「かつてその先は・・・」(天保山砲台跡:鹿児島市) Posted on 2024年8月20日 天保山砲台は,嘉永3(1850)年に築かれました。文久3(1863)年の薩英戦争では,この砲台が火ぶたを切りました。 埋蔵文化財センターでは,2011年に,多くのトレンチ(試掘坑)を設定して発掘調査を行いました。 その中の一つから,「荷揚場」の石畳が見つかりました。 石畳の先は,現在埋め立てられて駐車場になっていますが,かつては甲突川河口でした。ここから様々な品物が届けられていたのでしょう。
【何を作っていたのかな? 中世の畑の跡(狩俣遺跡:曽於市大隅町)】 Posted on 2024年8月16日 狩俣遺跡において,古代から近世にかけての畑の畝(うね)跡が多く見つかりました。 写真で掘り込まれている部分が,畝と畝の間です。畝部については,後世において削平されたり,押しつぶされたりしたのか,確認できませんでした。どのような作物を育てていたのでしょうか?
「小型壺形土器」(外畠遺跡:出水市) Posted on 2024年8月9日 縄文時代後期(約3,500年前)のお墓と考えられる土坑から,石皿と一緒に出土しました。 表面には,さまざまな曲線やひし形の文様が描かれています。亡くなった人への思いが込められているのでしょうか。 壺形土器 出土の様子 実測図
「海を渡った土器」(萩ヶ峰遺跡:鹿屋市) Posted on 2024年8月8日 大隅半島の鹿屋市で見つかった,縄文時代晩期の土器です。土器の形や土の特徴から,奄美など南西諸島で作られた「仲原(なかばる)式土器」の可能性が高いです。 大隅半島と南西諸島の人々の交流を想像させる出土品です。
「石器集積遺構」(廣牧遺跡:鹿屋市) Posted on 2024年8月7日 弥生時代の層から,打製石斧がまとまって見つかりました。 皿状の掘り込みの中に,刃部をそろえて並べられていたことから,使ったあとに大事に直されていたのかもしれません。
「物原(ものはら)」(平佐焼窯跡群:薩摩川内市) Posted on 2024年8月6日 窯跡には,陶磁器を作るときに焼成に失敗し,商品にならないものをまとめて捨てる場所があり,それを「物原(ものはら)」といいます。 平佐焼窯跡群の発掘調査でも,工房跡とともに,この「物原」が見つかりました。多くの失敗作が捨てられていたこの「物原」には,陶磁器が地層のように重なっていて,発掘調査における大変重要な情報源になっています。 当時の職人たちは,失敗作が後世,大事に扱われるとは思いもしなかったことでしょう。 調査で見つかった物原 陶磁器が地層のように重なっています
「拡散希望! 弥生時代の木製品」(六反ヶ丸遺跡:出水市) Posted on 2024年8月1日 弥生時代の用途不明の装飾木製品です。樹種はイスノキで,全面に丁寧な加工が施されており,突起部分の間は磨きがなされています。 先端部は薄く削られており,刀身状になっています。その下部には,4条の段が削り出されており,装飾性が非常に高いものです。 先端部には,糸を巻き付けたような痕(あと)が両縁に二か所ずつあり,何かに結びつけて使う付属品の可能性が高いです。 類例や詳細を知るために,できるだけ多くの方に見ていただけるよう,この投稿をシェアしていただければありがたいです。
石が積つまれた遺構(尾付野山遺跡:さつま町) Posted on 2024年7月29日 峠の最頂部において,「塚状積石」と呼ばれる遺構が発見されています。峠の最高地点を切り通すときに出た石を積み上げたものと考えられています。 時期や用途が不明ですが,類例から,中世以降で,境界を表す機能や街道に関わる峠の祭祀遺構の可能性があるようです。 峠を通るときの無事を祈ったのでしょうか?
何を入れた土器?(向井原遺跡:さつま町) Posted on 2024年7月26日 古墳時代の竪穴建物跡から,完全な形で出土した,小型丸底壺と呼ばれる土器です。底にポッチがあり,自立が難しい形状をしています。 何を入れるための土器だったのでしょうか?
修復された弥生時代の土器(田原迫ノ上遺跡:鹿屋市) Posted on 2024年7月25日 田原迫ノ上遺跡から出土した弥生時代の土器です。口縁部と突帯の間に,3か所の孔(穿孔)があります。これは「補修孔」と考えられるものです。 紐(ひも)などで穴どうしを結束して,土器のひび割れが広がらないようにしたり,割れ目をつないだりしたと考えられます。 ※補修孔は,弥生時代だけでなく,縄文時代などの土器にもよくみられます。