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鹿児島県立埋蔵文化財センター

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カテゴリー: 鹿児島県立埋蔵文化財センター

色とりどりの装飾品(鹿屋市・川久保遺跡)

川久保遺跡からは,古墳時代の竪穴建物跡が56基発見されています。

その一部からは勾玉(まがたま)や蛇紋岩製大珠(じゃもんがんせい・たいしゅ),碧玉製管玉(へきぎょくせい・くだたま)などの装飾品が出土しています。

特に赤メノウ製の勾玉はなかなか出土しない逸品です。これらの装飾品が出土した建物には,どんな人物が住んでいたのか気になります。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(52)「小牧遺跡4(縄文時代前期~弥生時代初頭編)」第1分冊第2分冊第3分冊

 

大型の石包丁で何を刈った? (大崎町・永吉天神段遺跡)

弥生時代中期の竪穴建物跡26号から石包丁の破片が出土しています。破片ですが,長さ9.5㎝,幅9.7㎝,厚さ0.8㎝,重さ89.9gあります。

元々の大きさは20㎝以上あったと考えられます。通常,石包丁は10㎝程度のものが多いことから,永吉天神段遺跡の石包丁はかなり大型です。

石包丁は稲穂を刈り取る道具とされますが,科学分析の結果,ススキなどを刈った可能性があることが判明しています。草刈りに使用したのでしょうか?

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第1分冊)

「かごしま産業遺産の道」ガイドブック

「かごしま産業遺産の道」ガイドブックは,鹿児島県が作成した「明治日本の産業革命遺産」の県内構成資産や関連産業遺産を紹介するガイドブックです。

当センターが発掘調査を行った,「鹿児島紡績所跡」,「祇園之洲台場跡」,「天保山砲台跡」,「根占原台場跡」,「敷根火薬製造所跡」,「久慈白糖工場跡」,「滝ノ上火薬製造所跡」が紹介されています。

詳しくは下記リンクをご覧ください。

「平佐と泉山の技術交流を物語る土型 」(平佐焼窯跡群:薩摩川内市)

明治時代の窯跡から出土した花弁を形取った小皿用土型です。土型とは,半乾きにした素地を型にかぶせ叩き締めて,文様や形を写し取る型打成形に用いる道具です。

「肥前国泉山町深見榮三郎作 柗山幸之助所有」と刻字があり,幸之助が泉山(佐賀県有田町)へ修行に行ったことがわかります。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(54)「平佐焼窯跡群(松山・柚木崎窯跡)」

 

名主原遺跡が南日本新聞で紹介されました

鹿児島県立埋蔵文化財センターが発掘調査を行った名主原遺跡(鹿屋市吾平町)が南日本日本新聞で紹介されました。

詳しくは下記のリンクをご覧ください

南九州にも階層的な社会が…県内最古級の古墳か 直径20mの溝に囲まれた遺構が出土 鹿屋・名主原遺跡

結核対策の先駆けとなった痰壺生産 (平佐焼窯跡群:薩摩川内市)

明治時代の窯跡から出土した痰壺です。明治37(1904)年,政府は「肺結核予防ニ関スル件(痰壺条例)」を公布し,人が多く集まる場所には痰や唾をまき散らさないように痰壺の設置を義務付けました。

この痰壺は鶴田村が発注したものと考えられます。痰壺生産が公衆衛生上の一歩前進を果たしたといえそうです。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(54)「平佐焼窯跡群(松山・柚木崎窯跡)」

なぞの土器?(永吉天神段遺跡:大崎町)

縄文時代晩期(約2,500年前)の土器と同じ層から出土して,底部には編み布の痕がついていることから,縄文時代晩期の土器と推定されています。

しかし,形や土器に使用されている土も,南九州では類のないものです。

どこからやってきた土器なのでしょうか。

公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書(8)「永吉天神段遺跡 第1地点

中世の貴婦人のお墓(永吉天神段遺跡・大崎町)

今から約850年前のお墓が見つかりました。中国白磁2つ,羽釜のミニチュア土器,無銘湖州鏡(中国・宋の鏡)が副葬されていました。

喜界島の遺跡などで,女性のお墓から出土している例もあることから,当時この地域でも,身分の高い女性のお墓の可能性があります。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(17)

編み布の跡が残る縄文時代晩期の土器(永吉天神段遺跡:大崎町)

この土器は,型に粘土を張り付けて作られています。その型から土器を外しやすいように,土器と型の間に布を敷いて作ります。その布の網目の「あと」が土器に残ります。

これらの土器は考古学の世界では,組織痕(そしきこん)土器と呼ばれています。当時の編み布の技術が分かる資料です。

公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書」(8) 「永吉天神段遺跡 第1地点」