令和2年度 補助事務員(整理作業員)募集要項
職務内容 ・出土遺物
(土器,石器等)の整理作業,土器の水洗,接合・復元,実測,トレース,レイアウト,データ処理等の細かい作業,微細な文字,図面等記入
募集人員
51人程度(A班26人,B班25人程度)
募集対象
以下の条件を満たしている方
1 指定された日及び時間に勤務できること
2 協調性があり,埋蔵文化財の整理作業補助の職務に耐えうる者
なお,以下に該当する方は,応募できませんので御了承ください。
(1) 禁錮以上の刑に処せられ,その執行を終わるまで又はその執行を受けることがなくなるまでの者
(2) 鹿児島県職員として懲戒免職の処分を受け,当該処分の日から2年を経過しない者
(3) 日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し,又はこれに加入した者
勤務時間
1 勤務日数 原則として月15日以内
2 勤務日 月曜日から金曜日までに勤務日を割り振ります。
※ 土曜日,日曜日及び祝日には勤務日を割り振りません。
3 勤務時間 午前9時00分から午後4時30分まで(正午から午後1時まで休憩時間,勤務時間6時 間30分)
※ 所定勤務時間を超える勤務 原則として無
4 休暇 年次有給休暇・特別休暇(有給・無給)
勤務地
鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森2番1号
鹿児島県立埋蔵文化財センター
任用期間
令和2年9月1日(火)から令和3年2月22日(月)までのうち
A班:令和2年9月1日(火)~令和3年2月22日(月)(この期間で90日程度)
B班:令和2年10月1日(木)~令和3年2月22日(月)(この期間で75日程度)のどちらか
※ 採用後,原則として1か月間は条件付き採用期間となります。
報酬支払日
原則として毎月12日(毎月末日締切翌月支払)の予定
報酬等
1 基本となる報酬 日額:5,900円
2 期末手当 条件を満たした場合にあり
3 通勤にかかる費用弁償 一定の要件を満たす場合に支給されます。
退職金制度
無
加入保険等
雇用保険
災害補償制度の適用あり
住宅
無
募集期間
令和2年7月1日(水)~令和2年7月8日(水)
応募方法
市販の履歴書(写真貼付,学歴及び職歴,志望動機を明記したもの。)と住所及び応募者の宛名を記入し84円切手を貼った返信用封筒を同封し,下記宛先まで持参又は郵送にて提出してください。(応募期間:令和2年7月8日(水)午後5時まで。)
書類選考の上,順次,面接日時等を連絡します。
応募期間にかかわらず,応募状況次第で募集を締め切らせていただく場合がありますので,あらかじめ御了承ください。
面接日程
A班:令和2年7月14日(火)~7月22日(水) 午後4時40分~
B班:令和2年8月17日(月)~8月27日(木) 午後4時40分~
※選考の経過などについての問い合わせには応じられないものがありますので,あらかじめ御了承ください。
その他
応募いただいた個人に関する情報は,本募集・採用に関することにのみに使用し,応募の秘密については厳守します。
地方公務員法第22条の2第1項に規定する会計年度任用職員として採用します。
原則,敷地内禁煙です。(喫煙は,特定屋外喫煙場所のみ可能です。)
書類提出先及び問合せ先
〒899-4318
鹿児島県霧島市国分上野原縄文の森2番1号
鹿児島県立埋蔵文化財センター調査課
担当
三垣・隈元
℡0995-48-5811(代表)
「鹿児島城跡(火除地跡)」の整理指導
「鹿児島城跡(火除地跡・ひよけちあと)」は,鹿児島市山下町にある遺跡です。遺跡は,城山の麓,鹿児島城の内堀と外堀間の御楼門正面に位置しており,御楼門との間には国道 10 号線が通っています。江戸時代の鹿児島城下絵図では 「明地」等と記されており,当時たびたび火災が発生したことにより,「火除地(火事での延焼防止のために設けられた空き地)」 とされました。
平成29年12月から平成30年2月まで,鹿児島第3合同庁舎整備事業に伴い,県立埋蔵文化財センターが発掘調査を行いました。現在,報告書刊行のために整理作業を進めています。
本遺跡では,近世の層から陶磁器や瓦等が出土しています。そこで,6月22日,陶磁器の専門家である鹿児島大学法文学部の渡辺芳郎教授に,出土した陶磁器について指導をいただきました。今回指導していただいたことを活かし,これからの整理作業を進めていきます。
このように,発掘調査報告書は,専門家の指導や多くの方々の協力によって出来上がります。
報告書は今年度末刊行されます。今回の指導内容を含め,その調査成果報告にご期待ください。
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埋文だより第82号~新たな歴史の始まり(鹿児島城跡)ほか
第3回 「奄美大島の赤煉瓦(れんが)」
Ⅰ.日本における赤煉瓦(れんが)の導入
日本における建築用煉瓦(いわゆる「赤煉瓦」)の生産は長崎で始まりました。幕末に鎖国が解かれると,長崎は他の地域に先駆けて欧米からの科学技術の導入と定着化が一挙に進行しました。製鉄所と船舶の修理・建造を行う工場(長崎製鉄所・文久元(1861)年完成)や蒸気機関を動力とする引揚げ装置を整備したドック(小菅修船場(こすげしゅうせんば)・明治元(1868)年完成),旧グラバー邸(文久3(1863)年完成)のある外国人居留地などの建設が行われ,このような建造物の部材として赤煉瓦が導入されたのがきっかけです。
国産初の赤煉瓦が生産されたのは,安政5(1858)年と考えられています。前年に起工した長崎製鉄所の建設のため,建設を監督したオランダ海軍の軍人ハルデスが瓦職人を指導し,生産したとされています。しかし,その煉瓦は現在の煉瓦に比べて薄く長い扁平な形(蒟蒻によく似た形をしていることから「蒟蒻(こんにゃく)煉瓦」と呼ばれています)をしています。
一方,鹿児島で赤煉瓦が初めて生産されたのは,国産初の赤煉瓦が生産された7年後の慶応元(1865)年と考えられています。薩摩藩は,奄美大島で白糖工場の建設を計画し,アイルランド人技師のウォートルスの指導のもと,4つの工場を建設しました。金久(かねく:現奄美市)と須古(すこ:現宇検村)が慶応2(1866)年に,久慈(くじ:現瀬戸内町)と瀬留(せどめ:現龍郷町)は翌3(1867)年に完成しました。これら白糖工場の建築部材として,奄美大島で赤煉瓦が生産されたのが,鹿児島における赤煉瓦生産の始まりです。
関東での赤煉瓦生産は,慶応2(1866)年の横須賀製鉄所建設,関西では明治元年(1868)年の造幣局(ぞうへいきょく)建設を契機として開始されたと考えられており,鹿児島はわが国の中でも早い時期に赤煉瓦生産が開始された地域であるといえます。


Ⅱ.奄美大島白糖工場の赤煉瓦の特徴
平成27~29年度にかけて,鹿児島県教育委員会が実施した「かごしま近代化遺産調査事業」で,久慈白糖工場跡を発掘調査しました。発掘調査の結果出土した大量の赤煉瓦は,いずれも表面がくぼむという特徴があります。この特徴は,わが国初期の洋風建築に時折見受けられますが,類例は多くありません。また,刻印(「△」「□」「×」「-」「○」)が施されているものや,「九十」「八」「三百八十」などの数字が刻まれているものがあることも特徴といえます。
なお,出土した赤煉瓦は以下の3種類に分けることができました。
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いずれの種類も長﨑の蒟蒻煉瓦より分厚い煉瓦です。特にAのような赤煉瓦は,奄美大島以外の日本国内で発見されていないことから,外国で生産された可能性が高いと思われます。類例としてイギリスなどで両面ともくぼんだ赤煉瓦があることから,それがイギリス植民地の拡大と共にアジアに伝来して奄美大島にもたらされたとも考えられます。つまり,Aの赤煉瓦は,ウォートルスの前任地であった香港や上海などで生産されていた煉瓦であり,見本として奄美大島に持ち込まれた可能性が最も高いと思われます。
一方B・Cの赤煉瓦はAの赤煉瓦に比べ,奄美大島で産出する石材を多く含むことから,奄美大島で造られた赤煉瓦と考えられます。また,焼きが甘く,瓦職人などによる粘土精製技術も窺えません。奄美大島では高品質な煉瓦の焼成を行える瓦職人や原料の確保ができなかったという事情もあるのかもしれませんが,素人が見まねで製作した感が否めない煉瓦です。BはAの赤煉瓦の規格に,Cは耐火煉瓦の規格に合わせて,生産されたものでしょう。




Ⅲ.赤煉瓦生産技術の拡大
明治4(1871)年の久慈白糖工場の廃止をもって,奄美大島の白糖工場は全て閉鎖となり,奄美大島での赤煉瓦生産も行われなくなります。一方,奄美大島で白糖工場建設を指導したウォートルスは,明治元(1867)年に鹿児島を離れた後,明治政府のお雇い技師となり,大阪の造幣局の建設に携わりました。造幣局の建設には建築材として大量の赤煉瓦が必要でしたが,その当時の国内の煉瓦焼成技術や生産能力は未熟だったため,ウォートルス自ら指導し,堺や兵庫,広島などで赤煉瓦を焼成し,調達しました。この時に,奄美大島で赤煉瓦生産を指導した経験が,活かされたことは想像に難くありません。
その後ウォートルスは東京に移り,明治4(1871)年に設置された大蔵省金銀分析所を手始めに,当時のビッグプロジェクトの一つでもある銀座煉瓦街の建設にも携わります。なお,これらの建造物に使用された赤煉瓦の規格は,長崎の蒟蒻煉瓦より,奄美大島で造られた上記Cの煉瓦の規格に近いものです。ウォートルスが奄美大島での経験を活かし,日本人の手の大きさに合う煉瓦の規格を採用したことが窺えます。
さて,ウォートルスが去った大阪では,明治5(1872)年に元岸和田藩士山岡尹方(ただかた)により赤煉瓦製造が開始されました(岸和田煉瓦)。岸和田の赤煉瓦製造には,造幣局建設時にウォートルスが指導した赤煉瓦製造のノウハウが活かされたことでしょう。なお,この岸和田煉瓦には社印「×」が刻印されていますが,奄美大島の赤煉瓦に刻印されている「×」と非常に酷似していることも興味深いです。
Ⅳ.煉瓦を通じた奄美大島と大阪のつながり
久慈白糖工場跡のある集落内には,明治28(1895)年に建設された赤煉瓦の構造物が残っています。佐世保海軍軍需部大島支庫跡です。この構造物に使用されている煉瓦は,関西系の煉瓦と考えられています。つまり,奄美大島での白糖工場閉鎖から20年以上の時を経て,奄美大島の赤煉瓦をルーツとした関西系の煉瓦が,奄美大島に建設された施設の構築材として里帰りしたともいえるでしょう。赤煉瓦を通して,奄美大島と大阪との不思議な縁が感じられます。

文責 今村結記
出水市立江内小学校での出前授業
6月19日(金),鹿児島県立埋蔵文化財センターの職員による「ワクワク考古楽」(授業支援)と(公財)上野原縄文の森の職員による「お出かけ探検隊」(体験活動)を合わせて,出水市立江内小学校で実施しました。
「ワクワク考古楽」では,出水市内にある出水貝塚や,江内小学校の近くにある江内貝塚について紹介し,縄文時代の人々がどのような生活をしていたかを説明しました。子どもたちは,貝塚から出土した骨から当時の人々がどのような動物を食べていたかが分ることに,驚き感心していました。また,本物の土器や石器を観察したり実際に触ったりする活動を通して,より深く歴史に興味・関心を持ったようでした。
「お出かけ探検隊」では,火起こし体験や竹細工を行いました。古代の人々の生活を体験して,生活の苦労や楽しさを学んでいたようでした。
今回の活動をきっかけとして,地域の遺跡に興味・関心を,さらにもってくれると嬉しいです。
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ワクワク考古楽in沖永良部
6月9・10日,沖永良部島の和泊町立和泊中学校と知名町立知名中学校で,「ワクワク考古楽」(授業支援)を実施しました。
授業では,まず,県内の主な遺跡・沖永良部島の遺跡や文化財の紹介を行いました。続けて,縄文時代の鬼界カルデラの噴火災害,縄文時代から古墳時代にかけての土器や石器の変化についても説明しました。生徒たちは,郷土の歴史や文化を学ぶことで,より地域に親しみを持つことができたようです。また,本物の土器や石器を手に取り触れることで,学習への意欲・関心も高まった様子でした。
埋蔵文化財センターでは,このような「ワクワク考古楽」(授業支援)を年間通して実施しています。ご希望される学校等がありましたら,メールや電話でご相談ください。
詳しくは,こちらの「学校向け(授業支援・貸出事業)」のページをご覧ください。




まいぶんキット貸出事業
埋蔵文化財センターでは,学校の授業や郷土教育への取組を支援するため,本物の土器や石器などを貸し出し,教室で実際にふれることができる「まいぶんキット貸出事業」を実施しています。
今回,霧島市立青葉小学校と鹿児島市立伊敷台小学校から申し込みがあり,縄文時代・弥生時代の土器や石器などを貸し出しました。どちらの学校も,6年生の授業参観で活用したいということでした。子どもたちも本物を見て,触って感動したことと思いますが,保護者のみなさんも同じだったのではないでしょうか。
このように,埋蔵文化財センターでは,学校の要望に合わせて,土器や石器・陶磁器などの遺物を準備して貸し出しております。ぜひ,ご活用ください。
なお,受取・返却は,原則として当センター(霧島市国分上野原縄文の森)で直接行うことになりますので,ご了承ください。また,離島などで直接受け取ることが難しい場合は,宅配便などの利用も可能ですので,ご相談ください(送料等は学校側の負担でお願いします)。
詳しくは,学校向け(授業支援・貸出事業)のページをご覧ください。




西都原考古博物館への資料貸出
6月10日,宮崎県立西都原考古博物館が開催する国際交流展「青がつなぐもの ~高麗青磁と古代海洋交易~」の集荷作業がありました。
今回当センターから出品するのは,大坪遺跡(出水市)の越州窯系青磁,大島遺跡(薩摩川内市)の高麗青磁碗,芝原遺跡(南さつま市)の中岳産須恵器壺やカムィヤキなど計20点です。
交流展では,国内で出土した朝鮮半島製の陶磁器の展示や,生産・製作技術などを伝えた人々の交流について紹介されます。お近くにお寄りの際は,会場でご覧ください。
会場:
宮崎県立西都原考古博物館 地下1階展示場
期間:
令和2年7月11日㈯~9月6日㈰




河口コレクション報告書から~「出水貝塚」について
出水貝塚は,鹿児島県出水市中央町にある,縄文時代早期から後期の遺跡です。
本貝塚は,1920年に初めて存在が確認され,1950年代に故河口貞徳氏を中心として発掘調査が行われました。
本貝塚は,古くから出水式土器の標式遺跡(特定の地域や時代・時期に流行した土器の特徴を示す契機となった遺跡)として知られています。出水式土器は,縄文時代後期初頭に九州西部を中心として好んで用いられたと考えられています。
貝層の上層から市来式土器・出水式土器等の縄文時代後期土器が,下層から南福寺式土器・阿高式土器等の縄文時代中期土器,さらに下層の黒色土層からは縄文時代早期の押型文土器が出土しており,縄文時代早期から後期土器の層位的な出土状況及び相対関係が把握できる重要な遺跡です。
また,縄文時代中期・後期に埋葬された人骨も見つかっています。報告書では保存状態が良好な6体について述べられており,当時の縄文人の形質や埋葬方法を調べる上で貴重な遺跡といえます。
今回紹介した県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(201)「出水貝塚」は,こちらからダウンロードできます。



岩川官軍墓地の調査2
岩川官軍墓地(曽於市大隅町岩川)の確認調査では,薩軍(西郷軍)の墓(曽於市末吉町岩﨑)も調査を行っています。
ここは,1877(明治10)年の西南戦争で,岩之上(曽於市末吉町)から坂口坂,大沢津(曽於市末吉町)の坂を上って来た官軍と戦って戦死した薩軍の墓といわれています。
現地は,墓石が1つだけしかなく,氏名等の刻字もありません。官軍墓地とは対照的ですが,同じように測量などの調査を進め,記録に残していきます。