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考古ガイダンス第23回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第23回 大隅諸島・南西諸島の旧石器時代文化
  • ■日本列島の旧石器文化の系譜を考える■
  • 1967年に沖縄で旧石器時代の港川人の化石人骨が発掘されましたが,石器は確認されていません。したがって、港川人の文化はいまだに不詳です。次に,沖縄につながる大隅・奄美諸島に旧石器が出土するようになったのはつい最近のことです。1986年の奄美大島の土浜ヤーヤー遺跡の発掘調査などに始まり、1990年代になると幾つもの遺跡で旧石器が発見されるようになりました。それは日本列島の文化の起源にもかかわることで、注目すべき問題です。
  • ■種子島の三万年を超える遺跡■
  • 礫器
    礫器
    敲石
    敲石
  • 種子島の横峯C遺跡では1992年の発掘調査で縄文時代早期層の1.2m下の地層から偶然にも礫群が発見され,その中の炭を年代測定した結果,3万年を超える「日本最古の礫群」として全国的に報道されました。これより種子島では,AT火山灰よりさらに下の種4火山灰といわれる火山灰層の下部が発掘調査対象となり,立切遺跡の発見へとつながりました。立切遺跡は1997年に農道を整備したときに発掘調査され,日本で「最古の生活跡」として全国的な話題となりました。調理に使われたと考えられている礫群が1基,食べ物や石器などを貯蔵したと考えられる土坑が2基,たき火などした焼土が14ヵ所検出されました。

    横峯遺跡は種4火山灰を挟んで上下に礫群があり,AT火山灰直上で土坑が検出されました。いずれも旧石器時代のもので,AT下位で2枚,AT上位で1枚の3文化層が存在しています。また種3火山灰と種4火山灰の間からは敲石が出土し,種4火山灰とAT火山灰の間では台石・敲石・磨石・礫器などが出土しています。さらに種4火山灰の下から,多数の磨石・砥石のほかに局部磨製石斧・打製石斧・スクレイパーなど他の石器も少数出土しています。
  • 横峯C遺跡の礫群種4火山灰の年代は放射性炭素年代測定の結果3万5,000年前ぐらいとされ,そのさらに約10cmほど下位にあたる横峯遺跡や立切遺跡は,確実に3万1,000年より古いと考えられます。
    種4火山灰の上下の文化層の石器群は,いまのところ種4火山灰を挟んで共通の石器群をもつと考えられます。石材はすべて島内のものでした。敲石や磨石がたくさん出土したことから,植物食を中心としたライフスタイルが想定されています。
  • 【写真 横峯C遺跡の礫群】
  • 立切遺跡の土坑しかし石器の材料を剥ぎ取ったあとの石をそのまま石器として利用していることから,ナイフ形石器のような剥片石器類が存在するとも考えられます。石器に使える良質の石材の石核は,持ち歩いて必要に応じて剥離作業をおこなったものと思われます。


    【写真 立切遺跡の土坑】
  • 礫群は当時の集団の人々のつながりを確認するために,季節的に集まっては調理と分配を行った施設とする説があります。横峯C遺跡と立切遺跡は,石器を製作する遺跡,礫群のある遺跡,狩猟をおこなうキャンプサイトなど,移動する遊動パターンの一つとみられています。
  • 横峯C遺跡や立切遺跡の種4火山灰の上下の旧石器時代文化層では,土の中の植物珪酸体分析や炭化材の樹種同定の結果,最終氷期を通して照葉樹林が分布していたといわれています。氷河期のなかでも暖かかったということです。

    種子島の石器文化は,日本列島と異質の文化であるとの考えから「南西諸島文化圏」を唱える人がいます。あるいは「南方型旧石器文化」として関東の石器群にもその系譜が認められるとする説も唱えられています。長い期間に及んだ旧石器時代は,多様な環境変化が起こった時代でしたが,過去には狩猟中心のイメージが先行していました。そうした旧石器時代観のイメージを種子島の石器文化が転換させた意義は大きいものがあります。藤本強氏(新潟大学教授)は,立切遺跡をはじめとする南九州の様相は,地球規模で旧石器時代の生業を考える際に重要な役割を果たすことになると指摘しています。
  • ■奄美諸島の遺跡■
  • 奄美諸島の遺跡の分布図横峯C遺跡・立切遺跡は種子島の旧石器研究の端緒を開き,またそれは奄美諸島の旧石器をより意義づけることとなり,日本列島と大陸との関係(南方ルート)を見直し再検討する契機となりました。
    奄美諸島に旧石器の存在を最初に示した土浜ヤーヤ遺跡の局部磨製石斧の破片は,立切遺跡出土の局部磨製石斧と系譜がつながっていく可能性があります。笠利町喜子川遺跡の発掘調査では礫群と,頁岩とチャートの剥片が出土し,礫群の下部から採取された木炭は,25.250±790の放射性炭素年代がでています。

    徳之島の伊仙町天城(アマングスク)遺跡は1998年に発掘調査され,チャート製の台形様石器を中心とした石器群が出土しました。これらは縄文土器が出土した位置より下層のマージ層から出土しており,発見された台形様石器などの石器組成は,旧石器時代の石器の可能性が高いとされています。

    天城遺跡の石器群を加藤晋平氏(国学院大学教授)は完新世の約6,000年前の無土器文化に伴う石器群としてとらえ,台湾島を含めて東南アジア地域の系譜で考えています。一方小田静夫氏(東京都教育庁主任学芸員)などは本州島の約3万~2万5,000万年前頃の旧石器群に対比できるとの見解をもっています。こうした論争を生んでいることは,すなわち、これら大隅・奄美諸島の遺跡の評価が日本列島全体の旧石器研究にかかわっていることをしめしています。
  • ■旧石器時代人の移動■
  • 以上をもって,氷河期の氷期と間氷期のあいだでそれぞれの環境変化に適応した異なる石器文化の移り変わりを想定してもいいのではないでしょうか。立切遺跡や横峯C遺跡はやや暖かい時期に成立しており,これが列島を北上し,その後の氷期にナイフ形石器文化が南下し,礫群や磨製石斧を伴うナイフ形石器文化が成立したと考えられます。

    琉球大学木村政昭教授は,3万年前から2万年前の琉球弧においては,陸橋が形成され,ケラマギャップとトカラギャップについても,渡れた時期があった可能性を指摘し,2万年前以降の地殻変動に伴う急激な沈水を迎え今日に至るとする研究を発表しています。長い旧石器時代に,海水面の上下と環境変化に適応して,旧石器時代人たちは南下・北上を繰り返していたのではないでしょうか。

    縄文時代草創期や早期の南の縄文文化と関連づけて,南の先進性を主張する向きもありますが,年代があまりにも離れており,そうした図式で文化を理解しようとする態度は科学的とはいえないばかりか,人間行動などの理解をも矮小化していくことにほかなりません。何万年から何百年にかけての長い年月を経て,モンゴロイドがベーリング海をわたりアメリカ大陸を南下したように,旧石器時代人たちの移動範囲はひろかったのです。
  • 用語解説
  • AT火山灰 姶良・丹沢火山灰の略,姶良カルデラの約2万5,000年前の噴出物で,南九州では火砕流噴出物が厚く堆積し,「シラス」といわれる。
    種4火山灰 種子島で確認された火山灰で下位より種1~種4火山灰といわれる。その上にAT火山灰が堆積している。
    マージ層 隆起石灰岩の風化土壌で,赤色の粘土層である。乾燥すると固結し,雨がふるとドロドロとなる。近世・近代では,人力で海砂を混入して土壌改良していた。
  • (文責)堂込 秀人