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薩摩焼のルーツを探る~堂平(どびら)窯跡(日置市東市来町美山)

Ⅰ はじめに

 薩摩焼は,朝鮮半島と日本の間に起こった不幸な歴史から始まります。当時日本の国を統治していた豊臣秀吉の号令により,多くの日本の武将が朝鮮半島に侵攻しました。(文禄・慶長の役:1592-1598)。これに参戦した薩摩の武将島津義弘が連れ帰った朝鮮陶工らによってはじめられたのが薩摩焼です。
 江戸時代の幕開けとともにはじまった近世薩摩焼は,考古学的立場から定義すると,「近世に薩摩藩内(現在の鹿児島県と宮崎県の一部)で生産された陶磁器の総称」としており,竪野系,苗代川系,龍門司系,元立院系,薩摩磁器などの大きく5つの系統に分けることができます。
 薩摩に連れてこられた朝鮮陶工らにより最も早く築かれた窯は,苗代川系の串木野窯(鹿児島県いちき串木野市下名)といわれています。その後,陶工集団は鹿児島県日置市東市来町美山に移動し,元屋敷窯を開いたと伝えられていますが,この窯の正確な位置や窯体は分かっていません。次に開窯したのが,堂平窯といわれており,現在,苗代川(日置市東市来町美山)において最も古い窯跡となっています。

 

Ⅱ 堂平窯跡の概要

 堂平窯跡は,鹿児島県日置市東市来町美山字堂平に所在する薩摩焼の古窯の一つです。
 南九州西回り自動車道建設に伴い,平成10年に県立埋蔵文化財センターによって発掘調査が行われました。発掘調査は,堂平窯跡伝承地を対象としたもので,この結果,傾斜角約17度,長さ31.2m,窯幅1.2~1.4mの単室登窯と呼ばれる窯体1基が検出されました。周辺からは,窯へ流れ込む雨水を防ぐための溝や,作業場と思われる遺構等も検出されています。連房式登窯の新堂平窯跡も存在するとの見解もありましたが,(田澤・小山1941),調査を行った結果検出されませんでした。
 発見された窯跡は,串木野窯跡と同様の窯構造で,近年の韓国における発掘調査により16世紀代の朝鮮半島の築窯技術によりつくられたことが考古学的に判明しました。

正面から見た窯跡

横方向から観た窯跡

Ⅲ 堂平窯製品の特徴からそのルーツを探る

 窯体の周辺や少し離れた斜面からは,焼成に失敗し商品にならない製品を捨てた場所である物原(ものはら)が見つかっており,徳利・片口・擂鉢・甕・壷等の一般的に「黒薩摩」と呼ばれる日用雑器が大量に出土しました。これらの成形方法は,轆轤(ろくろ)上で粘土紐を巻き上げ,タタキ成形で作られており,器の厚さは非常に薄く,製品の内面には同心円状のあて具痕が残っていました。このような堂平窯の製品の成形技法は,16世紀末頃の朝鮮陶器と非常によく似ています。また,口縁部の形状や器形などもよく似ており,これらのことから,堂平窯跡の製品は朝鮮系製陶技術によって製作されていることがわかりました。
 さらに,16世紀代の朝鮮王朝時代の陶工は,轆轤成形技法で碗などをつくる「沙器匠」とタタキ成形技法で甕壷などをつくる「甕匠」の2つの集団があり(片山1998b),串木野窯や堂平窯を開いた朝鮮陶工は「甕匠」であり,現在も連綿と続く薩摩焼のルーツであることもわかってきました。

焼成に失敗した製品などを捨てた物原

内面にタタキ成形のあて具痕が残る陶片

堂平窯跡の出土品

 

Ⅳ 堂平窯製品の変化

 堂平窯の製品は,大きくⅠa期:1620~30年代,Ⅰb期:1630年代から1650年代と,Ⅱ期(17世紀後半)の3時期に分けることができます。

Ⅰa期
 最も古い時期に位置付けられる一群で,ほとんどが溝遺構内から出土した資料です。16世紀末の朝鮮陶器や薩摩焼で最初の窯と伝えられる串木野窯から出土した遺物と同様の器形や製陶技術が見られます。
 この時期の製品は,器壁が非常に薄く,口縁部の作りなどはシャープで,胴部内面にはタタキ成形時のあて具痕が同心円状に残っています。器種は,碗・蓋・水注・徳利・片口・擂鉢・甕・壺が中心です。島津義弘により連行され,串木野窯を経て苗代川に移った朝鮮陶工らにより製作された,朝鮮製陶技術そのものが色濃く残る製品と考えられます。

Ⅰa期の製品

Ⅰb期
 朝鮮陶器と同様の器形や製陶技術は引き続き残るものの,日本の需要などの影響を受け,朝鮮的な様相がやや消失し始める時期と考えられます。器形は,成形方法等には大きな変化は見られませんが,器壁は若干厚くなります。口縁部のつくりはややシャープさを失い始め,器種はⅠa期とほぼ同じですが,器形のバリエーションや法量が増大する傾向が見られます。

Ⅰb期の製品

Ⅱ期
 朝鮮的様相が消失していき,在地化していきます。器壁は厚くなり,口縁部のつくり等にはシャープさに欠けるものが多くなります。製作技法の変化としては,タタキ成形のあと,ヘラ状工具によるナデ調整が施されるようになり,横方向の筋状の調整痕が残るものが多く見られます。器種は増大し,碗・蓋・水注・徳利・片口・擂鉢・鉢・甕・壺のほか,皿・白薩摩の碗・皿・素焼きの鉢・植木鉢・瓦等が見られるようになります。特に瓦については,その出土量は膨大で,窯跡から少し離れた場所に形成された物原からは,大量の瓦が出土しました。瓦については鹿児島(鶴丸)城跡の創建瓦を焼いたという伝承がありましたが,物原から瓦とともに出土した甕や擂鉢の型式学的な年代観から,17世紀後半(Ⅱ期)のものと判明し,再建瓦である可能性が高まりました。
 肥前系の製陶技術も導入されるようになり,窯道具ではサヤ鉢やトチンが使用されるようになります。製品でも,甕の口縁部の形状は17世紀後半の肥前系陶器の影響を受けた口縁部形態に変化します。また,県内他窯との交流も考えられ,竪野系冷水窯のものと類似した上手の白色陶胎の製品や,口縁部形状が山元窯と類似する擂鉢も出土しています。

Ⅱ期の製品

 このように,堂平窯の製品にはⅠa期に色濃くみられた朝鮮系製陶技術が,日本の需要や世代交代,藩の関与や県内外の窯場からの技術導入などにより,Ⅱ期になると次第に消失していき,和様化(薩摩焼化)していく過程がみられることがわかりました。

 

Ⅴ おわりに

 堂平窯跡の出土品は,薩摩焼のルーツを解明し,また,薩摩に伝わった朝鮮系製陶技術で生産された焼き物が次第に変容し,薩摩焼に変化していくプロセスがわかる重要な資料であることから,平成22年4月23日に県の有形文化財(考古資料)に指定されました。

移築された堂平窯跡(日置市指定考古資料)

 

文責 関明恵

【参考文献】

鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書(106)『堂平窯跡』
田沢金吾・小山富士夫1941『薩摩焼の研究』(国書刊行会復刻版1987 )
片山まび1998a「一六世紀の朝鮮陶磁と草創期の唐津焼との比較研究―「近世的な窯業」の萌芽を視座としてー」『朝鮮学報』167

 

堂平窯跡の発掘調査報告書は,以下のリンクからダウンロードできます。(PDF)

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(106) 「堂平窯跡」  第1分冊

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(106) 「堂平窯跡」  第2分冊

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(106) 「堂平窯跡」  第3分冊