鹿児島県上野原縄文の森 (公財) 鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター (公財) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター
MENU

鹿児島県上野原縄文の森

鹿児島県上野原縄文の森 HOME 公財 鹿児島県文化振興財団鹿児島県上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター 公財 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター

考古ガイダンス第7回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第7回 早期に展開した集落
  • ■加栗山遺跡の集落 [ムラ]■
  • 博士と中学生の文太君の会話です。
  • 文太‥「霧島市の上野原遺跡は,素晴らしい遺跡であるということがわかったけれど,縄文太時代早期の集落[ムラ]は他にもあったの?」

    博士‥「いい質問だね。下の地図を見てごらん。鹿児島県でこれまでに発見されている縄文時代早期の遺跡はこんなにあるんじゃ。鹿児島市の加栗山遺跡は特に有名で,いろいろな本にも登場しておる。」
  • 博士と文太君の会話 1博士と文太君の会話 2博士と文太君の会話 3博士と文太君の会話 4博士と文太君の会話 5博士と文太君の会話 6
  • 文太‥「わあ,すごい。でも竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)のある遺跡となると,そんなに多くないんだね。」

    博士‥「ふむ,確かに当時の人口は今より少なかったし,まだ調査されずに土の中に眠っている遺跡もたくさんあるじゃろうからのう。しかし,全体の様子となるとそう極端には変わらないだろうから,これらの資料から何が読み取れるか考えてみよう。」

    博士‥「まず,加栗山遺跡の図を見ながら,当時のムラの様子を調べてみよう。上野原遺跡と比べてみて,どんなことに気がつくかな?」
  • 加栗山遺跡の遺構配置図 1加栗山遺跡の遺構配置図 2加栗山遺跡の遺構配置図 3加栗山遺跡の遺構配置図 4
  • 文太‥「えーっと,うん,数は少なくなるけど竪穴住居跡がいくつもある。それに連穴土坑(れんけつどこう),集石(しゅうせき)もだ。竪穴住居跡の形は長方形に近いのがあることや,柱穴が竪穴のなかにあるのが違うかな。」

    博士‥「そうだね。竪穴住居の造りはちょっと違うようだけど,竪穴住居と連穴土坑と集石,この三つがそろっていることが大事なんじゃ。それに,台地の縁に近くて水場が斜面を下った所にあるというのも同じじゃね。」

    文太‥「三つの物がそろっているって,何か意味があるんですか?」

    博士‥「考えてみてごらん。竪穴住居を建てるには大変な手間がかかる。まず,住居を造る場所に生えている木を切り,地面を整地して竪穴を掘る。それから木やツルを切ってきて骨組みを造り,木の枝葉や草などで覆って,やっと完成じゃ。上野原遺跡の復元住居の場合は,一棟につき大人3~4人で6日間もかかっておる。移動しながら生活していた旧石器時代のテントのような物とは,えらい違いじゃ。」

    文太‥「ふーん。今と違って石器しかなかった時代にそんな苦労をしてまで住居を建てるなんて,やっぱりそこに長く住んでいた証拠といえそうですね。」

    博士‥「そう,それにな,これらの住居は何回か建て直されてもおるようじゃ。加栗山遺跡の竪穴住居跡は17基発見されておるが,近すぎたり重なったりしている所もあれば拡張されている所もある。中には住居跡の竪穴を利用して連穴土坑が造られている所もあるぐらいじゃよ。もっとも,そうなると同時期にあった住居の数も減ってしまうがのう。5~6棟ぐらいではなかったかという説もある。」                         

    文太‥「手入れをすれば何年も住める住居が繰り返し建てられたということは,よっぽど住みやすい場所だったんだね。ムラもそれだけ長くあったということかなあ。ところで,あとの連穴土坑と集石については?」

    博士‥「そうじゃった。連穴土坑は以前に紹介されたように,燻製(くんせい)を作るための施設と考えられておる。そのままではすぐ腐ってしまう肉や魚などを長く保存できるようにする技術じゃな。これのおかげで,えものがたくさんとれたときに燻製にしておけば,食料難におちいることも少なくなり,ぐっと暮らしやすくなったことじゃろう。」

    文太‥「そうやって作った燻製は,どうやって保存しておいたのかなあ。ひょっとしたら,新巻鮭みたいに住居の中に吊しておいたのかもしれないね。いつでも食べられるし,ネズミにかじられたりカビが生えないように見張っておくことができるもん。」

    博士‥「はっはっは。案外そうかもしれんね。さて,集石の方じゃが,石蒸し料理を作る施設であることは文太君も知っておるの。」

    文太‥「はい。石をたくさん集めて火で焼いて,その熱で肉や魚などを蒸すんでしょ。上に土をかぶせるんだよね。体験学習でやったことがあるよ。」

    博士‥「そうそう。まあそれ以外に,こんな説もある。つまり,地面を掘りこんで革をしき,水を入れてから焼け石を入れれば湯沸かしもできるというんじゃな。一度に大量のお湯が必要なとき,たとえば,ドングリなどのアク抜きや食品などの加工処理に大いに役立ったことじゃろう。お湯を浴びることもできたかもしれんよ。」

    文太‥「ふーん。遺跡はいろいろなことを考えさせてくれるんだね。縄文時代の人の知恵ってすごいなあ。」
  • ■集落 [ムラ] のテリトリー■
  • 文太‥「ところで博士,竪穴住居・連穴土坑・集石の三点セットがそろったムラの遺跡よりも,どうして,その他の遺跡が多いの?」

    博士‥「それについては,こんな説があるんだよ。さっきの遺跡分布図をよく見てみると不思議なことに気がつく。それは,ムラを中心にして,その他の遺跡が周囲を取り巻いているように見えるというんじゃ。これは彼らのテリトリー[なわばり]を示しているんじゃないかとな。」

    文太‥「えーっ!それってどういうこと?」

    博士‥「つまり,こういうことじゃ。三点セットがそろったムラは彼らの根拠地であって,生活の中心であることに変わりはない。しかし,いくら条件の良い所にムラを定めたとしても,ムラの人々みんなの食糧を手に入れるためには,ムラの近くを探して回るだけでは足りなくなる。初めは良くても,しだいに人口が増え,木の実が不足し,動物たちもムラを避けるようになるじゃろう。そこで,ある程度遠くまで行かなければならなくなるという訳じゃ。そこては,テントのような仮小屋でキャンプしながら,狩りや採集に出かけ,集めた食糧をムラまで持って帰りやすいように,ある程度の加工処理をしていたんじゃなかろうか。三点セットのうち集石だけの遺跡が,かなりの数あることも,それを教えてくれているような気がするのう。もちろん一か所だけのキャンプ地ではあるまい。いくつもあったはす゜じゃ。」

    文太‥「そのテリトリーって,どの位の広さがあったの?」

    博士‥「それについては,まだ良くわかっていないんじゃ。ただ,ヒントはある。鹿児島市周辺の遺跡で見てみよう。加栗山遺跡・前原遺跡・鹿大桜ヶ丘団地遺跡,この3つの遺跡の位置関係はどうなっている?」

    文太‥「あっ,同じぐらいの距離になっている!ええと,10キロぐらいかな。」

    博士‥「ふむ,これが1つの目やすということになるの。ただ,となりのムラとの境は,川や谷・山や崖などといった自然地形の影響も大きかったろう。前原遺跡と永迫平遺跡との距離はもっと近いしのう。それに,テリトリー内の食糧資源が少なくなって,ムラを移した場合も考えられる。」

    文太‥「そうなると,たくさんの遺跡のうちどれとどれが,同じ集団の人々の残した遺跡であるか確かめないといけないね。どうすればわかるのかなあ?」

    博士‥「そのために何人もの研究者が,土器や石器などの遺物・土坑などの遺構を調べているんじゃよ。同じ型式の土器でも,作った人や集団によって全体の雰囲気や模様が微妙に違うからのう。」

    文太‥「へえー。考古学って,遺跡を掘るだけじゃなくてその後の仕事も大事なんだなあ。ぼくも,いろんな遺跡を見て回りたくなったな。」

    博士‥「鹿児島県立埋蔵文化財センターや各市町村の教育委員会に問い合わせてみてごらん。親切に教えてくれることじゃろう。」

    文太‥「はい。人類の歴史や未来について考えるいい機会になりそうですね。」
  • 永迫平ムラの想像図 1永迫平ムラの想像図 2
  • (文責)藤崎 光洋