縄文の森から 平成28年5月

平成28年5月24日(火)
常設展示室の河口コレクションコーナーをリニューアルしました。
「
常設展示室で,長年,鹿児島県の考古学界をリードしてきた考古学者,
今回紹介するのは,出水貝塚と市来貝塚の出土資料です。
出水貝塚は縄文時代中期後葉~後期前葉(約4,500~4,000年前)の貝塚です。調査の結果,
市来貝塚は縄文時代後期(約3,500年前)の貝塚です。調査は10日間行われ,人骨3体のほか,市来式土器をはじめ多くの土器や石器が出土しました。人骨の復元を長崎大学で行ったところ,身長約163.5㎝で,面長な顔立ちであることがわかりました。

展示の様子
平成28年5月9日(月)
平成28年度考古学講座第1回 ※終了しました
名将・名藩主を世に出した
島津の強さに迫る
戦国時代から江戸時代にかけて名将・名藩主を世に出した島津家の強さをユーモアたっぷりに解説します。

日 時:5月21日(土)
13:30~15:00
講 師:落語家 桂 竹丸氏
(公益社団法人落語芸術協会理事)
定 員:80人程度
場 所:展示館多目的ルーム
資料代:100円
考古ガイダンス第15回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第15回 “残された”鹿児島の大貝塚 - ■-柊原(くぬぎばる)貝塚が語りかけるもの-■
- その神社は,白っぽい小さな丘の上に建っていました。よく見ると丘のあちこちに貝殻がみえます。というよりも,丘そのものが貝殻でできているようです。土器の破片や骨のようなものも落ちています。神社はなんと「貝塚」の上に建てられていたのです。
以前に筆者が,某県のとある縄文貝塚を探し歩いたときの話です。それは家々の間に突如として出現し,まるで現代人の生活の中に溶けこんでいるかのようでした。
「ゴミ捨て場」,あるいは「古代のタイムカプセル」。教科書にのっている貝塚のイメージはさておいて,まずは身近なところから話を始めましょう。 - 縄文時代後期の主な貝塚(3,000年-4,000年前)
奄美大島
喜界島
徳之島
6 市来 / 7 武 / 8 光山 / 9 草野 / 10 大泊
11 宇宿 / 12 伊実久 / 13 喜念 / 14 面縄
- ■眠る大貝塚を探せ■
垂水市柊原(くぬぎばる)の海岸沿いの平地一帯は,古くから“貝殻の産地”として知られ,江戸時代の観光ガイドブック『三国名勝図会』(さんごくめいしょうずえ)にも「古来これを取れども尽きることなし」と書かれています。地元でも,大正時代頃まで肥料などに用いる貝灰を製造していたほどです。
- 【写真 空からみた柊原貝塚】
- 「どこかに大貝塚が眠っているのでは?」と誰かが考えても不思議ではありません。大正3年,N.G.マンローというイギリス人の学者が実際に発掘調査を行い,土器を採集したという記録があるものの,はっきりした貝塚の場所などは長い間謎に包まれていました。
- ところが近年になり,柊原沿岸に残るJR旧大隅線跡を農免農道として整備する計画が浮上し,平成7年度と平成9年度に発掘調査が行われたところ,ついに“それ”は姿をあらわしました。
そこは柊原地区でも南のはずれで,ちょうど台地が切れて平地が広がる部分にあたり,かつては小さな入り江であったことを想像させるような地形です。土地の人は昔から「塚」と呼んでいたといいます。発見された貝塚の面積は約500平方メートルで厚さは約1メートル,地面に盛り上げるように築かれていました。周囲の畑部分や大隅線造成時に削られたと思われる部分も計算にいれると,実際の大きさは2倍近いものと想定できます。全国的にみても大規模で,これまで県内で発見された貝塚のなかでも最大級といえるでしょう。 - ■タイムカプセルの中身■
では柊原貝塚の中をのぞいてみましょう。貝殻のカルシウム分でアルカリ性に保たれた内部は,酸性の土やバクテリアの浸食から守られた天然の保存カプセルです。
まずは食料から。
貝の量・種類は豊富ですが,他の遺跡と比較して巻き貝の割合が高いことが特徴です。動物ではイノシシ・シカが圧倒的で,オオカミ・ツキノワグマなど珍しいものもみられます。- 【写真 埋葬された縄文時代後期の人骨(20歳前後の男性)】
- また,南九州では初めて「埋葬された可能性があるイヌの遺体」が発見されたことが話題になりました。糞石(ふんせき)と呼ばれるウンコの化石の中からは,タイ類やイワシ類などの骨が出てきました。植物ではドングリ類が多く食べられていたようです。
次に生活用品をみてみましょう。
貝層中にみられる土器は,市来式(いちきしき)土器など縄文時代後期中ごろのものが主体であることから,この貝塚が約3,500年前に形成されたことがわかりました。
石斧(いしおの)や石錘(せきすい)・骨製釣り針などの実用品も多いですが,やはり貝輪(かいわ)・骨製髪飾り・牙製首飾りのように細工の施された装飾品の数々は,柊原人の感性がじかに伝わってくるようで興味深いものがあります。- 【写真 市来式土器】
当時の精神生活を物語る遺物にも注目です。軽石に線を刻んで人体あるいは性器を模したと考えられている岩偶(がんぐう)が,これまでになく大量に出土しています。また,動物の姿をかたどった獣形土製品(じゅうけいどせいひん)は県内で初めての例です。これらのものに,人々はどんな祈りや想いをこめたのでしょうか。さらには埋葬人骨も5体出土しています。発掘作業員は常に塩を身につけ,調査に臨んだといいます。
【写真左:細かな装飾が施された骨製髪飾り(髪針) / 同右:軽石製岩偶 赤い顔料が塗られたものもある】- このように貝塚の中身を調べることで,当時の生活の様子や自然環境など多くの情報を得ることができます。そして私たちは,そこが単なるゴミ捨て場ではなく,現代人が失いつつある「役目を終えたものに対する畏敬(いけい)の気持ち」が込められた場所であることを知るのです。
- ■海を渡った?柊原(くぬぎばる)人■
柊原貝塚が形成された縄文時代後期,南九州の貝塚数はピークを迎えました。代表的な遺跡として,出水市出水貝塚・市来町市来貝塚・川内市麦之浦(むぎのうら)貝塚などがあげられます。
なかでも錦江湾を隔てて柊原のほぼ対岸に位置する鹿児島市草野貝塚は,土器や軽石製岩偶・骨製髪飾り・舟形(ふながた)軽石製品など,出土遺物に柊原貝塚と共通するものが多くみられます。- 【写真 舟形軽石製品】
- まるでお互いひんぱんに行き来していたかのように。それが事実ならば,まさに垂水フェリーのルーツといえますね。
- この両遺跡に共通してみられる市来式土器は,遠く五島列島や沖縄本島にまで出土例があります。この土器を残した人々は,舟を操って果敢に大海原へと挑んだ海洋民であったのでしょうか。残念ながらどの遺跡からも舟は発見されていません。あるいは,木製の舟は腐って残らなかったのかもしれません。ただ,舟の形をした軽石製品の存在が私たちの想像力をかき立てるのです。
- ■失われゆく,残された貝塚■
- 現在コンクリートの岸壁によって,海岸線や干潟など人間と海との接点が確実に失われつつあります。遺跡としての貝塚の多くも,他の遺跡と同様に発掘調査終了後には消えていく運命です。貝塚は自分たちの祖先が生きていくために「豊かな海」と積極的な関わりを持ってきたという確かな記録です。私たちはまるで,海に関わる未来と過去を同時に亡くしているかのようです。
整備された柊原の農道を走ってゆくと,遺跡名を記した標柱が立っているのがみえます。実はこの道路下には,その重要性から埋め戻しという極めて異例の措置がとられた大貝塚が,今再びの眠りについています。
残されたものの意味や意義をどのように後世へと伝えていくのか,すべては私たちの手に委ねられています。
再び白っぽい小さな丘にもどりましょう。
貝殻を踏みしめながら歩いていると,縄文土器だけでなく古墳時代の土器や江戸時代の茶碗など,いろいろな時代のカケラがみつかりました。ジュースの空き缶までもが捨てられています。縄文時代に生まれたこの貝塚は,今もなお現代人の生活の中で生き続けています。そう考えると急にこの遺跡が身近に感じられ,少し明るい気持ちで帰路につきました。 - 【写真提供・垂水市教育委員会】
- 用語解説
-
石錘 石の隅を打ち欠いて作った,漁猟に用いられたと考えられる錘(おもり) 貝輪 貝をくり抜いて作った腕輪。遺体の副葬品として出土することもある。 岩偶 石や軽石を彫り込んで作られた人や動物などの偶像。 畏敬 相手を「おそれ」「うやまう」気持ち。
- (文責)今村 敏照
縄文の森から 平成28年4月

平成28年4月28日(金)
企画展講演会のお知らせ


第45回企画展に関連した講演会を開催します。
1 日 時
平成28年 5月14日(土)13:30~15:00
※終了しました
2 内容・講師
【演題】「縄文世界の中の上野原遺跡」
【講師】國學院大學名誉教授 小林 達雄 氏
3 場 所 上野原縄文の森展示館 多目的ルーム
4 対 象 どなたでも参加できます。
5 定 員 80人程度(要事前申込み)
※ 申込みについては,FAX送信票をご利用ください。
ここからダウンロードできます。
6 資料代 100円
※ 講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師によるギャラリートークを行います。(別途展示館利用料金が必要)
7 問い合わせ・申込先
(公財)鹿児島県文化振興財団 上野原縄文の森
TEL 0995-48-5701
FAX 0995-48-5704
第45回上野原遺跡発掘調査30周年記念
- 上野原縄文の森 第45回企画展
上野原遺跡発掘調査30周年記念
上野原の時代
~縄文の美と技,そして謎~ - 開催期間:平成28年4月22日(金)~平成28年7月3日(日)
- ■あの日の上野原~スナップ写真から~■
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- ■注目の展示品■
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石皿【定塚遺跡・縄文時代早期前葉(9,500年前)】 石皿は,縄文時代の主な食料であるドングリなどの木の実を,石の平たい部分で,すりつぶして粉にする道具です。すりつぶすための石器である磨石と対をなして使われました。石皿は長年使い続けてくぼみ,磨石は手になじむ大きさで,表面はなめらかになっています。
写真は,石榴石を用いた石皿の完形品で,長さ37.5cm,幅27.7cm,厚さ7.8cm,重さが約10kgあります。
10kgほどの重さを持つことや大きくくぼむ面を持つことから,移動させず同じ場所で,長期にわたって使用していたと考えられます。当時の南九州がきわめて安定した社会を形成していたことがうかがえます。また,四隅の隅々まで丁寧に磨きこまれていることから,この地にすむ人々の精神的な豊かさをも感じ取ることができます。石榴石:英名でガーネット(ラテン語のザクロの意“granatum”に因む)。丸い結晶が集まった状態でよく産出し,その様子がザクロの実に似ていることから,日本名もざくろ石といわれる。ザラザラした細かい粒にして紙やすりに塗られ,研磨剤として利用されている。 企画展では,鹿児島県内で出土した完形の石皿を3点展示しています。丁寧に磨かれ,使いこまれた石皿と磨石をぜひ間近でご覧ください。 第45回企画展データファイルは,ここからダウンロードできます。 - ■企画展講演会■ ※終了しました
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平成28年5月14日(土)13時30分~15時
【演 題】「縄文世界の中の上野原遺跡」
【講 師】國學院大學 名誉教授 小林 達雄氏
【定 員】80人程度(要事前申込み)
【資料代】100円
【場 所】展示館多目的ルーム講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師によるギャラリートークを行います(別途展示館利用料金が必要となります)。 - ■企画展ギャラリートーク■
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企画展開催中に展示の解説を行います。
【日 時】 開催中の第1・第3日曜日
1回目 10:30~ 2回目 14:30~ ※各回30分程度
【会 場】 企画展示室 -
今までに開催した特別企画展情報はこちらから
> 上野原縄文の森企画展のご案内
考古ガイダンス第14回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第14回 山ノ口式土器と大隅半島 - ■山ノ口遺跡の発見■
昭和33年,大根占町馬場山ノ口集落の砂丘上で,民間の会社による砂鉄の採掘が行われていました。その最中に砂の中から弥生時代の中頃(約2,000年前)の土器片や,軽石に人の顔などを刻んだ岩偶(がんぐう)が見つかりました。これが山ノ口遺跡の発見です。
その後の緊急発掘調査では,約3mの大きさに軽石が円形に並べられ,その周囲ではたき火が焚かれた跡が発見され,農耕儀礼(のうこうぎれい)などの祭りを行った跡であることが分かりました。祭りでは軽石製の勾玉(まがたま),岩偶,石でつくった矢じり,胴に穴のあいた壺形土器(つぼがたどき)が円形に並べられた軽石を取り囲むように配置されていました。
発見された土器は山ノ口式土器と呼ばれています。- 【地図 大隅半島遺跡地図:1 沢目遺跡,2 前畑遺跡,3 王子遺跡,4 山ノ口遺跡】
- ■山ノ口式土器の特徴■
山ノ口式土器
図左と図中
○壺形土器
(口の部分に櫛描文がある)
図右
○カメ形土器- 山ノ口式土器には煮炊きに使うカメ形土器と,穀物類や水などを貯蔵する壺形土器(つぼがたどき)があります。カメ形土器は口の部分が外側へ「L字形」に飛び出し,胴の部分には三角形の粘土ひもがいく筋もめぐらされています。このような特徴は縄文時代の終わり頃の土器作りの伝統を根強く残しています。一方,壺形土器は口の部分を外側へ拡張したり,胴を粘土ひもで飾るなどカメ形土器に共通する部分も見られますが,口の部分には瀬戸内地域の土器によく見られる櫛描文(くしがきもん)と呼ばれる文様が描かれており,交流があったことを示しています。
当時の人々は,カメ形土器を自分たちの伝統としてかたくなに守り,壺形土器を他の地域の流行りの文様として取り入れながら作っていました。また,食べ物を盛る用途の高坏(たかつき)は,地元では作られず,現在の福岡県や愛媛県の周辺で作られたものを使用しているのも一つの特徴です。山ノ口式土器は大隅半島を中心に分布していますが,沖縄や奄美からも見つかっており幅広い地域と交流していたことがうかがえます。このような土器を使った人々の生活を集落遺跡からもう少しくわしく見てみましょう。 - ■台地に発達した集落■
弥生時代になると,人々は稲作を行うために積極的に平野の開拓を始めました。しかしシラス台地が発達し平野の少ない鹿児島では,弥生時代になっても台地上に多くの人々が暮らしていました。山ノ口式土器を使った人々の集落跡は,標高の高い平坦な台地上から発見されています。このような場所は水田耕作には適さないため,畑作(陸稲)を中心に生活を営んでいたと考えられています。その代表的な遺跡として,鹿屋市王子町の王子(おうじ)遺跡や同市郷之原町の前畑(まえはた)遺跡などがあります。
- 【写真 台地に暮らした人々の集落 鹿屋市王子遺跡】
- 標高約70メートルに位置する王子遺跡では,竪穴住居跡が27軒,掘立柱建物跡が14棟発見されました。鹿児島県でこれまでに発見されている遺跡の中でも規模が大きい集落跡です。
竪穴住居はまず地面を掘って床面を造りますが,掘った穴の形はだいたい円形か方形をしています。しかし王子遺跡の住居は部分的に外側へ張り出し部を持つもので,大隅半島や宮崎県を中心にに見られる独特の形をしたものです。また,集会場などに利用された可能性のある棟持柱(むなもちばしら)を持つ掘立柱建物のような特殊な建物も発見されています。
- 【写真 張り出し部分を持つ竪穴住居 鹿屋市王子遺跡】
- これらの建物は前畑遺跡や周辺の遺跡でもみつかっており,同じ山ノ口式土器を使う人々の間では,共通の認識でした。その他に,鍛冶(かじ)を行う時に出てくる鉄滓(てっさい)が見つかったことから,王子遺跡から出土したやりがんなは現地で作られた可能性もあります。当時,砂鉄や鉄鉱石から鉄を作る技術はまだ無いため,朝鮮半島産の鉄素材を入手し,再び鍛冶炉(かじろ)で熱を加え鉄製品に再加工していたと考えられています。
- 山ノ口式土器が使われていた頃,西日本では銅製の剣や矛(ほこ),銅鐸(どうたく)を使って祭りを行うことが一般的でした。しかし大隅半島では,山ノ口遺跡に見られるように地域独特の祭りが行われていました。このことは山ノ口式土器の製作方法と同様に外部の影響をマイペースに必要なだけ取り入れながらも,自分たちの伝統を大切に守っていこうとする当時の人々の意識のあらわれなのかもしれません。
- 用語解説
-
勾玉 ゆるく湾曲(わんきょく)した装飾用の玉で紐に通して首,えりの飾りとした 櫛描文 櫛を使って描いた文様 竪穴住居 地面を水平に掘り下げ床面を作り,竪穴の中に柱を立て屋根をかけた半地下式の建物 掘立柱建物 地面に柱穴を掘って柱を立て,屋根や壁を造る平地式の建物 鉄滓 鉄を焼いてきたえるときに落ちるかす やりがんな 細長い棒状の鉄の先端を三角形にして両刃をつけた木工具
かんなが発明されるまで木材の表面をなめらかに仕上げるために使われた銅鐸 つまみ状のつり下げ部を持ち,内側に舌をぶら下げた青銅製の鐘(かね)
初めは楽器として使用されるが,やがて大型化し祭器として使用されるようになる - (文責)川口 雅之
縄文の森から 平成28年3月

平成28年3月28日(月)
縄文の森は花盛りです
暖かくなってきました。
縄文の森では,色々な花が見頃を迎えています
散策,園内のウォーキングに是非,お気軽にお立ち寄りください!

コブシ
モクレン科の落葉広葉樹です。
早春にかけて梢に白い花をたくさん咲かせます。別名「田打ち桜」

ヤマザクラ
日本の野生の桜の代表種です。
ソメイヨシノと違って発芽とともに花を咲かせます。




それぞれのマークがついたところで,花が見られます!!

平成28年3月16日(水)
講座のお知らせ!
かごしま県民大学連携講座のお知らせ
「チャレンジ縄文体験」
第1回 縄文人の繊維利用と草木染め体験
1 日 時:平成28年5月29日(日)13:30~15:00
2 場 所:かごしま県民交流センター陶芸制作室(東棟5階)
3 内 容:
【内容】 縄文人の繊維利用についての解説と,オリジナルの草木染めトートバックの作成を行います。
【講師】 上野原縄文の森職員
4 対 象:一般
5 定 員:20人(要事前申込み)
※ 電話又はFAXでお申し込みください。
※ お車でお越しの際は,駐車券を講座受付までご持参ください。
6 参加料:500円
(資料代,材料代)
7 問い合わせ・申込先:
上野原縄文の森 TEL 0995-48-5701
平成24年度 草木染め体験(ハンカチ作成)
チラシとFAX送信表はここからダウンロードできます。
平成28年3月10日(木)
カタクリの花が咲いています!!

カタクリとは?
早春に芽を出して花を咲かせるユリ科の植物です。
このカタクリの根茎からとれるデンプンを片栗粉とよんでいました。
10㎝ほどの小さな花で、開花時期が短いため「スプリング・エフェメラル(春の妖精)」とも呼ばれています。縄文の森に春がやってきました。

縄文の森だよりVol.30
考古ガイダンス第13回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第13回 めざめる遺跡 もうすぐ,鹿児島に新幹線がやってきます。
現在,鹿児島県のあちらこちらで九州新幹線鹿児島ルート建設のための工事が行われており,その工事の約70%がトンネル(新八代・西鹿児島間125キロメートルのうち88キロメートル)工事です。
その中で,新幹線がトンネルから姿を現す地上部分で埋蔵文化財が眠る大切な遺跡とぶつかることがあります。
そこで,鹿児島県教育委員会(県立埋蔵文化財センター)は,文化財保護のため,新幹線建設工事にぶつかってしまう遺跡の発掘調査を行いました。
それぞれの遺跡では,縄文時代から最近までのいくつかの時代の生活の跡がみられる複合遺跡で,昔の人々の生活の様子を知る上での貴重な手がかりが多く発見されています。- 【地図 新幹線関連の遺跡:1 大坪遺跡,2 計志加里遺跡,3 上野城跡,4 山ノ脇遺跡】
- ■玉類の発見■
出水市大坪遺跡では,縄文時代晩期(約3,000年前)のものと思われる緑色をした勾玉(まがたま),丸玉(まるたま),管玉(くだたま)が多数出土しています。
この玉類は,縄文人がきれいな緑色の石に根気強く穴をあけ,きれいに磨きあげたものです。これらは,当時の人々がペンダントとしての装身具や呪(まじな)いの道具として使っていただろうと考えられます。- 【写真 大坪遺跡出土の玉類】
- これらの玉類をよく観察するときれいに作り上げられた完成品の他に,製作途中の玉類や原石も多く見つかっています。このことは,大坪遺跡で遠い昔,せっせと勾玉作りに精出していた人々がいたであろうことを物語っています。
- ■川跡からめざめた木製品■
川内市楠元遺跡では,弥生時代の終わりから古墳時代の初め(約1,700年前)の集落跡が発見されました。同時に発見された川跡や溝跡から鍬(くわ)や鋤(すき)などの木製の農具が,腐ることなく当時のままの形で見つかりました。
火山灰土壌が多く低湿地帯の少ない鹿児島では,木製品がそのままの形で見つかることはとてもめずらしいことです。 今回見つかった木製品を一つ一つ分析・研究することにより古代生活の1ページがまた1つ明らかにされることでしょう。- 【写真 川跡から見つかった木製の鍬】
- ■役人の制服■
- 川内市東大小路町大島遺跡では,奈良時代から平安時代の土師器・須恵器・磁器・陶器などの焼物の器(うつわ)や青銅製の鈴,石製丸鞆(せきせいまるとも)が見つかりました。
丸鞆(まるとも)は,帯の表面に取り付けられる半円形の石の板です。儀式時に着用し,身分により種類がちがったようです。遠い昔,薩摩国府の役人が,この丸鞆を身につけて,毎日登庁していた姿が目に浮かぶようです。 - ■中世の居館跡■
伊集院町山ノ脇遺跡では,中世(約800年前)の掘立柱建物跡がたくさん見つかりました。
現在,9軒の建物跡が確認されています。その中で,面積が約100平方メートルにもおよぶ大きな建物跡も2,3軒含まれています。建物の大きさから,当時の伊集院地方の有力者の居館であろうと考えられます。
建物の周囲には,溝跡や塀跡(へいあと)も見つかっており,当時,ここに住んでいた人の生活の様子が想像できそうです。- 【写真 山ノ脇遺跡の中世豪族居館跡】
- ■鹿児島有数の禅寺発見■
鹿児島市武2丁目武遺跡(西郷公園の近く)では,江戸時代中期(享保14年)に創建され,明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺となった寿国寺(じゅこくじ)に関係すると思われるはん池(はんち)や井戸跡が見つかりました。
寿国寺は,黄檗宗(おうばくしゅう)に属し,同じ宗派の千眼寺(せんげんじ)と並ぶ当時の鹿児島最大の寺院でした。寺院の様子は,三国名勝図会(さんごくめいしょうずえ)の中の記載から相当な規模であったと想像できます。
今回,見つかったはん池は,当時の様子を伝えるいくつかの絵図に記載されている門前池の一部であろうと考えられています。
この池には,内側に浮島(中島)が設けられていて,そこには石像が設置されていたことが伝えられていますが,今回の発掘調査で,この石像ではないかと思われる破片が見つかっています。 また,池の西側で見つかった井戸跡や柱跡は,長寿院のものではないかと考えられています。
当時の寺の様子が再現されたようで興味深いものがあります。- 【写真 寿国寺のはん池跡】
- 以上最近の情報をいくつか紹介しましたが,新幹線建設に関係して発掘調査された遺跡からは,旧石器時代,縄文時代,弥生時代,古墳時代,奈良・平安時代,中世,近世の全ての時期・時代にわたる貴重な遺構・遺物が発見されました。
これらの発見は,鹿児島あるいは南九州の古代の文化解明に大いに役立つことでしょう。 - (文責)上之園 建二
考古ガイダンス第12回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第12回 かごしまで焼かれた焼き物 - ■焼き物でみる古代の鹿児島■
- 遺跡を発掘して最も多く出土するモノが焼き物すなわち土器です。これらを分析することによって,当時の食卓にのぼった食器の種類がわかります。また土器をひとつの製品としてみれば,窯業生産と流通・消費という経済活動を知ることができます。このように土器から当時の食文化を知り,さらに当時の社会の側面をうかがい知ることができます。
古代(奈良・平安時代-今から約1,300年から800年前)にかごしまで焼かれた焼き物は,須恵器(すえき),土師器(はじき),黒色土器,瓦です。 今回取り上げた主な遺跡
1 岡野窯跡群 / 2 鶴峯窯跡群
3 薩摩国分寺跡 / 4 中尾田遺跡
5 宮田ケ岡瓦窯跡群 / 6 小瀬戸遺跡
7 城山山頂遺跡 / 8 妻山元遺跡
9 大隅国分寺跡 / 10 中岳山麓窯跡群
11 榎崎A遺跡
【写真 宮田ケ岡瓦窯跡】- ■古代の食器■
-
土師器・杯
(口径14.8cm高さ4cm)
須惠器・かめ
(口径19cm高さ32.5cm)
黒色土器A類・椀
(口径15.6cm高さ5.5cm) - 当時,土師器,黒色土器,須恵器は日常的に使用された土器です。これらの土器は,その用途によって食膳具(椀,坏,皿,高坏),煮炊具(カメ,鍋),貯蔵具(壺,カメ),調理具(鉢)に分類され,多様な形があることがわかります。
土師器とは古墳時代以降の素焼き土器の総称で,この時代のものは須恵器の形を真似た坏や皿などが薩摩・大隅といった国単位で製作されていたと考えられていますが,その窯跡は不明です。
黒色土器は,土師器の表面を丁寧に磨いた後に表面を煙で黒く燻して仕上げる土器で,器の中だけを燻す内黒土師器とよばれるものが多く出土しています。
須恵器とは,古墳時代中頃(5世紀中頃)以降,朝鮮半島から技術が伝来した焼き物です。整備された窯で1,100度以上の還元焔で焼成(焼き上げる時に酸素を供給しない焼き方)された焼き物です。色は青灰色のものが多く,釉薬はかけていません。古墳時代は大阪・陶邑(すえむら)窯群などで焼かれたものが移入されています。古代になると,熊本の荒尾窯などで焼かれた製品も移入されていますが,鹿児島でも窯が整備されて生産されるようになりました。 - ■かごしまの須恵器生産窯■
- 三か所の窯跡が知られています。操業期間や器種に差異があります。
○鶴峯3号窯(川内市中郷町鶴峯)
昭和41年,1・2号窯跡(瓦窯)とともに県内で初めて発見された須恵器窯で,フタ,椀,カメが出土しています。8世紀代に操業していたものと考えられています。
○岡野窯跡群(伊佐郡菱刈町田中岡野)
昭和57年,林道の工事中に発見されました。工事によってかなり破壊されていましたが,5基ほどが存在したものと推定されました。うち4基が発掘調査され,8世紀末から9世紀前半にかけ て,坏,椀,鉢,盤,壺,カメが作られました。
○中岳山麓古窯跡群(日置郡金峰町花瀬)
昭和59年,地元在住の諏訪下忠雄氏によって発見され,上村俊雄氏(鹿児島国際大教授・考古学)らによって確認された窯跡群です。発掘調査はなされていませんが壺,カメのほか焼台といった窯道具が採集されています。製作技法は熊本県荒尾窯群との関連が深いとみられています。
9世紀後半以降のかごしまの須恵器生産は食膳具が生産されなくなり,壺やカメだけが生産されました。大きく硬い須恵器の貯蔵具だけ需要があったようです。それを補うように土師器の食膳具の量が増えていきました。 古代の瓦生産は,須恵器の製作技術を基礎にしています。そこに瓦の技術と仏教の思想が伝来し,飛鳥寺など寺院建立を期に本格化しました。さらに8世紀中頃以降,全国に国分寺・国分尼寺が建立され,これに伴ない全国に瓦生産が広がっていきました。現在瓦は一般的ですが,当時は官衙(役所)あるいは寺院で使用される特別なものでした。古代の瓦は,型に布を敷いてその上に粘土を置き,叩いて型に広げ仕上げます。布目がつくので布目瓦ともよばれています。
- 【図 薩摩国分寺創建時の軒丸瓦(拓本と断面図/川内市教育委員会)】
- ■かごしまの古代瓦窯■
二か所の瓦窯跡が知られています。
○鶴峯瓦窯跡群(川内市中郷町鶴峯)
薩摩国分寺跡から北東へ1キロメートルの地点に位置しています。昭和41年,2基発掘調査されました。その結果ここで8世紀後半以降,薩摩国分寺を創建するために瓦が生産されたことがわかりました。また,肥後国分寺や大宰府で出土する瓦に類似するものがあることから,操業するにあたって北部九州から工人集団が移住したと考えられています。1基は焼成部に瓦がつまったままの状態で発見され,平瓦320枚,丸瓦140枚,計460枚が一度に焼かれたと推定されています。- 【写真 発掘された宮田ケ岡3号瓦窯跡】
- ○宮田ケ岡瓦窯跡群(姶良郡姶良町船津)
昭和45年九州縦貫自動車道建設に伴う分布調査の際に発見され,姶良町は平成8年から史跡整備を目的とした発掘調査を実施しました。3基が発掘調査され,軒丸(のきまる),軒平(のきひら),丸,平,のし瓦などが出土しまし た。文献により8世紀後半から9世紀前半に操業していたと考えられています。 - ■消費地を追及する■
- これらの窯で生産された須恵器や瓦はどこで消費されたのか?この問いに対して,考古学ではまず生産地と消費地とのモノの類似性(形・文様・作り方=製作技法)に注目します。さらに,胎土分析(蛍光X線分析)という理化学的な技術を用います。この分析は試料にX線を当て,その際に発生する蛍光X線(元素によって異なる)を計測するものです。試料に含まれるルビジウム,ストロンチウムなどの元素量を調べて,この元素比率を生産窯と消費遺跡との間で比較したり相違をみたりします。
さて,宮田ケ岡瓦窯群の製品については同じ大隅国に所在する大隅国分寺との関連が以前から指摘されていました。胎土分析の結果,宮田ケ岡瓦窯群の瓦は大隅国分寺(霧島市),小瀬戸遺跡(姶良町)へ供給されたことが推定されました。宮田ケ岡と大隅国分寺は直線距離でも約15キロメートルありますが,宮田ケ岡は別府川に近いことから,水運を利用したのではないかと想像されています。
須恵器の胎土分析では岡野3号窯の製品が中尾田遺跡(横川町)や城山山頂遺跡(霧島市)へ,中岳山麓窯跡群の製品は妻山元遺跡(霧島市)に供給されたと推定されました。霧島市内の近い位置にある遺跡間でこのような結果が出たことは当時の流通を考える上で重要なことでしょう。 - (文責)中村 和美
縄文の森から 平成28年1月

平成28年1月26日(火)
常設展示室の河口コレクションコーナーをリニューアルしました。
「
常設展示室で,長年,鹿児島県の考古学界をリードしてきた考古学者,
今回紹介するのは,大原遺跡と春日町遺跡の出土資料です。
大原遺跡は,昭和27(1952)年,吉田南中学校校庭の整地作業中に同校の生徒が土器を発見し,遺跡であることが分かりました。遺跡からは縄文時代早期の中でも古い時期に属する吉田式土器が初めて発見されました。
春日町遺跡からは縄文時代中期の春日式土器が初めて発見されました。土器のほかに,石器や舟形の軽石製品も出土しました。この時期には丸木舟を作り航海していたと思われます。

展示の様子