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考古ガイダンス第21回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第21回 定住生活の始まり
  • 霧島市の上野原遺跡は,縄文時代早期前半(約9,500年前)の大規模な集落で,当時の南九州の独特な文化を垣間見ることができます。このような集落をつくって長く住む「定住生活」と,それにまつわる様々な文化は,いつどこでどのように始まったのでしょうか。
  • ■変わりゆく風景■
  • 縄文時代草創期の主な遺跡今のところ「定住生活」は,縄文時代草創期(そうそうき)と呼ばれている約13,000年前から約10,000年前の間に始まったと考えられています。

    このころは,氷河が大陸を覆う寒冷な気候(氷期:ひょうき)から温暖な気候(間氷期:かんぴょうき)へと変わりつつありました。氷河がとけるにつれ,大気は暖かく湿り気を帯びはじめました。大気の変化によって暖かくなり雨が多くなった大地では,落葉広葉樹(らくようこうようじゅ)の森が生まれ木の実を実らせるようになり,氷河期にいた大型の動物にかわって小型で敏捷な動物が姿を見せるようになりました。またかつて草原だった土地は浅い海になり,魚や貝などの姿が目立ち始めました。
  • 【地図 遺跡位置図:1 瀧之段遺跡,2 向栫城跡,3 掃除山遺跡,4 栫ノ原遺跡,5 東黒土田遺跡】
  • このようにめまぐるしく変わっていくまわりの自然環境に適応し生き残るため,列島各地の人々はそれまでの暮らしを変え始めた。他よりもいくぶん早く変化が始まっていたと考えられる南九州にいた人々もこうした行動をおこしていたに違いありません。
  • ■定住生活への道のり■
  • 志風頭遺跡の土器新たな環境のもとで,狩りの道具に変化が現れました。

    今までの槍に変わり,弓矢が発明されたました。腕力頼みのうえに枝が茂る森の中で充分に振りかぶれない槍にくらべて弓矢ははるかに小型で,しかも弓の張力を使って矢を速く強く遠くまで飛ばすことができました。きっと森の小動物でも確実にしとめられたことでしょう。
  • 【写真 志風頭遺跡の土器[口径約42cm・深さ約27cm](出典 加世田市教委)■
  • 次に土器が発明されました。人々は土器を使って,森に豊富にある木の実や草の新芽や根っこなどを煮炊きして食べることができるようになりました。
    「人類が利用した初めての化学変化」ともいわれる土器は煮炊きの技術を可能にさせ,食べ物の種類を飛躍的に増やした画期的な道具だといえるでしょう。
  • 加栗山遺跡の石皿土器の利用により,人間の食べることのできる植物が増え,確保が楽になり栄養のバランスもよくなりました。また柔らかく煮ることで老人や子供や病気の人などにも食べやすくなり,集落が移動せず落ち着いて暮らせるようにもなったのです。


    【写真 加栗山遺跡の石皿[長さ40cm・厚さ約9cm]】
  • これらの技術を採り入れた南九州の人々は,とくに木の実などを主食とする暮らしを始めたようです。このことは出土する土器や,木の実などをすりつぶす道具とされている磨石や石皿などが他よりも多く出土することからもわかります。
  • その上,人々は「煙道付炉穴(えんどうつきろあな)」や「配石炉(はいせきろ)」という画期的な施設も生みだしています。前者は薫製を作っていたかもしれない施設で,肉類など腐りやすい食料の保存法をよく知っていたことが推察され,後者は火の熱を効率的に使う施設の可能性が考えられています。
  • そして,人々は森のそばの適当な土地に「竪穴住居(たてあなじゅうきょ)」を建てて集まって暮らすようになり,「定住生活」を始めたのです。では,県内各地にある草創期の主な遺跡をごく簡単に紹介しましょう。
  • 約11,000年前の集落・掃除山遺跡鹿児島市の掃除山(そうじやま)遺跡は当時の様子がよくわかる代表的な遺跡で,竪穴住居や煙道付炉穴,配石炉などがあり多量の土器と磨石・石皿が出土しました。加世田市の栫ノ原(かこいのはら)遺跡は,竪穴住居こそ発見されていないものの,掃除山遺跡とよく似た施設や多量の土器・石器が出土しました。

    【写真 約11,000年前の集落・掃除山遺跡(出典 鹿児島市教委)】
  • 栫ノ原遺跡の配石炉弓矢に使う矢じり(石鏃:せきぞく)は,市来町の瀧之段(たきのだん)遺跡や東市来町の向栫城跡(むかいがこいじょうあと)で多量に出土しています。また,志布志町の東黒土田(ひがしくろつちだ)遺跡では木の実がつまった土坑が発見されています。この他,種子島にも同じような遺跡があります。

    【写真 栫ノ原遺跡の配石炉(出典 加世田市教委)】
  • 当時は定住地を決めてそこで一生暮らすのではなく,ある程度の広さを持った地域内にいくつかの定住地点をかまえ,周辺の森で木の実などを採ったり狩りをしたり,川や海で漁をしたりしていたと考えられています。今のところ,これが草創期の「定住生活」のありかたと考えられていて,特に南九州では森という環境により適応した「定住生活」を築いたようです。
  • (文責)横手 浩二郎