考古ガイダンス第28回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第28回 鹿児島県の発掘の歴史 - ■先駆者の研究の功績■
埋蔵文化財の発掘調査は,学問上は考古学の分野に属しています。そして,最近の鹿児島県の先史学の研究は,これら考古学分野である埋蔵文化財の発掘調査の成果によって大きく前進してきました。それらは,これまでの先駆者の研究の功績であることを決して忘れてはなりません。
日本列島の最南端に位置する鹿児島県の考古学研究は,他の地域に比べてそれほど進んだ地域ではありませんでした。しかし,すでに江戸時代の終り頃には,薩摩藩主島津重豪(しげひで)のもとで活躍した国学者の白尾国柱(しらおくにばしら)氏は「神代山陵考(しんだいさんりょうこう)」など数多い鹿児島藩の歴史を編纂(へんさん)しています。- 【写真 故・寺師見國先生(1955年ころ)】
- その中に考古学的な調査や論攷(ろんこう)がみられる点は注目に値します。まさに「本県における考古学研究の開祖」ともいえる業績を残した人です。
大正になると「鹿児島県考古学の開拓者」と呼ばれた山崎五十麿(いそまろ)氏などによって県内の遺跡は中央の学界に紹介されています。その結果,京都帝国大学(現京都大学)などによる橋牟礼川(はしむれがわ)遺跡(指宿市)や出水(いずみ)貝塚(出水市)などの本格的な学術発掘調査を導く形となりました。
【写真 故・木村幹夫先生(1960年ころ)】
昭和の初めには,早稲田大学を卒業し中央の学風をもった木村幹夫氏(旧制大口中学校)により,教職のかたわらの大口盆地を中心とした考古学研究が進められました。大口に赴任した昭和5年から香川県に転任する昭和14年までの9年間,県内各地の遺跡調査を手がけ,教科書的役割を果たす多くの論文を発表しました。彼が「鹿児島県考古学研究の創始者」と呼ばれるゆえんです。 - 木村氏に啓発され,戦前から戦後を通じて「全般にわたって鹿児島県考古学研究の基礎を創った人」に寺師見國(てらしみくに)氏(医師)がいます。氏の科学的な精神をもった研究は,今でも南九州の考古学研究の基礎となっています。
さらに昭和30年代以降,数々の新しい遺跡を発掘し,多くの研究論文を著し,鹿児島県考古学会を現在のレベルに引き上げたのは河口貞徳(かわぐちさだのり)(現鹿児島県考古学会会長)氏です。現在,発掘調査に従事する担当者のほとんどは,多くの教訓を氏から受けています。
昭和55年には,鹿児島大学にも上村俊雄(かみむらとしお)教授を中心に考古学研究室が開設され,多くの考古学徒を誕生させています。- 【写真 橋牟礼川遺跡(指宿市)】
- 昭和40年代になると,高度成長と日本列島改造論などによる大型開発の荒波が全国に波及しました。その結果,大型開発と遺跡の保護が大きな課題となり,各地方自治体に発掘調査を担当する組織が置かれるようになりました。
- 鹿児島県教育委員会では,昭和47年に文化室が,昭和48年には文化課が設置されました。その後,県内の国・県関係の発掘調査は,文化課(現文化財課)で実施されています。その後,平成4年には鹿児島県立埋蔵文化財センターが設置され,発掘調査と啓発・普及はここで担当しています。
時を同じくして,県内の市町村でも発掘調査担当者が置かれ,現在,各市町村独自の発掘調査も行われています。 - ■鹿児島県の特異性■
日本の縄文文化観の転換に迫る大発見!
最近の鹿児島県の旧石器時代から縄文時代の発掘調査の成果はすさまじく,まさに日本の縄文文化観の転換に迫る勢いです。県内各地で発掘調査された遺跡をみると,氷河期の旧石器時代から温暖化を迎えて誕生した縄文時代は,日本列島の最南端の鹿児島に花ひらいたと言っても過言ではありません。- 【写真 上野原遺跡発見当初,大勢訪れた見学者(平成9年6月1日)】
- 平成9年5月26日,霧島市に所在する上野原遺跡(4工区)から「約9,500年前の縄文時代の定住化した国内最古で最大級の集落跡」が発見されて以来,鹿児島県内からこの時期前後の縄文遺跡が続々と発見されています。このような日本人の定住の先駆けを裏付ける鹿児島の縄文遺跡の発見は,全国的に大きな反響を巻き起しました。
- まず,鹿児島の縄文文化の先進性を語る遺跡の発見の足取りを追いかけると,平成2年に始まった鹿児島市教育委員会での発掘調査の掃除山(そうじやま)遺跡(鹿児島市)に遡ります。
掃除山遺跡では,桜島ができたとされる薩摩火山灰(約1万1,500年前)層の下から,大量の遺物とともに2軒の竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)や屋外炉(おくがいろ)や蒸し焼き調理場(集石=しゅうせき)や燻製(くんせい)施設(炉穴=ろあな)など種々の調理場の整った集落が発見されました。旧石器時代が終り,縄文時代が始まった直後の鹿児島の地には,すでに定住のきざしが見える集落が誕生していたことが判明したのです。
その直後の平成4年に加世田市教育委員会で発掘調査された栫ノ原(かこいのはら)遺跡(加世田市)からは,竪穴住居跡こそ無いものの大量の遺物とともに屋外炉や集石や炉穴など,掃除山遺跡と同様な調理場施設を備えた集落が発見されました。そして,栫ノ原遺跡は,平成9年に国の史跡に指定されました。さらに平成5年には,種子島の西之表市教育委員会が発掘調査した奥ノ仁田(おくのにた)遺跡(西之表市)からも同様な縄文時代草創期(そうそうき)の遺跡が発見され,種子島を含めた南九州一帯に先進的な縄文文化が拡がっていたことが実証されるにいたったのです。
その間,平成3年から始まった上野原遺跡(3工区)の発掘調査では,平成5年10月に西日本では最古となる「土偶(どぐう)」の発見,平成6年3月には完全な形の2個の埋納された壺(つぼ)形土器(高さ46cmと52cm)が発見されました。その他,上野原遺跡(3工区)では土製や石製の耳飾りや実用品とは考えられない特殊な石製品(異形石器=いけいせっき)なども出土し,鹿児島県の早期後半(約7,500年前)の豊かな縄文文化の実態が全国の考古学者の注目の的となりました。
これまで,九州の土偶の最古のものは縄文時代後期であり,壺形土器の出現は稲作文化を迎えた弥生時代とされ,耳栓(じせん)と呼ばれる耳飾りは日本列島では縄文時代後期の産物とされており,いずれもはるかに新しい時期のものでした。- 【写真 7,500年前の壺型土器(上野原遺跡)】
- そして,極めつけは,平成7年から始まった上野原遺跡(4工区)の発掘調査でした。平成9年に判明した「日本で最古の縄文ムラ」は竪穴住居跡52軒,連穴土坑(れんけつどこう)16基,集石39基,土坑約260基,道跡2筋を備えた集落跡でした。
- さらに,竪穴住居跡52軒のうち10軒の住居跡の埋土に,桜島の約9,500年前の火山灰が堆積していたことから,同時期に10軒程度の住居で集落(ムラ)をつくっていたことが判明しました。住居跡の作られた時期が特定されたことと,一時期の住居跡の軒数が特定されたことは,当時の縄文集落を知るうえで大きな成果となりました。
1999年には旧石器時代終末の集落の様相を知る水迫(みずさこ)遺跡(指宿市)が指宿市教育委員会の発掘調査で発見されました。旧石器時代の終り頃の南九州の様子が判明してきています。
このように,これまでの発掘調査の成果により,旧石器時代の終り頃から縄文時代初め頃の南九州の実態が明瞭になってきました。これまでの日本列島に比較すると,これらの成果は異常に先進的であり,成熟した文化と評価されています。まさに日本の縄文観の転換に迫る発見であり,南九州の縄文文化の充実ぶりや特異性が判明してきました。
今,南九州は縄文時代の始まりが最も注目されていますが,縄文時代以外でもこのような特異性をもつ文化がたくさん存在しています。 - 用語解説
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竪穴住居跡 穴を掘って,その上に屋根をつけた半地下式の住居跡 屋外炉 屋外の調理用の炉の跡 炉穴 連穴土坑と同じで最初に発見された関東地方での呼び名 土偶 粘土で作った人の形をしたもの 異形石器 ていねいに作られた実用的でない石器 耳栓 耳たぶに穴をあけてはめ込んで着ける耳飾り 連穴土坑 二つの穴が連なった土坑で燻製つくりの施設と考えられる 集石 焼けたこぶし大の石が集まったところ・蒸し焼きの調理場 土坑 何に使ったか分からない穴 - (文責)新東 晃一
縄文の森から 平成29年5月
平成29年5月17日(水)
ただいま開催中!
ミニ企画展
「地層が語る鹿児島の歴史~見る・聞く・触る ジオの日~」
日本ジオパーク認定の霧島連山を遠くにながめる上野原。地質の日(5月10日)に合わせ,鹿児島の歴史を地層剥ぎ取り資料や写真パネル,立体模型(県本土の一部)で紹介します。
【期間】平成29年5月10日(水)~6月11日(日)
【場所】展示館ホール
*観覧無料

〈鹿児島県本土立体模型〉第一鹿屋中より借用
平成29年5月9日(火)
※ 終了しました
考古ガイダンス第27回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第27回 発掘が語る“道”の跡 - 発掘を進めていると,土が周囲の色と異なっていたり,部分的に硬くなった筋を見つけることがあります。一本の蛇行した小川のように見えるものもあれば,いくつかの枝に分かれ,それぞれがさまざまな方向に伸びていくものもあります。
その筋の意味を特定することは難しいです。長い年月の間に自然が作り出したものであるかもしれません。しかしそれが人の歩いた跡,すなわち道の跡だと分かると,にわかに話はおもしろくなってきます。
道は,人々が生活する中で,自然に,あるいは意図的に作られるものです。人が地面を踏みしめながら歩くことで道が出来ます。歩く先には水場や食料があるのかもしれません。誰かに何かを運ぶ途中なのかもしれません。何かを捨てにいくのかもしれません。あるいは,死者を葬った場所への道なのかもしれません。道の跡には,それを作った人々の生活を知るための重要な情報が刻まれているのです。
県内の遺跡からは多くの道の跡が見つかっており,近年では,縄文時代早期という早い時期の道の跡が集落との関わりで発見され注目されています。
すなわち,住居跡などの遺構(いこう)や土器などの遺物(いぶつ),地形や周囲の様子などと道の跡との関係を捉えながら調査を進めることで,我々ははるか昔に生きた人々の生活の様子を知ることができるのです。 - ■旧石器・縄文時代の道■
この時代は,狩猟・採集を中心とした社会を営んでいた時期であり,自然発生的な道が作られていったと考えられています。
上野原遺跡(霧島市)
9,500年前の大規模な集落跡が国指定の史跡となっている上野原遺跡では,住居の間をぬうように道の跡が発見されています。
- 【図 上野原遺跡のイメージ図 (縄文時代早期 9,500年前)】
- 現在でも上野原台地の周辺には,湧水(=わき水)地点がいくつか確認されており,もっとも近い湧水は,遺跡から徒歩で約10分,標高にして約30mほど下がった所にあります。
道の跡は概ね南北に黒い筋状に伸び,まるで湧水地点への通路のようにもみえます。このような道は自然の浅い谷を利用して作られたものだと考えられています。
水迫遺跡(指宿市)
旧石器時代の集落跡が発見されたとしてマスコミをにぎわせた遺跡です。
道の跡は,遺跡の南側斜面から約1万5,000年前の竪穴住居2基とともに見つかっています。南北12m,最大幅約1mで住居跡に近く,浅い谷状で3本に枝分かれしています。
踏み分け道の痕跡があり,人が何度も地面を踏みしめた(歩いた?)可能性が高いと思われます。
- 前原(まえばる)遺跡(鹿児島市[旧日置郡松元町])
道の跡は,標高約180mの舌状台地の先端近くにある縄文時代早期前半の集落跡とともに見つかりました。
B地区とよばれる場所で見つかった竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)は9軒・2軒・1軒の3群に分かれており,道は相反する2つの谷に向いたかたちでそれぞれ9軒と2軒の群に続いていました。
建石ヶ原(たていしがはら)遺跡(日置市[旧日置郡吹上町])
道の跡は,国道270号線沿いの縄文時代晩期・古代の遺跡から見つかりました。縄文時代晩期のものは,幅約2mで,緩くカーブしながら南北に150m以上もの長さに伸びていました。今から約2,800年前にこのような大がかりな道が造られていたということは驚きです。 -

建石ヶ原遺跡の航空写真
左の拡大写真
(白い2本の線で囲まれた筋状のものが道の跡) - ■弥生時代の道■
- この時期になると農耕の普及などによって政治的・経済的な社会が発達してきます。しかしながら,明確な交通路としての道はほとんどみられません。
魚見ヶ原(うおみがはら)遺跡(鹿児島市)
道の跡は,鹿児島市街地を見下ろす標高約60mのシラス台地上に位置した弥生時代前期後半から中期前半にかけての集落跡とともに見つかりました。
4基の竪穴住居跡,食料の貯蔵用や墓と推定される土坑(どこう)など,多数の遺構とともに,谷筋に幅約70cmの硬化面(地面を何度も踏むことで出来た硬くなった土の部分)が約20mの長さで続いていました。集落と低地とを結ぶ道の存在が判明したことなどから,縄文時代から弥生時代へ移り変わる当時の南九州の様子を探る上での重要な資料となっています。 - ■古代の道■
- 時代が新しくなるにつれて,道はより重要性を増すことになります。生活のための道という面に加えて,より政治的・経済的な役割が大きくなり,中央と地方,あるいは地方の重要な交通路としての道が整備されるようになりました。
駅制
古代の律令制には「駅制(えきせい)」が登場します。
駅鈴(えきれい)を携えた公使(こうし)は,駅路(えきろ)を通り,駅(えき)ごとに常備された駅馬(えきば)を乗り継いで情報の伝達を行いました。同時に駅の周辺の村落も発達していきました。
貞観16年(874年)の開聞岳の大爆発が太宰府に速やかに報告されたのもこのような駅路を利用したものだと考えられています。
この駅制は平安時代の初頭頃まで改廃・新設されながら続いていきました。
鹿児島においては,大隅国駅馬,薩摩国駅馬,薩摩国伝馬,官道などがありますが,それぞれの正確な位置等については今後の詳細な調査と分析が必要です。
道を行き来した人々を思い描きながら調査を進めることは,発掘に関わる我々の大きな楽しみのひとつです。 - 用語解説
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竪穴住居 穴を掘って,その上に屋根をつけた半地下式の住居跡 駅鈴 駅馬の徴発などに使用した鈴 - (文責)高見 憲次・宇都 俊一
第48回 蘇る SHOKU Ⅲ
- 上野原縄文の森 第48回企画展
蘇るSHOKUⅢ
~古の職人技~ - 開催期間:平成29年4月22日(土)~平成29年7月2日(日)
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第48回企画展データファイルは,ここからダウンロードできます。 - ■企画展で紹介する古の職人技と主な展示品■
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※ご覧になりたい遺物の写真をクリックすると,右側に拡大して表示されます。 - ■企画展講演会■
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平成29年5月13日(土)13:30~15:00 ※終了しました
演 題:「民俗学からみる考古資料」
講 師:民俗学者,元鹿児島大学法文学部 教授 下野 敏見 氏
定 員:80人程度(要事前申込み)
場 所:展示館多目的ルーム
資料代:100円講演会終了後,希望者を対象に企画展示室でギャラリートークを行います(別途展示館利用料金が必要となります)。 - ■企画展関連イベント■
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企画展ギャラリートーク
企画展開催中に展示の解説を行います。
【日 時】 開催中の第1・第3日曜日
1回目 10:30~ 2回目 14:30~ ※各回30分程度
【会 場】 企画展示室 -
今までに開催した特別企画展情報はこちらから
> 上野原縄文の森企画展のご案内
考古ガイダンス第26回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第26回 島津の殿様の生活 - ■寛永年間,鹿児島城の縄張り完成■
現在,鹿児島県歴史資料センター黎明館及び県立図書館となっている鹿児島城は,「鶴丸城(つるまるじょう)」と呼ばれていますが,正しい名称は「鹿児島城」であり,鶴丸城という呼び方は江戸時代中期より後の時代の,美称であるとされています。
鹿児島城は,1601(慶長6)年から築城が開始され,本丸の完成が翌1602(慶長7)年です。それ以降は城内の建築物の構築とともに,甲突川の河川改修や,前之浜干潟地の埋め立てなどの土地改革が行われています。
【図 鹿児島城の縄張り (右端は海=錦江湾)】
- 城の周りには武家屋敷を,そして,その周辺には町屋敷を配置するなど,城下町も計画的に建設されています。このため,1624~43年の寛永年間中に,鹿児島城の縄張りがすべて完成したと考えられています。
計画的に作られたこれらの町並みは,一部を除いて現在までほとんど変わっていません。しかし,鹿児島城は1696(元禄9)年,1873(明治6)年と二度の火災で焼失し,石垣・堀・大手橋を残すのみとなってしまいました。 - ■鹿児島城の発掘調査■
鹿児島城の発掘調査は,明治百年記念館(現鹿児島県歴史資料センター黎明館)や県立図書館の建築の前に行われ,二之丸跡は1977(昭和52)年に,本丸跡は1978~79(昭和53~54)年に鹿児島県教育委員会が実施しました。
【写真 二之丸跡の階段と石管水道】- 鹿児島城本丸跡の発掘調査では,屋形造(やかたづくり)の建物跡,石垣,階段などが発見されました。各種文献と照らし合わせてみると,「虎之間」「御対面所」「御一門方入口」と合致すると思われます。その他,「表御書院」「奥御書院」「麒麟(きりん)之間」などの位置を把握することができました。
建物跡以外にも多くの遺構が発見されました。本丸跡で見つかった水を利用するための施設は,排水溝19条・井戸5基・雨落溝12条・池が3ヵ所・水道石管などです。
【写真 「丸に十文字」の薩摩焼(白薩摩)】- 石材は,「小野石(おのいし)」または「河頭石(こがしらいし)」と通称される溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)であるといわれています。排水溝には凝灰岩切石(きりいし)と平瓦(ひらがわら)で作られているものがありました。井戸は凝灰岩切石が用いられています。これらの遺構は,地表に現れている部分を丁寧に整形し溝幅をそろえるなど,景観を損なうことがないよう配慮されています。
- 二之丸跡でも同様の遺構が確認されました。排水溝21条・水道管・石垣・濠・水門・水槽・倉の石畳ほか,建物跡・社殿跡・門跡なども発見されました。
遺物は,本丸・二之丸ともに共通していました。白薩摩・黒薩摩の各種薩摩焼などの陶磁器類や土師質土器(はじしつどき)が見つかりました。碗(わん)・皿を中心として甕(かめ)・鉢・高坏(たかつき)・猪口(ちょこ)・香炉・盤(ばん)・灯明皿(とうみょうざら)などです。中には「丸に十文字」の印が書かれたものもありました。薩摩焼の他には,伊万里焼,唐津焼,琉球焼などの流入品もありました。
その他にも金属製品が出土しており,釘・古銭・刀装具・金具などの他,鏡・キセル・かんざしなどが見つかりました。 - ■外城制と麓集落■
当時,藩の中心は鹿児島城にありましたが,各地には17世紀初頭から「外城制(とじょうせい)」が施行され,領内各所に政治・経済・文化・軍事の中心となる外城が設けられていました。
これは各地に武士を配置し,「麓(ふもと)」と呼ばれる集落を形成することで防備を整え,麓集落によって支城とするものであり,領内には113の外城が形成されていました。- 【写真 鹿児島城本丸跡全景(航空写真)】
- なお外城という名称は,鹿児島城に対する外衛(がいえい)を意味するものであって,特定の城を指すものではなく区域の総称でした。
- 外城制によって形成される麓集落は,日常は居住地として使用されますが,戦時は陣地(じんち)として使用できるよう考えて作られていました。麓集落には領内から武士が配置され,政庁である地頭仮屋(じとうかりや)も置かれました。
麓集落の武士は,平時は農耕などによって自活し,非常時には地頭の指揮の下に動員される,半農半武の存在でした。麓集落の外周には町・村・浜があり,経済の中心となっていました。外城は,本来の軍事面に加えて経済・流通の面からも交通の要所に築かれることが多く,その地域が発展していく要因となりました。 - ■北の砦■
これら麓集落のなかで,代表的なものとして「出水麓(いずみふもと)」があります。
出水市では,麓歴史資料館の建設などを計画し,1993~94(平成5~6)年,1996~97(平成8~9)年に同教育委員会が出水麓遺跡の発掘調査を実施しました。
1994(平成6)年の調査では,地頭館(じとうやかた)跡と推定される地点から2軒の掘立柱(ほったてばしら)建物跡が確認され,庭園の池と思われる石組遺構・門跡・通路なども発見されました。- 【写真 出水の武家屋敷】
- 遺物は,近世の陶磁器を中心に発見されました。碗・皿・壺(つぼ)・鉢・灯明皿・徳利(とっくり)など種類が豊富でした。
1997(平成9)年の調査では地頭館跡の西側を調査し,掘立柱建物跡3軒・井戸2基・石垣などのほかに,近世の陶磁器が発見されました。 - 現在の麓地区内の道路は格子状に整然と区画され,各区画のまわりには石垣・生け垣が巡らされています。区画の中央部には畑が広く作られ,町の一区画ごとが「砦(とりで)」のような防御的性格を持った形態であり,麓集落内での軍事的性格を裏付けるものといわれています。この性格は麓集落に共通するものですが,出水麓は肥後(熊本県)に接する北辺の要地であったため,特に軍事的性格が強いと考えられます。
島津氏の居城であり薩摩藩の中心であった鹿児島城と,支城にあたる出水麓遺跡の発掘調査の成果によって,鹿児島城に対する外城の性格が確認されました。各地の外城はそれぞれが軍事・経済の拠点となり,独立性を持ちながら,藩主の住む鹿児島城によって統括されていました。薩摩藩はこの「外城制」によって,幕府に対してある程度の独立性・独自性を保っていたと考えられています。 - 用語解説
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屋形造 一階建ての建物,平屋 掘立柱建物 地面に柱穴を掘り,柱を立てる建物 - (文責)濱崎 一富・大窪 祥晃
縄文の森から 平成29年3月
平成29年3月14日(火)
カタクリの花が咲きました!!
カタクリとは?
早春に芽を出して花を咲かせるユリ科の植物です。
昔は,このカタクリの
10㎝ほどの小さな花で、開花時期が短いため「スプリング・エフェメラル(春の妖精)」ともよばれています。
縄文の森に春がやってきました。
とっても小さいお花なので,足下に注意して見てみましょう!
縄文の森だよりVol.32
考古ガイダンス第25回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第25回 シラスの上と下の文化 - ■姶良カルデラの大爆発を中心に■
南九州の厚く堆積したシラスの下層から石器が出土することは極めて珍しいことです。
平成7年,私は南九州西回り自動車道建設に伴って,日置郡松元町石谷の前山遺跡,現在の松元インターチェンジ付近の発掘調査を担当していました。
【写真 シラス下層出土の前山遺跡の石器群】- 夏のある日,私は次の日に他の業務があり発掘現場を留守にするため,明日の調査計画について同僚と話し合いました。その結果,明日はシラスの風化土以下の地層がどうなっているかの確認を行うことにして,その日は発掘現場を後にしました。
そして二日後に発掘現場に行くと,同僚が興奮した声で昨日の様子を話すのです。その内容は,シラスの下の地層から石器らしいものが出土したということでした。
私はわが耳を疑いながら,遺物が出土した地点へと向かいました。出土した地層を再度確認し,地層の断面を移植ゴテで削ってみました。出土した地層は,シラスの風化した地層の下の砂礫層であり,遺物を見てみると確かに人為的に石を加工した痕跡があるものでした。
それから発掘事務所へ駆け戻り,そして震える手で埋蔵文化財センターに電話で報告しました。「松元町の前山遺跡で,シラスの下層から石器が出土しました。」と。
南九州の発掘調査に従事する我々が,調査終了の目安にするのはシラスです。シラスは,南九州を厚く覆っている火山堆積物で,時には100メートル近く堆積している所もあり,物理的に発掘調査が不可能なためです。 - ■姶良カルデラとその環境■
- さて,このシラスと当時の気候について若干触れてみたいと思います。
今から約2万5,000年前,錦江湾の奥まった部分から火山活動が始まりました。その火山活動は,大量の軽石の噴出,そして第1次の火砕流を経て破局的な大火砕流をもたらしました。火山灰は,空高く成層圏まで舞い上がり,東北地方や朝鮮半島にまで及んだと言います。 - この一連の火山活動によってもたらされたものがシラスであり,専門的には姶良・丹沢火山灰あるいはATと呼ばれるものです。そしてこの大噴火がもたらしたものは,陥没した大カルデラ(姶良カルデラ)と,旧地形をとどめないほどに降り積もった火山灰にまみれ茫漠とした南九州の地であったでしょう。
姶良カルデラが噴火した2万5,000年前は,後期旧石器時代(旧石器時代とは,人類が誕生してから約1万2,000年前まで,主として石器を主な生活の道具とし,人類が土器や弓矢を発明して用い始める直前までの時代)にあたります。地質学的には更新世後期にあたり,大氷河が発達したり後退を繰り返した時代です。またこの時代は氷河が発達したことから氷河期とも呼ばれ,地球全体がとても寒い時期で,北海道にはマンモスが,九州にはナウマン象がいたといわれています。
【写真 屋久島の宮之浦岳の山頂(出典 鹿児島県育英財団)】- ただし実際に氷河が存在したのは,北極などのように寒い地域や高い山だけです。南九州は,現在より気温が数度,海面が今より百メートル近く低く,あたり一面には草原が広がっていたと考えられています(現在の屋久島の宮之浦岳の山頂の様子に似ています)。
- ■二つの石器(ナイフ型石器と剥片尖頭器)■
南九州本土において,シラスの下層から石器が出土したのは前山遺跡が2例目,昭和41年出水市上場遺跡の発見以来,実に20数年ぶりでした。当初私は,発掘風景の写真のようにこの遺跡は安山岩の巨石がゴロゴロしていたため「シラスが薄くその下の地層がもしや観察できるのではないか」と考えていました。掘り下げを行った結果が思わぬ石器の発見につながったのです。
【写真 前山遺跡の発掘風景】- 1年半に及ぶ前山遺跡の発掘調査の結果,シラスの下層から台形石器やナイフ形石器など約10点を含む約500点の石器,シラスの上層からは台形石器,ナイフ形石器,槍として用いたと思われる剥片尖頭器や三稜尖頭器などを含む約1万5,000点もの石器が出土したのです。
前述のように2万5,000年前に大爆発した姶良カルデラは,南九州の地を火砕流で覆いつくして,人間,動物や植物までも死滅させたといわれ,その植生の回復には1,000年近くもの歳月を要したといわれています。
ところが熊本県の狸谷遺跡(たぬきだにいせき)で見つかった,シラスの上層から出土したものを指標とする「狸谷型」と呼ばれるナイフ型石器は,前山遺跡のシラスの下層から出土した石器の中に類似したものが見出せるのです。長さ2,3センチで切り出しナイフの刃先に近い形状,そしてその石器の作り方も似かよっています。また狸谷型のナイフ型石器は,前山遺跡より数100メートル南東に位置する仁田尾遺跡では,シラスの上層から多数出土しているのです。
- 【写真 シラス上層出土の前山遺跡の剥片尖頭器】
- 噴火後の九州では,新たな石器として剥片尖頭器という槍状の石器が登場します。南九州でも近年数多くの遺跡からこの剥片尖頭器が出土しており,前山遺跡からも相当数出土しています。そしてこの石器は,朝鮮半島にそのルーツが求められるともいわれ「海を渡った剥片尖頭器」とも呼ばれています。
- ■エピローグ■
この南九州から出土した2つのタイプの石器(ナイフ型石器と剥片尖頭器)は,21世紀を生きるわれわれに何を物語ってくれるのでしょうか。
前山遺跡出土のシラス下層のナイフ型石器についてある研究者は「生き残った集団によって,製作技法が受け継がれていったのではないか」とし,大災害でも生き延びようとする人間の生命力をいっそう確信したとさえいいます。- 【写真 鹿児島市[旧喜入町]帖地遺跡(出典 喜入町教育委員会)】
- シラスの上層から出土する剥片尖頭器は,海水面が低くなり幅が狭くなったとはいえ海流が激しく荒ぶる朝鮮海峡を,旧石器人達が勇敢に丸木舟を操って行き来したあかしなのでしょうか。
数少ない遺跡から出土する数点の遺物だけで早急に結果を導き出すことは,非常に危険ですが(考古学は,実証とデータ―の蓄積が大事である),前山遺跡のシラスの上層から出土した剥片尖頭器と下層から出土したナイフ型石器が,今後の南九州の姶良カルデラ爆発前後の様相を知る大きな手がかりになりうることは確かです。
そしてその後,1996年1月に喜入町帖地遺跡からもシラスの上層と下層から数多くの石器が発見されました。この新たな資料の追加の意義は大きいものがあります。今後もこのような遺跡や遺物が発見され,南九州の旧石器文化がよりいっそう解明されることを期待してエピローグにかえたいと思います。 - (文責)鶴田 静彦
考古ガイダンス第24回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第24回 縄文文化は海を越えて - ■北から南へ・海峡を南下した細石器文化■
縄文時代開始直前の約14,000年前,日本列島には細石器文化が大盛行していました。鹿児島もその例にもれず,細石器文化の真只中にありました。特に鹿児島・宮崎・大分を含む南・東九州では在地の流紋岩(りゅうもんがん)という石を利用した特徴的な船野型(ふなのがた)という槍先の製作技術が存在することが知られ,その分布の南限は鹿児島県本土までとされていました。
そんな中,1997年,中種子町立切(たちきり)遺跡で本土と種子島との交流を示す驚くべき発見がありました。種子島で初めて細石器文化期の遺物が発見されたのです。しかも石材は南九州で産出する流紋岩,槍先を作る技術も九州本土に特徴的な船野型であったのです。この発見により,細石器文化の南限を書き換えるとともに,本土と種子島の技術・物資・人間の南への流通が明らかとなり,さらに大隅海峡を南下するための船の存在が確定的となったのです。
丸木舟に乗って流紋岩を大事そうに抱え,海峡を南下した旧石器人の姿が目に浮かんでくるようです。- ■南から北へ・海峡を北上した「磨き」の技術■
- 1995年に調査された西之表市の奥ノ仁田遺跡,中種子町三角山遺跡では縄文時代草創期(約12,000年前)の磨製石鏃(ませいせきぞく)が発見されています。これらは種子島に安定して磨製石鏃を作る技術が存在していたことをうかがわせるものです。
一方,鹿児島県本土に目を向けてみると,磨製石鏃の出現は種子島より一時期遅れた縄文時代早期初頭(約10,000年前)まで待たねばなりません。なお,日本全国を見渡すと縄文時代の最初の時期に磨製石鏃を生み出す技術を保有しているのは南九州しか見当たらず,鹿児島県本土に石鏃を磨く技術をもたらしたのは現在のところ種子島しか考えられません。この事実は南から北への技術の北上を示すことに他ならなく,北から南だけでなく南から北への動きがあったことをうかがわせるものです。 - ■北から?南から?土器文化の交流■
- 縄文時代草創期には,全国的に土器の周りに粘土紐を貼り付けてつくる隆起線文土器が特徴的に使用されていました。中でも南九州の粘土紐は他地域よりひときわ太く,隆帯文土器と呼ばれています。また,貼り巡らした粘土紐には貝殻や指などで模様が施され,この特徴は県本土も種子島もほぼ同じです。
では,この隆帯文土器は南北どちらから伝わったのでしょうか。分布からみると,現在のところ県本土よりも種子島に密度が濃く,出土量も多いため,種子島からの伝播の方が考えやすいです。しかし種子島よりも南では隆帯文土器の出土は見られず,南からの伝播を考えにくい逆の状況も存在します。また,その他にも種子島の隆帯文土器の密度の濃さを説明する学説もあります。それは種子島では次の文化が流入するまでの間ずっと隆帯文土器を使用し続けた結果であるというものです。いずれにせよこの問題の解答は,今後の発掘調査による成果をを待たねばならないようです。 - ■槍はどこから?中種子町園田遺跡■
- 1999年10月,種子島で縄文時代草創期の地層から8本の石槍が発見されました。槍は意図的に23個のパーツに分割され,折り重なるような状態で2ヵ所から発見されました。石材は安山岩で,種子島では産出しないものであり,石器を製作した痕跡も残していないことから島外で製作され,持ち込まれたものであると考えられています。その出土状況,石材,槍の形状の類似から,信州を中心に分布する神子柴(みこしば)文化との関係を論じられることもあります。
しかし神子柴文化の石槍とは厳密には技術・形態など異なっており,間接的な影響は考えられるものの,直接的に信州との交流を語れるものではありません。広くアジアを見渡しても現在のところ園田遺跡のような精美な槍,またそれを作り出す技術は見当たらず,園田遺跡の槍がどこで製作され,どのようなルートで種子島にたどり着き,そしてまたなぜ分割され,置かれたのかは謎です。 - 用語解説
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船野型 宮崎県船野遺跡で最初に発見された槍先の製作技術。石核の形が船底状を呈するのが特徴。 神子柴文化 長野県神子柴遺跡を標識とする。北海道を除く東九州を中心に広がっており,九州への波及も部分的に認められている。独特の形の槍や石斧を特徴とする文化。 - (文責)桑波田 武志
縄文の森から 平成29年1月
平成29年1月26日(木)
常設展示室の「河口コレクションコーナー」をリニューアルしました。
「南島の考古学」
常設展示室で,長年,鹿児島県の考古学界をリードしてきた考古学者,
今回は「南島の考古学」と題して,4貝塚と1洞穴の出土資料を紹介しています。
「南島」とは,九州と台湾の間に位置する南西諸島の島々のことです。明治末期から昭和初期までは,本土の先史文化との関連性は確認されませんでした。しかし,1955(昭和33)年に行った宇宿貝塚(奄美大島)の発掘調査で,本土と南島の先史時代の土器文化に関係性があったことが明らかになりました。
今回のコレクションコーナーでは宇宿貝塚をはじめ,喜念貝塚(

展示の様子
平成29年1月11日(水)
1 日 時 平成29年2月4日(土)10:00~12:00
2 場 所
上野原縄文の森 体験学習館
3 内 容
【内容】縄文の森の素材を使ったポシェット作り
【講師】上野原縄文の森職員
4 対 象 小学生以上
5 定 員 30人程度(要事前申込み)
6 参加料 50円(資料代,材料代)
1 日 時 平成29年2月11日(土)13:30~15:00
2 場 所
上野原縄文の森
展示館多目的ルーム
3 内 容
【内容】県内各地で行われている発掘調査の中から
南九州市の調査成果について紹介します。
【講師】ミュージアム知覧 学芸員 上田 耕 氏
4 定 員 80人程度(要事前申込み)
5 資料代 100円
1 日 時 平成29年2月25日(土)13:30~15:00
2 場 所 鹿児島市
かごしま県民交流センター
小研修室2(東棟4階)
3 内 容
【内容】貝塚などからわかる貝利用の解説と貝輪アクセサリー作りを行います。
【講師】上野原縄文の森職員
4 定 員 30人程度(要事前申込み)
5 資料代 400円
※ 車でお越しの際は,駐車券を講座受付に提示ください。
申込方法
電話・FAX・eメールにて①参加される方のお名前と年齢,②住所,③電話番号をお知らせください。各イベント共に,定員に達し次第,締め切らせていただきます。







