多くの柱穴がある竪穴建物跡跡(永吉天神段遺跡:大崎町)
弥生時代中期(約2,200~2,000年前)の竪穴建物跡です。この建物跡の特徴は,総数36本の柱穴で,北壁側に31本がほぼ3列に並び,浅いものがほとんどです。
建物内の2/3に,こんなに多くの柱があったら,暮らすのに邪魔では? と心配になります。住居でなく,別の目的の建物かも知れません。
『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第1分冊)
『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第2分冊)
『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第3分冊)
西南戦争 銃弾の跡?(高熊山激戦地跡:伊佐市)
高熊山は西郷軍が守備した陣地です。頂上の岩には,政府軍の銃弾跡と考えられる穴が残っています。
本当に銃弾跡か疑問の声もありましたが,政府軍が攻めてきた方向に弾痕跡とされる穴が多く,裏側は少ないことが判明しました。
穴は銃弾跡の可能性が高いと考えられます。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(210)「滝ノ上火薬製造所跡・高熊山激戦地跡・チシャケ迫堡塁跡群・岩川官軍墓地」
横穴のある竪穴建物跡(永吉天神段遺跡:大崎町)
弥生時代中期(約2,200~2,000年前)の竪穴建物跡です。壁に横穴(縦約 20㎝×横約30㎝,奥行約25㎝)が掘られていました。
中から何が出てくるかドキドキしながら調査しましたが,何も出てきませんでした。何を入れていたのでしょうか。
永吉天神段遺跡
『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第1分冊)
『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第2分冊)
『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第3分冊)
「謎の土器は仏か?」(北山遺跡:阿久根市)
「土師器・充実高台椀」(石坂遺跡:日置市)
定説を覆した? 紀伊産土師質釜(永吉天神段遺跡:大崎町)
鎌倉時代の紀伊(今の和歌山県)産土師質釜の出土の南限は,上ノ村遺跡(高知県土佐市新居)でしたが,永吉天神段遺跡の出土品は,国内の南限を新たに塗り替えるものになりました。
さらに,紀伊型釜は広域流通品ではないとされていますが,なぜか遠く離れた鹿児島の大崎町で出土しています。
『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(17) 「永吉天神段遺跡3 第2地点-2」
掲載番号393
台付の壺形土器(南摺ヶ浜遺跡:指宿市十二町)
古墳時代の土器で,壺の部分はソロバン(の珠)形の胴部を呈し,屈曲部分には幅広の突帯を施しています。
台の部分には対に4カ所の透(すかし)を施しています。「台付注口壺」と同じような器形をしています。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(144) 「南摺ヶ浜遺跡」
免田式土器(南摺ヶ浜(みなみすりがはま)遺跡:指宿市十二町)
古墳時代の土器です。頸部(くびれ)下に多条の沈線と縦位の刻みし,特徴的なソロバン(の珠)形の胴部に,重弧文を施しています。
沈線の部分に目をやると,目が回りそうになるくらい丁寧に線が施されています。
お墓へ供献されたとものと考えられており,底に近い部分に穴が開けられています。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(144) 「南摺ヶ浜遺跡」
数字が刻まれた青磁碗(里町遺跡:伊佐市大口)
8世紀末~9世紀中ごろに作られた,中国の江南地方の越州窯系青磁碗です。
外面には刻書があります。この時期に記銘があるものは少なく,貴重な資料です。
刻書は「七月」と「●時」の文字が刻まれています。作った日時を記したのでしょうか?
軽石製品(中津野遺跡:南さつま市金峰町)
縄文時代後期(約4,000年前)の軽石製品です。鹿児島県では,この時代にたくさんの軽石製品がつくられます。中津野遺跡でも,たくさんの軽石製品が出土しました。
これは穴を4か所あけています。なんとなくオカリナのような形に見えませんか? どのように使っていたのでしょう。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(217)「中津野遺跡 低地部・低湿地部編」第1分冊,第2分冊,第3分冊