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鹿児島県上野原縄文の森

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考古ガイダンス第8回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第8回 南の先駆性を示す上野原遺跡
  • ■今も昔も桜島■
  • 錦江湾に浮かぶ桜島。鹿児島と言えば最初に思い浮かべる風景とはそのようなものかもしれません。鹿児島のシンボルとでも言うべきその島は,今なお活発な火山活動が続いています。火山灰は周辺地域へ降灰をもたらし,様々な方面で「鹿児島」に多大な影響をあたえています。

    ・・・今からおよそ9,500年前,大規模な桜島の噴火活動がありました。その時の火山灰はP-13火山灰と呼ばれています。霧島市上野原遺跡では,この火山灰に埋もれた竪穴住居跡や連穴土坑などが検出され,このことで集落の時期が特定されました。現在,遺跡の一部は平成11年に国の史跡に指定され埋め戻されています。

    上野原遺跡が最初に発見されたのは昭和61年に遡ります。平成9年度までに数々の時代の様々な遺構や遺物が発見され,今は「上野原縄文の森」で再び甦りました。ここでは,縄文時代早期の上野原遺跡について紹介していきたいと思います。
  • ■国内最古・最大級の遺跡■
  • 竪穴住居跡検出状況上野原台地の北側斜面(第4工区)で発見された約9,500年前の集落跡は,竪穴住居跡・連穴土坑・集石・土坑・道跡などで構成されています。まず,竪穴住居跡52軒が検出されました。この軒数だけを聞くと大規模なムラと思われますが,このうち一時期を構成するものは,10軒程度と考えられています。しかし,竪穴住居跡の埋土を詳細に見ていくと,この10軒の竪穴住居跡内にあるP-13火山灰の堆積状況に違いが見られ,将来的には細分が出来そうです。
  • 【写真 竪穴住居跡検出状況】
  • 次に,連穴土坑と呼ばれる遺構16基が検出されました。用途としては,瀬戸口望氏が燻製作りの施設であるという説を打ち出して以来,実験考古学の立場などからその説を補強する実験結果が得られています。

    この連穴土坑内にも竪穴住居跡と同様にP-13火山灰が堆積しているものもあり,自然埋没の過程で火山灰が堆積したことが伺われます。また,集石は39基が検出され,用途としては石蒸し料理を行った調理場ではないかと考えられています。
  • さらに,土坑の集中している場所が二か所検出されています。その集中部分と単体で検出されているものを合わせると約260基を数えます。用途については,食糧の貯蔵や埋葬などに使用されたことが考えられています。また,遺跡内を南北に走る二条の谷状地形がありますが,この谷状地形の部分に遺構が重ならない点などから,道として利用されていたのではないかと考えられています。

    このように土坑のみが集中する場所があることや,谷状地形に他の遺構が重ならない点などから,当時既に土地利用に規則性のようなものがあった可能性が考えられます。このように,集落構造が判る遺跡としては全国でも最古級に属し,人がムラを形成する初期の様相を伺い知る事ができるのです。
  • ■ムラの道具類■
  • 集落内出土の土器(広義の前平式土器)集落を構成する土器は,広義の前平式土器に該当します。この土器は主に,「ハイガイ」や「サルボウ」と言った海に生息する貝で文様を施しています。また円筒形と角筒形という形状があり,特に角筒形は全国でもあまり例はない特殊な土器です。南九州で独自に発生したと考えられ,上野原遺跡の頃が最も美しいといえます。これらの土器は,全体として薄く仕上げられており,当時の土器製作技術の高さが窺えます。この土器は,広く南九州一帯に分布しており,平底の特徴など南九州の独自性が濃くなっています。
  • 【写真 集落内出土の土器(広義の前平式土器)】
  • 石器は,狩りの道具である石鏃の他に植物加工具である磨石・石皿類,伐採具である石斧などが出土しています。量的には,磨石・石皿が非常に多くなっています。当時の植生は落葉広葉樹が中心であったとされることから,遺跡の周辺には木の実の生い茂る豊かな森があったと考えられます。
  • ■豪華絢爛 -成熟した南の縄文文化-■
  • 7,500年前の土器かわって,上野原台地南側(第3工区)の約7,500年前の紹介をします。
    ここでは,2個が対で埋納された壷形土器が出土しました。壷の口縁部に赤色顔料が付着しており,非日常的なものと思われます。したがってこの土器は,祭祀的な行為に用いられていた可能性が考えられています。

    また,周辺から土偶や多種多様な土製品や石製品などが多数出土し,当時から成熟した豊かな精神文化が南九州にあったことを示しています。人々の生活も私たちが想像する以上に安定していたものと思われます。
  • 【写真 7,500年前の土器】

  • 用途不明の石器ところで,このような祭りを行った人々の集落は何処にあったのでしょうか。
    台地南側の発掘調査では,当時の集落跡の発見までは至っていません。これは,遺物の出土が調査区域外まで延びていることから,調査区の外側にあるのではと想定もされています。

    将来周辺部分の発掘調査によって解明されるでしょう。なお,出土した遺物のうち767点は,国の重要文化財に指定されています。
  • 【写真 用途不明の石器】
  • このように上野原遺跡は,縄文時代早期の南九州の文化を考える上で極めて重要な発見が相次いだ遺跡ですが,その後,再びこの地に南九州人が集落を形成するのは約2,500年前の縄文時代晩期に入ってからです。
    その間約5,000年,ムラは何処へ移っていったのでしょうか。
  • 用語解説
  • P-13火山灰 大正3年の火山灰を1番目として新しい順番に並べると13番目の桜島火山灰。
    主に,大隅半島に降灰しています。火山灰層の上下から採取した炭化物から
    約9,500年前のものと考えられています。なお,Pとはパミス(軽石)のことです。
    前平式土器
    (まえびらしきどき)
    鹿児島市吉野町雀ケ宮の前平遺跡出土の土器を基にして河口貞徳氏によって
    型式設定されました。その後の類例の増加によって,研究者によってその名称や
    型式の範疇などに見解の相違があります。
    連穴土坑
    (れんけつどこう)
    大小二つの穴が連結するもので,南九州では縄文時代草創期から見られます。煙道付き炉穴や炉穴とも呼ばれています。
  • (文責)黒川 忠広