鹿児島県上野原縄文の森 (公財) 鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター (公財) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター
MENU

鹿児島県上野原縄文の森

鹿児島県上野原縄文の森 HOME 公財 鹿児島県文化振興財団鹿児島県上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター 公財 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター

カテゴリー: 縄文の森

考古ガイダンス第45回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第45回 橋牟礼川遺跡
  • ■火山灰に埋もれたムラ■
  • 開聞岳大宰府が報告してきた。去る3月4日の夜,薩摩国従四位上開聞の神が鎮座する山の頂に火があり,真っ赤に焼けた。雷が轟き夜通し振動した。噴火の音や地響きは,100里以上離れたところでも聞こえ,社の近くの人々は恐怖のあまりふるえて,肝をつぶした。明け方になっても天気は陰うつで,昼間も夜のように暗かった。噴煙は天をおおい,灰や砂が雨のように降った。色は墨のように真っ黒で,一日中止むことはなかった。
    【写真 開聞岳】
  • 噴煙は天をおおい,灰や砂が雨のように降った。色は墨のように真っ黒で,一日中止むことはなかった。その砂粒が降り積もった厚さは,あるところでは5寸,またあるところでは1寸あまりであった。夕暮れ時には,砂粒に変わって雨が降ってきた。この雨にぬれた作物は皆枯れてしまい,川の水は砂粒を含んでさらに濁った。無数の魚や亀が死んだ。人々の中にはその死んだ魚を食べたものがおり,ある者は死に,ある者は病気になった。
  • ■建物が倒れる様子■
  • 建物が倒れる様子1
    ①貞観16年3月4日,開聞岳噴火。火山礫が降下し,建物周辺に堆積する。
    木の埋没1
    根の近くの盛り上がりにそって火山礫が堆積する。
    建物が倒れる様子2
    ②火山礫の後,細粒の火山灰が降下,建物の屋根及び周辺に堆積する。
    木の埋没2
    細粒の火山灰が木に堆積する。
    建物が倒れる様子3
    ③火山灰降下途中より,雨も降り出す。堆積した火山灰の重みで建物が倒れる。
    木の埋没3
    木は立ち枯れたまま,火山灰の中に埋没していく。
    建物が倒れる様子4
    ④建物崩壊後,細粒の火山灰のみが水と一緒に建物内部に侵入する。木材は腐食し,空洞化する。
    木の埋没4
    木は腐食し,中に細粒の火山灰が侵入する。
    これは今から約1,100年前,貞観16年3月4日(西暦874年3月25日)開聞岳が大噴火した時の様子で,『日本三大実録』という古文書の中に記されている内容です。環境の変化や人々の様子など詳しく記録されており,火山災害の恐ろしさが伺えます。

    指宿市に国指定史跡である橋牟礼川遺跡があります。この遺跡を初めて発掘した京都帝国大学の浜田耕作博士は,「先史時代のポンペイ」と呼んでいます。

    この遺跡で1988年の発掘調査時に,火山灰による倒壊家屋が発見されました。発掘調査によって明らかになった災害の様子は図の通りで,先ほどの『日本三代実録』の史実と一致します。当時の様子を文字と地中の両面から知ることができる貴重な資料です。

    このほかにも災害で埋まった村の跡が発見されています。畠跡では畝(うね)跡と道跡,杭列が見つかっています。さらに,古墳時代から流れていた川が,噴火の際に起きた土石流で埋まっていました。

    これは先ほどの『日本三代実録』の中の「川の水が-」に当てはまります。また,この遺跡からは役所があったのではないかと考えられる墨書土器,硯(すずり),刀子(とうす),青銅製の丸鞆(まるとも)などの遺物も多数発見されています。

    さて,災害が起こったその後はどうなったのでしょうか。このことも『日本三代実録』の中に次のように記されています。
  • 占ってみたところ「神が封戸(ふこ=神社の維持財源として税を納める戸)を求めている。神社が穢(けが)れている。よってこのようなたたりをなした」という結果が出た。そこで天皇は,勅(命令)を発し,封戸,20戸を開聞神に奉ることにした。

    政府はこの災害を重く受け止め,対策に苦慮したようです。
  • 火山灰の重みで倒壊した建物跡また,この遺跡では,古墳時代から奈良時代の貝塚が発見されています。しかし,この災害後の貝塚は,全く見つかっていません。住民たちは,復興のめどが立たず,この地を離れたのでしょうか。それとも魚や貝が全くとれなくなってしまったのでしょうか。その真相はまだ明らかになっていません。

    【写真 火山灰の重みで倒壊した建物跡(白線方形の部分)】
  • このように約1,100年前の開聞岳の大噴火は周辺の住民の家屋や田畑を一瞬のうちに呑みこみました。ある者は家族や仲間を失ったかもしれません。人々は,その後何十年もの長い間苦しい生活を強いられたに違いありません。
  • 大正時代には,桜島の大噴火がありました。かなりの被害を受けたことは記憶とともに記録として残っています。数年前,長崎県の雲仙普賢岳も大爆発を起こしました。火山弾が降り注ぎ,火砕流が流れ出し,火山灰が降り積もりました。さらにそれが雨によって土石流となり,人々の生活を一瞬にして呑み込みました。この時の様子は,新聞やテレビで報道され,記憶に新しいです。最近も北海道の洞爺湖畔にある有珠山が火山活動を活発化し,周辺の住民は避難活動を余儀なくされています。このように火山災害は,火山大国日本において,大昔から避けては通れないものです。その中で過去にいつ,どのような被害があり,どのように対処し復興したかを知ることは,これからの災害対策の1つとして重要な手掛かりとなるに違いありません。
  • ■火山災害の多い鹿児島■
  • 開聞岳付近の地層福山町の藤兵衛坂段遺跡では,文明ボラに覆われた畠跡が広い範囲で発見されています。この文明ボラについては,『三国名勝図会』に1470年代の桜島の噴火活動の様子として記されています。福山町・大隅町などに多く見られ,30~50センチメートル積もっており,かなりの被害があったと予想されます。文明の大噴火は今まで17回あった桜島の大噴火の1つです。
  • 【写真 開聞岳付近の地層】
  • また,全国でも有名なアカホヤ,シラスも鹿児島県内の火山噴火によるもので,それぞれ鬼界カルデラ(硫黄島南沖),姶良カルデラ(鹿児島湾奥)を起源としています。
  • シラスに関しては,北は北海道南部,東は朝鮮半島に至るまで広範囲にわたって確認されており,地球規模の爆発だったことが分かっています。このほかにも池田カルデラ(池田湖),阿多カルデラ(鹿児島湾口)など鹿児島では大昔から多くの火山活動があったのです。
  • ■縄文土器と弥生土器■
  • 弥生土器1916年。その頃,縄文土器(当時アイヌ式土器と呼ばれていた)と弥生土器の違いは,地域の違い,つまり民俗の文化の違いという考え方が有力でした。しかし,同年夏,当時の考古学会を揺るがす歴史的な発見があったのです。
    旧制志布志中学校に通う西牟田少年が,指宿に帰省していた時のことでした。少年が近所を歩いていると,あるところで2種類の土器を見つけました。これは何の土器だろうと思った少年は,その土器を学校に持ち帰り,瀬之口伝九郎先生に見せたところ1つは縄文土器(指宿式土器),1つは弥生土器(山ノ口式土器)であることがわかりました。
  • 【写真 弥生土器の破片】
  • 縄文土器それから1年後,喜田貞吉博士が同校を訪れました。博士は,当時『土器の違いは民俗の文化の違い』という考えをもっていた有名な考古学者です。2つの土器を見た喜田博士は,同じ場所にあるのは不思議だと思い,後日現地を踏査してみました。さらに地元の学者にも調査を依頼しました。このことは喜田博士の『九州旅行談』の中に記されています。調査の結果,遺跡の存在が確認され,翌年1月,考古学雑誌第8巻第7号で紹介されました。世間はその報に大いに沸きました。
  • 【写真 縄文土器の破片】
  • 1918年1月。喜田博士からその話を聞いた京都帝国大学の浜田耕作博士は,宮崎に出張の際,指宿まで足を延ばし,半日だけでしたが発掘調査を行いました。浜田博士は,『土器の違いは時代の違い』という考えをもっていた考古学者です。博士は翌年の1919年4月にも,再び調査を行っています。
  • この発掘調査で驚くべき事実が明らかになりました。それは,1つの火山灰層をはさんで,上に弥生土器,下に縄文土器が発見されたのです。これにより2つの土器の違いは民族の違いではなく,時代の違いであることが分かったのです。もちろん,日本で最初のことであり,この発見により日本の歴史は縄文から弥生へと移り変わっていくという説が証明され,現在の考古学の基盤となっています。

    大正13年(1924年),世間に大きな衝撃を与え,学術的にも重要な役割を果たした橋牟礼川遺跡は国の指定を受け,『国指定遺跡』として保存・整備・活用され今日に至っています。
  • 用語解説
  • ポンペイ イタリアにある町。ヴェスヴィオ火山の噴火により埋没した。
    墨書土器 墨で文字や記号の書かれた土器。
    刀子 ナイフ・小刀。武器ではなく日常利器としての機能が強い。
    丸鞆 平安時代の役人や貴族の冠位を表すベルトの装飾品。
    貝塚 人が貝殻を廃棄した場所。
  • (文責)西村 喜一

縄文の森から 平成30年10月

平成30年10月17日(水)

縄文の森アートギャラリー

「折り紙建築で巡る県内の公共建築物」展示中!


平成30年10月2日(火)

特別企画Happy Jomon Halloweenのお知らせ

※ 画像をクリックすると,チラシがダウンロードできます。

考古ガイダンス第44回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第44回 アジアに開ける交易
  • ■中世の交易と持躰松遺跡■
  • 持躰松遺跡中世の交易は私たちが考えるよりもはるかに広い範囲で行われていました。現代の長距離輸送はトラック輸送・船舶輸送・航空輸送といった陸・海・空の手段によってなされています。その中の大部分は陸の輸送手段であるトラック輸送であるとも言われています。
    中世の輸送手段は馬・船・などによる輸送で,陸・海の二種類でした。現代とは異なり長距離輸送は船舶輸送が主でした。このことは全国各地の中世の遺跡から,海を隔てた中国からの輸入陶磁器が大量に出土することからも理解できます。
  • 【写真 持躰松遺跡と万之瀬川・吹上浜】
  • 金峰町には持躰松(もったいまつ)遺跡があります。金峰町と加世田市の境界を流れる万之瀬川(まのせがわ)沿いに立地する遺跡です
  • 中世の12世紀から13世紀頃の輸入陶磁器・国産陶器などが鹿児島県内では比較的大量に出土しています。12世紀後半の頃は平氏政権の積極的な施策により中国の宋の貿易船が瀬戸内海を通って摂津(せっつ)の大輪田泊(おおわだのとまり)まで入るようになりました。その航路の途中には肥前や薩摩にも寄港していたといわれており,持躰松遺跡周辺は万之瀬川を背景とした広域な交易に関する場であった可能性も考えられます。

    この頃,現在の日置郡一帯に強い勢力を持っていたのは阿多氏です。この一族は肥前~薩摩~南西諸島とのつながりを持っていたことから,持躰松遺跡は阿多氏に関係する可能性もあります。
  • ■南島系陶質土器とカムィヤキ古窯跡■
  • 同じ金峰町内に位置する小薗(こぞの)遺跡では溝状遺構によって囲まれた区域内から少なくとも5軒以上の掘立柱建物跡と竪穴遺構が発見され,持躰松遺跡とほぼ同時期の陶磁器などが出土しています。中国との交易になんらかの形で関与していた有力者の関連施設であった可能性のある遺跡です。また,この2つの遺跡からは南島との交易に関わるものが発見されています。「南島系陶質土器(なんとうけいとうしつどき)」「類(るい)須恵器」などと呼ばれているもので,南西諸島で多く出土しています。現在のところ出土地をみると最南端は沖縄県波照間(はてるま)島,最北端は出水市出水貝塚です。今後,さらに発見例が増える可能性が高いと思われます。
  • 窯の断面模式図この南島系陶質土器は徳之島伊仙(いせん)町のカムィヤキ古窯(こよう)跡群で焼かれたものです。
    カムィヤキ古窯跡群は1977年に発見され,11世紀から13世紀にかけて使用されていたことが明らかになりました。また,これまでの調査によって東西約2km,南北約1kmの範囲に数基~10数基の窯を単位とした11グループの古窯支群が確認されました。

    【図 窯の断面模式図】
  • これらの大半は国有林の山中にあり,保存状態は極めて良好です。南島の中世の交易を考える上でもこれからの調査・研究が期待されます。
  • ■沈没船の積荷か?倉木崎海底の遺物■
  • 倉木崎海底遺物の様子大島郡宇検村倉木崎(くらきざき)の海底からはサンゴや海藻が付着した青磁・白磁の碗・皿などの破片が多数発見されました。これらの陶磁器は12世紀後半から13世紀前半の頃の遺物で,南宋の龍泉窯(りゅうせんよう)などの窯で焼かれたものが中心を占めています。

    【写真 倉木崎海底遺物の様子】

    南宋で焼かれた磁器は日本をはじめ,東南アジアなどへも流通しており,重要な交易品であったことがわかります。持躰松遺跡などで発見されている輸入品も南宋産のものです。これらの遺物が海底に散乱した状態で眠っていることについては,交易船の沈没か,交易船がなんらかの理由で積荷を廃棄したかのどちらかが考えられます。
  • 南西諸島で大量に発見される中国製の陶磁器は12世紀以後のもので,どちらにしてもこの頃に交易船が行き来していたことは間違いなさそうです。この背景には12世紀後半に中国が宋から金・南宋へ移行することと,中国の商業集団の活発化の影響が考えられます。この時に南島は停泊地・給水地となり,硫黄・ヤコウガイなどが交易品とされたでしょう。これらの交易活動によって物や情報を吸収し,新しい文化を築いていくのです。
  • ■アジアへ開ける「大交易時代」■
  • 持躰松遺跡の交易圏持躰松遺跡では中国と日本の商人による商業活動の痕跡が14世紀頃までみられます。その後の持躰松遺跡は畠地となり交易の跡は見る影もなくなくなってしまいます。この持躰松遺跡などに代表される時期を経て「大交易時代」と呼ばれる14世紀末から15世紀中頃にかけて琉球が中継貿易でおおいに栄えた時代へと突入し,南西諸島だけでなく日本全体ひいては東南アジアまで含めた大きな地域の交易が行われるようになるのです。

    持躰松遺跡をはじめとする万之瀬川流域の調査はまだ続きます。これから明らかになることや新たな事実の発見などもあるでしょう。
  • 複雑な様相を持つ中世の交易に関する研究はまた新たな展開を見せるかもしれません。これからも中世から目が離せません。
  • 用語解説
  • 摂津 現在の大阪府と兵庫県の一部
    ヤコウガイ 螺鈿(らでん)細工の原料となる巻き貝。奥州平泉でも出土例がある
    硫黄 火薬の原料になる
  • (文責)上床 真

第52回 道路の下の物語~新発見!かごしまの遺跡2018

  • 開催期間:平成30年9月8日()~平成30年11月25日(
  •    
     平成29年度に行った県内の遺跡発掘調査は,道路建設に伴うものが大部分を占めています。その結果,今後,道路となっていく土地の下には,先人たちが生活をした痕跡が幾重にも重なって残っていることがわかりました。
     知覧道路建設に伴う発掘調査が行われた牧野遺跡では,縄文時代草創期の調理場と考えらえる,1,600個もの石からなる集石遺構の中から,髪の毛が線刻された女性像(ヴィーナス)が見つかりました。また,東九州道建設に伴う発掘調査が行われた天神段遺跡では,縄文時代早期(約11000年)前から約4000年もの間,繰り返し人々が住み続けたことがわかってきました。今回の企画展では,道路の下に眠る先人たちの物語として,特に注目される調査成果の速報を紹介します。
     現在の私たちの生活が,先人たちの営みの上に成り立っていることを感じてください。
    •  
  • ■今回の企画展で紹介する主な遺跡■
  •  
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
  • ■注目の展示品■
  • 線刻礫(縄文ヴィーナス)【牧野遺跡・南九州市】
    【線刻礫(縄文ヴィーナス)の実測図】
     
     安山岩の円礫で,起き上がり小坊師(こぼし)の上部のような形をしています。縄文時代草創期から出土する(ぎょく)(ずい)系の石の固い()(もん)()により施文されたものと考えられます。痕跡(こんせき)をよく観察すると,底面から上に向かって刻まれ,また,下から見ると線が,らせん(じょう)となることから,手で持って石を回しながら施文していったものと考えられます。平坦面には,中央部に(くぼ)みが存在することから,全体が整形(せいけい)された可能性もあります。
  • ■企画展講演会■
  • 平成30年9月15日(土)13:30~15:00 ※終了しました
      内 容 : ①「知覧道路の物語」
            ②「東九州道の物語」
      講 師 : ①鹿児島県立埋蔵文化財センター 
                      第二調査係長 宗岡 克英 氏
            ②(公財)埋蔵文化財調査センター
                      調査第一係長 今村 敏照 氏
      定 員 : 80人程度(※要事前申し込み)
      場 所 : 縄文の森展示館多目的ルーム
      資料代 : 100円
        ※ 講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師による
        ギャラリートークを行います。(別途展示館利用料金が必要)

考古ガイダンス第43回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第43回 隼人が用いた土器
  • 鹿児島県内の遺跡をまとめた最初の『遺跡地名表』を見ると,弥生時代後期と書かれた遺跡が非常に多いことがわかります。また,その時期の土器の形式名を調べてみると,「成川式土器」という名称の土器の記述がずいぶんと多いことに気が付きます。それこそが「隼人が用いた土器」といわれる土器なのです。昭和32年に発見された成川遺跡出土の土器を標準とする土器群です。
  • ■成川遺跡■
  • 成川式土器出土の主要遺跡薩摩半島の南端の指宿市市街地から旧国道を南に行くと山川の港が見えてきます。鹿児島の内部にあって,外海に背を向けた天然の良港です。その山川湾を左に見ながら狭い切り通しを右に入ると,成川の集落が広がってきます。

    集落を見下ろす南の端の小高い丘の中腹をバイパスが通り,かつてここに成川遺跡がありました。そこは,隼人たちの「奥津城(おくつき)」,共同墓地でした。

    昭和32年,山川湾の埋め立てのためにこの地の土を掘って利用することになりました。近くを通り掛かった人が,人の骨らしい物がおびただしく散乱していることに気付き,指宿高校の教師に通報しました。

    この教師は現地を確認し,ことの重大さを認識し,直ちに鹿児島県教育委員会(以下県教委)に連絡しました。県教委は直ちに工事を一時中止させると共に,短期間での調査を行うこととしました。
  • 調査の結果,ここは弥生時代ごろの墓地であること,遺跡は広域に広がることなどがわかり,貴重な遺跡であることから調査団組織による発掘調査が必要であることが判明しました。この結果を受けて,翌33年に文化財保護部(現在の文化庁)が主体となって本格的な調査が行われました。そして,200数十体にもおよぶ人骨が出土して,この時期としては全国的にも有数の墓地として知られるようになったのです。
  • 成川遺跡の土坑墓群報告書は調査が行われてしばらく経って刊行されました。その中で,遺跡の時代に触れ,この墓地が弥生時代中期から営まれているのは事実ですが,その下限については,地元の考古学者と中央の考古学者とでは若干見解が異なっていたようです。

    【写真 成川遺跡の土坑墓群(奥手に見えるのは開聞岳)】

    それは,ここから大量に出土した,当時の呼び方で『薩摩式土器』という形式の土器がどの時代まで使われていたか,という問題でした。地元の学者は,弥生時代からの土器の変化からこれを弥生時代後期に位置付け,これに対して中央の学者はこの土器に土師器に類似した土器が伴うことから古墳時代まで下げることを主張しました。
  • その結果,この遺跡をどの時代の遺跡と呼べばよいのかという戸惑いが起こってしまったといえます。そのことは,ここで大量に出土し,この成川遺跡を指標とする『成川式土器』をどの時代・時期の土器と呼べばよいのか,ということにも問われることになりました。
  • ■成川式土器■
  • 成川遺跡で出土した大量の土器の大部分は,壺と高坏(たかつき)と呼ばれる種類の土器でした。これは,遺跡が(共同)墓地という性格によるものと考えられます。といいますのも,死者との別れに際して“あの世”での新しい生活に“この世”から持っていってもらうお供え物を盛るものとして添えられたものだからです。日常的に使っていたカメなどがほとんど見られないのもそのためでしょう。
  • ■成川式土器の形の変化■
  • 器形の時代変化成川式土器は,南九州の弥生時代の土器の形から変化を遂げていったと考えられています。ここでは,主として形状変化の割合が明瞭に追い掛けられるカメについて述べることにします。壺や高坏等については図に載せました。

    成川遺跡にもあった弥生時代中期のカメは,口が本体に対してほぼ直角になるように付いており,“逆L字形”と呼ばれる形状となります。また,底にはどっしりとした高い円柱状の“あし”が付きます。

    これが後期になると,本体に対して口が斜めに上がる,つまり,上向きになる“く字”の形状となります。また,底も高い上げ底となって広がってきます。

    この辺りから南九州が文化的に停滞していたといわれるわけですが,この弥生時代後期の土器の形状が,基本的に変わらず,口の部分が内側に倒れてくる“内傾”あついは“内彎(ないわん)”と呼ばれる,見た目には極めて小さな変化でしかなくなってきます。

    そしてこのことが,成川遺跡出土の土器を弥生後期と見るか,古墳時代と考えるか,という当時の見解とつながっていたのです。
  • ■成川式土器の終末■
  • 成川遺跡の土坑墓群の遠景このようにして,上げ底となる土器の一群が“隼人の用いた(時代の)土器-成川式土器”と呼ばれ,南九州に定着するに至ったわけですが,今度はこの土器がいつまで使われたか,という問題が起こってくることになりました。これは,当然といえばあまりに当然ではありますが,つい最近まで「成川式土器は,すでに土師器や須恵器を伴って出土すること(が多い)ことから,古墳時代の地方色の濃い土器であろう」と考えられていて,成川式土器イコール古墳時代として決定したかにみえていました。
  • 【写真 成川遺跡の土坑墓群の遠景】
  • 成川遺跡土坑墓から発見された人骨しかし,ことはそれほど簡単にはいきませんでした。成川式土器の“本場”成川からほど遠い,指宿市橋牟礼川遺跡から奈良時代に噴出した火山灰に覆われた層から成川式土器が見つかったのです。当時の日本の中央部からもたらされた須恵器と同じ層からの出土でした。

    【写真 成川遺跡土坑墓から発見された人骨】
  • こうして,遺跡の発掘という地道な調査と運命的な出会いという幸運によって,この土器が奈良時代まで使用されていたことが判明しました。時あたかもこの南九州の地が,“隼人の国”と呼ばれていた時代でした。
  • 弥生時代後期からほとんど変わることのない土器の形,500年程を祖先から受け継いだ形の土器で過ごしたわたしたちの地域の先人たちは,どのような感慨を抱いて“日本”という統一的な国家の中に組み込まれていく様を見つめていたのでしょうか。

    壺や高坏といった中央からの文化や文物を受け入れる一方,カメに象徴されるような意固地とも思える地元の道具を自らの“遺産”として子や孫に,そして,その子孫たちに引き継いで行こうとしたと考えるのは,自分だけの感傷にすぎないのでしょうか。奈良時代の終わりから平安時代になると,そこは全国共通の土師器しか見られなくなり,隼人達の虚しい抵抗は終末を迎えました。
  • (文責)繁昌 正幸

縄文の森から 平成30年8月

平成30年8月29日(木)

第52回企画展講演会のお知らせ

※ 上の画像をクリックすると,チラシと申込用紙がダウンロードできます。


平成30年8月28日(水)

第51回企画展「バックナンバー古の美術品」
総選挙 最終結果の発表です!

考古ガイダンス第42回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第42回 強者どもの拠り所
  • ■中世山城■
  • 鹿児島県内中世城館跡分布図1鹿児島県内中世城館跡分布図2
    鹿児島県内中世城館跡分布図3鹿児島県内中世城館跡分布図4
    鹿児島県内中世城館跡分布図5鹿児島県内中世城館跡分布図6
  • 空堀の発掘調査(向栫城)武士が際だった存在であり,その力量を存分に発揮していた平安後期-戦国時代(中世)において,所領争いの決着手段は合戦でした。そして武士の拠(よ)り所となるのが城です。

    城というと,立派な天守閣(てんしゅかく)や高い石垣,周りを囲む堀などを思い浮かべるかも知れませんが,現在目にするような城の多くは,豊臣秀吉(とよとみひでよし)の天下統一以降のもので,中世の城の中心は自然の地形を利用した山城(やまじろ)でした。

    源平の戦いのころから鎌倉時代後期にかけては,騎馬武者(きばむしゃ)が一対一で名乗りながら戦うのが合戦の基本でした。その後,集団で戦うようになると,防御する側は館(やかた)の周りに堀を作り,柵(さく)を置き,高い足場を作った砦(とりで)や城郭(じょうかく)を築くようになりました。
  • 【写真 空堀の発掘調査(向栫城)】
  • 南北朝時代に入り,全国各地で合戦によって勢力を確保して成長させようとする者が登場してくると,内乱が頻発(ひんぱつ)し,日常化してきます。そこで,城の防御機能を強化するために,自然の地形が作り出した見晴らしが効き,近寄りがたく,一定の平たんな台地や丘,山に城を築きました。そして戦闘の際は,そこに籠(こも)って戦いました。
  • はじめは応急的なもので,簡単な造りであったと思われますが,合戦の長期化に伴い次第に整備され,○○城と呼ばれるような山城が登場し,中世の城の中心的なものとなりました。
    特徴として,築城の際に自然の地形を利用して郭や曲輪(くるわ)を配置したり,空堀(からぼり)や門,石塁(せきるい)・土塁(どるい)などの施設を築くことで防御性の高い縄張り(なわばり)を確立していることが挙げられます。

    近世の城が建物や堀,石垣など目に見えるのとは対照的に,中世山城は遺構の大半が地中に埋まっています。これは,山城が自然の地形を利用したもので,自然景観に溶け込む性格が強かったので,建設物は質素で実用的なものが多く,文化的・芸術的価値はあまり高くなかったのでしょう。
    今現在,全国には2,5万~5万程度の中世山城があると推定されていますが,大部分はその範囲の確定もなされていないものが多いです。
  • ■県内には600余の山城■
  • 鹿児島県には600余の中世山城があり,貴重な文化財として調査研究され,保護と活用が進められています。ここで,県内各地にある中世山城の中からいくつか紹介します。
  • 国指定遺跡 知覧城◆知覧(ちらん)城跡 (知覧町永里・国指定遺跡)

    シラス台地特有の直立した崖(がけ)を利用して築かれた,南九州型の代表的な山城です。遺構の保存状態は極めて良好で,平成5年には国指定史跡となっています。近世の重要伝統的建造物として有名な,知覧麓の前身としても重要な意義があります。

    【写真 国指定遺跡 知覧城跡】
  • 帯曲輪の取り巻く苦辛城跡全景◆苦辛(くらら)城跡 (鹿児島市山田町)

    自然の川や崖を利用した連郭式(れんかくしき)山城で,郭には土塁が見られ,緩やかな斜面には郭を守るための帯曲輪(おびくるわ)の取り巻きがあります。その台地では,旧石器から中世・近世までの生活のあとがみられます。

    【写真 帯曲輪の取り巻く苦辛城跡全景】
  • ◆向栫(むかいがこい)城跡 (東市来町伊作田)
    山の斜面の裾野(すその)に位置し,城に伴う炉跡(ろあと)や大型土坑(どこう),空堀,国内外の陶磁器などが見つかりました。
  • ◆平泉(ひらいずみ)城跡 (大口市山野)
    自然地形を利用した九つの曲輪からなる多郭式山城で,それぞれの曲輪は造成が行われ平たん面を構築しています。歴史的に軍事上・交通上の要地として室町時代から近世初期ごろまで活用されていました。
  • この他にも代表的な山城として,清色(きよしき)城跡(入来町浦ノ名),高山(こうやま)城跡(高山町新富),志布志(しぶし)城跡(志布志町),蒲生(かもう)城跡(蒲生町下久徳),などがあります。

    1587年5月,豊臣秀吉は九州勢に対して,「城割(しろわり)」を発令しました。一郡一城のみとし,必要な城のみを残して他を破壊することで,秀吉が全国を厳しく統治することとなりました。これをもって山城の理念としての存在が否定され,形として存続したとしても,強者(つわもの)どもが拠(よ)り所とした中世山城は終わりを迎えたのです。

    現在に残る中世山城跡は,わたしたちに生きた歴史研究の貴重な素材を提供してくれています。開発などでその形を変えてしまう前に,史跡公園などに整備して保存の努力をしているところもあります。
  • 用語解説
  • 郭(かく) 建物のある平たんな区域
    曲輪(くるわ) 防御のために造られた区域で,連なったものや単独のものがある。
    空堀(からぼり) 水のない掘り下げた堀で,別名堀切ともいう。
    帯曲輪(おびくるわ) 敵の侵入を防ぐため,取り巻くように空堀を何本もめぐらした曲輪。
    石塁・土塁
    (せきるい・どるい)
    石を積み上げたり土を盛り上げて築いた小さなとりで。
    炉跡(ろあと) 火を使って煮炊きをしていた場所の跡。
  • (文責)平木場 秀男

考古ガイダンス第41回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第41回 安定した海辺のくらし -前期の貝塚-
  • ■はじめに■
  • 縄文前期の西海岸の主な貝塚貝塚と言えば,「ゴミ捨て場」あるいは「タイムカプセル」などと言われます。それは,貝塚が昔の人々が食べたものや使った道具などを捨てた場所であると同時に,当時の生活の様子を現代まで伝えてくれる場所だからです。

    鹿児島県の貝塚は,古いもので縄文時代早期(10,000年~6,000年前)後半の隼人町宮坂貝塚がありますが,数が増えるのは縄文時代前期(6,000年~5,000年前)になってからです。出水市荘貝塚・阿久根市波留貝塚,吹上町小野貝塚,金峰町阿多貝塚・上焼田遺跡,西之表市小浜貝塚,中種子町苦浜貝塚などがこの時期のものです。
  • 【図 縄文前期の西海岸の主な貝塚
    (1 荘貝塚,2 波留貝塚,3 薩摩国分寺跡,4 小野貝塚,5 上焼田遺跡,6 阿多貝塚)】
  • ■貝塚と縄文海進■
  • 阿多貝塚近景上の地図を見てください。何か不思議に思うことはないでしょうか。貝塚をつくった人々は貝や魚を食糧としていたはずですが,どうして海岸線から貝塚まで離れているのでしょうか。
    例えば,阿多貝塚は海岸から約4キロの内陸部・標高9メートルの台地縁辺部に位置しています。他の貝塚遺跡も同じように現在の海岸線より離れ,平野部よりも少し高い台地上に形成されています。
    【写真 阿多貝塚近景】
  • これは海岸線の変化がもたらしたものなのです。つまり,この時期は海岸線が貝塚のすぐ近くにあり,貝や魚をより捕りやすい環境にあったことが予想されるのです。
  • 約1万年前から地球は温暖化にむかい,これに伴って海面の上昇が始まりました。海水面の変化は地球の気候と関係があり,温暖になると北極・南極の氷が溶けて海水面が上がり,逆に寒冷化すると氷が発達し下がるという具合です。この地球の温暖化によって海水面が上がり,海岸線が現在よりは陸地に入りこんだことを「海進」と呼んでいます。縄文時代早期に始まる海進(縄文海進)は前期中葉にピークに達し,その後気候が寒冷化し,海岸線は沖の方へ向かっていきます。これを「海退」と呼びます。
  • ■貝塚とアカホヤ火山灰■
  • 貝の出土状況(阿多貝塚)ところで,鹿児島県の貝塚は縄文前期に数が増えたと書きましたが,縄文海進によって海産物を手に入れやすかったはずの縄文早期の人々は,貝や魚を食べていなかったのでしょうか。

    貝塚は食糧とした大量の貝殻を捨てた場合に残り,少量の貝殻は酸性土壌の中では溶けてなくなってしまいます。
    【写真 貝の出土状況(阿多貝塚)】
  • それから考えると,鹿児島の早期の縄文人は貝を食べていなかったというよりは,貝塚を形成するほどの大量の貝をあまり必要としなかったということも考えられます。では,縄文前期になって大量の貝を食糧として利用したのはなぜでしょうか。それは,火山活動による自然環境の大きな変化と関係があるとも言われています。
  • 鹿児島県には桜島をはじめとして,火山がいくつもあります。その中の硫黄島(いおうじま)・竹島付近にある「鬼界カルデラ」の大爆発により,南九州は大量の火山灰に覆(おお)われ,大きな打撃をうけました。約6,400年前(縄文早期の終わり頃)に噴出したこの火山灰は「アカホヤ火山灰」とよばれ,遠く関東地方まで達していることが確認されています。

    この結果,動植物はもちろんのこと人的被害も大きかったことが予想されます。それまで森林がもたらせてくれていた木の実や,シカ・イノシシといった動物などの食糧源が大きく減少してしまったと考えられるからです。その後,縄文前期の人々が食糧を求めて海へ向かうのも当然のことだったでしょう。
  • ■貝塚からの出土品■
  • それでは,阿多貝塚をはじめとする貝塚から出土した物から,当時の生活を考えてみましょう。
    まず,食糧としていた貝の種類は,ハマグリとマガキが多く出土しています。これは全国的な傾向です。動物ではイノシシ・シカがほとんどです。イノシシは現在のものと同じくらいの大きさですが,シカは大型であったことが残された骨からわかっています。
  • 轟式土器の破片次に生活用品のなかで煮炊(にた)きに使われた土器は,轟(とどろき)式や曽畑(そばた)式と呼ばれる土器が多く出土します。これらの土器を使って貝や動物の肉を調理していたのでしょう。また,貝や魚を捕る道具と考えられるものも出土しています。

    【写真 轟式土器の破片】
  • 骨格器(右が骨針・左は鏃状のもの)阿多貝塚の骨製の鏃(やじり),荘貝塚のアワビを起こしたりカキを割る道具ではないかと考えられる石器(三日月形石器や円盤形石器)などがそうです。編み物に使われたのではないかと考えられる骨針も阿多貝塚から出土しています。もちろん,木の実などをすりつぶしたりした磨石(すりいし)などもあります。

    【写真 骨格器(右が骨針・左は鏃状のもの)】
  • けつ状耳飾り(半分欠けている)両遺跡からは「けつ状耳飾」(けつじょうみみかざり)と呼ばれるアクセサリーが出土しています。アクセサリーを身につけるのは,縄文後期(約4,000年~約3,000年前)が全盛期といわれていますが,縄文前期にもおしゃれの習慣があったわけです。一か所に切れ目のある輪状の耳飾りですが,うすい板状のものに孔(あな)をあけ,溝をつくる高度な技術を持っていたことに驚かされます。
    【写真 けつ状耳飾り(半分欠けている) 】
  • 阿多貝塚と荘貝塚は,それぞれ縄文前期だけでなく,その後も生活していた跡が残されていることから,環境的にも住みやすい安定した場所であったことと考えられます。
  • ■おわりに■
  • このように単なる「ゴミ捨て場」とも言われていた貝塚ですが,現代の我々にいろいろと有益な情報を与えてくれます。このことはおそらく縄文人が意図してやったことではないでしょう。

    ところで,現代人はどうでしょうか。未来に悪影響を与えるであろうと予想されることを子孫に残すことはないでしょうか。もう一度,日々の生活を見つめなおす必要があるかもしれません。我々は,意図して有益なものを子孫に残してやりたいものです。
  • (文責)前野 潤一郎