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考古ガイダンス第45回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第45回 橋牟礼川遺跡
  • ■火山灰に埋もれたムラ■
  • 開聞岳大宰府が報告してきた。去る3月4日の夜,薩摩国従四位上開聞の神が鎮座する山の頂に火があり,真っ赤に焼けた。雷が轟き夜通し振動した。噴火の音や地響きは,100里以上離れたところでも聞こえ,社の近くの人々は恐怖のあまりふるえて,肝をつぶした。明け方になっても天気は陰うつで,昼間も夜のように暗かった。噴煙は天をおおい,灰や砂が雨のように降った。色は墨のように真っ黒で,一日中止むことはなかった。
    【写真 開聞岳】
  • 噴煙は天をおおい,灰や砂が雨のように降った。色は墨のように真っ黒で,一日中止むことはなかった。その砂粒が降り積もった厚さは,あるところでは5寸,またあるところでは1寸あまりであった。夕暮れ時には,砂粒に変わって雨が降ってきた。この雨にぬれた作物は皆枯れてしまい,川の水は砂粒を含んでさらに濁った。無数の魚や亀が死んだ。人々の中にはその死んだ魚を食べたものがおり,ある者は死に,ある者は病気になった。
  • ■建物が倒れる様子■
  • 建物が倒れる様子1
    ①貞観16年3月4日,開聞岳噴火。火山礫が降下し,建物周辺に堆積する。
    木の埋没1
    根の近くの盛り上がりにそって火山礫が堆積する。
    建物が倒れる様子2
    ②火山礫の後,細粒の火山灰が降下,建物の屋根及び周辺に堆積する。
    木の埋没2
    細粒の火山灰が木に堆積する。
    建物が倒れる様子3
    ③火山灰降下途中より,雨も降り出す。堆積した火山灰の重みで建物が倒れる。
    木の埋没3
    木は立ち枯れたまま,火山灰の中に埋没していく。
    建物が倒れる様子4
    ④建物崩壊後,細粒の火山灰のみが水と一緒に建物内部に侵入する。木材は腐食し,空洞化する。
    木の埋没4
    木は腐食し,中に細粒の火山灰が侵入する。
    これは今から約1,100年前,貞観16年3月4日(西暦874年3月25日)開聞岳が大噴火した時の様子で,『日本三大実録』という古文書の中に記されている内容です。環境の変化や人々の様子など詳しく記録されており,火山災害の恐ろしさが伺えます。

    指宿市に国指定史跡である橋牟礼川遺跡があります。この遺跡を初めて発掘した京都帝国大学の浜田耕作博士は,「先史時代のポンペイ」と呼んでいます。

    この遺跡で1988年の発掘調査時に,火山灰による倒壊家屋が発見されました。発掘調査によって明らかになった災害の様子は図の通りで,先ほどの『日本三代実録』の史実と一致します。当時の様子を文字と地中の両面から知ることができる貴重な資料です。

    このほかにも災害で埋まった村の跡が発見されています。畠跡では畝(うね)跡と道跡,杭列が見つかっています。さらに,古墳時代から流れていた川が,噴火の際に起きた土石流で埋まっていました。

    これは先ほどの『日本三代実録』の中の「川の水が-」に当てはまります。また,この遺跡からは役所があったのではないかと考えられる墨書土器,硯(すずり),刀子(とうす),青銅製の丸鞆(まるとも)などの遺物も多数発見されています。

    さて,災害が起こったその後はどうなったのでしょうか。このことも『日本三代実録』の中に次のように記されています。
  • 占ってみたところ「神が封戸(ふこ=神社の維持財源として税を納める戸)を求めている。神社が穢(けが)れている。よってこのようなたたりをなした」という結果が出た。そこで天皇は,勅(命令)を発し,封戸,20戸を開聞神に奉ることにした。

    政府はこの災害を重く受け止め,対策に苦慮したようです。
  • 火山灰の重みで倒壊した建物跡また,この遺跡では,古墳時代から奈良時代の貝塚が発見されています。しかし,この災害後の貝塚は,全く見つかっていません。住民たちは,復興のめどが立たず,この地を離れたのでしょうか。それとも魚や貝が全くとれなくなってしまったのでしょうか。その真相はまだ明らかになっていません。

    【写真 火山灰の重みで倒壊した建物跡(白線方形の部分)】
  • このように約1,100年前の開聞岳の大噴火は周辺の住民の家屋や田畑を一瞬のうちに呑みこみました。ある者は家族や仲間を失ったかもしれません。人々は,その後何十年もの長い間苦しい生活を強いられたに違いありません。
  • 大正時代には,桜島の大噴火がありました。かなりの被害を受けたことは記憶とともに記録として残っています。数年前,長崎県の雲仙普賢岳も大爆発を起こしました。火山弾が降り注ぎ,火砕流が流れ出し,火山灰が降り積もりました。さらにそれが雨によって土石流となり,人々の生活を一瞬にして呑み込みました。この時の様子は,新聞やテレビで報道され,記憶に新しいです。最近も北海道の洞爺湖畔にある有珠山が火山活動を活発化し,周辺の住民は避難活動を余儀なくされています。このように火山災害は,火山大国日本において,大昔から避けては通れないものです。その中で過去にいつ,どのような被害があり,どのように対処し復興したかを知ることは,これからの災害対策の1つとして重要な手掛かりとなるに違いありません。
  • ■火山災害の多い鹿児島■
  • 開聞岳付近の地層福山町の藤兵衛坂段遺跡では,文明ボラに覆われた畠跡が広い範囲で発見されています。この文明ボラについては,『三国名勝図会』に1470年代の桜島の噴火活動の様子として記されています。福山町・大隅町などに多く見られ,30~50センチメートル積もっており,かなりの被害があったと予想されます。文明の大噴火は今まで17回あった桜島の大噴火の1つです。
  • 【写真 開聞岳付近の地層】
  • また,全国でも有名なアカホヤ,シラスも鹿児島県内の火山噴火によるもので,それぞれ鬼界カルデラ(硫黄島南沖),姶良カルデラ(鹿児島湾奥)を起源としています。
  • シラスに関しては,北は北海道南部,東は朝鮮半島に至るまで広範囲にわたって確認されており,地球規模の爆発だったことが分かっています。このほかにも池田カルデラ(池田湖),阿多カルデラ(鹿児島湾口)など鹿児島では大昔から多くの火山活動があったのです。
  • ■縄文土器と弥生土器■
  • 弥生土器1916年。その頃,縄文土器(当時アイヌ式土器と呼ばれていた)と弥生土器の違いは,地域の違い,つまり民俗の文化の違いという考え方が有力でした。しかし,同年夏,当時の考古学会を揺るがす歴史的な発見があったのです。
    旧制志布志中学校に通う西牟田少年が,指宿に帰省していた時のことでした。少年が近所を歩いていると,あるところで2種類の土器を見つけました。これは何の土器だろうと思った少年は,その土器を学校に持ち帰り,瀬之口伝九郎先生に見せたところ1つは縄文土器(指宿式土器),1つは弥生土器(山ノ口式土器)であることがわかりました。
  • 【写真 弥生土器の破片】
  • 縄文土器それから1年後,喜田貞吉博士が同校を訪れました。博士は,当時『土器の違いは民俗の文化の違い』という考えをもっていた有名な考古学者です。2つの土器を見た喜田博士は,同じ場所にあるのは不思議だと思い,後日現地を踏査してみました。さらに地元の学者にも調査を依頼しました。このことは喜田博士の『九州旅行談』の中に記されています。調査の結果,遺跡の存在が確認され,翌年1月,考古学雑誌第8巻第7号で紹介されました。世間はその報に大いに沸きました。
  • 【写真 縄文土器の破片】
  • 1918年1月。喜田博士からその話を聞いた京都帝国大学の浜田耕作博士は,宮崎に出張の際,指宿まで足を延ばし,半日だけでしたが発掘調査を行いました。浜田博士は,『土器の違いは時代の違い』という考えをもっていた考古学者です。博士は翌年の1919年4月にも,再び調査を行っています。
  • この発掘調査で驚くべき事実が明らかになりました。それは,1つの火山灰層をはさんで,上に弥生土器,下に縄文土器が発見されたのです。これにより2つの土器の違いは民族の違いではなく,時代の違いであることが分かったのです。もちろん,日本で最初のことであり,この発見により日本の歴史は縄文から弥生へと移り変わっていくという説が証明され,現在の考古学の基盤となっています。

    大正13年(1924年),世間に大きな衝撃を与え,学術的にも重要な役割を果たした橋牟礼川遺跡は国の指定を受け,『国指定遺跡』として保存・整備・活用され今日に至っています。
  • 用語解説
  • ポンペイ イタリアにある町。ヴェスヴィオ火山の噴火により埋没した。
    墨書土器 墨で文字や記号の書かれた土器。
    刀子 ナイフ・小刀。武器ではなく日常利器としての機能が強い。
    丸鞆 平安時代の役人や貴族の冠位を表すベルトの装飾品。
    貝塚 人が貝殻を廃棄した場所。
  • (文責)西村 喜一