骨器の出土状況(財部城ヶ尾遺跡)タネ嶋の国分寺については,その位置,規模ともに全くわかっていません。
    鹿児島の国分寺・国分尼寺についてはいまだ不明な部分が多く,これからの発掘調査や文献の研究によって新しい事実が解明されていくことでしょう。

    信仰心の薄れてしまった現代の私たちには想像もつかないかもしれませんが,仏教は国分寺の建設の他に,人々の思想や文化などにも大きな影響を与えました。
  • 【写真 蔵骨器の出土状況(財部城ケ尾遺跡)】
  • 火葬の風習もその一つであり,鹿児島では蔵骨器(ぞうこつき)の出土にあらわれています。蔵骨器には土師器(はじき)のカメや須恵器(すえき)の壺が使用され,土師器や須恵器でフタをします。中には軽石や自然礫(れき)でフタをする場合もあります。最近調査された財部城ケ尾(たからべじょうがお)遺跡では,土師器椀でフタをした須恵器の蔵骨器が出土しました。蔵骨器の中には焼骨と炭がおさめられていましたが性別等はわかりませんでした。当時は,現在のように火葬が一般化していないため,火葬されるのは高貴な身分の人に限られていたようです。もしかしたら国分寺建設に力を尽くした仏教をあつく信仰する有力者だったかもしれません。
  • 用語解説
  • 神仏分離令(しんぶつぶんりれい) 政府が神道国教化のため神社を寺院から独立した。
    国分寺・国分尼寺(こくぶんじ・こくぶんにじ) 国家の平安を祈るために国ごとに建てた寺。
    国府(こくふ) 国の役所があった場所。
    伽藍(がらん) 塔・金堂・講堂など寺院を構成する建物。
    蔵骨器(ぞうこつき) 洗骨あるいは火葬骨を納める容器。
  • (文責)有馬 孝一・切通 雅子