鹿児島県上野原縄文の森 (公財) 鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター (公財) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター
MENU

鹿児島県上野原縄文の森

鹿児島県上野原縄文の森 HOME 公財 鹿児島県文化振興財団鹿児島県上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター 公財 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター

考古ガイダンス第29回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第29回 400年の歳月を超えて
  • ■白薩摩・黒薩摩■
  • 薩摩焼窯の分布図
    苗代川系

    2 串木野窯(1599)
    3 元屋敷窯(1605)
    4 堂平窯(1624)
    4 五本松窯(1669)
    堅野系
    5 竪野・冷水窯(1620)
    7 宇都窯(1601)


    平佐系
    1 脇本窯(1776)
    龍門寺系
    8 山元窯(1667)



    西餅田系
    6 元立院窯(1663)
  • 薩摩焼の歴史は今から400年前に遡ります。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)(1592~1598年)の際,島津家の17代当主・島津義弘(しまづよしひろ)公が,朝鮮の文化や産業技術の導入を図る目的で朝鮮人陶工を連れ帰りました。陶工たちは,鹿児島前之浜や東市来神之川,串木野島平それに加世田小湊に上陸し,慶長4(1599)年に,朴平意(ぼくへいい)が串木野で最初の窯を開きました。

    その後,陶工たちの移動により,各地で窯が開かれていきました。帖佐(姶良町)で金海(きんかい)が開いた宇都(うと)窯や鹿児島城下の冷水(ひやみず)窯・長田(ながた)窯などに代表される竪野(たての)系や,朴平意らが苗代川(なえしろがわ)(東市来町美山)に移った後に開いた元屋敷(もとやしき)窯,堂平(どびら)窯,五本松(ごほんまつ)窯に代表される苗代川系。他にも,龍門司(りゅうもんじ)系,西餅田(にしもちだ)系,平佐(ひらさ)系の5つに分類されます。

    慶応3(1867)年のパリ,明治6(1873)年のウィーンでの万国博覧会において,精巧で華麗な薩摩焼は一躍世界的に有名になりました。その後,朝鮮半島から伝わった陶磁器の技法は,幾世代にも引き継がれて,現在のように花開きました。
  • ■堂平窯跡の調査
  • 堂平窯跡の発掘調査平成10年,薩摩焼400年祭が開催されたまさにその年の10月,東市来町美山で,17世紀前半の薩摩焼の古窯(こよう),堂平窯跡が調査されました。
    この窯は,陶工たちが串木野から苗代川(美山)に移り住んで,元屋敷窯に次いで開窯(かいよう)したものといわれています。発掘調査は南九州西回り自動車道の建設に伴うもので県立埋蔵文化財センターが8月から実施しました。

    その結果,窯は丘陵(きゅうりょう)の西側斜面につくられており,長さが約30メートル,幅が約1.2メートルあり,断面の形が半円筒形(はんえんとうけい)をした焼成室(しょうせいしつ)が1つだけの「朝鮮式単室傾斜窯(ちょうせんしきたんしつけいしゃがま)」とよばれるものであることが判明しました。
  • 【写真 堂平窯跡の発掘調査】
  • この時期,他の地域では焼成室が複数で,階段状になった「肥前式連房式登り窯(ひぜんしきれんぼうしきのぼりがま)」に変わっており,薩摩焼に朝鮮半島の影響が残っていたことを示す窯でもあります。
  • 窯の南側には物原(ものはら)も発見され,そこから甕(かめ)や壺(つぼ),猪牙(ちょか)などの黒薩摩の破片に混じって,当時,一般の人たちがあまり使うことのなかった白薩摩の皿(さら)や碗(わん)なども出土しました。また,円盤や馬のひづめの形をした窯道具も出土しており,焼き方や窯の形状を知る手がかりとなりました。

    さらに,鶴丸城(鹿児島城)で使われたと考えられる軒丸瓦(のきまるがわら)や軒平(のきひら)瓦も出土し,その建築にも関わりのある窯であることもわかりました。このように,薩摩焼を研究していく上で貴重な資料となった堂平窯は,東市来町や美山薩摩焼振興会からの強い要望により移設保存が決まり,美山陶遊館の裏手にある公園に移設し,復元されています。
  • ■薩摩焼の古窯の広がり■
  • 窯道具のいろいろ
  • < 焼台 > < 匣鉢 >
    馬のひづめの形 鼓形 円盤形
    馬のひづめの形 1
    上から
    見ると
    馬のひづめの形 2
    下から
    見ると
    馬のひづめの形 3
    窯の斜面に置くと
    上が水平になる
    鼓形 円盤形 匣鉢 1 匣鉢 2
    匣鉢の中に
    入れて焼く
  • 薩摩焼の古窯は,県内各地に広がっています。堂平窯のような単室傾斜窯に対して,連房式登り窯が発見された例の一つが,元和6(1620)年に開窯された竪野(たての)・冷水(ひやみず)窯跡です。

    この窯跡は,病院の女子寮建設に伴って,昭和51年に発掘調査が行われました。窯跡は南面する傾斜地にあり,全長約14メートルで,焼成室が7室ありました。2か所の物原から碗や皿,茶入(ちゃいれ)などの白薩摩が多く見つかり藩の御用窯であったことがわかりました。

    一方,黒薩摩を中心に庶民の生活に密着した陶器作りを行った龍門司系の初期の窯跡として,寛文(かんぶん)7(1667)年に開窯された山元(やまもと)窯跡があります。昭和41年に加治木町の指定文化財となりましたが,平成4年に範囲の再確認を目的に発掘調査が行われました。全長は推定で約14メートル,7室以上の焼成室をもち,約20センチ掘り下げた半地下式の登り窯と,その窯を覆っていた建物の柱穴,近くの滝から導水したと思われる配水溝も発見されました。

    また,寛文3(1663)年に開かれた民陶の窯である西餅田系元立院(にしもちだけいげんりゅういん)窯跡は,平成7年に発掘調査が行われ,遺構は確認できなかったものの,この地域が「壺屋」(つぼや)と呼ばれていたことや,窯壁(ようへき)を作るときに用いられるトンバイ(レンガ)などが発見されたことから,窯があったのは確実と考えられます。

    薩摩焼の系統の中で,磁器を本格的に製造したのが平佐系の諸窯であり,その中で最初に開窯されたのが,安永(あんえい)5(1776)年の脇本窯です。昭和47年の発掘調査で,全長約20メートル,焼成室4室の連房式登り窯が見つかっています。窯や窯道具,焼かれた碗・皿などの発見により,藩における磁器生産の一端が明らかにされ,意義深いものがあります。
  • 以上のように,県内各地の薩摩焼古窯の発掘調査によって,その歴史が少しずつ解明されています。薩摩焼と一口に言っても,ここに紹介した古窯だけでも構造や目的,製品などが多種多様であることがわかり,そこからそれぞれの地での陶工たちの姿や思いが伝わり,薩摩焼400年の奥深さを感じ取ることができます。

    しかし県内には,埋もれたままの窯がまだ多く残っています。400年という歳月を越え,薩摩焼が歩んできた歴史を調査研究する機会が待たれるところです。
  • 用語解説
  • 文禄・慶長の役 二度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略のことをいう
    古窯 昔作られた古い窯
    焼成室 器物を焼く部屋のことで,窯は,この焼成室(部)と燃焼室(部)からなる
    物原 失敗作などを捨てた場所
    窯道具 碗や壺などの器物を窯に入れ焼くときに使う道具で,匣鉢(さやばち・耐火粘土製の容器)や焼台などがある
    御用窯 藩の運営によって作られている窯
    民陶 主に一般大衆向けの実用品
    窯壁 窯のかべのこと
  • (文責)西郷 吉郎