- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第27回 発掘が語る“道”の跡 - 発掘を進めていると,土が周囲の色と異なっていたり,部分的に硬くなった筋を見つけることがあります。一本の蛇行した小川のように見えるものもあれば,いくつかの枝に分かれ,それぞれがさまざまな方向に伸びていくものもあります。
その筋の意味を特定することは難しいです。長い年月の間に自然が作り出したものであるかもしれません。しかしそれが人の歩いた跡,すなわち道の跡だと分かると,にわかに話はおもしろくなってきます。
道は,人々が生活する中で,自然に,あるいは意図的に作られるものです。人が地面を踏みしめながら歩くことで道が出来ます。歩く先には水場や食料があるのかもしれません。誰かに何かを運ぶ途中なのかもしれません。何かを捨てにいくのかもしれません。あるいは,死者を葬った場所への道なのかもしれません。道の跡には,それを作った人々の生活を知るための重要な情報が刻まれているのです。
県内の遺跡からは多くの道の跡が見つかっており,近年では,縄文時代早期という早い時期の道の跡が集落との関わりで発見され注目されています。
すなわち,住居跡などの遺構(いこう)や土器などの遺物(いぶつ),地形や周囲の様子などと道の跡との関係を捉えながら調査を進めることで,我々ははるか昔に生きた人々の生活の様子を知ることができるのです。 - ■旧石器・縄文時代の道■
- この時代は,狩猟・採集を中心とした社会を営んでいた時期であり,自然発生的な道が作られていったと考えられています。
上野原遺跡(霧島市)
9,500年前の大規模な集落跡が国指定の史跡となっている上野原遺跡では,住居の間をぬうように道の跡が発見されています。
- 【図 上野原遺跡のイメージ図 (縄文時代早期 9,500年前)】
- 現在でも上野原台地の周辺には,湧水(=わき水)地点がいくつか確認されており,もっとも近い湧水は,遺跡から徒歩で約10分,標高にして約30mほど下がった所にあります。
道の跡は概ね南北に黒い筋状に伸び,まるで湧水地点への通路のようにもみえます。このような道は自然の浅い谷を利用して作られたものだと考えられています。 - 水迫遺跡(指宿市)
旧石器時代の集落跡が発見されたとしてマスコミをにぎわせた遺跡です。
道の跡は,遺跡の南側斜面から約1万5,000年前の竪穴住居2基とともに見つかっています。南北12m,最大幅約1mで住居跡に近く,浅い谷状で3本に枝分かれしています。
踏み分け道の痕跡があり,人が何度も地面を踏みしめた(歩いた?)可能性が高いと思われます。
- 前原(まえばる)遺跡(鹿児島市[旧日置郡松元町])
道の跡は,標高約180mの舌状台地の先端近くにある縄文時代早期前半の集落跡とともに見つかりました。
B地区とよばれる場所で見つかった竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)は9軒・2軒・1軒の3群に分かれており,道は相反する2つの谷に向いたかたちでそれぞれ9軒と2軒の群に続いていました。
建石ヶ原(たていしがはら)遺跡(日置市[旧日置郡吹上町])
道の跡は,国道270号線沿いの縄文時代晩期・古代の遺跡から見つかりました。縄文時代晩期のものは,幅約2mで,緩くカーブしながら南北に150m以上もの長さに伸びていました。今から約2,800年前にこのような大がかりな道が造られていたということは驚きです。 -
建石ヶ原遺跡の航空写真
左の拡大写真
(白い2本の線で囲まれた筋状のものが道の跡) - ■弥生時代の道■
- この時期になると農耕の普及などによって政治的・経済的な社会が発達してきます。しかしながら,明確な交通路としての道はほとんどみられません。
魚見ヶ原(うおみがはら)遺跡(鹿児島市)
道の跡は,鹿児島市街地を見下ろす標高約60mのシラス台地上に位置した弥生時代前期後半から中期前半にかけての集落跡とともに見つかりました。
4基の竪穴住居跡,食料の貯蔵用や墓と推定される土坑(どこう)など,多数の遺構とともに,谷筋に幅約70cmの硬化面(地面を何度も踏むことで出来た硬くなった土の部分)が約20mの長さで続いていました。集落と低地とを結ぶ道の存在が判明したことなどから,縄文時代から弥生時代へ移り変わる当時の南九州の様子を探る上での重要な資料となっています。 - ■古代の道■
- 時代が新しくなるにつれて,道はより重要性を増すことになります。生活のための道という面に加えて,より政治的・経済的な役割が大きくなり,中央と地方,あるいは地方の重要な交通路としての道が整備されるようになりました。
駅制
古代の律令制には「駅制(えきせい)」が登場します。
駅鈴(えきれい)を携えた公使(こうし)は,駅路(えきろ)を通り,駅(えき)ごとに常備された駅馬(えきば)を乗り継いで情報の伝達を行いました。同時に駅の周辺の村落も発達していきました。
貞観16年(874年)の開聞岳の大爆発が太宰府に速やかに報告されたのもこのような駅路を利用したものだと考えられています。
この駅制は平安時代の初頭頃まで改廃・新設されながら続いていきました。
鹿児島においては,大隅国駅馬,薩摩国駅馬,薩摩国伝馬,官道などがありますが,それぞれの正確な位置等については今後の詳細な調査と分析が必要です。
道を行き来した人々を思い描きながら調査を進めることは,発掘に関わる我々の大きな楽しみのひとつです。 - 用語解説
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竪穴住居 穴を掘って,その上に屋根をつけた半地下式の住居跡 駅鈴 駅馬の徴発などに使用した鈴 - (文責)高見 憲次・宇都 俊一