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カテゴリー: 鹿児島県立埋蔵文化財センター

「平佐と泉山の技術交流を物語る土型 」(平佐焼窯跡群:薩摩川内市)

明治時代の窯跡から出土した花弁を形取った小皿用土型です。土型とは,半乾きにした素地を型にかぶせ叩き締めて,文様や形を写し取る型打成形に用いる道具です。

「肥前国泉山町深見榮三郎作 柗山幸之助所有」と刻字があり,幸之助が泉山(佐賀県有田町)へ修行に行ったことがわかります。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(54)「平佐焼窯跡群(松山・柚木崎窯跡)」

 

名主原遺跡が南日本新聞で紹介されました

鹿児島県立埋蔵文化財センターが発掘調査を行った名主原遺跡(鹿屋市吾平町)が南日本日本新聞で紹介されました。

詳しくは下記のリンクをご覧ください

南九州にも階層的な社会が…県内最古級の古墳か 直径20mの溝に囲まれた遺構が出土 鹿屋・名主原遺跡

結核対策の先駆けとなった痰壺生産 (平佐焼窯跡群:薩摩川内市)

明治時代の窯跡から出土した痰壺です。明治37(1904)年,政府は「肺結核予防ニ関スル件(痰壺条例)」を公布し,人が多く集まる場所には痰や唾をまき散らさないように痰壺の設置を義務付けました。

この痰壺は鶴田村が発注したものと考えられます。痰壺生産が公衆衛生上の一歩前進を果たしたといえそうです。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(54)「平佐焼窯跡群(松山・柚木崎窯跡)」

なぞの土器?(永吉天神段遺跡:大崎町)

縄文時代晩期(約2,500年前)の土器と同じ層から出土して,底部には編み布の痕がついていることから,縄文時代晩期の土器と推定されています。

しかし,形や土器に使用されている土も,南九州では類のないものです。

どこからやってきた土器なのでしょうか。

公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書(8)「永吉天神段遺跡 第1地点

中世の貴婦人のお墓(永吉天神段遺跡・大崎町)

今から約850年前のお墓が見つかりました。中国白磁2つ,羽釜のミニチュア土器,無銘湖州鏡(中国・宋の鏡)が副葬されていました。

喜界島の遺跡などで,女性のお墓から出土している例もあることから,当時この地域でも,身分の高い女性のお墓の可能性があります。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(17)

編み布の跡が残る縄文時代晩期の土器(永吉天神段遺跡:大崎町)

この土器は,型に粘土を張り付けて作られています。その型から土器を外しやすいように,土器と型の間に布を敷いて作ります。その布の網目の「あと」が土器に残ります。

これらの土器は考古学の世界では,組織痕(そしきこん)土器と呼ばれています。当時の編み布の技術が分かる資料です。

公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書」(8) 「永吉天神段遺跡 第1地点」 

 

朝鮮半島の影響?(永吉天神段遺跡:大崎町)

約2,000年前の弥生時代の擬朝鮮系無文土器の一部(口縁部)です。朝鮮半島の技術的影響を受けて作られた土器と考えられています。

この土器がどのようにして,ここにたどり着いたのでしょうか? 大崎町に朝鮮半島の人が来ていたのでしょうか? 形だけ真似したのでしょうか? それとも?

 

山中にひっそりと建つお墓 (薩軍の墓:曽於市)

西南戦争時の西郷軍(薩軍)の戦死者を慰霊したお墓です。マウンド状の土盛りに自然石が建ててありますが,氏名等の刻印もなく,詳細は不明です。

以前紹介した,近くの岩川官軍墓地は墓石が整然と並び整備されていますが,ひっそりとして対照的なお墓です。

(曽於市指定文化財)

西南戦争 堡塁(ほうるい)跡(高熊山激戦地跡:伊佐市)

西南戦争では尾根や山頂に,政府軍も西郷軍も堡塁を築きました。堡塁とは,敵の攻撃から身を守って,攻撃をするための防御施設です。写真の堡塁は,全長 10,8m,最大幅 7mで,人が攻撃から隠れる胸壁(きょうへき)という壁は厚さ2,3m程度あります。高熊山では,最大級の大きさで,小隊長などの指揮者が陣取ったものかもしれません。