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考古ガイダンス第32回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第32回 中世びとの生活
  • ■中世の集落から■
  • 集落遺跡位置図中世とは鎌倉幕府(かまくらばくふ)がつくられてから,戦国時代の終わり頃までの時代です(約1192~1590年)。鎌倉時代になるとそれまで政治を行っていた貴族に変わって武士が政治を行うようになりました。

    そのため政権が変わるたびに全国各地で争いが起きていました。鹿児島でも各地域の有力者が互いに争い,多くの山城(やまじろ)が築かれました。山城は敵が攻めてきたときに最後の砦(とりで)となる場所です。
    【図 集落遺跡位置図】
    1 持躰松遺跡,2 成岡遺跡,3 山崎B遺跡 
    4 新平田/馬場A遺跡,5 中園遺跡,6 藤兵衛坂段遺跡
  • 日常の生活は麓(ふもと)の集落で営まれていました。当時の人々が住んでいた建物は掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)と呼ばれています。柱や壁は木で造られているので長い年月の間に腐ってしまいます。そのため遺跡(いせき)には柱を立てるために掘った穴しか残っていません。

    発掘調査では柱穴(ちゅうけつ)の並びから建物を復元(ふくげん)していくのです。中世の歴史は文献(ぶんけん)による研究から権力者の歴史のみに目を奪われがちです。
  • しかし,それらを支えたのは名前さえも残っていない庶民(しょみん)でした。集落跡の調査は,これまでに知られていなかった中世の人々の歴史を少しずつ明らかにしてくれます。近年,鹿児島県でも文献に残っていない集落跡などが発見されています。それらのうちいくつかの調査例を紹介します。
  • ■一般の人々の集落■
  • 掘立柱建物復元図大口市馬場(ばば)A遺跡や,時代は少し新しくなりますが牧園町中園(なかぞの)遺跡などがあります。
    当時は,かまどを使って炊事(すいじ)をしていたものの,現在のように,毎日米が食べられるほど贅沢(ぜいたく)な暮らしではありませんでした。
    【図 掘立柱建物復元図】
  • 掘立柱建物でも床板を張らずに地面にむしろや板などを敷いていたものと考えられています。
    それでは当時の人々はどのような作物を作り食べていたのでしょうか。最近の発掘調査の成果から見てみましょう。
  • ■中世の畠跡■
  • 藤兵衛坂段遺跡福山町藤兵衛坂段(とうべえざかだん)遺跡からは,文明年間(1471年か1476年のどちらか)に桜島の噴火により降り積もった軽石にパックされた状態で畠の畝跡(うねあと)が見つかりました。発見されたとき,畝の間につまっていた軽石が約80cmの幅で帯状に残っていました。

    畠跡一枚の大きさは19m×39m程で,全部で17枚見つかっています。畠跡の土をプラントオパール分析で調べた結果,陸稲(りくとう)やヒエを栽培(さいばい)していたことが明らかになりました。畠跡の総面積は約2,000平方メートルにもなり大規模な畠作を行っていたことが分かります。
  • 【写真 畝の間に軽石が詰まっている畠跡(藤兵衛坂段遺跡-福山市教育委員会提供)】
  • 中世になると肥料や品種の改良,牛馬の利用などが進み農業技術の進歩が見られました。藤兵衛坂段遺跡のように広い畠がつくられたのも技術の進歩が関係していると考えられます。また鹿児島はシラス台地が発達し平野が少ないので,水田を作る土地を十分に得ることができなかった人々が台地の開発を積極的に進めていたことも地域性の一つと考えられます。
  • ■中世の宿■
  • 集落遺跡位置図中世になると海,陸ともに交通路が整備され人々の動きが活発になりました。大口市新平田(しんひらた)遺跡は交通路の要所におかれた宿であった可能性のある遺跡です。
    遺跡が立地する大口市は当時,都城と出水,水俣を結ぶ重要な交通の要地でした。遺跡からは32棟の掘立柱建物と地面を掘って造った竪穴建物跡(たてあなたてものあと)が7軒見つかっています。掘立柱建物に年貢などを徴収する武士や,人夫達が寝泊りし,竪穴建物跡では武器や馬具(ばぐ)に使う皮を加工していた可能性もあります。馬具である轡(くつわ)も見つかっており,馬に乗り各地を行き来する人々がいたことを物語っています。
  • ■有力者の屋敷■
  • 重ねて置かれた素焼きの皿中世では,武士などの有力者も掘立柱建物に住んでいました。このような屋敷跡からは,一般の人々の集落では見ることができない高価な焼き物が出土したり,建物跡を掘で囲んだりするなど,大規模な土木工事が行われていました。


    写真 重ねて置かれた素焼きの皿(持躰松遺跡)】
  • 川内市成岡(なりおか)遺跡からは,硯(すずり)と,墨書土器(ぼくしょどき)が見つかっています。筆や硯などを使い文字を書くことができたのは,役人や階級の高い人たちでした。成岡遺跡はこの地域を治めていた郡司(ぐんじ)平氏の一族である成岡氏に関係する屋敷跡であるとされています。
  • また,栗野町山崎(やまさき)B遺跡では掘立柱建物と竪穴建物が掘(幅4.5m,深さ3m)によって囲まれています。これらの土木工事は多くの一般の人々によって行われたのでしょう。

    また,素焼きの皿が,柱穴の中に入れられていたり,何枚も重ねられた状態で見つかっています。建築工事の前に地鎮祭(じちんさい)などを行い工事の無事を祈っていたと考えられます。近年の調査によって,一般の人々の集落跡や有力者の屋敷跡など,様々な階級の人々が暮らした遺跡が見つかっています。中世の研究は,これから発見される遺跡の正しい評価がなされることによって,大きく発展することでしょう。
  • 用語解説
  • 鎌倉時代 1192年に源頼朝(みなもとよりとも)が幕府(ばくふ)を鎌倉に開いてから,
     1333年に北条高時(ほうじょうたかとき)の滅亡までの約140年間
    戦国時代 1467年の応仁(おうにん)の乱から1590年に豊臣秀吉が全国を統一するまでの間
    掘立柱建物 地面に柱穴を掘って柱を立て,それに屋根と壁を取り付けた平地式の建物
    遺跡 昔の人々が作った建物の跡や,土器などが埋まっている場所
    文献 昔の人々が文字によって,当時の人間の行動や世の中のことなどを書き記したもの
    竪穴建物跡 地面を水平に掘り下げて床面をつくる半地下式の建物
    陸稲 おかぼ
    墨書土器 墨によって文字が書かれている土器
    郡司 奈良・平安時代に朝廷から任命され地方を治めた役人
    地鎮祭 土木工事の基礎工事を行う前に,その土地の神を祭って工事の無事を祈る祭典(さいてん)
  • (文責)川口 雅之