考古ガイダンス第39回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第39回 標式遺跡 ~博士と中学生の麻衣さんの会話~ 博士
「これまでの連載を読んでみてどうじゃ?」麻衣
「鹿児島にはいろいろな遺跡がたくさんあり,それぞれの時代の人々が想像していた以上にたくましく生きていたことが分かったわ。でも,ちょっと分からなかったのは,○○式土器って出てくるでしょう。なぜ今から何年前ということが分かるの?」「うん。いい質問だ。ちょっと難しいかもしれないが,一緒にみていくことにしよう」
- ■土器型式■
「土器は,作られた時代や場所の違いによって形や文様が異なっていて,同じような特徴をもつ土器にそれぞれ○○式土器と名前が付けられているんじゃよ。このことを土器型式と呼ぶんじゃ。」
「名前はどうやって付けられるの?」
「遺跡の名前は,そこの地名(字名)をとって付けられるのじゃ。それで初めて発見された土器の遺跡名が,土器の型式名になるんじゃ。その遺跡を標式遺跡と呼んでおる。」
「土器型式からどんなことが分かるの?」
「土器はやわらかいうちだったらどんな形にでも変えられるので,作る人の考えでいろいろな姿になるよな。」
「はい。文様も,いろいろな道具を使って,好みのデザインが出来ますしね。」
「しかし,縄文時代や弥生時代の人々が個々人で思い思いに違った形の土器を作ったかというと,そうではないのじゃ。同じ時代の人々あるいは同じ地域の人々が同じような形・文様の土器を作っているのじゃ。
「あたかも私たちが無意識のうちにしゃべっている方言みたいなものなのですね」
「そのとおりじゃ。同じ時代(時間的空間)・同じ地域(地域的空間)でまとまりのあるのが土器型式なんじゃ。」
- ■土器編年■
「土器は少しずつ変化していくんじゃ。その変化の仕方が急に違ってくるのではなく,前の土器の文様を引きずりながら次の世代へと受け継がれていくのじゃ。」
「おばあちゃんから子や孫へ作り方がつたわるのかな。」
「その変化の方向性を見つけて時間の物差しとしたのが,土器編年というんじゃ。」
「方向性だけではどちらが古いのか分からないんじゃないの?」
「その通り。それで重要なのが地層の上下関係で検証する層位学的方法なんじゃ。」
「地層の下から出てくる方が古いということですね。」
「鹿児島には現在も活発な活動を繰り返している桜島をはじめ,霧島火山群・指宿火山群それにトカラ列島に続く多くの火山があるじゃろ。それぞれの時代に噴出した火山灰は地層として県内いたる場所でみることができ,土器編年の検証も容易なんじゃ。」
「火山灰などの地層がはっきりしないところはどうするの」
「住居跡等の遺構が出ていた場合,考古学を研究する人達が最も関心をもつ点が切り合い関係なんじゃ。新しい住居は古い住居を壊してつくられるので,最後につくられた住居跡が最も当時の形をとどめていることになるし,埋まった土にも新しい土が堆積しているはず。遺構の切り合い関係がはっきりしてくると,遺構の中に埋まっていた土器同士の時間的な前後関係を明らかにすることができるんじゃ。」
- ■地域的空間■
「縄文時代だけで日本全国に約400もの土器型式名があり,さらにそれぞれが細分されているんじゃ。その綿密さは世界一じゃぞ。」
「同じ住居跡から違う型式の土器が出てくると,どの地域から持ち込まれたかが分かるのね。」
「鹿児島の縄文時代の遺跡では,瀬戸内地方や北陸地方,さらに関東地方の土器が出土しているので,すでにその時代から交流があったことが分かっているんじゃ。もちろん南島の土器も北上しているんじゃよ。」
「鹿児島は三面を海に囲まれているし,日本と東南アジアを結ぶ中間地点にあるから,各時代にどの地域と交流があったのかを知るのに絶好のフィールドなんですね。」
-
1 福田遺跡(岡山県倉敷市) 2 船元貝塚(岡山県倉敷市) 3 中津貝塚(岡山県倉敷市) 4 里木貝塚(岡山県倉敷市) 5 鐘崎貝塚(福岡県玄海町) 6 三万田東原遺跡(熊本県泗水町) 7 北久根山遺跡(熊本市) 8 轟貝塚(熊本県宇土市) 9 曽畑貝塚(熊本県宇土市) 10 阿高貝塚(熊本県城南町) 11 御領遺跡(熊本県城南町) 12 西平貝塚(熊本県北町) 13 南福寺貝塚(熊本県水俣市) 14 出水貝塚(出水市) 15 市来貝塚(市来町) 16 黒川洞穴(吹上町) 17 高橋貝塚(金峰町) 18 松木薗遺跡(金峰町) 19 上加世田遺跡(加世田市) 20 深浦遺跡(枕崎市) 21 石坂上遺跡(知覧町) 28 並木遺跡(大口市) 35 岩崎遺跡(田代町) 22 春日町遺跡(鹿児島市) 29 塞ノ神遺跡(菱刈町) 36 松山遺跡(上屋久町) 23 前平遺跡(鹿児島市) 30 平栫貝塚(霧島市) 37 宇宿貝塚(笠利町) 24 吉田大原遺跡(吉田町) 31 丸尾遺跡(末吉町) 38 嘉徳遺跡(瀬戸内町) 25 成川遺跡(山川町) 32 入左遺跡(末吉町) 39 面縄貝塚(伊仙町) 26 水迫遺跡(指宿市) 33 大平遺跡(宮崎県串間市) 40 喜念貝塚(伊仙町) 27 橋牟礼遺跡(指宿市) 34 山ノ口遺跡(大根占町) 41 兼久貝塚(伊仙町) - ■絶対年代■
「じゃあ,なぜ文字もない時代のことなのに,何年前というのが分かったの?」
「これには放射性炭素14年代測定法という理化学的な方法を使うんじゃ。動物や植物などの生物は生きている間,からだの中に炭素14という元素を一定量もっているのだそうじゃ。生物が死んでしまうと炭素14を取り入れることなく,一定の割合で放出され次第に減少してゆくのだ。」
「一定の割合って?」
「生きていた時の量のちょうど半分になるのが約5,600年で,半減期と呼ばれておる。したがって,出土した木炭や木の実に残った炭素14の量を調べることによって今から何年前のものかわかるのじゃ。アメリカのリビーという物理学者がこの方法を開発し,この功績によってノーベル賞を受賞をしたのじゃよ。」
「へー,すごい発見ね。いろいろな科学の成果が考古学の研究を支えているんですね。」
「どうじゃ,麻衣さんも将来考古学者を目指しては。」
「いろいろな分野から考古学にアプローチ出来ることが分かったから,何の仕事をやるか分からないけれど,遺跡には興味を持ち続けていきたいわ。」
- (文責)東 和幸・田中 忠義
第51回 バックナンバー 古の美術品
- 上野原縄文の森第51回企画展
バックナンバー 古の美術品 - 開催期間:平成30年4月24日(火)~平成30年8月26日(日)
-
南日本新聞に3年以上に渡って連載中の「古の美術品」は,写真とともに軽妙で面白い解説で,読者から好評を得ています。
これまで新聞に掲載された考古資料を展示するとともに,考古学的見地とは異なる美術的な視点や,視点を変えると見えてくる様々な用途やかたちの面白さなどを紹介・解説しながら,埋蔵文化財の新たな魅力をお届けします。 - ■古の美術品総選挙~最終結果発表~■
-
- ■注目の一品~企画展展示品から~■
-
画像をドラッグしたまま動かすと,360度回転画像で「企画展展示資料」をご覧いただけます。
また,タブレット上では,拡大した画像を,360度回転画像でご覧になることもできます。耳取ビーナス(岩偶)旧石器時代(約2万4000年前) 桐木耳取遺跡(曽於市) 女性器ともお尻ともとれる刻み
と髪の毛らしい線刻を施していま
す。豊穣のシンボルか安産のお守
りにしたのでしょう。埋文センター大久保さん - ■企画展講演会■
-
平成30年8月4日(土)13:30~15:00 ※終了しました 講 師 : 鹿児島県立埋蔵文化財センター次長 大久保 浩二 定 員 : 各回80名程度(※要事前申し込み) 場 所 : 縄文の森展示館多目的ルーム 資料代 : 100円 ※ 講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師による
ギャラリートークを行います。(別途展示館利用料金が必要) - ■夏休み企画■
-
学校の夏季休業期間には,社会科等の課題(自由研究等)に活用できるような夏休み企画を実施します。
※詳しい内容は,チラシやホームページ等で案内します。 - ■展示図録■
-
★好評発売中★
展示図録『バックナンバー古の美術品』をミュージアムグッズコーナーで販売中
(1冊700円,限定300部)上野原縄文の森ホームページ「古の美術品」のページもご覧ください。下のバナーからご覧いただけます。 -
今までに開催した特別企画展情報はこちらから
> 上野原縄文の森企画展のご案内
考古ガイダンス第38回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第38回 福山城ヶ尾遺跡 ~壺に秘められた思い~ - ■7,500年前の壺,姿を現す■
-
壺A出土状況
壺B出土状況
壺C出土状況 「これは何かある。」直感的にそう感じました。
東回り自動車道建設に伴なう福山城ケ尾遺跡の発掘調査でのできごとです。
緊張しながら移植ゴテで掘り下げていくと,深鉢形の土器が完全な形で姿を現しました。驚く間もなく,その約7m東側の地点で,深鉢とは大きさの異なる小円形の口をした土器が顔を出しました。頸(くび)の部分は末広がりとなっています。まさかと思いながら掘り下げると,丸い胴部が現れました。まぎれもなく壺形の土器です。- 【写真 福山城ケ尾遺跡全景】
- それだけではありません。調査が進むにつれ,さらに1つ,また1つと壺が見つかりました。最終的には,深鉢1個と壺3個がほぼ完全な形で出土しました。
- ■高度な製作技術■
発見された深鉢と3個の壺は塞ノ神(せのかん)式土器と呼ばれています。約7,400年前に作られた土器です。
これらの壺はたいへん精巧に作られており,その製作技術の高さには目を見張るものがあります。3個とも上から見ると胴の部分は楕円形を呈し,側面は,中心線を引くと左右が対称になっています。そのズレはすべて1cm以内です。相当熟練した者が作らなければこうはいかないでしょう。
これまで発見された塞ノ神式土器はほとんどが深鉢でした。壺が存在することは知られてはいましたが,完全な状態で発見されたのは初めてで,極めてめずらしいことでした。
これらの壺は縄文人が何か特別な思いを込めて作り,残したものに違いありません。- 【写真 深鉢出土状況】
- ■壺の出現と消滅■
- 元来,縄文時代に壺は存在しないとされていました。ところが九州南部では,縄文時代の早期,約8,000年前に突如として出現し,異彩を放っています。しかしそれは7,400年前頃に忽然と消えてしまいます。
次に現れるのは4,000年ほどたった縄文時代後期で,その初めと終わり頃に断続的に現れ,また消えてしまいます。その後2,500年前頃からは,稲作の開始とともに本格的に作り始められ,以後今日まで続いています。(図1参照)
こうしてみると,縄文時代には壺は現れたり消えたりすることに気づきます。 - 縄文の壺はなぜ受け継がれていかないのでしょうか。
- ■残された煤(すす)■
- これまで壺は液体や穀物などの貯蔵用とされてきました。
ところが,今回発見された3つの壺を観察すると,外側に多量の煤が付着していることから,火にかけられたものと思われます。しかし,内側に焦げなどの痕跡は認められません。
この状況からすると,単に食物の煮炊きに使ったのではなさそうです。つまり,火にかけて使用したが,壺の中にはこげつかないようなものを入れていたということになります。また,口の部分は擦り減っています。このことも壺の使用法を解明する手ががりとなりそうです。
このように,本遺跡の壺の用途は,単に貯蔵という解釈では理解できないものがあります。
縄文の壺が受け継がれないのは,その時々で壺の用途に違いがあったからなのかもしれません。 - ■埋設された土器■
これらの深鉢と壺は,土器の大きさと同じ規模の穴に入れられ,地面すれすれに埋められていたと推定されています。何のためにそんなに丁寧に埋めたのでしょうか。土器の内部の土壌分析を試みましたが,決定的な答えは出ませんでした。そこで,発見された状況を再現してみます。
壺Bと壺Cは約3メートル離れて出土しました。さらに,それらの出土した地点から約5m離れた所で,円形の大型土坑(直径約2m,深さ約30cm)2基が発見されました。そのうち1基からは,耳栓状の土製品3点と異形石器・石鏃等が出土しています。
- 【写真 福山城ヶ尾遺跡出土遺物】
- この大型土坑は耳栓状土製品の作り方などから見て,壺と同時期のものと判断できます。住居跡か墓の可能性がありますが,現時点では明らかではありません。土坑と埋められた壺との関連を考えると,何か大切なものを近くに埋めていたとも考えられます。
いずれにせよ,壺形土器は数も少なく,貴重だったはずです。それを丁寧に埋めた縄文人の姿を想像すると,何だか彼らが遠くて近い存在のように思えてきます。 - ■おわりに■
- 福山城ケ尾遺跡のこの精巧な壺は,次の時代へとは続いて行きませんでした。それは壺を必要としなくなったためだと理解するしかありません。それまでの価値観や生活様式が大きく変わってしまった可能性もあります。
こうした現象は,縄文時代だけに限られたものではありません。現代でも文化や文化財が現れたり消えたりしています。それらを捨てるべきか取るべきか,今を生きる私たちの決断にかかっているのです。
このことが実は,壺に秘められた縄文人の最大のメッセージなのかも知れません。 - 用語解説
-
耳栓状土製品
(じせんじょうどせいひん)形態は耳栓(耳飾り) と同じだが,本遺跡のものについては,用途等について解明されていないため,このような名称を用いた。 異形石器
(いけいせっき)めずらしい形をした用途不明の石器。 - (文責)藤野 義久
考古ガイダンス第37回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第37回 縄文のジャンクション - ■高まる定住論議■
- 鹿児島湾奥に位置する加治木町の平野部に,平成14年に「加治木ジャンクション」が完成しました。九州縦貫自動車道と東九州自動車道,隼人道路との連結部となるこの「加治木ジャンクション」の建設地は,実は「縄文のジャンクション」でもあったのです。
- ■干迫遺跡の発見■
平成3年から4年にかけて,この「加治木ジャンクション」の建設予定地の発掘調査が行われました。干迫(ほしざこ)遺跡,これがこの地に与えられた遺跡の名前です。
標高約10~12メートルの微高地にあるこの遺跡の発掘調査は,低地であるということと,今日まで水田として使用されていた場所であったことから,湧(わ)き出る水との闘いでもありました。- それに加えて,いやそれにも増して大量の土器・石器が出土したため,それらをどのような発掘方法で調査・記録していったらいいかという課題を常にかかえながらの,まさに格闘の日々でした。
このように大量の遺物が出土したことは,そのまま大量の情報が出土したということを意味します。縄文時代早期から江戸時代まで多くの遺構・遺物が発見された干迫遺跡ですが,ここでは,最も多くの情報が得られた縄文時代後期中ごろ(今から約3,500年前)の様子について紹介したいと思います。 - ■市来式土器の文化■
約3,500年前の南九州は,市来式土器と呼ばれる土器に代表される,文様や器面の仕上げに貝殻を用いた土器が流行した時期でした。
この時期には,鹿児島市の草野貝塚や垂水市の柊原(くぬぎばる)貝塚などのような,南九州では数少ない貝塚が残されたことでも知られています。
また,市来式土器は南九州を中心としながら,北は四国の東南部や長崎の五島列島,南は沖縄本島でも出土しており,その交流圏の広さは古くから話題となってきました。- 【写真 市来式土器のいろいろ】
この市来式土器が干迫遺跡では大量に出土しました。さらにそれと共に,様々な地域の土器が多量に出土したのです。つまり,南九州で市来式土器が盛んに使用されていたころ,九州の西北部や中部あるいは北部で流行していた土器も一緒に,しかも多量に出土したのです。
【写真 干迫遺跡で出土した中九州系土器】- このことは,何を物語っているのでしょうか。主に煮炊(にた)きに使用されたと考えられる縄文土器ですが,様々な地域の土器が出土したことにより,その地が様々な地域と交流していた場所であった可能性を伝えてくれるのです。つまり,「縄文のジャンクション」的な干迫遺跡の様子が浮かび上がってくるのです。
- ■朱(あか)い土器の謎■
「朱(あか)い土器が出た!」湧き出る水と闘いながら調査していた猛暑のある日,作業員の誰かがそう叫びました。あわてて駆(か)け寄ってみると,「何だこれは?」それは形も文様も,そして表面に塗(ぬ)られた朱の色も初めて目にするものでした。
実はこれこそ干迫遺跡における交流の証(あかし)を伝えてくれる最も重要な遺物でした。それは注口土器(ちゅうこうどき)と呼ばれる急須型の土器で,その形や文様から,関東地方の影響を受けて近畿地方およびその周辺地域で作られたと考えられる土器であることがわかりました。- 【写真 水銀朱を塗られた注口土器】
- さらに表面に塗られた朱色の原料は水銀朱と呼ばれる特殊な鉱物で,当時のものとしては極めて珍しいものであることもわかりました。どのような経路でここ干迫の地までたどり着いたのでしょうか。そこには様々なドラマがあったと考えられ,興味は尽きません。
- ■時を超えたランドマーク■
あわただしく進んだ干迫遺跡の発掘調査を,雨の日も晴れの日も見守ってくれていた「存在」がありました。それは加治木を訪れた人なら誰もが目にしたことがある山,蔵王岳(ざおうだけ)です。
標高112メートル,安山岩が主体をなす奇峰です。いろいろな方向から眺めることのできる蔵王岳こそ,数千年間多くの人々に絶大なる存在感を示し続けてきた,この地のランドマークだったのでしょう。
その蔵王岳の麓に現代を象徴する車社会のジャンクションが建設されようとしていることは,干迫の地に時を超えて与えられた宿命的なものを感じざるを得ません。- 【写真 蔵王岳の勇姿(手前が干迫遺跡)】
- 高速道路のジャンクションは「ひと・もの・情報」のそれでもあります。蔵王岳はそのジャンクションを,そして21世紀という新しい時代をこれからも見守り続けてくれるでしょう。
- 用語解説
-
ジャンクション 接合。結合点。合流点・高速道路の合流点。 ランドマーク 土地や場所の目印や象徴となっている建造物,歴史的建築物など。 - (文責)前迫 亮一
縄文の森だよりVol.34
考古ガイダンス第36回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第36回 定住のきざし - ■高まる定住論議■
霧島市上野原遺跡では,竪穴住居跡52基,集石遺構39基,連穴土坑16基,その他約260基の土坑が発見されました。また,竪穴住居跡の中から,約10,600年前の火山灰が見つかったことで,この遺跡は今から約10,600年前の定住集落であるとし,鹿児島県は平成9年,上野原遺跡を「約10,600年前の,国内では最古・最大級の定住した集落である」と各種報道機関を介して一斉に公表しました。
加えて,これを機会に保存キャンペーンを展開,平成11年の国指定史跡の指定と共に,「定住生活」がマスコミや県民にも語られるようになりました。
学問的探求と共に県民の興味関心も加わり,最近ではさらに遡って定住化のルーツを求める傾向も見られます。- 【写真 上野原遺跡から出土した土器】
- ■遊動生活から拠点生活に■
- これまでに紹介した遺跡の概要を再確認してみます。
種子島は約3万年以前から既に照葉樹林が分布し,氷河期でも暖かったことが土壌分析や花粉分析等から知られています。南種子町横峯C遺跡からは「日本最古の礫群」が発見され,中種子町立切遺跡からは「最古の生活跡」を示す,礫群・土坑・ファイヤーピットが発見されています。遺構の状況から,狩猟の途中で立ち寄った遺跡とも考えられますが,石器からはむしろ植物食中心のライフスタイルを色濃く感じることができます。
約3万年以降姶良カルデラが大噴火(約29,000年前)するまでの間については,近年少しずつ明らかになりつつあります。徳之島の天城遺跡は3万年に最も近い様相が見られ,狩猟目的の石器が作られていました。ここの石器は台形様石器と呼ばれ,同様の石器をもつ遺跡が日本列島に30か所程発見されています。このことは,食料を求めて列島から徳之島まで南下したハンターがいた可能性を表しています。
姶良カルデラ爆発の直前の様子が見られる松元町前山遺跡・喜入町帖地遺跡・出水市上場遺跡からは,やはり狩猟中心の石器が多数発見されており,狩りで立ち寄った痕跡を色濃く残しています。 最後の氷河期を目前にシラス地帯に緑が蘇り,亜寒帯針葉樹や草原が形成されると,寒さに適応した大型動物が闊歩していたと想像されます。また,遺跡も各地で飛躍的に増加し,最近調査した耳取遺跡や桐木遺跡は,典型的なハンティングサイトの一つと考えられています。
この時代を代表する石器に,大型の槍,剥片尖頭器があります。この石器は,シベリアから朝鮮半島にも分布し,いまでは朝鮮海峡を越えて,九州一円に到来し広がったと考えられています。
おそらく,ハンター達が最も信頼し愛用した槍と共に,獲物を追い求めた証でしょう。その後,約18,000年前をピークに少しずつ氷が後退し始め,氷河期に適応した大型動物は北上を開始し,大型の槍のハンターも北上する獲物を追いかけて移動したことでしょう。
【写真 石槍(小牧3A遺跡)】- 温暖化に従い新たな気候は,森の景観も一変させ,四季の変化を確実に映す落葉広葉樹の森を造り出しました。その森は豊かに木の実を実らす食料基地へと変化し,豊かな木の実の森は敏捷性に富んだ小型の動物の生息地へと移ることにもなりました。
新たなハンター達は,森に食料を求め生き残りをかけて,槍の改良に取りかかることとなりました。その結果が,大型から小型への改良であったといわれます。 - ■社会を営む原型■
- この時代の終わり頃に登場するのが,指宿市の水迫遺跡です。
水迫遺跡では竪穴住居跡や道跡・炉跡の存在が指摘され,定住生活遺跡と判断し,「動物を追って食を得る人々が,家をつくり,炉の焚き火を囲んでいた」「社会を営む原形が見れる」とされますが調査継続中でもあり今後の成果を見守りたいと思います。
約15,000年前頃になると,東北アジアから日本列島・アラスカ半島に細石器と呼ぶ超小型の石器を素材とした槍が作り始められ,石器を製作した跡が数多く発見されています。この石器文化が終末を迎える頃,煮炊き用の土器が発明され,細石器に変わって弓矢が登場してきます。 縄文時代の到来です。それまで逃していた滋養の高いスープは,土器の使用により彼らの栄養となり,食生活が一変しました。それを示すかのように,定形化した石皿が使用され始めます。
上野原遺跡の発見以来,定住についての論調が高まり,文化の先進性や起源等について触れる機会が多くなってきています。一方,定住の定義や具体的構成要因について,明確にしたものは殆ど見当たらないのが実状です。
遊動生活から拠点生活に,彼らは,新たな生活スタイルを選択しました。
【写真 石皿と磨石 (小牧3A)】- その選択の背景には,より安定した食料補給システムの完成が要求されたはずです。 後ろの森が,前進し始めた海が,足下の河川や湿地に集まる獲物が,年間を通して彼らの生活を支えなければなりませんでした。
そのような条件が確実に整備されたのはいつなのでしょうか。 - (文責)長野 眞一
縄文の森から 平成30年1月

平成30年1月29日(月)
常設展示室の河口コレクションコーナーをリニューアルしました
「標式遺跡シリーズ」
(高橋貝塚,入来遺跡,山ノ口遺跡)
常設展示室で,長年,鹿児島県の考古学界をリードしてきた考古学者 故
今回紹介するのは,「標式遺跡シリーズ」と題して,弥生時代前期から弥生時代中期後半にかけて該当する3つの標式遺跡と型式土器を紹介しています。
同一地域の同時期には,同じ形や文様をもつ土器が作られることから,はじめて確認された遺跡名をとって「○○式土器」と呼ばれています。このような基準となる土器型式の設定を行った遺跡を標式遺跡と呼んでいます。
河口氏は発掘調査した遺跡の中から新たな土器型式を見出し,精力的に研究を積み重ね,時期や文化的な位置づけを行いました。
今回の展示では,高橋貝塚(南さつま市)をはじめ,
展示期間:平成30年1月20日(土)~平成30年5月18日(金)まで

高橋式土器(高橋貝塚)

入来式土器(入来遺跡>)

山ノ口式土器(山ノ口遺跡)

展示の様子
>平成30年1月25日(木)

考古ガイダンス第35回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第35回 洞穴のくらし - ■こんな山中の洞穴に貝殻があるとは・・・■
1952年,吹上町黒川洞穴の発見は地元の児童が拾ってきた貝殻を吹上町坊野小学校に勤務していた辻正徳氏に持ってきたのがきっかけでした。
日置郡吹上町永吉砂走に所在する黒川洞穴は標高84m,東シナ海にそそぐ永吉川の支流,二俣川の右岸に開口し,吹上浜からは約7kmほど離れた場所にあります。
辻氏の疑問を機に1952年,64年,65年,67年と計4回,現鹿児島県考古学会会長河口貞徳氏らを中心に発掘調査が行われ,様々な成果が得られました。
洞穴遺跡とは自然に形成された洞穴や岩陰で人々の生活が営まれ,その証として土器や石器等の道具,墓や火を炊いた痕跡等が残された遺跡のことです。
内部に自然の灯りはなく,多湿で,足場が悪いことも多いです。しかしそこは古代の人々が風雨を防ぎ生活するには格好の場であったことでしょう。- 【図 鹿児島県における洞穴遺跡の分布】
- 洞穴は日常的な居住,一時的な仮泊,死者の埋葬,食料等の貯蔵,霊場等,様々な利用がなされていたと考えられていますが,当時の人はどのように洞穴を利用していたのでしょうか。ここでは県内の洞穴遺跡のいくつかを紹介し,洞穴における古代の人々の生活を見つめていきたいと思います。
- ■県内の洞穴遺跡■
黒川洞穴は凝灰岩またはシラス層からなる断崖に水食作用によって形成された洞穴です。大小2個の入り口が隣接しており,西側入り口は幅13.3m,高さ6m,奥行きはかなり深いが落盤のため不明,東側入り口は幅11m,高さ4.35m,奥行き8.4mからなり共通の前庭部で続いています。
【写真 黒川洞穴】
- なお,注目すべきことは縄文時代晩期土器(黒川式)の標式遺跡となったことや人骨の埋葬が行われていた土壙,ものを焼いた場所と思われる炉跡,オオカミの骨を含む多量の獣骨,ヘラやカンザシ等の骨角器の出土です。
- 人骨は25~30才の女性で,副葬品はなく,かたわらには標石が設けてありました。この埋葬で不思議な点は,骨盤が胴部の下に,尾椎骨は頭部の下にそれぞれ移動していたことです。かき乱された形跡がないことから,死後腰部を切り取って,窪みの底部に置き,その後遺体を埋葬したとしか考えられません。いずれにせよ何らかの特別な意図を持って埋葬したのでしょう。
これについて河口氏は「普通の労働に従事するには骨が細く,墓に標石が建てられ,特異な埋葬が行われていたことから,シャーマン(呪術者)の墓ではないか」と述べています。
また,出土した獣骨はイノシシ,シカが圧倒的に多いのですが,その中には現在の日本には生息しないオオカミや南九州では見られないカモシカの骨等も見つかっています。
黒川洞穴以外にも縄文,弥生時代を中心とした洞穴遺跡があります。志布志町にある片野洞穴では洞穴内に溜まった水を排出するための溝や石を敷き詰めて作られた住居跡が検出されました。また,当時の漁労生活をうかがわせるイノシシの骨でつくられた釣り針も見つかっています。
末吉町中岳洞穴では,火を炊いたと思われる炉跡や集石が検出され,洞穴内で調理をしたり,暖をとっていたと思われます。
沖永良部島の知名町中甫洞穴では縄文時代前期該当の墓が発見されました。この墓には遺体の上下を囲うように珊瑚礁礫が置かれ,埋められた土の上にも同様の礫が配置されていました。 -
黒川洞穴出土の自然遺物 ホニュウ類
イノシシ,シカ,カモシカ,ツキノワグマ,オオカミ,イヌ, タヌキ,アナグマ,テン,イタチ,ノウサギ,ムササビ,モグラ 鳥類
キジ,ガン,カモ,ハト,ワシタカ目 ハチュウ類
カメ類,ヒキガエエル 魚類
サメ,マダイ,クロダイ,フナ 貝類
ハマグリ,アコヤガイ,マルサルボウ,オキアサリ,コベソマイマイ,マツカサガイ,コタマガイ,タカチホマイマイ,イタヤガイ,ツメタガイ,マクラガイ,イシマキ,オキシジミ,カガミガイ,ヘナタリ,カワニナ その他
モクズガニ - ■洞穴調査の苦労■
- 洞穴内は降雨や火山灰の堆積を逃れ,鍾乳洞のような石灰分で守られることも多いため一般的に人骨や骨角器の残存状態は良好で,考古学的に貴重な資料が多く残されています。
しかし,発掘調査者にとって洞穴遺跡の調査は野外調査とは異なる苦労も多いのです。例えば灯りの問題があります。入り口付近にしか太陽光は届かないので人工の灯りが必要となります。狭く,足場が悪い洞穴も多いです。
また,片野洞穴内部には発掘当時,コウモリが多く生息しており地面に落ちた糞のにおいに調査者は悩まれたそうです。他には地下水が湧き出るため排水処理が必要になったり,湧き水が多く,無念にも掘り下げをあきらめざるを得ないこともあります。
落盤の危険もあるでしょう。富山県大境洞穴(縄文・弥生時代)の人骨には埋葬ではなく落盤により圧死したと考えられる人骨の出土例もあります。洞穴内部で火を炊けば空気が乾燥し,岩の亀裂を助長します。当時の人は落盤の可能性を知っていたのでしょうか。 - ■洞穴は家?墓?それとも・・・?■
- 洞穴や岩陰が当時の人々に利用されていたことは明らかですが,ではいったいどのように利用されていたのでしょうか。多くの土器や石器,食料の残骸の出土や火を炊いた痕跡等から考えるとそこが日常的な居住の場であった可能性が高いと思われます。そして居住者が死ねば洞穴内に埋葬していました。
一般的に洞穴に住む人々は日常的な居住の場を光が差す入り口付近に求め,墓や食料の貯蔵穴は奥に設けています。ただし,当時の人口数と洞穴の数から考えて,ほとんどの住居は竪穴住居等という形で野外に建てられ,洞穴はある一部の人しか利用できなかったはずです。そこに住む人はある特殊な生業活動を行っていたか,社会的に特別な地位におかれていたのでしょうか。
弥生時代の千葉県安房神社洞穴,群馬県岩櫃山洞穴遺跡や神奈川県三浦半島における古墳時代の諸洞穴遺跡では,人々が近づき難い崖に位置していたり,多量の人骨が出土することなどから,居住地ではなく墓地として利用された可能性があります。また,フィリピンやインドネシアのスラウェシ島では近年まで絶壁の天然洞穴を墓とする風習がありました。
時代や地域,環境,気候等の差がこれら洞穴の利用形態の違いを生みだしていると考えられますが,読者のみなさんはどのようにお考えになるでしょうか? - 用語解説
-
鍾乳洞 石灰岩中の割れ目または層理面に沿って流れる地下水の溶食作用によってできた地下の洞穴。山口県の秋芳洞などが有名。 石灰洞 水食作用:流水・雨水などが地表を削って,破壊・浸食すること。 - (文責)永濵 功治
縄文の森から 平成29年12月

平成29年12月5日(火)
考古ガイダンス第34回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第34回 律令政治の浸透 - ■―支配される隼人―■
「薩摩隼人」という言葉や町名として現代に生き続ける「隼人(ハヤト)」。もともとは古代の南九州の住民に対する呼び名でしたが,7世紀後半から使われ始めたようです。
この時期は大和朝廷が強力な中央集権国家をつくろうとした時代にあたります。こうした国づくりは律令(りつりょう)が制定されることによりその基礎ができあがり,奈良時代以降へと引き継がれていきました。このような中,日本各地へ広がる朝廷の支配は,中央から遠く離れた南九州にも及び始め,独自の生活と文化を持つ隼人の社会も次第にその統治に組み込まれていきます。- ■地方統治の拠点■
- 朝廷は全国を国─郡─里(郷)という行政単位に分けました。現在の鹿児島県も8世紀に入り,薩摩・多ね(たね)の2国が,続いて日向(ひゅうが)国の四郡を割いて,大隅国が713(和銅6)年に設置されました(多ね嶋は後に大隅国に編入)。郡については,10世紀の『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』において,薩摩国が13郡,大隅国が8郡を数えます。国及び郡には,地域を治める役所として,国衙(こくが・国衙の所在地が国府)と郡衙がそれぞれ置かれました。
こうした国府や郡衙の所在が考えられる遺跡は,そこが地方統治の拠点として,特別な場所であったことを物語ります。例えば,規模の上で,庇(ひさし)をもつ掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)など,構造の上で一般の集落とは異なる建物群が配置や方向に一定の規則性をもって検出されたり,瓦・硯(すずり)・緑釉陶器(りょくゆうとうき)・青磁・白磁といった特殊な出土品が発見されたりします。
また,土器に墨や刻みにより文字等を書いた墨書土器(ぼくしょどき)や刻書土器(こくしょどき)は,文字文化の浸透とともに,役人や僧侶など識字層の存在をうかがわせるものです。 薩摩国府跡(薩摩川内市)
薩摩国府は現在の川内市に置かれました。川内平野北側の台地上の六町四方(一町は約109メートル)が国府域であり,その中央付近の二町四方が国衙域と推定されます。
礎石を持つ建物跡や瓦を敷いた列などが発見されました。また,郡名ではないかとされる「高木」や国府の施設の一部を示すのではないかとされる「国厨」を記入した墨書土器や墨絵の描かれた土器,硯,緑釉陶器などの出土品があります。なお,大隅国府や多ね嶋国府については,確認されていません。
【図 薩摩国府の想定図】- 西ノ平(にしのひら)遺跡(薩摩川内市)
平安時代の掘立柱建物跡が10棟確認されたことや,100点を超える墨書土器や刻書土器,青銅製帯金具(おびかなぐ),須恵器(すえき)のかけらを転用した硯などの出土品から,この周辺に薩摩郡の郡衙があった可能性が強いとされています。
市ノ原(いちのはら)遺跡第一地点(いちき串木野市)
検出された掘立柱建物跡15棟の中には,大型のものや四方に庇を持つものがあり,また,緑釉陶器や「厨」と書かれた墨書土器などが発見されました。 -
【図 市ノ原遺跡 掘立柱建物跡の配置図】
【写真 掘立柱建物跡(市ノ原遺跡第一地点)】
人が立っている横の穴が柱の跡 この他,郡名である「阿多」と記された土師器(はじき)が出土した小中原(こなかはら)遺跡(金峰町),掘立柱建物跡群や「日置厨」と書かれた須恵器を出した安茶ヶ原(あんじゃがはら)遺跡(市来町)なども,同様に薩摩国内の郡衙に関わる可能性をもった遺跡としてあげることができます。
小瀬戸(こせど)遺跡(姶良町)
大隅国の郡衙に関わる施設と考えられます。溝状遺構に区切られた区画,柱穴群や井戸跡が発見されました。また「大伴」「伴家」「仲家」などと書かれた墨書土器や刻書土器は,大伴氏(おおともし)をはじめ,中央の有力豪族との関連から注目されています。
- 【図 器に残された文字(池畑耕一『考古学ジャーナル』1991)1~7 小瀬戸遺跡 8~13 西ノ平遺跡】
- ■隼人の朝貢と古代の官道■
- 国府の設置などにより,律令制が徐々に浸透し始めますが,その進行は決して順調ではありませんでした。班田制(はんでんせい)の施行が大きく遅れたのが一つの原因です。このことと呼応するように,朝廷は隼人に対し,定期的な朝貢を強制し続けました。大宰府から出土した木簡(もっかん)には,薩摩・大隅国の郡名を記したものがありますが,これらは貢納物の付札として用いられたとも考えられます。
また,このような人や物資の移動あるいは情報の伝達のために,朝廷は官道を整備し,中央と国府や国府間を結びました。官道には中継地として,駅が置かれ駅馬が常備されました。本県における駅・駅伝制については『延喜式(えんぎしき)』によると,薩摩国内に「市来(いちく)・英祢(あくね)・網津(おうづ)・田後(たしり)・櫟野(いちいの)・高来(たかく)」の6駅,大隅国内に「蒲生(かもう)・大水(おおみず)」の2駅の記述がありますが,考古学的に確定できたものではなく,今後の調査成果が待たれます。 - ■抵抗する隼人■
律令政治の浸透に対して,隼人は強い抵抗を示しました。特に720(養老4)年の軍事衝突は約1年数か月にも及びました。結局,隼人側の敗北に終わるものの「首を斬られた者や捕虜になった者は合わせて1,400余人」(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)とされ,その戦いの激しさを物語ります。
【写真 隼人町の隼人塚】- 残念ながら,こうした抵抗を直接示す考古資料は見出せませんが,敗れた隼人の供養のために建てられたと伝えられるのが隼人塚です。現在,霧島市国分と霧島市隼人町の2ヵ所にある隼人塚ですが,そのうち隼人町のものは町教委により発掘調査が進められてきました。その結果,塚の構造,石造や石塔の本来の姿や配置など次第に明らかになりつつあります。なお,創建の目的や年代については,不明な点も多いです。
- さて,720年を最後に隼人の抵抗は鳴りをひそめていきます。さらに9世紀に入り,薩摩・大隅国に班田制が適用されると,文献上,南九州の住民を隼人と呼ぶこともなくなっていきました。
- 用語解説
-
律令 律令政治のもとになった法律。律は刑法,令は行政法のこと。 掘立柱建物 地面に穴を掘って柱を立てた建物。 緑釉陶器 緑色の釉(うわぐすり)を施した陶器。 厨 役所における調理や食事・接待のための施設。 班田制 国民に一定の耕作地を保証し,その代償に租税を徴収する制度。 木簡 すく割った木の札に文字を書いたもの。文書,伝票,荷札などに使われた。 - (文責)立部 剛