鹿児島県上野原縄文の森 (公財) 鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター (公財) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター
MENU

鹿児島県上野原縄文の森

鹿児島県上野原縄文の森 HOME 公財 鹿児島県文化振興財団鹿児島県上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター 公財 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター

考古ガイダンス第40回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第40回 未来への懸け橋
  • ■見事な4連アーチの西田橋■
  • 西田橋右岸の石橋創建時の反力石と明治43年の石橋改修時の土留石垣西田橋は4連アーチの見事な石橋で,甲突川に架(か)けられていた五石橋の中の一つです。肥後(現在の熊本県)の石工(いしく)岩永三五郎(いわなが・さんごろう)らを招いて架けられました。

    この橋は鹿児島城(鶴丸城)内への表玄関として重要な位置にあり,明治初期まではそのたもとに御門(ごもん)が建てられていました。欄干(らんかん)には青銅の擬宝珠(ぎぼし)柱がつけられ,ほかの四石橋より格式高くつくられていました。
  • 【写真 西田橋右岸の石橋創建時の反力石と明治43年の石橋改修時の土留石垣】
  • 平成5年8月6日の集中豪雨は未曾有(みぞう)の大洪水を引き起こし,甲突川五石橋のうち新上橋(しんかんばし)と武之橋を流出させました。
  • そのため,甲突川の抜本的な河川改修事業により移設されることが決定し,西田橋たもとの調査が行われました。この調査によって,石橋が架けられる前にあった木製の橋のころ,石橋が作られたころ,明治時代に改修されたころ,の各時期の遺構がそれぞれ発見されました。
  • ■最新装備の薩摩藩「集成館」■
  • 明治5年,祇園之洲砲台場と浜町西田橋の移り変わりは,明治維新に関わった人物たちとも深い関係があります。ここではその基盤を作った二人の人物を中心に説明したいと思います。
    調所広郷(ずしょ・ひろさと)は,河川改修・財政改革などを行いました。これらの改革は「薩摩の天保(てんぽう)の改革」と呼ばれています。この改革の成功により薩摩藩は50万両を蓄え,富強の藩へと生まれ変わりました。島津斉彬(しまづ・なりあきら)の「集成館」(しゅうせいかん)事業による軍事科学事業もこの改革の成功によって可能となったのです。
  • 【写真 明治5年,祇園之洲砲台場と浜町(尚古集成館)】
  • 河川改修事業では,甲突川の土砂で天保山(てんぽざん)を,稲荷川の土砂で祇園之洲(ぎおんのす)を築いて水害を防ぐことに貢献しました。この時に甲突川の五石橋も架けられました。

    天保8(1837)年にアメリカ船が佐多・山川沖に現れると対外的に緊張状態となり,数個所に砲台(ほうだい)が置かれました。そのうちの一つが祇園之洲砲台です。この砲台は仙巌園(せんがんえん)に隣接した工場群「集成館」の反射炉(はんしゃろ)で鋳造(ちゅうぞう)されたものでした。
  • ■国内最大規模の反射炉■
  • 「集成館」の反射炉跡は鹿児島市教育委員会によって調査されました。この時発見されたのは,3基建設された反射炉のうちの2号基と考えられています。2つの炉を持ち,国内最大の規模であったことが明らかになりました。

    西洋の技術を使った反射炉の建設は,島津斉彬が第28代藩主になって最初に手がけたものです。これを用いることで,これまで日本の技術では不可能だった鉄製大砲の鋳造が可能になりました。そのすぐ横には,わが国初の溶鉱炉(ようこうろ)が造られました。

    これにより,品質にばらつきのない鉄を生産することができ,高品質の鉄製砲が造られました。また,火薬製造なども行われました。鹿児島市教育委員会によって調査された滝ノ上(たきのかみ)火薬製造所はその一つです。この調査で,火薬の製造施設の可能性のある石組みが発見されました。当時,日本で唯一の大規模な火薬工場であったといわれていますが,一部が調査されただけで詳細は不明です。

    斉彬は明治維新を見ることなく急逝しますが,彼がつくらせた「集成館」などの工場群によって薩摩藩の最新装備は支えられ,やがて明治維新の原動力の一つとなっていきます。これらの装備によって,薩英戦争においても薩摩藩はイギリスよりも旧式の装備ながら善戦することができました。しかし,西欧の科学力をまのあたりにして,これ以後西欧の技術を積極的に取り入れ,近代化を進めていきました。

    産業面においても,慶応3(1867)年にわが国初の洋式機械紡績工場である鹿児島紡績所が操業を開始しました。その建設や技術指導にはイギリス人技師があたりましたが,この時に彼らの住まいとして建設されたのが現在,重要文化財となっている異人館です。
  • ■石橋公園■
  • 西田橋(石橋公園)現代の西田橋は大水害の後,平成の河川改修事業によって移設され,高麗橋・玉江橋とともに石橋公園として公開されています。

    まず平成11年4月に高麗橋と玉江橋の本体部分が完成し,続いて同年10月に西田橋の本体部分が完成しました。この石橋公園の場所は浜町遺跡にあり,砲台の置かれた祇園之洲は稲荷川を隔てた隣に位置しています。
    【写真 西田橋(石橋公園)】
  • また,天保年間(江戸時代)の『鹿児島城下絵図』の中に「抱真院(ほうしんいん)」,「神明社(しんめいしゃ)」,「島津山城殿下屋敷(しまづやましろどのしもやしき)」などがあったとされています。
  • この遺跡は西田橋の移設に伴って調査されました。調査の結果,絵図に描かれた区画や建物・井戸などの跡,当時の椀(わん)や皿などの生活用具が発見されました。さらに,建物の廃材や石を田の字形に並べて埋め立てを行って整地した場所から,当時の生活道具の中でも普通は残りにくい木や竹などで作った道具が数多く出土しました。これら江戸時代の人々の家具や履き物を通じて,当時の鹿児島城下に住んでいた人々の生活がうかがえます。

    五石橋は江戸時代の河川改修によって架けられた橋ですが,そのうち三石橋は移設されることで本来の橋としての役割は全うしました。しかし,未来への懸け橋として子孫に受け継がれていくのです。
  • 用語解説
  • 五石橋 甲突川に架けられていた西田橋と新上橋,武之橋,高麗橋,玉江橋の五つ。
     この中で西田橋は弘化3(1846)年に架けられた。
    仙巌園 鹿児島市吉野町磯にある旧島津家別邸
    反射炉 たき口からの炎と,その炎が天井に反射した熱によって金属・鉱石を溶かすもの。
    木札 墨書された荷札などのこと。
  • (文責)上床 真