鹿児島県上野原縄文の森 (公財) 鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター (公財) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター
MENU

鹿児島県上野原縄文の森

鹿児島県上野原縄文の森 HOME 公財 鹿児島県文化振興財団鹿児島県上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター 公財 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター

考古ガイダンス第31回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第31回 謎に包まれた南島のグスク
  • ■名瀬市で中世の城跡発見■
  • 鹿児島県地図日本本土と中国大陸の間に弧状に連なる奄美,琉球の島々は,古くから「道の島」と呼ばれています。

    その奄美大島で,昨年12世紀~16世紀にかけて構築されたと思われる本土の山城に酷似した中世の城跡(山城)が名瀬市教育委員会によって新たに17か所発見されました。

    発見された場所は,名瀬市古見方(こみほう)地区で,狭い尾根の斜面を生かし,曲輪(くるわ),空堀(からぼり),土塁(どるい)などを造り,それらは,山城としての防御機能を持っているといいます。これまで奄美や沖縄では「グスク」とよばれる支配者の居城があったといわれています。

    今回の発見は,多くの謎に包まれている当時の奄美がどのような状況下にあったのかを解明する糸口になるかもしれません。そこで今回は,考古学から見た中世の奄美の歴史をのぞいていきたいと思います。
  • ■グスク時代■
  • 和泊町 大和城跡奄美,琉球では,狩猟・採集経済が中心の「貝塚時代」の後,12世紀前後に各地に按司(あじ)と呼ばれる政治的な統率者が現れ,各地域をまとめていきました。その統治の本拠となった場所は「グスク」と呼ばれています。

    奄美で代表的なものは,笠利町辺留城(べるグスク),和泊町世之主城(よのぬしグスク),与論町与論城(よろんグスク)などです。
  • 【写真 和泊町 大和城跡】
  • 1987年に鹿児島県内の中世城郭を調査した「鹿児島中世城館跡」の報告によると,奄美の城郭は45か所あると報告されていますが,その後,様々な分布調査や確認調査等が行われ,調査研究は急速に進展中で数も増えつつあります。
  • 和泊町 世之主城跡 「グスク」を居館とし各地に登場した按司は互いに勢力範囲を拡大しながら琉球ではやがて3つの勢力にまとまりはじめ,按司の中から王になるものが現れました。 

    奄美諸島は,1266年に琉球の中山王(ちゅうざんおう)に入貢(にゅうこう)した記録があります。1466年喜界島,1537年奄美大島が琉球の遠征を受けています。これらのことから,琉球の完全な支配域に入ったのは,この遠征の後だと思われます。
  • 【写真 和泊町 世之主城跡】
  • ■謎の南島系陶質土器「カムィヤキ」■
  • カムィヤキ窯跡奄美諸島,琉球諸島のグスク時代の遺跡から出土する遺物は,中国製白磁・青磁と,本土の須恵器(すえき)に似た陶質の土器で「類須恵器」(るいすえき)あるいは,「南島系陶質土器」と呼ばれ,窯跡が未発見のため謎につつまれていた土器が出土します。
    この謎の土器は,1983年徳之島の伊仙町亀焼(かむぃやき)で古窯跡(こようあと)が発見され,地名から「カムィヤキ」と呼ばれるようになりました。「カムィヤキ」は,伊仙町教育委員会による古窯跡の発掘調査の結果,11世紀から13世紀にかけて焼成されたことが明らかとなりました。
  • 【写真 カムィヤキ窯跡】
  • また,同じようにグスク時代の遺跡から長崎県西彼杵(にしそのぎ)半島で作られた「滑石製石鍋」(かっせきせいいしなべ),「中国製陶磁器」が出土しています。「滑石製石鍋」は本土では,平安時代末~室町時代にかけて流布している調理具です。
  • ■倉木海底遺跡の発見■
  • 1994年に大島郡宇検村倉木崎海底遺跡で,沈没船に積まれていたか何らかの事件のために海中投棄されたと考えられる,大量の「中国製陶磁器」が発見されました。1996年から3年間にわたり宇検村教育委員会が調査しました。この調査で出土した陶磁器は,12世紀末から13世紀前期にかけて作られた中国の龍泉窯系青磁碗,同安窯系青磁皿,磁竃窯系褐釉陶器,福建系白磁,景徳鎮窯系青白磁などです。
  • ■グスク時代の交易■
  • 12~13世紀東シナ海地域概念図「カムィヤキ」古窯跡の発見により,徳之島で「カムィヤキ」を生産し,奄美・琉球諸島を交易圏として供給する,大きな商業集団がいたのではないかと考えられています。

     政治的に強い力を持った統率者がこれら商業集団と陶業集団を統率し,長崎産の「滑石製石鍋」を奄美・琉球に持ち込む商人もいたのだと思われます。
  • 【図 12~13世紀東シナ海地域概念図(図中記号:□主要都市,▲主要窯跡)】
  • また中国製陶磁器の出土は,12世紀後半から13世紀前期ごろに中国南部と奄美・琉球との間の貿易航路がこの付近を通っていたことを示しています。中国南部を出港して黒潮に乗り,南西諸島を経由して島伝いに北上したと考えられるのではないでしょうか。現に日置郡金峰町持躰松遺跡や,福岡県博多遺跡で出土した中国製陶磁器と倉木崎海底遺跡の物は一致しています。

    また,金峰町小園遺跡,同町持躰松遺跡,出水市出水貝塚では,「カムィヤキ」が数点ながら見つかっています。奄美・琉球に貿易船が立ち寄り,何らかの形で「カムィヤキ」を手に入れて小園遺跡・持躰松遺跡・出水貝塚に持ち込んだ可能性があるのです。

    これら奄美・琉球の交易は,その後の「琉球王朝」の経済基盤を支えた「中継貿易」へと発展していったのでしょう。(中継貿易=琉球を中心として,明や朝鮮半島や日本や東南アジア諸国の物品を中継するもの)
  • ■グスクの調査■
  • 和泊町 世之主城跡 ‐石積み‐「グスク」は按司(あじ)たちが地域を統率するための本拠地であり,周囲の按司勢力や海上からやってくる様々な外力に対する防御機能があったと思われます。

     琉球の「グスク」は,首里城(しゅりじょう)や今帰仁城(なきじんグスク)・勝連城(かつれんグスク)に代表される,石垣を周囲に配したものが一般的ですが,奄美のグスクは琉球のグスクと異なった様相を見せています。
    「鹿児島県の中世城館跡」,「笠利町用安湊城(ようあんニヤトグスク)発掘調査報告書」によると,奄美の「グスク」で琉球と同じように周囲に石塁を持つものは南部の与論島や沖永良部島には見られますが,徳之島,奄美大島,喜界島にはそれがほとんど見られず,堀切を持ったり集落背後の山地や台地上にあったり,海に面するものもあります。
  • 【写真 和泊町 世之主城跡 ‐石積み‐】
  • 「グスク」の発掘調査例は少ないのですが,近年発掘調査された笠利町「ウーバルグスク」は舌状台地上にあり,堀切はなく敷石で作られたグスクへの入り口と見られる道遺構が見つかっています。同町「用安湊城(ようあんニヤトグスク)」は海に面した舌状台地上にあり,曲輪は海に面した部分だけで後方の山手には見られず,土塁が一部残っています。

    奄美のグスクは「グスク」という地名がついていない場所からも発見されています。これらの「グスク(または中世城館跡)」は発掘調査例が少なく文献にもほとんど登場しません。したがって奄美独特のものなのか琉球の影響を受けているのか,それとも日本本土の影響を受けているのか,まだ解明されていない部分が数多くあります。また「グスク」自体についても,城としての防御施設,宗教的な信仰の聖域施設,集落説など,様々な見方がされています。

    1999年から調査が始まった名瀬市古見方(こみほう)地区の17か所もの中世城郭跡や,同じく1999年度から調査が行われている笠利町赤木名城(あかきなグスク)の調査にこれらの謎の解明を期待したいと思います。
  • 用語解説
  • 山城 中世以降に発達した城郭で尾根を利用して築城されている。
    曲輪 城の中で地形に応じて平坦面の周囲に塁や堀を巡らした一定の区画をなすところ。
    空堀 水の入っていない堀,曲輪や城壁の周囲に作られる防御施設。
    土塁 周囲に土をつき固めて作った曲輪の囲い。
    須恵器 古墳時代から平安時代にかけて作られた還元?で焼成され灰色や青鼠色をした焼き物。
    滑石製石鍋 鍋形や釜形をした日曜雑器,長崎県西彼杵半島の大瀬戸町が産地。
  • (文責)福永 修一