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考古ガイダンス第44回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第44回 アジアに開ける交易
  • ■中世の交易と持躰松遺跡■
  • 持躰松遺跡中世の交易は私たちが考えるよりもはるかに広い範囲で行われていました。現代の長距離輸送はトラック輸送・船舶輸送・航空輸送といった陸・海・空の手段によってなされています。その中の大部分は陸の輸送手段であるトラック輸送であるとも言われています。
    中世の輸送手段は馬・船・などによる輸送で,陸・海の二種類でした。現代とは異なり長距離輸送は船舶輸送が主でした。このことは全国各地の中世の遺跡から,海を隔てた中国からの輸入陶磁器が大量に出土することからも理解できます。
  • 【写真 持躰松遺跡と万之瀬川・吹上浜】
  • 金峰町には持躰松(もったいまつ)遺跡があります。金峰町と加世田市の境界を流れる万之瀬川(まのせがわ)沿いに立地する遺跡です
  • 中世の12世紀から13世紀頃の輸入陶磁器・国産陶器などが鹿児島県内では比較的大量に出土しています。12世紀後半の頃は平氏政権の積極的な施策により中国の宋の貿易船が瀬戸内海を通って摂津(せっつ)の大輪田泊(おおわだのとまり)まで入るようになりました。その航路の途中には肥前や薩摩にも寄港していたといわれており,持躰松遺跡周辺は万之瀬川を背景とした広域な交易に関する場であった可能性も考えられます。

    この頃,現在の日置郡一帯に強い勢力を持っていたのは阿多氏です。この一族は肥前~薩摩~南西諸島とのつながりを持っていたことから,持躰松遺跡は阿多氏に関係する可能性もあります。
  • ■南島系陶質土器とカムィヤキ古窯跡■
  • 同じ金峰町内に位置する小薗(こぞの)遺跡では溝状遺構によって囲まれた区域内から少なくとも5軒以上の掘立柱建物跡と竪穴遺構が発見され,持躰松遺跡とほぼ同時期の陶磁器などが出土しています。中国との交易になんらかの形で関与していた有力者の関連施設であった可能性のある遺跡です。また,この2つの遺跡からは南島との交易に関わるものが発見されています。「南島系陶質土器(なんとうけいとうしつどき)」「類(るい)須恵器」などと呼ばれているもので,南西諸島で多く出土しています。現在のところ出土地をみると最南端は沖縄県波照間(はてるま)島,最北端は出水市出水貝塚です。今後,さらに発見例が増える可能性が高いと思われます。
  • 窯の断面模式図この南島系陶質土器は徳之島伊仙(いせん)町のカムィヤキ古窯(こよう)跡群で焼かれたものです。
    カムィヤキ古窯跡群は1977年に発見され,11世紀から13世紀にかけて使用されていたことが明らかになりました。また,これまでの調査によって東西約2km,南北約1kmの範囲に数基~10数基の窯を単位とした11グループの古窯支群が確認されました。

    【図 窯の断面模式図】
  • これらの大半は国有林の山中にあり,保存状態は極めて良好です。南島の中世の交易を考える上でもこれからの調査・研究が期待されます。
  • ■沈没船の積荷か?倉木崎海底の遺物■
  • 倉木崎海底遺物の様子大島郡宇検村倉木崎(くらきざき)の海底からはサンゴや海藻が付着した青磁・白磁の碗・皿などの破片が多数発見されました。これらの陶磁器は12世紀後半から13世紀前半の頃の遺物で,南宋の龍泉窯(りゅうせんよう)などの窯で焼かれたものが中心を占めています。

    【写真 倉木崎海底遺物の様子】

    南宋で焼かれた磁器は日本をはじめ,東南アジアなどへも流通しており,重要な交易品であったことがわかります。持躰松遺跡などで発見されている輸入品も南宋産のものです。これらの遺物が海底に散乱した状態で眠っていることについては,交易船の沈没か,交易船がなんらかの理由で積荷を廃棄したかのどちらかが考えられます。
  • 南西諸島で大量に発見される中国製の陶磁器は12世紀以後のもので,どちらにしてもこの頃に交易船が行き来していたことは間違いなさそうです。この背景には12世紀後半に中国が宋から金・南宋へ移行することと,中国の商業集団の活発化の影響が考えられます。この時に南島は停泊地・給水地となり,硫黄・ヤコウガイなどが交易品とされたでしょう。これらの交易活動によって物や情報を吸収し,新しい文化を築いていくのです。
  • ■アジアへ開ける「大交易時代」■
  • 持躰松遺跡の交易圏持躰松遺跡では中国と日本の商人による商業活動の痕跡が14世紀頃までみられます。その後の持躰松遺跡は畠地となり交易の跡は見る影もなくなくなってしまいます。この持躰松遺跡などに代表される時期を経て「大交易時代」と呼ばれる14世紀末から15世紀中頃にかけて琉球が中継貿易でおおいに栄えた時代へと突入し,南西諸島だけでなく日本全体ひいては東南アジアまで含めた大きな地域の交易が行われるようになるのです。

    持躰松遺跡をはじめとする万之瀬川流域の調査はまだ続きます。これから明らかになることや新たな事実の発見などもあるでしょう。
  • 複雑な様相を持つ中世の交易に関する研究はまた新たな展開を見せるかもしれません。これからも中世から目が離せません。
  • 用語解説
  • 摂津 現在の大阪府と兵庫県の一部
    ヤコウガイ 螺鈿(らでん)細工の原料となる巻き貝。奥州平泉でも出土例がある
    硫黄 火薬の原料になる
  • (文責)上床 真