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カテゴリー: 鹿児島県立埋蔵文化財センター

石臼(敷根火薬製造所跡:霧島市)

敷根火薬製造所では,水車動力を用いて火薬が製造されていましたが,本局の滝ノ上火薬製造所(鹿児島市)と合わせると,幕末の日本でも有数の製造量だったようです。

発掘調査では,水車動力を利用し,火薬の原料をひくための石臼が2点,個人で保管していた6点が確認されています。

直径は58~72㎝,厚さは15~27㎝,重さは160~240㎏もあります。硝石や硫黄などを挽いていたと考えられています。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(194)「敷根火薬製造所跡 根占原台場跡 久慈白糖工場跡」
https://www.jomon-no-mori.jp/old/pdf_data/H46001-2-0194.pdf

 

現在も利用されている導水路(敷根火薬製造所跡:霧島市)

敷根火薬製造所は,文久3(1863)年に薩摩藩火薬製造の本局である滝ノ上火薬製造所(鹿児島市)の分局として建設された火薬製造所です。

文献史料上では日本で初めて認定された,洋式水車(縦軸水車)で,水車動力を用いて火薬が製造されていました。

当時の導水路は,現在も水田の用水路として活用されています。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(194)「敷根火薬製造所跡 根占原台場跡 久慈白糖工場跡」
https://www.jomon-no-mori.jp/old/pdf_data/H46001-2-0194.pdf

敷根火薬製造所古写真(『薩藩海軍史』引用)
導水路(現在水田の用水路として利用)

敷根火薬製造所跡空撮(手前が調査範囲)

 

推しの逸品「幕末の砲台跡」(根占原台場跡:南大隅町)

19世紀初頭の薩摩藩近海には,西欧諸国の艦船が頻繁に出没し,対外的な緊張が高まっていました。当時藩主であった島津斉興は,これに対応するため,指宿・山川・佐多・根占など各地に台場(砲台)を築いています。

根占に築かれた台場は,薩摩藩の中でも初期に築かれた台場の一つで,弘化4(1847)年に完成されました。現在は,台場公園として整備され,砲台が復元されており,平成30年に,県の史跡に指定されています。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(194)「敷根火薬製造所跡 根占原台場跡 久慈白糖工場跡」
https://www.jomon-no-mori.jp/old/pdf_data/H46001-2-0194.pdf

鹿児島湾・開聞岳を臨む 

台場公園(復元された公園)

当時の石垣

ワクワク考古楽出前授業IN鹿児島県歯科医師会

令和6年6月1日(土),鹿児島県歯科医師会雀大学の皆さん18名に,ワクワク考古楽を実施しました。

今回は,昨年度まで取り組んでいた「廃寺は語る! よみがえる鹿児島の仏教文化」事業の成果を中心に講演を行いました。

まず,廃仏毀釈について説明を行った後,令和3~5年度に実施した光台寺跡(指宿市),照信院跡(大崎町),大願寺跡(さつま町)発掘調査の成果について紹介しました。

学生さんたちは,神仏習合を示す遺物で,懸仏(かけぼとけ)の一部である照信院跡から出土した「華瓶(けびょう)」や,諏訪ノ前遺跡(阿久根市)の発掘調査で出土した仏像を手にされると,興味深く見入っておられました。

廃仏毀釈に関心をもっていらっしゃる方も多く,雀大学の皆さんの鹿児島への熱い思いにもふれることができる時間となりました。

鹿児島の廃仏毀釈について紹介しました

 発掘調査で出土した遺物を説明しました

弥生時代のお墓6(永吉天神段遺跡:大崎町)

永吉天神段遺跡お墓シリーズの最後になります。

小高い丘の最頂部に近いところから,以前紹介した周溝墓4号が発見されています。

稜線に沿って南西方向に15基の土坑墓があり,大甕や壺などが集中する箇所が一定の間隔で4か所存在することから,計画的に墓域が形成されていたと考えられます。

この配置からみて,周溝墓4号に安置されていた人物は,どんな人物だったのでしょう。

 

弥生時代のお墓5(永吉天神段遺跡:大崎町)

地面を下に向かって掘り込み,その後横方向に掘り込んでいく靴の形のような土坑墓で,「横口式土坑墓」と呼ばれています。

横方向の穴に遺体を安置したと考えられています。

イメージ図では,横の掘り込みを,木蓋や石蓋で閉塞するように描かれていますが,土坑墓6号では,土塊で閉塞した可能性がある痕跡が発見されています。

一方,土坑墓15号ではその痕跡は確認できませんでした。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第3分冊)

弥生時代のお墓4(永吉天神段遺跡:大崎町)

2段構造になっており,1段目の構造は浅く広く,2段目は深く細長く,底の方が幅広くなっています。

写真の土坑墓3号は,1段目は長軸2.5m,短軸1.2m,深さ0.2mです。2段目は,長軸1.7m,短軸0.6m,深さ1.0mです。

副葬品は見つかりませんでした。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第3分冊)

土坑墓3号

埋葬の様子(調査担当者が再現)
実測図

弥生時代のお墓3(永吉天神段遺跡:大崎町)

土坑墓20号は,隅丸長方形の平面形で,広く浅い形状をした土坑墓です。一部,削平されていますが,長軸 2.5 m,短軸 1.5 m,深さ 0.4 mの大きさがあります。

鉄鏃3点,磨製石鏃4点,管玉1点が出土しています。隣接する土坑墓19号からも,鉄鏃が出土しています。

この隣接する2基のみに,鉄鏃が出土しています。戦いで亡くなった2人の戦士? 親と子? 夫婦? など,色々想像が膨らみます。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第3分冊)
https://www.jomon-no-mori.jp/wp-content/uploads/2020/04/H46001-3-0027-3.pdf

土坑墓20号

土坑墓20号遺物出土状況

土坑墓19号(左)と土坑墓20号(右)

 

弥生時代のお墓2(永吉天神段遺跡:大崎町)

永吉天神段遺跡では,様々な形のお墓が発見されています。土坑墓2号は,隅丸長方形の平面形で,広く浅い土坑墓です。

長軸 2.5 m,短軸 1.4 m,検出面からの深さは浅く 0.3 mです。

土坑短辺にあ たる西壁と東壁の際には溝状の掘り込みも1条ずつあり,この溝状 掘り込みについては,木棺墓の小口板の痕跡の可能性があります。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第3分冊)
https://www.jomon-no-mori.jp/wp-content/uploads/2020/04/H46001-3-0027-3.pdf
土坑墓2号

実測図

弥生時代の墓~周溝墓~(永吉天神段遺跡:大崎町)

弥生時代中期(約2,200~2,000年前)の墓です。墓穴の周囲に溝をめぐらせています。

墓穴の部分は2段掘りの構造で,1段目は隅丸長方形で浅くて広いです。2段目は平面が長方形で,狭くて深いです。まわりの溝の規模は,8.6×8.2m(平均底幅104㎝)です。

遺跡では,弥生時代の墓が25基ほど発見されていますが,この周溝墓4号は位置や規模から,それらの中心的な墓の可能性があります。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第3分冊)
https://www.jomon-no-mori.jp/wp-content/uploads/2020/04/H46001-3-0027-3.pdf