- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第34回 律令政治の浸透 - ■―支配される隼人―■
- 「薩摩隼人」という言葉や町名として現代に生き続ける「隼人(ハヤト)」。もともとは古代の南九州の住民に対する呼び名でしたが,7世紀後半から使われ始めたようです。
この時期は大和朝廷が強力な中央集権国家をつくろうとした時代にあたります。こうした国づくりは律令(りつりょう)が制定されることによりその基礎ができあがり,奈良時代以降へと引き継がれていきました。このような中,日本各地へ広がる朝廷の支配は,中央から遠く離れた南九州にも及び始め,独自の生活と文化を持つ隼人の社会も次第にその統治に組み込まれていきます。 - ■地方統治の拠点■
- 朝廷は全国を国─郡─里(郷)という行政単位に分けました。現在の鹿児島県も8世紀に入り,薩摩・多ね(たね)の2国が,続いて日向(ひゅうが)国の四郡を割いて,大隅国が713(和銅6)年に設置されました(多ね嶋は後に大隅国に編入)。郡については,10世紀の『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』において,薩摩国が13郡,大隅国が8郡を数えます。国及び郡には,地域を治める役所として,国衙(こくが・国衙の所在地が国府)と郡衙がそれぞれ置かれました。
こうした国府や郡衙の所在が考えられる遺跡は,そこが地方統治の拠点として,特別な場所であったことを物語ります。例えば,規模の上で,庇(ひさし)をもつ掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)など,構造の上で一般の集落とは異なる建物群が配置や方向に一定の規則性をもって検出されたり,瓦・硯(すずり)・緑釉陶器(りょくゆうとうき)・青磁・白磁といった特殊な出土品が発見されたりします。
また,土器に墨や刻みにより文字等を書いた墨書土器(ぼくしょどき)や刻書土器(こくしょどき)は,文字文化の浸透とともに,役人や僧侶など識字層の存在をうかがわせるものです。 - 薩摩国府跡(薩摩川内市)
薩摩国府は現在の川内市に置かれました。川内平野北側の台地上の六町四方(一町は約109メートル)が国府域であり,その中央付近の二町四方が国衙域と推定されます。
礎石を持つ建物跡や瓦を敷いた列などが発見されました。また,郡名ではないかとされる「高木」や国府の施設の一部を示すのではないかとされる「国厨」を記入した墨書土器や墨絵の描かれた土器,硯,緑釉陶器などの出土品があります。なお,大隅国府や多ね嶋国府については,確認されていません。
【図 薩摩国府の想定図】 - 西ノ平(にしのひら)遺跡(薩摩川内市)
平安時代の掘立柱建物跡が10棟確認されたことや,100点を超える墨書土器や刻書土器,青銅製帯金具(おびかなぐ),須恵器(すえき)のかけらを転用した硯などの出土品から,この周辺に薩摩郡の郡衙があった可能性が強いとされています。
市ノ原(いちのはら)遺跡第一地点(いちき串木野市)
検出された掘立柱建物跡15棟の中には,大型のものや四方に庇を持つものがあり,また,緑釉陶器や「厨」と書かれた墨書土器などが発見されました。 -
【図 市ノ原遺跡 掘立柱建物跡の配置図】
【写真 掘立柱建物跡(市ノ原遺跡第一地点)】
人が立っている横の穴が柱の跡 - この他,郡名である「阿多」と記された土師器(はじき)が出土した小中原(こなかはら)遺跡(金峰町),掘立柱建物跡群や「日置厨」と書かれた須恵器を出した安茶ヶ原(あんじゃがはら)遺跡(市来町)なども,同様に薩摩国内の郡衙に関わる可能性をもった遺跡としてあげることができます。
小瀬戸(こせど)遺跡(姶良町)
大隅国の郡衙に関わる施設と考えられます。溝状遺構に区切られた区画,柱穴群や井戸跡が発見されました。また「大伴」「伴家」「仲家」などと書かれた墨書土器や刻書土器は,大伴氏(おおともし)をはじめ,中央の有力豪族との関連から注目されています。
- 【図 器に残された文字(池畑耕一『考古学ジャーナル』1991)1~7 小瀬戸遺跡 8~13 西ノ平遺跡】
- ■隼人の朝貢と古代の官道■
- 国府の設置などにより,律令制が徐々に浸透し始めますが,その進行は決して順調ではありませんでした。班田制(はんでんせい)の施行が大きく遅れたのが一つの原因です。このことと呼応するように,朝廷は隼人に対し,定期的な朝貢を強制し続けました。大宰府から出土した木簡(もっかん)には,薩摩・大隅国の郡名を記したものがありますが,これらは貢納物の付札として用いられたとも考えられます。
また,このような人や物資の移動あるいは情報の伝達のために,朝廷は官道を整備し,中央と国府や国府間を結びました。官道には中継地として,駅が置かれ駅馬が常備されました。本県における駅・駅伝制については『延喜式(えんぎしき)』によると,薩摩国内に「市来(いちく)・英祢(あくね)・網津(おうづ)・田後(たしり)・櫟野(いちいの)・高来(たかく)」の6駅,大隅国内に「蒲生(かもう)・大水(おおみず)」の2駅の記述がありますが,考古学的に確定できたものではなく,今後の調査成果が待たれます。 - ■抵抗する隼人■
- 律令政治の浸透に対して,隼人は強い抵抗を示しました。特に720(養老4)年の軍事衝突は約1年数か月にも及びました。結局,隼人側の敗北に終わるものの「首を斬られた者や捕虜になった者は合わせて1,400余人」(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)とされ,その戦いの激しさを物語ります。
【写真 隼人町の隼人塚】 - 残念ながら,こうした抵抗を直接示す考古資料は見出せませんが,敗れた隼人の供養のために建てられたと伝えられるのが隼人塚です。現在,霧島市国分と霧島市隼人町の2ヵ所にある隼人塚ですが,そのうち隼人町のものは町教委により発掘調査が進められてきました。その結果,塚の構造,石造や石塔の本来の姿や配置など次第に明らかになりつつあります。なお,創建の目的や年代については,不明な点も多いです。
- さて,720年を最後に隼人の抵抗は鳴りをひそめていきます。さらに9世紀に入り,薩摩・大隅国に班田制が適用されると,文献上,南九州の住民を隼人と呼ぶこともなくなっていきました。
- 用語解説
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律令 律令政治のもとになった法律。律は刑法,令は行政法のこと。 掘立柱建物 地面に穴を掘って柱を立てた建物。 緑釉陶器 緑色の釉(うわぐすり)を施した陶器。 厨 役所における調理や食事・接待のための施設。 班田制 国民に一定の耕作地を保証し,その代償に租税を徴収する制度。 木簡 すく割った木の札に文字を書いたもの。文書,伝票,荷札などに使われた。 - (文責)立部 剛