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第14回「発掘調査からわかった島津氏の文化力!(能舞台編)」

 島津氏にはどんなイメージをもっていますか? 島津氏は,戦国時代には九州統一まであと一歩まで迫ったり,関ヶ原の敵中突破をしたりと優れた武将のイメージがあるではないでしょうか。また,幕末には西洋の進んだ技術を取り入れて近代化を進めた先進的なイメージもあるでしょう。しかし,それは,島津氏の歴史のほんの一部でしかありません。
 江戸時代になり,薩摩藩の藩主となった島津氏は,鎌倉時代から伝統ある名家で,伝統を重んじ芸能も盛んでした。今回は,そのうち,江戸時代の能と島津氏との関わりについてお話したいと思います。

Ⅰ 島津氏と能との関わり

 下記の表は,上井覚廉日記や薩摩藩の正式な記録である『旧記雑録』から戦国時代から江戸時代までの島津氏の能に関する記事を集めたものです。記録が残っていないものもたくさんあると考えられますので,これはほんの一部にすぎません。
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当主・藩主 年号 西暦 月日 主な出来事 出典
1 島津義久 天正2 1574 8月1日 シテ方一王大夫がこの晩,旧例のとおり,殿中の八朔の賀において式三番を演じる。 上井覚兼日記
2 天正3 1575 4月10日 島津義久が琉球国使僧歓待して催した宴席で一王大夫が舞を演じる。 上井覚兼日記
3 天正10 1582 11月16日 肥後八代に滞陣中,島津義弘の宿における談合のあと,狂言方石原治部右衛門尉が酒宴の席で狂言を演じる。 上井覚兼日記
4 11月21日 八代の伊集院忠棟の宿へ島津義弘・中書家久が臨んだ際の酒宴の席で幸若与十郎の幸若舞とともに石原治部右衛門尉が狂言を演じる。 上井覚兼日記
5 天正11 1583 9月14日 肥後八代滞陣中,上井覚兼が平田光宗(義久家老)・天草鎮尚を饗した席で,一王大夫が謡を謡う。 上井覚兼日記
6 10月26日 八代滞陣中,島津忠辰主催の酒宴の席で幸若舞とともに石原治部右衛門尉が狂言を演じる。 上井覚兼日記
7 11月11日 八代滞陣中,雨中の慰みに石原治部右衛門尉が狂言の物語をする。 上井覚兼日記
8 天正12 1584 1月12日 覚兼たちが殿中に出仕して,義久に年頭を賀した際の宴席で,一王大夫が謡を謡う。 上井覚兼日記
9 1月13日 太鼓方奥山左近将監,島津義久が伊集院忠棟の館に臨んだ際の宴席で鼓を打つ。 上井覚兼日記
10 3月21日 島津義久が宮原筑前守景種の宴に臨んだとき,奥山左近将監が松尾与四郎とともに仕舞の鼓を打つ。 上井覚兼日記
11 6月15日 島津彰久の館で彰久はじめ地下衆に奥山左近将監が鼓の稽古をつける。 上井覚兼日記
12 6月16日 平田光宗の館で奥山左近将監を指南として鼓の稽古があった際,一王大夫が謡を受け持つ。 上井覚兼日記
13 平田光宗の館において,島津彰久・平田増宗・税所助五郎・本田大炊大夫・川崎織部らに,奥山左近将監が稽古をつける。 上井覚兼日記
14 6月27日 本田親貞宅の宴において小謡を謡い,立って舞う。 上井覚兼日記
15 9月12日 城一要(肥後隈本城主)の館へ島津義弘が招請された際の宴席で,奥山左近将監が松尾与四郎とともに仕舞の鼓を打つ。 上井覚兼日記
16 10月2日 島津義弘が名和顕孝(肥後宇土領主)を饗した際,奥山左近将監が仕舞の太鼓をつとめる。小鼓は松尾与四郎,笛は蓑田甚丞。 上井覚兼日記
17 10月3日 肥後出陣中,伊集院忠棟の宿における宴席で,奥山左近将監が仕舞の鼓を松尾与四郎とともにつとめる。 上井覚兼日記
18 八代滞陣中,伊集院忠棟の宿における宴席で,石原治部右衛門尉が乱舞・幸若舞とともに狂言舞を演じる。 上井覚兼日記
19 10月4日 島津義弘が合志親重(肥後合志城主)の館に臨んだ際の宴席で,石原治部右衛門尉とともに狂言の舞を舞う。 上井覚兼日記
20 島津義弘が肥後合志城主の合志親重の宿に臨んだ際の宴席で,石原治部右衛門尉が奥山左近将監とともに狂言舞を演じる。 上井覚兼日記
21 11月29日 島津義久が伊集院忠棟(義久家老)の館に臨んだ際の宴席で,一王大夫が謡を謡う。 上井覚兼日記
22 島津義久が伊集院忠棟の宿に臨んだ際の宴席に客として陪し,奥山左近将監が松尾与四郎とともに鼓を打つ。謡は一王大夫。 上井覚兼日記
23 12月4日 島津義久が弟の義弘を饗した際の宴席で,奥山左近将監が松尾与四郎とともに鼓を打つ。 上井覚兼日記
24 12月6日 足利義昭の使者寿泉が登城して義昭の内書を島津義久に渡した際の宴席で奥山左近将監が松尾与四郎とともに鼓を打つ。 上井覚兼日記
25 12月10日 島津義久が従兄弟忠長の館の老臣らの招宴に臨んだ際,奥山将監が松尾与四郎とともに鼓を打つ。 上井覚兼日記
26 天正13 1585 2月2日 この晩,大勢の若衆が覚兼宅におしよせ,酒宴に及んだ際,一王大夫が謡を謡う。 上井覚兼日記
27 2月16日 島津義久が覚兼の宿に臨んだ際の式三献において,一王大夫が三献めに謡を謡い始め,続いて乱舞となる。 上井覚兼日記
28 9月16日 肥後滞陣中,島津義弘が有馬晴信を饗した際の酒宴の席で,石原治部右衛門尉が今春又次郎の太鼓,松大夫父子・幸若与十郎の舞とともに狂言を演じる。 上井覚兼日記
29 10月14日 一王大夫が覚兼宅を訪れ,小謡などを謡い,酒宴となる。 上井覚兼日記
30 天正14 1586 9月8日 八代正法寺における渋谷与吉郎一座の演能で石原治部右衛門尉が狂言を演じる。 上井覚兼日記
31 島津義弘 文禄3 1594 4月3日 京都に滞在していた島津家久が徳岡宗与や木下宗固の世話で能の乱舞や囃子を鑑賞する機会を得る。 旧記雑録(後編)2巻1288号
旧記雑録(後編)2巻1393号
32 11月4日 文禄の役の陣中で家久が父の義弘をもてなした際の余興として乱舞が演じられる。 旧記雑録(後編)2巻1440号
33 慶長5 1600 4月22日 上京する家久に,伯父の義久が能装束を持たせる。 旧記雑録(後編)3巻536号
34 慶長6 1601 12月5日 義弘が無分別に能に対して傾倒する息子の家久を戒める書状を送る。 旧記雑録(後編)3巻1582号
35 島津家久 慶長7 1602 不明 義久,義弘,家久が能学の演目「高砂」の謡を謡う。 旧記雑録(後編)3巻1697号
36 不明 京都の手猿楽者・虎屋長門が能大夫として薩摩藩に召し抱えられる。 本藩人物誌
旧記雑録(後編)3巻1711号
37 慶長9 1604 不明 初代藩主島津家久,この年の頭屋能を見物できず残念に思って和歌を詠む。 旧記雑録(後編)3巻1973号
38 慶長11 1606 2月10日 義弘,家久が京都において,徳川家康の前で能に心を奪われ,座ったまま仕舞を真似たことを伝え聞き,厳しく叱る書状を送る。 旧記雑録(後編)4巻167号
39 慶長13 1608 2月23日 家久が能の伝書『童舞抄』を書写する望みが叶えられたことに対し,本懐を遂げられたと礼を述べる書状を虎屋長門(小幡長門守)に送る。 旧記雑録(後編)4巻428号
40 慶長15 1610 7月20日 島津家久,伏見で乱舞を見る。 旧記雑録(後編)4巻716号
41 8月 島津家久,駿府城で能の演目「高砂」「田村」「源氏供養」「天鼓」「老松」を見る。 旧記雑録(後編)4巻728号
42 8月18日 島津家久,駿府城で,家康の十二男頼宣と十三男鶴松丸が舞った能を見る。 『西藩野史』16
43 慶長18 1613 不明 虎屋長門が薩摩に下国する。 旧記雑録(後編)4巻1043号
44 鹿児島城下において能楽熱が高まる(『伊地知重康日記』)。 旧記雑録(後編)4巻1074号
45 元和元 1615 7月 一日に二条城で観世大夫と金春大夫の能があり,七日・八日には伏見城でも演能があり,家久が鑑賞した。 旧記雑録(後編)4巻1289号
46 元和3 1617 7月7日 島津家久が伏見城で諸大名とともに能楽を鑑賞する。 旧記雑録(後編)4巻1422号
47 8月24日 家久が自ら舞台に立って能を演じることがたびたびあり,京都から薩摩に帰国した際は,能を催したいとすることなどを記した書状を娘婿の島津久慶に送る。 旧記雑録(後編)4巻1452号
48 元和9 1623 6月13日 家久,京から次男で八歳の虎寿丸(島津光久)に鼓の稽古を励むように指示する書状を送る。 旧記雑録(後編)4巻1796号
49 寛永6 1629 不明 「鹿児島亭」において歌会が催され,家久はじめ家臣が和歌を詠んだあと,余興として雅楽と能の舞囃子が演奏される。なお,その際の番組の記録が残る。 旧記雑録(後編)5巻201号
50 寛永7 1630 4月18日 徳川家光が江戸の薩摩藩桜田邸を訪れ,そこで能が上演される。なお,その際の番組の記録が残る。 旧記雑録(後編)5巻303号
51 4月21日 前将軍徳川秀忠が桜田邸を訪れ,能楽が上演される。なお,その際の番組の記録が残る。 旧記雑録(後編)5巻303号
52 島津重豪 宝暦10 1760 4月16日 重豪16歳の時,九代将軍家重の右大臣昇進,家治の右大将兼任の祝いで能が江戸で催され,江戸在住の重豪は仰付けにより,この能を見物した。 旧記雑録(追録)5巻2308号
53 4月27日 家重・家治を祝うため,芝薩摩藩邸において重豪主催で観世流と金春流の宗家を召し,舞を演じさせる。 旧記雑録(追録)5巻2321号
54 9月5日 重豪,公家衆を馳走して能楽を催す。 旧記雑録(追録)5巻2411号
55 9月21日 重豪,家治の将軍宣下を祝って催された江戸城内の能楽を見る。 旧記雑録(追録)5巻2412号
56 宝暦11 1761 2月18日 重豪,家治の将軍宣下を祝って,老中以下の重職を饗応し,その席で観世・金春各宗家の能が上演される。 旧記雑録(追録)5巻2492号
58 11月4日 重豪,島津家一門及びその他の役人・藩士を招いて料理を下し,能を見せる。 近秘野草
旧記雑録(追録)5巻2586号
59 11月25日 重豪,藩士諸氏を招いて御膳を進上し,演能を催す。演者は柏源右衛門,中西長兵衛,有川仁平太。 近秘野草
旧記雑録(追録)5巻2562号
60 宝暦12 1762 正月4日 重豪自ら能の演目「羽衣」を舞う。 近秘野草
61 11月13日 将軍家の嗣子誕生を祝して江戸城で催された演能を見る。 旧記雑録(追録)5巻2738号・2739号
62 宝暦13 1763 正月6日 重豪が宝生大夫から翁舞の伝授を受ける。 近秘野草
63 12月23日 鹿児島で年忘れの宴の席で重豪が「井筒」と「天狗舞」を舞う。 近秘野草
64 宝暦14 1764 2月5日 重豪が鹿児島城下稲荷神社で結願のための法楽能を催す。 旧記雑録(追録)6巻12号・18号
65 2月27日 重豪が故継豊の側室であった祖母の嶺松君のために宴を開いて能楽を催し,自ら「加茂」を舞う。 近秘野草
66 9月27日 重豪が有馬中務大輔以下四名を芝邸に招き能楽を催す。 近秘野草
67 10月5日 重豪が南部大膳大夫信濃守を芝邸に招き能楽を催す。 近秘野草
68 12月4日・5日 重豪が琉球人を召して能を見せる。 近秘野草
69 明和2 1765 3月13日 前年の十一月十三日に重豪が従四位上左近衛権中将に叙任された祝賀会を開き,松平義敏以下を芝邸に招いて能楽でもてなす。 旧記雑録(追録)6巻169号
70 12月4日 重豪が鹿児島で,十二月四日から五日にかけて一日中,能と狂言を催す。
(この年六月に鹿児島に戻り何度か能を催す)
近秘野草
71 明和3 1766 8月25日 重豪が松平安芸守以下を芝邸に招いて能楽を催す。 近秘野草
72 明和4 1767 正月13日 重豪が能楽を講じ,自ら「翁」を舞い,松山定静が小鼓を囃す。 近秘野草
73 明和4
明和5
1767~1768 6月~2月 重豪が鹿児島に滞在中数度能楽を催す 近秘野草
74 明和4 1767 7月27日 家臣伊地知季周ほか十数名を召し,重豪とともに能を舞い,これをみた重豪は家臣に能楽が浸透していたことを大いに喜ぶ。 近秘野草
75 明和6
明和7
1769~1770 10月~正月 重豪が鹿児島に滞在中数度能楽を催す 近秘野草
76 明和7 1770 4月18日 重豪祖母の浄岸院の御息所に望み,重豪が平服で舞囃子を演じる。 近秘野草
77 6月25日 重豪が甘露寺規長の娘綾姫と再婚したことを祝い,能楽が催される。 近秘野草
78 安永2 1773 11月27日 重豪が中城王子尚哲以下の琉球人を鹿児島城に召し,能楽でもてなす。 近秘野草
旧記雑録(追録)6巻1109号
79 天明5 1785 2月~3月 重豪が将軍家治の昇任を祝い,水野忠友以下の重役を招いて能を催す。 旧記雑録(追録)6巻2195号
80 島津斉興 文化12 1815 4月11日 徳川家康没後二百年に際し,日光に行き,江戸に到着した公卿二名(近衛基前・甘露寺国長)を高輪邸に招いて重豪自ら能を舞ってもてなす。また,長男の斉宣,次男奥平昌高,孫の忠剛,七男の久昵も共に舞う。 旧記雑録(追録)7巻1417号
81 文政5 1822 9月14日 重豪十三男南部信順(当寺10歳)が,一橋治済が芝邸に立ち寄った際のもてなしの舞囃子として「吉野静」を舞う。 旧記雑録(追録)7巻1871号
82 12月15日 南部信順が「岩船」を舞う。 旧記雑録(追録)7巻1897号
83 文政6 1823 4月6日 南部信順が「六浦」,「春日龍神」を舞う。 旧記雑録(追録)7巻1940号
84 天保2 1831 2月27日 南部信順が「道成寺」を舞う。 旧記雑録(追録)7巻2448号
85 4月3日 南部信順が「望月」を舞う。 旧記雑録(追録)7巻2455号

 

 これをみると,島津家で能が盛んだった様子がわかります。戦国時代には,八朔などの年中行事や琉球の施設が来たときの歓待のための酒宴の席などの儀式や祭礼の場だけではなく,出兵中の陣中でも能が披露されています。また,重臣たちが能の稽古をしている記事もあります。

 江戸時代になると,多くの藩主が能をたしなみました。特に,初代薩摩藩主家久(肖像画は第4回にあります)は,とても能を好んでおり,自ら稽古に励むだけではなく,京都で能を見学したり,虎屋長門(中西長門守)という京都の能楽者を破格の待遇で迎え入れたりしています。家久の時代には,城下町の諏訪神社(現在の南方神社)の大祭の時には,頭屋能舞台で能が奉納されるようになりましたが,家久は,その能を見物できなかったことを残念に思って和歌まで詠んでいます。家久は,あまりに能に入れ込むあまり,父である島津義弘に叱責されたこともありました。

 このように藩主である島津氏に好まれた能は,城下の人々にも広まったようで,「鹿児島城下において能楽熱が高まる」といった記事が藩の正式な記録にも残っています。天保14(1843)年「天保年間鹿児島城下絵図」や明治6(1873)年「鹿児島屋形及びその周辺図」では,鹿児島(鶴丸)城内のほかに,鹿児島城下町に4つの能舞台が描かれています。

 第8代薩摩藩主島津重豪の代には,能の記録がとても多くなります。能の席を度々設けただけでなく,自らも能に励みました。その能への興味関心は,孫の第10代薩摩藩主島津斉興やひ孫の国父と呼ばれた島津久光(第12代薩摩藩主島津忠義の父)にも受け継がれました。特に,久光は能に入れ込んでおり,能のテキストを自ら書き写して赤筆で書き込みをし,たくさんの演目を演じました。

 

Ⅱ 鹿児島(鶴丸)城跡で能舞台跡の一部を発見!

 島津氏が暮らした鹿児島(鶴丸)では,これまで多くの発掘調査が行われてきましたが,平成27年の発掘調査では,現在の県歴史・美術センター黎明館の敷地内(旧本丸跡)で,能舞台跡の一部を発見しました。
 発見されたのは,能舞台の橋掛(はしがか)りと言われる部分の跡です。橋掛りとは,演目を行う「本舞台」と楽屋である「鏡の間」を結ぶ廊下のことです。演者が出入りする通路ですが,第2の舞台としても使われています。

能舞台の模式図

 

 能舞台の橋掛り跡は,溝状で床面が半円形となっていました。硬化面の上に漆喰を敷き固めてあり,この構造は,強く床を踏みつけるなど橋掛り上の演技で出す音が,固い床面にあたって反響することにで,より響くための工夫でした。昔は,このような工夫で音響効果を高めていたのです。同じような構造は,彦根城跡や江戸の加賀前田藩の上屋敷である東京大学構内遺跡医学部教育研究棟地点の発掘調査でも見つかっています。

能舞台跡橋掛り跡

橋掛り跡の構造模式図

 

『島津斉彬公史料』には,第11代藩主島津斉彬が家督を相続した際に行われた様々な行事が記録されていますが,それらの一連の行事の最後に島津氏の一門が集まり,能を見学したことが記されています。実は,後の天璋院篤姫(当時は於一)や種子島の女島主と呼ばれた松寿院も出席していました。その時、能が演じられていたのは,まさしくこの舞台であったと考えられます。発掘調査によって,斉彬や天璋院篤姫が実際にみた能舞台が再び人々の前に現れたのです。
 現在,発掘調査で発見された能舞台の橋掛り跡の上には植栽があり,どの場所で能舞台跡が発見されたかわかるようになっています。

 

Ⅲ 鹿児島(鶴丸)城跡での能舞台の発見の意味

 鹿児島(鶴丸)城跡の能舞台があった場所は,一般的な藩政を行う場所ではなく,藩主と限られた人々しか入れない場所でした。

 また,島津氏にとって能が盛んな時期は,島津氏が他藩の大名や公家との関わりが増える時期と一致しています。能を開催することで多くの人が集まり,能が終わった後には鑑賞した能や様々な話に花を咲かせたことでしょう。島津氏はそれをうまく利用したようです。島津氏にとって能は,外交手段でもあったのです。

 このように,能は島津氏と深い関わりがあります。島津氏は,能だけでなく,様々な伝統芸能に力をいれていましたが,能舞台跡の発見は,まさに,島津家が武術だけではなく,文化・芸術に力をいれていたことを証明するものといえます。今後は,島津家の文化芸術を重んじた大名としての面ももっと知っていただきたいと思います。

文責 西野元勝・浅田剛士

主要参考文献
鹿児島県立埋蔵文化財センター2021『鹿児島(鶴丸)城跡-北御門跡周辺・御角櫓跡周辺・能舞台跡-』鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(214)
中西喜彦2015「鹿児島県能楽の歴史散歩~薩摩藩主たちの愛好ぶり」『能楽の祭典』第30回国民文化祭鹿児島市実行委員会
林和利2003『能・狂言の生成と展開に関する研究』世界思想社