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鹿児島県上野原縄文の森

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カテゴリー: 縄文の森

縄文の森から 平成30年6月

平成30年6月26日(火)



平成30年6月19日(火)

「対で埋められた壺形土器」東京国立博物館とパリの「縄文」展へ

 2018年7月3日(火)から東京国立博物館(トーハク)にて開催される特別展「縄文-1万年の美の鼓動」に出展するため,「対で埋められた壺形土器」が出張していきました。


6/12(火) 旅立ち(梱包作業)の様子

さらに!

今年フランスのパリ日本文化会館で開催されるジャポニズム
2018「縄文」展にもトーハクから引き続き壺形土器が出展されます。(10月~12月)
このため,壺形土器は,レプリカを展示しています。
ご理解をお願いします。

考古ガイダンス第40回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第40回 未来への懸け橋
  • ■見事な4連アーチの西田橋■
  • 西田橋右岸の石橋創建時の反力石と明治43年の石橋改修時の土留石垣西田橋は4連アーチの見事な石橋で,甲突川に架(か)けられていた五石橋の中の一つです。肥後(現在の熊本県)の石工(いしく)岩永三五郎(いわなが・さんごろう)らを招いて架けられました。

    この橋は鹿児島城(鶴丸城)内への表玄関として重要な位置にあり,明治初期まではそのたもとに御門(ごもん)が建てられていました。欄干(らんかん)には青銅の擬宝珠(ぎぼし)柱がつけられ,ほかの四石橋より格式高くつくられていました。
  • 【写真 西田橋右岸の石橋創建時の反力石と明治43年の石橋改修時の土留石垣】
  • 平成5年8月6日の集中豪雨は未曾有(みぞう)の大洪水を引き起こし,甲突川五石橋のうち新上橋(しんかんばし)と武之橋を流出させました。
  • そのため,甲突川の抜本的な河川改修事業により移設されることが決定し,西田橋たもとの調査が行われました。この調査によって,石橋が架けられる前にあった木製の橋のころ,石橋が作られたころ,明治時代に改修されたころ,の各時期の遺構がそれぞれ発見されました。
  • ■最新装備の薩摩藩「集成館」■
  • 明治5年,祇園之洲砲台場と浜町西田橋の移り変わりは,明治維新に関わった人物たちとも深い関係があります。ここではその基盤を作った二人の人物を中心に説明したいと思います。
    調所広郷(ずしょ・ひろさと)は,河川改修・財政改革などを行いました。これらの改革は「薩摩の天保(てんぽう)の改革」と呼ばれています。この改革の成功により薩摩藩は50万両を蓄え,富強の藩へと生まれ変わりました。島津斉彬(しまづ・なりあきら)の「集成館」(しゅうせいかん)事業による軍事科学事業もこの改革の成功によって可能となったのです。
  • 【写真 明治5年,祇園之洲砲台場と浜町(尚古集成館)】
  • 河川改修事業では,甲突川の土砂で天保山(てんぽざん)を,稲荷川の土砂で祇園之洲(ぎおんのす)を築いて水害を防ぐことに貢献しました。この時に甲突川の五石橋も架けられました。

    天保8(1837)年にアメリカ船が佐多・山川沖に現れると対外的に緊張状態となり,数個所に砲台(ほうだい)が置かれました。そのうちの一つが祇園之洲砲台です。この砲台は仙巌園(せんがんえん)に隣接した工場群「集成館」の反射炉(はんしゃろ)で鋳造(ちゅうぞう)されたものでした。
  • ■国内最大規模の反射炉■
  • 「集成館」の反射炉跡は鹿児島市教育委員会によって調査されました。この時発見されたのは,3基建設された反射炉のうちの2号基と考えられています。2つの炉を持ち,国内最大の規模であったことが明らかになりました。

    西洋の技術を使った反射炉の建設は,島津斉彬が第28代藩主になって最初に手がけたものです。これを用いることで,これまで日本の技術では不可能だった鉄製大砲の鋳造が可能になりました。そのすぐ横には,わが国初の溶鉱炉(ようこうろ)が造られました。

    これにより,品質にばらつきのない鉄を生産することができ,高品質の鉄製砲が造られました。また,火薬製造なども行われました。鹿児島市教育委員会によって調査された滝ノ上(たきのかみ)火薬製造所はその一つです。この調査で,火薬の製造施設の可能性のある石組みが発見されました。当時,日本で唯一の大規模な火薬工場であったといわれていますが,一部が調査されただけで詳細は不明です。

    斉彬は明治維新を見ることなく急逝しますが,彼がつくらせた「集成館」などの工場群によって薩摩藩の最新装備は支えられ,やがて明治維新の原動力の一つとなっていきます。これらの装備によって,薩英戦争においても薩摩藩はイギリスよりも旧式の装備ながら善戦することができました。しかし,西欧の科学力をまのあたりにして,これ以後西欧の技術を積極的に取り入れ,近代化を進めていきました。

    産業面においても,慶応3(1867)年にわが国初の洋式機械紡績工場である鹿児島紡績所が操業を開始しました。その建設や技術指導にはイギリス人技師があたりましたが,この時に彼らの住まいとして建設されたのが現在,重要文化財となっている異人館です。
  • ■石橋公園■
  • 西田橋(石橋公園)現代の西田橋は大水害の後,平成の河川改修事業によって移設され,高麗橋・玉江橋とともに石橋公園として公開されています。

    まず平成11年4月に高麗橋と玉江橋の本体部分が完成し,続いて同年10月に西田橋の本体部分が完成しました。この石橋公園の場所は浜町遺跡にあり,砲台の置かれた祇園之洲は稲荷川を隔てた隣に位置しています。
    【写真 西田橋(石橋公園)】
  • また,天保年間(江戸時代)の『鹿児島城下絵図』の中に「抱真院(ほうしんいん)」,「神明社(しんめいしゃ)」,「島津山城殿下屋敷(しまづやましろどのしもやしき)」などがあったとされています。
  • この遺跡は西田橋の移設に伴って調査されました。調査の結果,絵図に描かれた区画や建物・井戸などの跡,当時の椀(わん)や皿などの生活用具が発見されました。さらに,建物の廃材や石を田の字形に並べて埋め立てを行って整地した場所から,当時の生活道具の中でも普通は残りにくい木や竹などで作った道具が数多く出土しました。これら江戸時代の人々の家具や履き物を通じて,当時の鹿児島城下に住んでいた人々の生活がうかがえます。

    五石橋は江戸時代の河川改修によって架けられた橋ですが,そのうち三石橋は移設されることで本来の橋としての役割は全うしました。しかし,未来への懸け橋として子孫に受け継がれていくのです。
  • 用語解説
  • 五石橋 甲突川に架けられていた西田橋と新上橋,武之橋,高麗橋,玉江橋の五つ。
     この中で西田橋は弘化3(1846)年に架けられた。
    仙巌園 鹿児島市吉野町磯にある旧島津家別邸
    反射炉 たき口からの炎と,その炎が天井に反射した熱によって金属・鉱石を溶かすもの。
    木札 墨書された荷札などのこと。
  • (文責)上床 真

縄文の森から 平成30年5月

平成30年5月29日(火)

常設展示室の河口コレクションコーナーをリニューアルしました

「骨が語るむかしのくらし」

 常設展示室で,長年鹿児島県の考古学界をリードしてきた考古学者 故 河口貞徳(かわぐちさだのり)氏 (1909~2011)が調査した遺跡の考古資料等を紹介しています。
 今回紹介するのは,「骨が語るむかしのくらし」と題して,(いち)()貝塚(かいづか)について紹介しています。
 市来貝塚はいちき串木野市川上にあり,約3800年前の縄文時代後src=”https://www.jomon-no-mori.jp/old/https://www.jomon-no-mori.jp/old/の貝塚として古くから知られています。河口氏は昭和36年に市来村(現いちき串木野市)より委託を受けて,調査を行いました。貝塚からは,土器や石器だけでなく貝製の腕輪や骨製の釣り針などがみつかりました。また,これまでの発掘調査で4体の人骨が出土しています。
 今回の展示では,貝塚から発掘された土器や貝製の腕輪などをはじめ,3体の人骨の頭部を展示しています。

展示期間:平成30年5月19日()~平成30年9月21日(金)まで


出土した土器や石器などの遺物

発掘された人骨

展示の様子

平成30年5月18日(金)

ただいま開催中!

 ミニ企画展
「地層が語る鹿児島の歴史 ~見る・聞く・触る ジオの日~」

日本ジオパーク認定の霧島連山を遠くにながめる上野原。
地質の日(5月10日)に合わせ,鹿児島の歴史を写真パネルや地層剥ぎ取り資料で紹介しています。

【期間】 平成30年5月10日(木)~6月10日(日)
【場所】 展示館ホール     *観覧無料

六反ヶ丸遺跡(出水市)で発見された噴礫剥ぎ取り資料を展示中!

 噴礫痕とは,地震による激しい揺れで土層の液状化現象が起こり,地下にあった石の地層が地表まで噴き上がってきたものです。噴礫痕に残る石の大きさから,当時相当大きな地震があったことが想定されます。
 六反ヶ丸遺跡で見つかった噴礫痕は,古墳時代に相当する地層を突き破って地表に達していることから,古墳時代以降に起こった地震によって起こった現象であると考えられ,出水断層帯の活動時期を知る上で重要な資料です。

考古ガイダンス第39回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第39回 標式遺跡 ~博士と中学生の麻衣さんの会話~
  • 博士博士
    「これまでの連載を読んでみてどうじゃ?」
  • 麻衣麻衣
    「鹿児島にはいろいろな遺跡がたくさんあり,それぞれの時代の人々が想像していた以上にたくましく生きていたことが分かったわ。でも,ちょっと分からなかったのは,○○式土器って出てくるでしょう。なぜ今から何年前ということが分かるの?」
  • 「うん。いい質問だ。ちょっと難しいかもしれないが,一緒にみていくことにしよう」
  • ■土器型式■
  • 土器形式年表
  • 「土器は,作られた時代や場所の違いによって形や文様が異なっていて,同じような特徴をもつ土器にそれぞれ○○式土器と名前が付けられているんじゃよ。このことを土器型式と呼ぶんじゃ。」
  • 「名前はどうやって付けられるの?」
  • 「遺跡の名前は,そこの地名(字名)をとって付けられるのじゃ。それで初めて発見された土器の遺跡名が,土器の型式名になるんじゃ。その遺跡を標式遺跡と呼んでおる。」
  • 「土器型式からどんなことが分かるの?」
  • 「土器はやわらかいうちだったらどんな形にでも変えられるので,作る人の考えでいろいろな姿になるよな。」
  • 「はい。文様も,いろいろな道具を使って,好みのデザインが出来ますしね。」
  • 「しかし,縄文時代や弥生時代の人々が個々人で思い思いに違った形の土器を作ったかというと,そうではないのじゃ。同じ時代の人々あるいは同じ地域の人々が同じような形・文様の土器を作っているのじゃ。
  • 「あたかも私たちが無意識のうちにしゃべっている方言みたいなものなのですね」
  • 「そのとおりじゃ。同じ時代(時間的空間)・同じ地域(地域的空間)でまとまりのあるのが土器型式なんじゃ。」
  • ■土器編年■
  • 「土器は少しずつ変化していくんじゃ。その変化の仕方が急に違ってくるのではなく,前の土器の文様を引きずりながら次の世代へと受け継がれていくのじゃ。」
  • 「おばあちゃんから子や孫へ作り方がつたわるのかな。」
  • 「その変化の方向性を見つけて時間の物差しとしたのが,土器編年というんじゃ。」
  • 「方向性だけではどちらが古いのか分からないんじゃないの?」
  • 「その通り。それで重要なのが地層の上下関係で検証する層位学的方法なんじゃ。」
  • 「地層の下から出てくる方が古いということですね。」
  • 「鹿児島には現在も活発な活動を繰り返している桜島をはじめ,霧島火山群・指宿火山群それにトカラ列島に続く多くの火山があるじゃろ。それぞれの時代に噴出した火山灰は地層として県内いたる場所でみることができ,土器編年の検証も容易なんじゃ。」
  • 「火山灰などの地層がはっきりしないところはどうするの」
  • 「住居跡等の遺構が出ていた場合,考古学を研究する人達が最も関心をもつ点が切り合い関係なんじゃ。新しい住居は古い住居を壊してつくられるので,最後につくられた住居跡が最も当時の形をとどめていることになるし,埋まった土にも新しい土が堆積しているはず。遺構の切り合い関係がはっきりしてくると,遺構の中に埋まっていた土器同士の時間的な前後関係を明らかにすることができるんじゃ。」
  • ■地域的空間■
  • 「縄文時代だけで日本全国に約400もの土器型式名があり,さらにそれぞれが細分されているんじゃ。その綿密さは世界一じゃぞ。」
  • 「同じ住居跡から違う型式の土器が出てくると,どの地域から持ち込まれたかが分かるのね。」
  • 「鹿児島の縄文時代の遺跡では,瀬戸内地方や北陸地方,さらに関東地方の土器が出土しているので,すでにその時代から交流があったことが分かっているんじゃ。もちろん南島の土器も北上しているんじゃよ。」
  • 「鹿児島は三面を海に囲まれているし,日本と東南アジアを結ぶ中間地点にあるから,各時代にどの地域と交流があったのかを知るのに絶好のフィールドなんですね。」
  • 遺跡地図
    1 福田遺跡(岡山県倉敷市)
    2 船元貝塚(岡山県倉敷市)
    3 中津貝塚(岡山県倉敷市)
    4 里木貝塚(岡山県倉敷市)
    5 鐘崎貝塚(福岡県玄海町)
    6 三万田東原遺跡(熊本県泗水町)
    7 北久根山遺跡(熊本市)
    8 轟貝塚(熊本県宇土市)
    9 曽畑貝塚(熊本県宇土市)
    10 阿高貝塚(熊本県城南町)
    11 御領遺跡(熊本県城南町)
    12 西平貝塚(熊本県北町)
    13 南福寺貝塚(熊本県水俣市)
    14 出水貝塚(出水市)
    15 市来貝塚(市来町)
    16 黒川洞穴(吹上町)
    17 高橋貝塚(金峰町)
    18 松木薗遺跡(金峰町)
    19 上加世田遺跡(加世田市)
    20 深浦遺跡(枕崎市)
       21 石坂上遺跡(知覧町) 28 並木遺跡(大口市) 35 岩崎遺跡(田代町)
    22 春日町遺跡(鹿児島市) 29 塞ノ神遺跡(菱刈町) 36 松山遺跡(上屋久町)
    23 前平遺跡(鹿児島市) 30 平栫貝塚(霧島市) 37 宇宿貝塚(笠利町)
    24 吉田大原遺跡(吉田町) 31 丸尾遺跡(末吉町) 38 嘉徳遺跡(瀬戸内町)
    25 成川遺跡(山川町) 32 入左遺跡(末吉町) 39 面縄貝塚(伊仙町)
    26 水迫遺跡(指宿市) 33 大平遺跡(宮崎県串間市) 40 喜念貝塚(伊仙町)
    27 橋牟礼遺跡(指宿市) 34 山ノ口遺跡(大根占町) 41 兼久貝塚(伊仙町)
  • ■絶対年代■
  • 「じゃあ,なぜ文字もない時代のことなのに,何年前というのが分かったの?」
  • 「これには放射性炭素14年代測定法という理化学的な方法を使うんじゃ。動物や植物などの生物は生きている間,からだの中に炭素14という元素を一定量もっているのだそうじゃ。生物が死んでしまうと炭素14を取り入れることなく,一定の割合で放出され次第に減少してゆくのだ。」
  • 「一定の割合って?」
  • 「生きていた時の量のちょうど半分になるのが約5,600年で,半減期と呼ばれておる。したがって,出土した木炭や木の実に残った炭素14の量を調べることによって今から何年前のものかわかるのじゃ。アメリカのリビーという物理学者がこの方法を開発し,この功績によってノーベル賞を受賞をしたのじゃよ。」
  • 「へー,すごい発見ね。いろいろな科学の成果が考古学の研究を支えているんですね。」
  • 「どうじゃ,麻衣さんも将来考古学者を目指しては。」
  • 「いろいろな分野から考古学にアプローチ出来ることが分かったから,何の仕事をやるか分からないけれど,遺跡には興味を持ち続けていきたいわ。」
  • (文責)東 和幸・田中 忠義

第51回 バックナンバー 古の美術品

  • 上野原縄文の森第51回企画展
     古の美術品
  • 開催期間:平成30年4月24日(火)~平成30年8月26日(
  •    
     南日本新聞に3年以上に渡って連載中の「古の美術品」は,写真とともに軽妙で面白い解説で,読者から好評を得ています。
     これまで新聞に掲載された考古資料を展示するとともに,考古学的見地とは異なる美術的な視点や,視点を変えると見えてくる様々な用途やかたちの面白さなどを紹介・解説しながら,埋蔵文化財の新たな魅力をお届けします。
    •  
  • ■古の美術品総選挙~最終結果発表~■
  • ■注目の一品~企画展展示品から~■
  • 画像をドラッグしたまま動かすと,360度回転画像で「企画展展示資料」をご覧いただけます。
    また,タブレット上では,拡大した画像を,360度回転画像でご覧になることもできます。
    耳取ビーナス(岩偶)旧石器時代(約2万4000年前)
     
    桐木耳取遺跡(曽於市)
     
       女性器ともお尻ともとれる刻み
      と髪の毛らしい線刻を施していま
      す。豊穣のシンボルか安産のお守
      りにしたのでしょう。
     
           埋文センター大久保さん 
  •  
  • ■企画展講演会■
  • 平成30年8月4日(土)13:30~15:00 ※終了しました
      講 師 : 鹿児島県立埋蔵文化財センター次長 大久保 浩二
      定 員 : 各回80名程度(※要事前申し込み)
      場 所 : 縄文の森展示館多目的ルーム
      資料代 : 100円
        ※ 講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師による
        ギャラリートークを行います。(別途展示館利用料金が必要)
  • ■夏休み企画■
  •  学校の夏季休業期間には,社会科等の課題(自由研究等)に活用できるような夏休み企画を実施します。
    ※詳しい内容は,チラシやホームページ等で案内します。
     
  • ■展示図録■
  • ★好評発売中★
    展示図録『バックナンバー古の美術品』をミュージアムグッズコーナーで販売中
    (1冊700円,限定300部)

    上野原縄文の森ホームページ「古の美術品」のページもご覧ください。下のバナーからご覧いただけます。
    古の美術品

考古ガイダンス第38回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第38回 福山城ヶ尾遺跡 ~壺に秘められた思い~
  • ■7,500年前の壺,姿を現す■
  • 壺A出土状況
    壺A出土状況
    壺B出土状況
    壺B出土状況
    壺C出土状況
    壺C出土状況
  • 福山城ケ尾遺跡全景「これは何かある。」直感的にそう感じました。
    東回り自動車道建設に伴なう福山城ケ尾遺跡の発掘調査でのできごとです。

    緊張しながら移植ゴテで掘り下げていくと,深鉢形の土器が完全な形で姿を現しました。驚く間もなく,その約7m東側の地点で,深鉢とは大きさの異なる小円形の口をした土器が顔を出しました。頸(くび)の部分は末広がりとなっています。まさかと思いながら掘り下げると,丸い胴部が現れました。まぎれもなく壺形の土器です。
  • 【写真 福山城ケ尾遺跡全景】
  • それだけではありません。調査が進むにつれ,さらに1つ,また1つと壺が見つかりました。最終的には,深鉢1個と壺3個がほぼ完全な形で出土しました。
  • ■高度な製作技術■
  • 深鉢出土状況発見された深鉢と3個の壺は塞ノ神(せのかん)式土器と呼ばれています。約7,400年前に作られた土器です。
    これらの壺はたいへん精巧に作られており,その製作技術の高さには目を見張るものがあります。3個とも上から見ると胴の部分は楕円形を呈し,側面は,中心線を引くと左右が対称になっています。そのズレはすべて1cm以内です。相当熟練した者が作らなければこうはいかないでしょう。

    これまで発見された塞ノ神式土器はほとんどが深鉢でした。壺が存在することは知られてはいましたが,完全な状態で発見されたのは初めてで,極めてめずらしいことでした。
    これらの壺は縄文人が何か特別な思いを込めて作り,残したものに違いありません。
  • 【写真 深鉢出土状況】
  • ■壺の出現と消滅■
  • 縄文の壺の移り変わり
  • 元来,縄文時代に壺は存在しないとされていました。ところが九州南部では,縄文時代の早期,約8,000年前に突如として出現し,異彩を放っています。しかしそれは7,400年前頃に忽然と消えてしまいます。

    次に現れるのは4,000年ほどたった縄文時代後期で,その初めと終わり頃に断続的に現れ,また消えてしまいます。その後2,500年前頃からは,稲作の開始とともに本格的に作り始められ,以後今日まで続いています。(図1参照)

    こうしてみると,縄文時代には壺は現れたり消えたりすることに気づきます。
  • 縄文の壺はなぜ受け継がれていかないのでしょうか。
  • ■残された煤(すす)■
  • これまで壺は液体や穀物などの貯蔵用とされてきました。
    ところが,今回発見された3つの壺を観察すると,外側に多量の煤が付着していることから,火にかけられたものと思われます。しかし,内側に焦げなどの痕跡は認められません。

    この状況からすると,単に食物の煮炊きに使ったのではなさそうです。つまり,火にかけて使用したが,壺の中にはこげつかないようなものを入れていたということになります。また,口の部分は擦り減っています。このことも壺の使用法を解明する手ががりとなりそうです。

    このように,本遺跡の壺の用途は,単に貯蔵という解釈では理解できないものがあります。
    縄文の壺が受け継がれないのは,その時々で壺の用途に違いがあったからなのかもしれません。
  • ■埋設された土器■
  • 福山城ヶ尾遺跡出土遺物これらの深鉢と壺は,土器の大きさと同じ規模の穴に入れられ,地面すれすれに埋められていたと推定されています。何のためにそんなに丁寧に埋めたのでしょうか。土器の内部の土壌分析を試みましたが,決定的な答えは出ませんでした。そこで,発見された状況を再現してみます。

    壺Bと壺Cは約3メートル離れて出土しました。さらに,それらの出土した地点から約5m離れた所で,円形の大型土坑(直径約2m,深さ約30cm)2基が発見されました。そのうち1基からは,耳栓状の土製品3点と異形石器・石鏃等が出土しています。
  • 【写真 福山城ヶ尾遺跡出土遺物】
  • この大型土坑は耳栓状土製品の作り方などから見て,壺と同時期のものと判断できます。住居跡か墓の可能性がありますが,現時点では明らかではありません。土坑と埋められた壺との関連を考えると,何か大切なものを近くに埋めていたとも考えられます。

    いずれにせよ,壺形土器は数も少なく,貴重だったはずです。それを丁寧に埋めた縄文人の姿を想像すると,何だか彼らが遠くて近い存在のように思えてきます。
  • ■おわりに■
  • 福山城ケ尾遺跡のこの精巧な壺は,次の時代へとは続いて行きませんでした。それは壺を必要としなくなったためだと理解するしかありません。それまでの価値観や生活様式が大きく変わってしまった可能性もあります。
    こうした現象は,縄文時代だけに限られたものではありません。現代でも文化や文化財が現れたり消えたりしています。それらを捨てるべきか取るべきか,今を生きる私たちの決断にかかっているのです。
    このことが実は,壺に秘められた縄文人の最大のメッセージなのかも知れません。
  • 用語解説
  • 耳栓状土製品
    (じせんじょうどせいひん)
    形態は耳栓(耳飾り) と同じだが,本遺跡のものについては,用途等について解明されていないため,このような名称を用いた。
    異形石器
    (いけいせっき)
    めずらしい形をした用途不明の石器。
  • (文責)藤野 義久

考古ガイダンス第37回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第37回 縄文のジャンクション
  • ■高まる定住論議■
  • 加治木ジャンクション 遺跡図1
    加治木ジャンクション 遺跡図3加治木ジャンクション 遺跡図4
  • 鹿児島湾奥に位置する加治木町の平野部に,平成14年に「加治木ジャンクション」が完成しました。九州縦貫自動車道と東九州自動車道,隼人道路との連結部となるこの「加治木ジャンクション」の建設地は,実は「縄文のジャンクション」でもあったのです。
  • ■干迫遺跡の発見■
  • 干迫遺跡平成3年から4年にかけて,この「加治木ジャンクション」の建設予定地の発掘調査が行われました。干迫(ほしざこ)遺跡,これがこの地に与えられた遺跡の名前です。

    標高約10~12メートルの微高地にあるこの遺跡の発掘調査は,低地であるということと,今日まで水田として使用されていた場所であったことから,湧(わ)き出る水との闘いでもありました。
  • それに加えて,いやそれにも増して大量の土器・石器が出土したため,それらをどのような発掘方法で調査・記録していったらいいかという課題を常にかかえながらの,まさに格闘の日々でした。

    このように大量の遺物が出土したことは,そのまま大量の情報が出土したということを意味します。縄文時代早期から江戸時代まで多くの遺構・遺物が発見された干迫遺跡ですが,ここでは,最も多くの情報が得られた縄文時代後期中ごろ(今から約3,500年前)の様子について紹介したいと思います。
  • ■市来式土器の文化■
  • 市来式土器のいろいろ約3,500年前の南九州は,市来式土器と呼ばれる土器に代表される,文様や器面の仕上げに貝殻を用いた土器が流行した時期でした。

    この時期には,鹿児島市の草野貝塚や垂水市の柊原(くぬぎばる)貝塚などのような,南九州では数少ない貝塚が残されたことでも知られています。
    また,市来式土器は南九州を中心としながら,北は四国の東南部や長崎の五島列島,南は沖縄本島でも出土しており,その交流圏の広さは古くから話題となってきました。
  • 【写真 市来式土器のいろいろ】
  • 干迫遺跡で出土した中九系州土器この市来式土器が干迫遺跡では大量に出土しました。さらにそれと共に,様々な地域の土器が多量に出土したのです。つまり,南九州で市来式土器が盛んに使用されていたころ,九州の西北部や中部あるいは北部で流行していた土器も一緒に,しかも多量に出土したのです。


    【写真 干迫遺跡で出土した中九州系土器】
  • このことは,何を物語っているのでしょうか。主に煮炊(にた)きに使用されたと考えられる縄文土器ですが,様々な地域の土器が出土したことにより,その地が様々な地域と交流していた場所であった可能性を伝えてくれるのです。つまり,「縄文のジャンクション」的な干迫遺跡の様子が浮かび上がってくるのです。
  • ■朱(あか)い土器の謎■
  • 水銀朱を塗られた注口土器「朱(あか)い土器が出た!」湧き出る水と闘いながら調査していた猛暑のある日,作業員の誰かがそう叫びました。あわてて駆(か)け寄ってみると,「何だこれは?」それは形も文様も,そして表面に塗(ぬ)られた朱の色も初めて目にするものでした。
    実はこれこそ干迫遺跡における交流の証(あかし)を伝えてくれる最も重要な遺物でした。それは注口土器(ちゅうこうどき)と呼ばれる急須型の土器で,その形や文様から,関東地方の影響を受けて近畿地方およびその周辺地域で作られたと考えられる土器であることがわかりました。
  • 【写真 水銀朱を塗られた注口土器】
  • さらに表面に塗られた朱色の原料は水銀朱と呼ばれる特殊な鉱物で,当時のものとしては極めて珍しいものであることもわかりました。どのような経路でここ干迫の地までたどり着いたのでしょうか。そこには様々なドラマがあったと考えられ,興味は尽きません。
  • ■時を超えたランドマーク■
  • 蔵王岳の勇姿(手前が干迫遺跡)あわただしく進んだ干迫遺跡の発掘調査を,雨の日も晴れの日も見守ってくれていた「存在」がありました。それは加治木を訪れた人なら誰もが目にしたことがある山,蔵王岳(ざおうだけ)です。

    標高112メートル,安山岩が主体をなす奇峰です。いろいろな方向から眺めることのできる蔵王岳こそ,数千年間多くの人々に絶大なる存在感を示し続けてきた,この地のランドマークだったのでしょう。

    その蔵王岳の麓に現代を象徴する車社会のジャンクションが建設されようとしていることは,干迫の地に時を超えて与えられた宿命的なものを感じざるを得ません。
  • 【写真 蔵王岳の勇姿(手前が干迫遺跡)】
  • 高速道路のジャンクションは「ひと・もの・情報」のそれでもあります。蔵王岳はそのジャンクションを,そして21世紀という新しい時代をこれからも見守り続けてくれるでしょう。
  • 用語解説
  • ジャンクション 接合。結合点。合流点・高速道路の合流点。
    ランドマーク 土地や場所の目印や象徴となっている建造物,歴史的建築物など。
  • (文責)前迫 亮一

考古ガイダンス第36回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第36回 定住のきざし
  • ■高まる定住論議■
  • 上野原遺跡から出土した土器霧島市上野原遺跡では,竪穴住居跡52基,集石遺構39基,連穴土坑16基,その他約260基の土坑が発見されました。また,竪穴住居跡の中から,約10,600年前の火山灰が見つかったことで,この遺跡は今から約10,600年前の定住集落であるとし,鹿児島県は平成9年,上野原遺跡を「約10,600年前の,国内では最古・最大級の定住した集落である」と各種報道機関を介して一斉に公表しました。
    加えて,これを機会に保存キャンペーンを展開,平成11年の国指定史跡の指定と共に,「定住生活」がマスコミや県民にも語られるようになりました。
    学問的探求と共に県民の興味関心も加わり,最近ではさらに遡って定住化のルーツを求める傾向も見られます。
  • 【写真 上野原遺跡から出土した土器】
  • ■遊動生活から拠点生活に■
  • これまでに紹介した遺跡の概要を再確認してみます。

    種子島は約3万年以前から既に照葉樹林が分布し,氷河期でも暖かったことが土壌分析や花粉分析等から知られています。南種子町横峯C遺跡からは「日本最古の礫群」が発見され,中種子町立切遺跡からは「最古の生活跡」を示す,礫群・土坑・ファイヤーピットが発見されています。遺構の状況から,狩猟の途中で立ち寄った遺跡とも考えられますが,石器からはむしろ植物食中心のライフスタイルを色濃く感じることができます。

    約3万年以降姶良カルデラが大噴火(約29,000年前)するまでの間については,近年少しずつ明らかになりつつあります。徳之島の天城遺跡は3万年に最も近い様相が見られ,狩猟目的の石器が作られていました。ここの石器は台形様石器と呼ばれ,同様の石器をもつ遺跡が日本列島に30か所程発見されています。このことは,食料を求めて列島から徳之島まで南下したハンターがいた可能性を表しています。

    姶良カルデラ爆発の直前の様子が見られる松元町前山遺跡・喜入町帖地遺跡・出水市上場遺跡からは,やはり狩猟中心の石器が多数発見されており,狩りで立ち寄った痕跡を色濃く残しています。
  • 石槍(小牧3A遺跡)最後の氷河期を目前にシラス地帯に緑が蘇り,亜寒帯針葉樹や草原が形成されると,寒さに適応した大型動物が闊歩していたと想像されます。また,遺跡も各地で飛躍的に増加し,最近調査した耳取遺跡や桐木遺跡は,典型的なハンティングサイトの一つと考えられています。

    この時代を代表する石器に,大型の槍,剥片尖頭器があります。この石器は,シベリアから朝鮮半島にも分布し,いまでは朝鮮海峡を越えて,九州一円に到来し広がったと考えられています。

    おそらく,ハンター達が最も信頼し愛用した槍と共に,獲物を追い求めた証でしょう。その後,約18,000年前をピークに少しずつ氷が後退し始め,氷河期に適応した大型動物は北上を開始し,大型の槍のハンターも北上する獲物を追いかけて移動したことでしょう。

    【写真 石槍(小牧3A遺跡)】
  • 温暖化に従い新たな気候は,森の景観も一変させ,四季の変化を確実に映す落葉広葉樹の森を造り出しました。その森は豊かに木の実を実らす食料基地へと変化し,豊かな木の実の森は敏捷性に富んだ小型の動物の生息地へと移ることにもなりました。

    新たなハンター達は,森に食料を求め生き残りをかけて,槍の改良に取りかかることとなりました。その結果が,大型から小型への改良であったといわれます。
  • ■社会を営む原型■
  • この時代の終わり頃に登場するのが,指宿市の水迫遺跡です。
     水迫遺跡では竪穴住居跡や道跡・炉跡の存在が指摘され,定住生活遺跡と判断し,「動物を追って食を得る人々が,家をつくり,炉の焚き火を囲んでいた」「社会を営む原形が見れる」とされますが調査継続中でもあり今後の成果を見守りたいと思います。

    約15,000年前頃になると,東北アジアから日本列島・アラスカ半島に細石器と呼ぶ超小型の石器を素材とした槍が作り始められ,石器を製作した跡が数多く発見されています。この石器文化が終末を迎える頃,煮炊き用の土器が発明され,細石器に変わって弓矢が登場してきます。
  • 石皿と磨石 (小牧3A)縄文時代の到来です。それまで逃していた滋養の高いスープは,土器の使用により彼らの栄養となり,食生活が一変しました。それを示すかのように,定形化した石皿が使用され始めます。

    上野原遺跡の発見以来,定住についての論調が高まり,文化の先進性や起源等について触れる機会が多くなってきています。一方,定住の定義や具体的構成要因について,明確にしたものは殆ど見当たらないのが実状です。
    遊動生活から拠点生活に,彼らは,新たな生活スタイルを選択しました。

    【写真 石皿と磨石 (小牧3A)】
  • その選択の背景には,より安定した食料補給システムの完成が要求されたはずです。 後ろの森が,前進し始めた海が,足下の河川や湿地に集まる獲物が,年間を通して彼らの生活を支えなければなりませんでした。
    そのような条件が確実に整備されたのはいつなのでしょうか。
  • (文責)長野 眞一

縄文の森から 平成30年1月

平成30年1月29日(月)

常設展示室の河口コレクションコーナーをリニューアルしました

「標式遺跡シリーズ」
(高橋貝塚,入来遺跡,山ノ口遺跡)

常設展示室で,長年,鹿児島県の考古学界をリードしてきた考古学者 故 河口(かわぐち)貞徳(さだのり)氏 (1909~2011)が調査した遺跡の考古資料等を紹介しています。
 今回紹介するのは,「標式遺跡シリーズ」と題して,弥生時代前期から弥生時代中期後半にかけて該当する3つの標式遺跡と型式土器を紹介しています。
 同一地域の同時期には,同じ形や文様をもつ土器が作られることから,はじめて確認された遺跡名をとって「○○式土器」と呼ばれています。このような基準となる土器型式の設定を行った遺跡を標式遺跡と呼んでいます。
 河口氏は発掘調査した遺跡の中から新たな土器型式を見出し,精力的に研究を積み重ね,時期や文化的な位置づけを行いました。
 今回の展示では,高橋貝塚(南さつま市)をはじめ,入来(いりき)遺跡(日置(ひおき)市),山ノ口遺跡(錦江(きんこう)町)を紹介します。

展示期間:平成30年1月20日()~平成30年5月18日(金)まで


高橋式土器(高橋貝塚)

入来式土器(入来遺跡>)

山ノ口式土器(山ノ口遺跡)

展示の様子

>平成30年1月25日(木)