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考古ガイダンス第43回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第43回 隼人が用いた土器
  • 鹿児島県内の遺跡をまとめた最初の『遺跡地名表』を見ると,弥生時代後期と書かれた遺跡が非常に多いことがわかります。また,その時期の土器の形式名を調べてみると,「成川式土器」という名称の土器の記述がずいぶんと多いことに気が付きます。それこそが「隼人が用いた土器」といわれる土器なのです。昭和32年に発見された成川遺跡出土の土器を標準とする土器群です。
  • ■成川遺跡■
  • 成川式土器出土の主要遺跡薩摩半島の南端の指宿市市街地から旧国道を南に行くと山川の港が見えてきます。鹿児島の内部にあって,外海に背を向けた天然の良港です。その山川湾を左に見ながら狭い切り通しを右に入ると,成川の集落が広がってきます。

    集落を見下ろす南の端の小高い丘の中腹をバイパスが通り,かつてここに成川遺跡がありました。そこは,隼人たちの「奥津城(おくつき)」,共同墓地でした。

    昭和32年,山川湾の埋め立てのためにこの地の土を掘って利用することになりました。近くを通り掛かった人が,人の骨らしい物がおびただしく散乱していることに気付き,指宿高校の教師に通報しました。

    この教師は現地を確認し,ことの重大さを認識し,直ちに鹿児島県教育委員会(以下県教委)に連絡しました。県教委は直ちに工事を一時中止させると共に,短期間での調査を行うこととしました。
  • 調査の結果,ここは弥生時代ごろの墓地であること,遺跡は広域に広がることなどがわかり,貴重な遺跡であることから調査団組織による発掘調査が必要であることが判明しました。この結果を受けて,翌33年に文化財保護部(現在の文化庁)が主体となって本格的な調査が行われました。そして,200数十体にもおよぶ人骨が出土して,この時期としては全国的にも有数の墓地として知られるようになったのです。
  • 成川遺跡の土坑墓群報告書は調査が行われてしばらく経って刊行されました。その中で,遺跡の時代に触れ,この墓地が弥生時代中期から営まれているのは事実ですが,その下限については,地元の考古学者と中央の考古学者とでは若干見解が異なっていたようです。

    【写真 成川遺跡の土坑墓群(奥手に見えるのは開聞岳)】

    それは,ここから大量に出土した,当時の呼び方で『薩摩式土器』という形式の土器がどの時代まで使われていたか,という問題でした。地元の学者は,弥生時代からの土器の変化からこれを弥生時代後期に位置付け,これに対して中央の学者はこの土器に土師器に類似した土器が伴うことから古墳時代まで下げることを主張しました。
  • その結果,この遺跡をどの時代の遺跡と呼べばよいのかという戸惑いが起こってしまったといえます。そのことは,ここで大量に出土し,この成川遺跡を指標とする『成川式土器』をどの時代・時期の土器と呼べばよいのか,ということにも問われることになりました。
  • ■成川式土器■
  • 成川遺跡で出土した大量の土器の大部分は,壺と高坏(たかつき)と呼ばれる種類の土器でした。これは,遺跡が(共同)墓地という性格によるものと考えられます。といいますのも,死者との別れに際して“あの世”での新しい生活に“この世”から持っていってもらうお供え物を盛るものとして添えられたものだからです。日常的に使っていたカメなどがほとんど見られないのもそのためでしょう。
  • ■成川式土器の形の変化■
  • 器形の時代変化成川式土器は,南九州の弥生時代の土器の形から変化を遂げていったと考えられています。ここでは,主として形状変化の割合が明瞭に追い掛けられるカメについて述べることにします。壺や高坏等については図に載せました。

    成川遺跡にもあった弥生時代中期のカメは,口が本体に対してほぼ直角になるように付いており,“逆L字形”と呼ばれる形状となります。また,底にはどっしりとした高い円柱状の“あし”が付きます。

    これが後期になると,本体に対して口が斜めに上がる,つまり,上向きになる“く字”の形状となります。また,底も高い上げ底となって広がってきます。

    この辺りから南九州が文化的に停滞していたといわれるわけですが,この弥生時代後期の土器の形状が,基本的に変わらず,口の部分が内側に倒れてくる“内傾”あついは“内彎(ないわん)”と呼ばれる,見た目には極めて小さな変化でしかなくなってきます。

    そしてこのことが,成川遺跡出土の土器を弥生後期と見るか,古墳時代と考えるか,という当時の見解とつながっていたのです。
  • ■成川式土器の終末■
  • 成川遺跡の土坑墓群の遠景このようにして,上げ底となる土器の一群が“隼人の用いた(時代の)土器-成川式土器”と呼ばれ,南九州に定着するに至ったわけですが,今度はこの土器がいつまで使われたか,という問題が起こってくることになりました。これは,当然といえばあまりに当然ではありますが,つい最近まで「成川式土器は,すでに土師器や須恵器を伴って出土すること(が多い)ことから,古墳時代の地方色の濃い土器であろう」と考えられていて,成川式土器イコール古墳時代として決定したかにみえていました。
  • 【写真 成川遺跡の土坑墓群の遠景】
  • 成川遺跡土坑墓から発見された人骨しかし,ことはそれほど簡単にはいきませんでした。成川式土器の“本場”成川からほど遠い,指宿市橋牟礼川遺跡から奈良時代に噴出した火山灰に覆われた層から成川式土器が見つかったのです。当時の日本の中央部からもたらされた須恵器と同じ層からの出土でした。

    【写真 成川遺跡土坑墓から発見された人骨】
  • こうして,遺跡の発掘という地道な調査と運命的な出会いという幸運によって,この土器が奈良時代まで使用されていたことが判明しました。時あたかもこの南九州の地が,“隼人の国”と呼ばれていた時代でした。
  • 弥生時代後期からほとんど変わることのない土器の形,500年程を祖先から受け継いだ形の土器で過ごしたわたしたちの地域の先人たちは,どのような感慨を抱いて“日本”という統一的な国家の中に組み込まれていく様を見つめていたのでしょうか。

    壺や高坏といった中央からの文化や文物を受け入れる一方,カメに象徴されるような意固地とも思える地元の道具を自らの“遺産”として子や孫に,そして,その子孫たちに引き継いで行こうとしたと考えるのは,自分だけの感傷にすぎないのでしょうか。奈良時代の終わりから平安時代になると,そこは全国共通の土師器しか見られなくなり,隼人達の虚しい抵抗は終末を迎えました。
  • (文責)繁昌 正幸