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鹿児島県上野原縄文の森

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考古ガイダンス第4回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第4回 縄文中期の様相
  • ■豊かな森とともに■
  • 阿高式土器が出土する遺跡火炎土器(かえんどき)と呼ばれ,北陸地方に分布する馬高(うまたか)式土器や,関東から中部地方に分布する勝坂(かつさか)式土器に代表されるような立体的で造形的な土器の一群は,縄文時代中期のものです。そしてこれらの土器は中期だけでなく縄文時代を代表する土器としてもしばしば取上げられます。

    およそ1万年以上も続いた縄文時代は,草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に分けられ,中期は今からおよそ5,000年~4,000年前にあたります。
    この時期は気候的にも安定しており,人々は豊富な自然の恵みの中で生活していたといわれています。安定した自然環境の中で豊かな森とともに暮らし,植物質の食料を多く利用していました。
  • 【地図 阿高式土器が出土する遺跡】
  • このことは,植物を採取するための打製石斧(だせいせきふ)や植物を加工するための石皿(いしざら)・磨石(すりいし)・敲石(たたきいし)などの生産用具が多く出土することことからも容易に想像されます。
  • ただし,この豊かな森の恵みは人間だけのものではなく,イノシシやシカなどの動物にとっても同じであり,人々はこれらの動物も食料としていました。
     
    長野県などの遺跡では,炭化したパン状やクッキー状のものが出土しており,これらの成分を分析した結果,木の実・動物の肉・鳥の卵などを混ぜて作っていたことがわかっています。
    植物質の食料は,その種類や量の豊富さ,あるいは利用効率のよさなどから,縄文時代を通して,人々の最も安定した食料資源でした。このような食料が安定して供給されるようになってきたため,中期は東日本を中心に縄文時代の中でも繁栄のピークを迎え,遺跡の数もほかの時期に比べて圧倒的に多くなります。
  • ■中期の土器■
  • 阿高式土器(横川町中尾田遺跡)この時期の九州の状況をみると,東日本に比べて遺跡の数や集落遺跡は極端に少ないです。この中にあって九州の中期を代表する土器とされるのが,熊本県城南町の阿高(あだか)貝塚出土の土器を標式とする阿高式土器です。九州の中期と言えばすぐ阿高式土器と型式名が出てくるくらい,九州の中期を代表する土器として,その位置付けは確立されています。

    阿高式土器は,太形凹線文(ふとがたおうせんもん)と呼ばれる,曲線や直線を組み合わせた文様を,指先状のもので土器の上半部を中心に描いているものが多く,中には器全体に文様を描くものもあります。器形は深鉢が多く,まれに浅鉢がみられます。
  • 【写真 阿高式土器(横川町中尾田遺跡】
  • また,この阿高式土器の太形凹線文の間に押引文(おしびきもん)や,ヘラ状のものによる細い沈線文(ちんせんもん)を施す土器もあります。大口市の並木(なみき)遺跡から出土した土器を標式とする並木式土器です。この並木式土器と阿高式土器の前後関係は,その文様の構成や,いくつかの遺跡での層位的な上下関係から,並木式が古く,その次に阿高式土器が位置付けられています。そして,凹線文あるいは沈線文を施す阿高式系土器として後期初めまで続くことになります。
  • ■人と物の行き来■
  • 土器の底部の文様阿高式土器の特徴のひとつとして,土器の平らな底の外側に細かい凹凸がみられるものがあります。これは土器を作るときに回転台として鯨の背骨を利用し,そのときに鯨の背骨の跡がついたものです。その背骨の直径は15センチメートル以上と考えられるような大きなものもあり,大型の鯨のものであったことが想像されます。このような土器の底部は九州の西側部分に多く,東九州にはほとんど見られません。
     【写真 土器の底部の文様】
    (下:鯨の背骨の文様,左上:木の葉の文様,右上:編物の文様)
  • なお,阿高式土器を出土する遺跡は海岸部に多く,貝塚を形成する遺跡も多くあります。海とかなり慣れ親しんだ人々であったのかも知れません。しかし,鯨の背骨の跡がついた土器の底部は海岸から離れた山間部の遺跡からも出土している例もあります。
  • 阿高式土器のもうひとつの特徴として,胎土(粘土)の中に滑石(かっせき)というやわらかい石の粉を混ぜているものが多いことが上げられます。これは阿高式土器の直前の土器である並木式土器にも見られる特徴です。九州ではほかに滑石を混入する土器として,縄文前期の曽畑(そばた)式土器がよく知られています。このことは,以前は曽畑式土器に後続するのに並木式土器が位置付けられていましたが,現在ではその間にほかの形式の土器が入るとみられています。

    滑石は九州では長崎県の一部の地域でしか産出しません。滑石を含んだ土器の一群が九州一円に分布しているということや,鯨の背骨が山間部の遺跡まで分布していること,次に述べるように,瀬戸内地方の土器が南九州まで分布していることとも考え合わせると,当時もかなりの範囲で人の行き来があったことが想像されます。現代のわれわれが考える以上に,直接的あるいは間接的に交流があったのかも知れません。
  • ■最近の研究から■
  • 並木式土器阿高式土器【左 並木式土器(横川町中尾田遺跡)】
    ・上が太形凹線文と押引文
    ・下はヘラ描沈線文

    【右 阿高式土器(福山町一本松遺跡)】
    ※福山町教育委員会所蔵

  • 阿高式土器が成立するまでの九州の土器文化についてみてみますと,南九州を中心に出土する春日(かすが)式土器は前期に位置付けられていました。春日式土器は胴部ですぼまり,口縁部に向けて広がりながら口縁端部でまたすぼまる,という形です。これは,瀬戸内地方に分布の中心を持つ船元(ふなもと)式土器と同じような形であり,以前からその関係が指摘されていました。また,最近の調査成果やその研究では,春日式土器の中には船元式土器の中の一部とほぼ同時期のものがあり,その次に並木式や阿高式がくるということです。これにより,中期の初めから中頃に位置付けられていた並木式土器と阿高式土は後半以降の時期になる可能性も考えられています。阿高式土器は並木式土器の次にくることは間違いないものと思われますが,並木式土器の系統や発生については今後研究しなければならない問題です。

    現在のところ,鹿児島県では中期の遺跡は少なく,一つの遺跡においても多量の遺物が出土する例は極端に少ないです。このことは東日本の状況と比べて対照的です。これらの要因については,今後の調査例の増加や研究の進展に期待したいと思います。
  • (文責)井ノ上 秀文