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考古ガイダンス第41回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第41回 安定した海辺のくらし -前期の貝塚-
  • ■はじめに■
  • 縄文前期の西海岸の主な貝塚貝塚と言えば,「ゴミ捨て場」あるいは「タイムカプセル」などと言われます。それは,貝塚が昔の人々が食べたものや使った道具などを捨てた場所であると同時に,当時の生活の様子を現代まで伝えてくれる場所だからです。

    鹿児島県の貝塚は,古いもので縄文時代早期(10,000年~6,000年前)後半の隼人町宮坂貝塚がありますが,数が増えるのは縄文時代前期(6,000年~5,000年前)になってからです。出水市荘貝塚・阿久根市波留貝塚,吹上町小野貝塚,金峰町阿多貝塚・上焼田遺跡,西之表市小浜貝塚,中種子町苦浜貝塚などがこの時期のものです。
  • 【図 縄文前期の西海岸の主な貝塚
    (1 荘貝塚,2 波留貝塚,3 薩摩国分寺跡,4 小野貝塚,5 上焼田遺跡,6 阿多貝塚)】
  • ■貝塚と縄文海進■
  • 阿多貝塚近景上の地図を見てください。何か不思議に思うことはないでしょうか。貝塚をつくった人々は貝や魚を食糧としていたはずですが,どうして海岸線から貝塚まで離れているのでしょうか。
    例えば,阿多貝塚は海岸から約4キロの内陸部・標高9メートルの台地縁辺部に位置しています。他の貝塚遺跡も同じように現在の海岸線より離れ,平野部よりも少し高い台地上に形成されています。
    【写真 阿多貝塚近景】
  • これは海岸線の変化がもたらしたものなのです。つまり,この時期は海岸線が貝塚のすぐ近くにあり,貝や魚をより捕りやすい環境にあったことが予想されるのです。
  • 約1万年前から地球は温暖化にむかい,これに伴って海面の上昇が始まりました。海水面の変化は地球の気候と関係があり,温暖になると北極・南極の氷が溶けて海水面が上がり,逆に寒冷化すると氷が発達し下がるという具合です。この地球の温暖化によって海水面が上がり,海岸線が現在よりは陸地に入りこんだことを「海進」と呼んでいます。縄文時代早期に始まる海進(縄文海進)は前期中葉にピークに達し,その後気候が寒冷化し,海岸線は沖の方へ向かっていきます。これを「海退」と呼びます。
  • ■貝塚とアカホヤ火山灰■
  • 貝の出土状況(阿多貝塚)ところで,鹿児島県の貝塚は縄文前期に数が増えたと書きましたが,縄文海進によって海産物を手に入れやすかったはずの縄文早期の人々は,貝や魚を食べていなかったのでしょうか。

    貝塚は食糧とした大量の貝殻を捨てた場合に残り,少量の貝殻は酸性土壌の中では溶けてなくなってしまいます。
    【写真 貝の出土状況(阿多貝塚)】
  • それから考えると,鹿児島の早期の縄文人は貝を食べていなかったというよりは,貝塚を形成するほどの大量の貝をあまり必要としなかったということも考えられます。では,縄文前期になって大量の貝を食糧として利用したのはなぜでしょうか。それは,火山活動による自然環境の大きな変化と関係があるとも言われています。
  • 鹿児島県には桜島をはじめとして,火山がいくつもあります。その中の硫黄島(いおうじま)・竹島付近にある「鬼界カルデラ」の大爆発により,南九州は大量の火山灰に覆(おお)われ,大きな打撃をうけました。約6,400年前(縄文早期の終わり頃)に噴出したこの火山灰は「アカホヤ火山灰」とよばれ,遠く関東地方まで達していることが確認されています。

    この結果,動植物はもちろんのこと人的被害も大きかったことが予想されます。それまで森林がもたらせてくれていた木の実や,シカ・イノシシといった動物などの食糧源が大きく減少してしまったと考えられるからです。その後,縄文前期の人々が食糧を求めて海へ向かうのも当然のことだったでしょう。
  • ■貝塚からの出土品■
  • それでは,阿多貝塚をはじめとする貝塚から出土した物から,当時の生活を考えてみましょう。
    まず,食糧としていた貝の種類は,ハマグリとマガキが多く出土しています。これは全国的な傾向です。動物ではイノシシ・シカがほとんどです。イノシシは現在のものと同じくらいの大きさですが,シカは大型であったことが残された骨からわかっています。
  • 轟式土器の破片次に生活用品のなかで煮炊(にた)きに使われた土器は,轟(とどろき)式や曽畑(そばた)式と呼ばれる土器が多く出土します。これらの土器を使って貝や動物の肉を調理していたのでしょう。また,貝や魚を捕る道具と考えられるものも出土しています。

    【写真 轟式土器の破片】
  • 骨格器(右が骨針・左は鏃状のもの)阿多貝塚の骨製の鏃(やじり),荘貝塚のアワビを起こしたりカキを割る道具ではないかと考えられる石器(三日月形石器や円盤形石器)などがそうです。編み物に使われたのではないかと考えられる骨針も阿多貝塚から出土しています。もちろん,木の実などをすりつぶしたりした磨石(すりいし)などもあります。

    【写真 骨格器(右が骨針・左は鏃状のもの)】
  • けつ状耳飾り(半分欠けている)両遺跡からは「けつ状耳飾」(けつじょうみみかざり)と呼ばれるアクセサリーが出土しています。アクセサリーを身につけるのは,縄文後期(約4,000年~約3,000年前)が全盛期といわれていますが,縄文前期にもおしゃれの習慣があったわけです。一か所に切れ目のある輪状の耳飾りですが,うすい板状のものに孔(あな)をあけ,溝をつくる高度な技術を持っていたことに驚かされます。
    【写真 けつ状耳飾り(半分欠けている) 】
  • 阿多貝塚と荘貝塚は,それぞれ縄文前期だけでなく,その後も生活していた跡が残されていることから,環境的にも住みやすい安定した場所であったことと考えられます。
  • ■おわりに■
  • このように単なる「ゴミ捨て場」とも言われていた貝塚ですが,現代の我々にいろいろと有益な情報を与えてくれます。このことはおそらく縄文人が意図してやったことではないでしょう。

    ところで,現代人はどうでしょうか。未来に悪影響を与えるであろうと予想されることを子孫に残すことはないでしょうか。もう一度,日々の生活を見つめなおす必要があるかもしれません。我々は,意図して有益なものを子孫に残してやりたいものです。
  • (文責)前野 潤一郎