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鹿児島県上野原縄文の森

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カテゴリー: 縄文の森

縄文の森から 平成28年7月

平成28年7月28日(木)

 今の季節,古代池では大賀ハスの開花がみられます。
 大賀ハスは,植物学者の大賀一郎博士が,落合遺跡(千葉県)で発掘された,今から2,000年以上前の古代のハスの実を発芽・開花に成功させたハスです。
 ぜひ,この機会にご覧ください!!


平成28年7月11日(月)

第37回霧島国際音楽祭2016
縄文の森
ミュージアムコンサートのお知らせ

壮大な歴史ロマンを感じながら聞く
縄文の森コンサート

霧島国際音楽祭出演者 安楽 真理子さんの
ハープ演奏をお楽しみください!!

【日 時】 平成28年8月2日(火)13:00~14:00 ※終了しました
【場 所】 鹿児島県上野原縄文の森展示館ホール
【曲 目】 ヘンデル:ハープ協奏曲 変ロ長調 HWV294
      フォーレ:即興曲 Op.86 ほか
【料 金】 無料
【申込み】 不要
【問い合わせ】 上野原縄文の森 事業課
          電話 0995-48-5701


安楽 真理子


前回(平成26年7月19日)の様子

 東京生まれ。8歳からハープを学び始め,1989年第1回日本ハープコンクール優勝。1992年イスラエル国際ハープコンテスト第3位,パールシャートック賞も受賞。1993年プロムジシス財団国際賞を日本人として初めて受賞後,世界主要都市でデビューリサイタルを開き好評を博す。1995年ジュリアード音楽院大学院在学中にニューヨークのコンサート「アーティストギルド コンクール」で優勝。同年,メトロポリタン歌劇場管弦楽団のハーピストに就任。ソロ,室内楽演奏活動を続ける傍ら,ユニセフのチャリティーコンサートやボランティア演奏活動なども積極的に行っている。旧東芝EMIから4枚のCDをリリース。マンハッタン音楽院講師。

第46回 新発見!かごしまの遺跡2016

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    ※ クリックすると,チラシがダウンロードできます(どちらの画像も同じチラシがダウンロードされます)。 
     
     平成27年度に発掘調査や整理作業・報告書刊行を行った遺跡を中心に,最新の情報を紹介します。集成館事業の一環として,薩摩藩が文久3(1863)年に建設した「敷根火薬製造所」跡や,弥生時代の住居跡から「山ノ口式土器」が多数出土した田原迫ノ上遺跡など,注目される遺跡の調査成果を紹介します。
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  • ■企画展で紹介する主な遺跡■
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    じょうもん一家のイラストをクリックすると,遺跡紹介パネルが新しいウインドーに表示されます。   
     
    企画展データファイル
     
      【第46回企画展CM
  • ■注目の展示品■
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     ご覧になりたい展示品をクリックしてください。拡大して表示されます。
  • ■企画展講演会■
  • 【第1回】 平成28年 8月20日()13:30~15:00 ※終了しました
       紹介遺跡:「敷根火薬製造所跡」「根占砲台跡」「永吉天神段遺跡」
    【第2回】 平成28年10月29日()13:30~15:00
    ※終了しました
     
     紹介遺跡:「牧野遺跡」「小牧遺跡」
    〔各回共通〕
     講 師:県立埋蔵文化財センター職員ほか
     定 員:80人程度(要事前申込み)
     場 所:展示館多目的ルーム
     資料代:100円
     講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師によるギャラリートークを行います(別途展示館利用料金が必要となります)。 
  • ■企画展ギャラリートーク■
  • 企画展開催中に展示の解説を行います。
     【日 時】 開催中の第1・第3日曜日
     1回目 10:30~ 2回目 14:30~ ※各回30分程度
     【会 場】 企画展示室

考古ガイダンス第17回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第17回 海や山へ広がる縄文人の活動
  • ■4,000年前の人々とは■
  • 山ノ中遺跡全景今から約4,000年前の縄文時代後期の人々とはいったいどんな人々だったのでしょうか。実は,現在の私たちととても深い関係にある人たちなのです。 

    4,000年前というと想像もつかないほど昔のことのような気がしますが,自分自身の先祖をさかのぼっていくと,3世代で約100年経つことになります。同じように考えていくと,30世代で1,000年,4,000年前だと現在の私たちのおよそ『120世代前の祖先の生きた時代』と考えることができます。
  • 【写真 山ノ中遺跡全景】
  • それでは,120世代前つまり,縄文時代後期の人びとの生活を山ノ中遺跡(鹿児島市西別府町)を中心にのぞいてみることにしましょう。
  • ■幅広い交流範囲■
  • 各地域の3,800年前頃の土器山ノ中遺跡からは,縄文時代後期前半(約3,800年前)の指宿式土器を中心とする土器が大量に出土しました。それ以外にも,開聞岳周辺で作られたと推定される土器の表面が紫色を帯びた土器や,出水地方で作られたと推定される粘土に滑石を含むもの,志布志湾沿岸でよく見られる貝殻を使った口縁部を廻る刺突文が施された土器等も出土しています。
  • 【イラスト 各地域の3,800年前頃の土器:右から堀之内Ⅱ式土器・松ノ木式土器・指宿式土器】
  • さらに,南九州以外の地域で作られたと考えられる「磨消縄文土器」(すりけしじょうもんどき)も出土しています。磨消縄文土器は,初めに縄文を施し,その上から沈線等で区画を加え,区画外の縄文を磨り消して文様を描くもので,縄文時代中期後半(約4,200年前)以降になってから日本全国に普及したものです。南九州では,指宿式土器の頃から(約3,800年前)磨消縄文の影響が見られます。
  • 山ノ中遺跡で出土した磨消縄文土器は,高知県長岡郡本山町の松ノ木遺跡から出土したものと文様の描き方・形・材料に使われた粘土等類似しています。縄文人の交流の深さが指摘されています。
    また,鹿児島県の縄文後期前半の遺跡を見てみると,薩摩半島よりも大隅半島に多くの遺跡があったことがわかっています。特に曽於郡内だけで66か所の遺跡が周知されており,これは県内全体の40%近くを占めています。関東地方に初源のある磨消縄文土器が瀬戸内地方や四国を経て南九州に波及してくるときに大隅半島側がその受け入れ口になったのではないかと考えられています。
  • ■肉より木の実が好きだった?■
  • 出土した磨製石斧と現代の斧縄文時代は弓矢を使って動物を捕り食料等にしていたと考えられるため,各々の遺跡においても多くの石鏃(せきぞく)が出土していますが,山ノ中遺跡では少々様子が違っています。

    【写真 出土した磨製石斧と現代の斧】

    例えば,石鏃や動物をさばくための石匙(いしさじ:小型のナイフのような石器)は合わせて10数点しか見つかっていないのに対し,木を切り倒したり加工するための磨製石斧(ませいせきふ)が約200本,木の実をすりつぶしたりするための道具である石皿や磨石(すりいし)や敲石(たたきいし)も多く発見されました。これらの道具は,そのほとんどが完形品ではなく,割れた状態のものであることからこの場所で使用されていたと推定されています。
  • 山ノ中遺跡出土の土器・ 石皿・石斧等縄文時代の人びとは狩猟・採集をして暮らしていたといわれていますが,山ノ中遺跡では狩猟よりも採集の方に重きをおいていたようです。

    これはこの時期に一般的な傾向だったのか,それとも山ノ中遺跡だけのものなのかは他の遺跡と比較しながらその理由を考えていかなければなりません。
  • 【写真 山ノ中遺跡出土の土器・石皿・石斧等】
  • 当時の生活の様子を知る手がかりとしてゴミ捨て場は貴重な存在です。山ノ中遺跡の地形を見てみると,住居跡が見つかっている北側は平坦地になっているのに対し,土器や石器が大量に出土した場所は急な谷になっています。
  • 土器廃棄場の検出状況このような遺跡の在り方は,鹿児島市草野貝塚や志布志町中原遺跡とよく似ています。草野貝塚は海に近く,貝をたくさん食べ貝殻を捨てたのでゴミ捨て場は貝塚となりましたが,山ノ中遺跡や中原遺跡は海から遠く貝はほとんど食べていなかったために貝塚として残るにはいたっていません。しかし,「土器廃棄場」と呼ばれる大量の土器が発見される場所があるのです。
  • 【写真 土器廃棄場の検出状況】
  • この土器廃棄場の土器がより完形に近い形で捨てられていることから,採集した木の実をすりつぶし,土器の中に水を入れ沈殿・乾燥させ,土器の底にたまったデンプンをかき出すのではなく,土器を割ってデンプンを取り出し,不要になった土器を谷部に捨てたのではないかという説もあります。
  • 秋には木の実を拾い集め,冬の食料のために穴を掘って保存したり,竪穴住居の中で石皿や磨石を使って木の実をすりつぶしていたのではないでしょうか。
    身近な自然の恵みを糧(かて)に様々な工夫を凝らし,幅広い範囲の人々と交流をもちながら生活していた私たちの祖先の生活に想像をめぐらせば興味も尽きませんね。
  • (文責)高岡 利也

縄文の森から 平成28年6月

平成28年6月27日(月)

参加者募集中!

一日縄文人体験 第2回

「上野原の文様コレクションを作ろう」

 今年は上野原遺跡発掘調査30周年!今回の一日縄文人体験は,粘土とひもなどを使い上野原遺跡で出土した土器の文様を作ります。デスクに飾るのも良し,学校の自由研究に用いるのも良し,上野原遺跡を感じてください!
 みなさんの参加をお待ちしております!!

 日 時:7/30(土)午前10時~正午
 定 員:小学生以上30人程度
            (要事前申込み)
 場 所:復元集落休憩所
 参加料:500円(材料代,資料代など)


平成28年6月14日(火)

参加者募集中!

夏休み縄文キャンプ村 

 縄文の森でしか体験できない竪穴住居泊。縄文服や縄文料理作りにカブトムシ合戦もあるよ。みなさんの参加お待ちしております!!

 日 時:7/23(土)午前10時~7/24(日)午前10時まで
 定 員:小学生以上7家族25人程度(7グループ)
     (要事前申込み)
 場 所:復元集落
 参加料:一人2,000円(食材費,体験材料費,保険料等)


平成28年6月9日(金)

平成28年度考古学講座第2回

 「明治日本の産業革命遺産」

(写真提供:鹿児島県企画部世界文化遺産課)

 昨年7月に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の価値や概要等について解説します。<

 日 時:7月16日(土)13:30~15:00 ※終了しました
 講 師:鹿児島県企画部 世界文化遺産課
     登録推進班 主査 川口 雅之氏 
 定 員:80人程度
 場 所:展示館多目的ルーム

考古ガイダンス第16回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第16回 瀬戸内地方との交流
  • 休日を利用して,各地の遺跡巡りをするのも良いものです。
    実際にその大地に降りて土を踏みしめると,写真や書物では決して味わうことのできない太古のロマンを満喫することができます。嬉しいことにマイカーを使えば短い時間で多くの遺跡を見て回ることも可能です。これは単に「車」という文明の利器によるものだけではなく,無数に延びる交通網の整備・発達の恩恵にほかならないことは言うまでもありません。

    当然のことですが,縄文時代には現代のような大規模で計画的な道があったはずがなく,わずか数キロメ-トル離れた隣の集落へ出かけるにも山を越え,谷を渡り,道なき道を行く大変な苦労であったことは想像に難くありません。
    しかし,そのような時代にすでに九州島内はもとより,南は南西諸島,北は中国・四国以北の地域と交流が行なわれていたとしたら,皆さんはどのように思われるでしょうか。
  • ■交流の証し■
  • 船元式土器が出土した榎木原遺跡県内各地の縄文時代の遺跡から黒曜石を用いて作った石器が出土します。黒曜石の産地として県内では大口市の日東や鹿児島市の三船などが知られています。この黒曜石が産地以外の遺跡で出土するということは,当時の人々が頻繁にその産地と行き来し,持ち込んできたということが分かります。また,有り難いことに,黒曜石は産地によって性質が異なるので,どこの産地のものか見当がつきます。その中には大分県の姫島産のものも見られ,広範囲に渡って交流が行なわれていたということが伺えます。
  • 【写真 船元式土器が出土した榎木原遺跡】
  • さらに一歩踏み込んで,「土器」をもとにしてアプローチを図っていくと交流の様相が一層明らかになってきます。そこで,縄文時代早期と中期の遺跡から出土する土器に注目し,その実態にせまってみたいと思います。
  • ■縄文時代早期■
  • 船元式土器縄文時代早期は,様々なバリエーションに富んだ土器が登場した時期で,この頃の土器の文様は,関東地方一帯に於いては縄や撚糸(よりいと)を土器面に転がして施文した「縄文」や「撚糸文」が主流であったの対し,南九州では貝殻によって施文した「貝殻条痕文」が一般的です。
  • 【図 船元式土器】
  • 春日式土器上野原遺跡をはじめ県内各地の遺跡から出土する前平(まえびら)式土器や吉田式土器など,南九州の代表的な土器の文様がそれを物語っています。ところが,縄文時代早期も後半にさしかかると,塞ノ神(せのかん)式土器など「撚糸文」を施文した土器が現われます。また,その他には,「押型文」を施した手向山(たむけやま)式土器などが出現します。押型文は,瀬戸内地方で流行した,丸棒に山形や楕円形の文様を彫刻したものを土器面に転がして施す施文法です。
  • 【図 春日式土器】
  • このことは,南九州が瀬戸内地方の施文技術の影響を受け,交流があったことを意味しています。
    さらに時代が下って,縄文時代中期に入ると,春日(かすが)式土器と船元(ふなもと)式土器が登場します。この二つの土器にも交流の様子が伺えるのでご紹介します。
  • ■縄文時代中期■
  • 鹿児島県内の各遺跡と岡山県船元貝塚の位置図春日式土器と船元式土器は,ともに縄文時代中期(約4,500年前)の土器で,県内の各遺跡では混在して出土しますが,実は,それぞれ出身地が異なるものなのです。

    春日式土器は九州南部を中心に分布する土器型式で,鹿児島市春日町遺跡を標式遺跡としています。器形は口縁部が内湾しながら外に開くキャリパー形の深鉢が主体で,器面には「貝殻条痕文」が施され,文様は無文または沈線や隆帯の渦文や曲線文が描かれています。県内では春日町遺跡をはじめとして北手牧(きたてまき)遺跡(頴娃町)や,前谷(まえたに)遺跡(松山町),根木原(ねぎはら)遺跡(鹿屋市)など数多くの遺跡で出土しています。
  • 【地図 鹿児島県内の各遺跡と岡山県船元貝塚の位置図:1 春日町,2 榎木原,3 前谷,4 船元貝塚】
  • 船元式土器は中部瀬戸内を中心に分布する同じく縄文中期の土器型式で,岡山県倉敷市船元(ふなもと)貝塚を標式遺跡とします。器面には荒く固い繊維による「縄文」や「撚糸文」が施されるのが大きな特徴で,県内では榎木原(えのきばる)遺跡(鹿屋市),鞍谷(くらたに)遺跡(枕崎市)などで出土しています。
  • これら二つの土器は,九州と中国地方という隔てられた場所にほぼ同時代に出現した土器で,全く関連性がないように思われますが,面白いことに,キャリパー形の器形や施文の手法など非常に共通点が多い土器です。特に,榎木原遺跡で出土した船元式土器の中には,岡山県倉敷考古館所蔵の船元式土器と施文や胎土(たいど)において全く類似しているものが見つかっており,これは,倉敷の地でつくられた土器がそのまま移入してきたものと考えられます。

    また,春日式土器の「貝殻条痕文」に対する船元式土器の「縄文」「撚糸文」施文の両者の相違などから研究を進めると,春日式土器は縄文時代中期より以前に南九州地方に分布していた,深浦(ふかうら)式土器等の流れを汲みながら,瀬戸内地方から移入してきた船元式土器の影響を受けて登場した土器ではないかと考えられます。

    今回は,土器型式とその分布の様子から交流の手がかりを探る一例を紹介しました。すでに遥か数千年も前に私たちの先祖は,日本列島を舞台に活躍していたという一端が見え隠れします。彼らはどのような方法で行き来し,どのような形で交流をしたのでしょうか,想像が尽きることがありません。遥か太古に想いを駆け巡らす。これもまた,ロマンですね。
  • 用語解説
  • 縄文早期・中期 一般的に縄文時代は,草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六つの時期に区分される。
    早期は今から約9,000年~6,000年前,中期は約5,000年~4,000年前とされている。
    黒曜石 黒色や暗灰色を呈するガラス質の火山石。砕けば破片になりやすく,矢じり等の小型
    の石器の材料として良く利用された。
    キャリパー形 計測に用いる測径両脚器(キャリパー)を開いた形のこと。
    撚糸文 撚った糸を軸に巻き,土器面に回転押捺してつけた文様。
    貝殻条痕文 ハイガイ,ハマグリ等の二枚貝の背や腹の部分を土器面に押し当ててひっ掻いて施文
    した文様。
    押型文 彫刻のある丸棒を土器面に回転し,施文した技法で,山形・格子目・楕円など様々な文様
    がある。
    胎土 土器の素材となる粘土や混和材。
  • (文責)野邉 盛雅

縄文の森から 平成28年5月

平成28年5月24日(火)

常設展示室の河口コレクションコーナーをリニューアルしました。

出水貝塚(いずみかいづか)」(出水市),「市来貝塚(いちきかいづか)」(いちき串木野市)の出土資料

常設展示室で,長年,鹿児島県の考古学界をリードしてきた考古学者,河口貞徳(かわぐちさだのり)氏(1909~2011)が調査した遺跡の考古資料等を紹介しています。
 今回紹介するのは,出水貝塚と市来貝塚の出土資料です。
 出水貝塚は縄文時代中期後葉~後期前葉(約4,500~4,000年前)の貝塚です。調査の結果,埋葬(まいそう)人骨6体のほか,押型文(おしがたもん)土器・出水式土器などの多くの土器や,貝・(きば)製の垂飾(すいしょく)品,貝輪などの装飾(そうしょく)品も出土しました。
 市来貝塚は縄文時代後期(約3,500年前)の貝塚です。調査は10日間行われ,人骨3体のほか,市来式土器をはじめ多くの土器や石器が出土しました。人骨の復元を長崎大学で行ったところ,身長約163.5㎝で,面長な顔立ちであることがわかりました。


展示の様子


平成28年5月9日(月)

平成28年度考古学講座第1回 ※終了しました

名将・名藩主を世に出した
島津の強さに迫る

戦国時代から江戸時代にかけて名将・名藩主を世に出した島津家の強さをユーモアたっぷりに解説します。

日 時:5月21日(土)
    13:30~15:00
講 師:落語家 桂 竹丸氏
     (公益社団法人落語芸術協会理事)
定 員:80人程度
場 所:展示館多目的ルーム
資料代:100円

考古ガイダンス第15回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第15回 “残された”鹿児島の大貝塚
  • ■-柊原(くぬぎばる)貝塚が語りかけるもの-■
  • その神社は,白っぽい小さな丘の上に建っていました。よく見ると丘のあちこちに貝殻がみえます。というよりも,丘そのものが貝殻でできているようです。土器の破片や骨のようなものも落ちています。神社はなんと「貝塚」の上に建てられていたのです。
    以前に筆者が,某県のとある縄文貝塚を探し歩いたときの話です。それは家々の間に突如として出現し,まるで現代人の生活の中に溶けこんでいるかのようでした。
    「ゴミ捨て場」,あるいは「古代のタイムカプセル」。教科書にのっている貝塚のイメージはさておいて,まずは身近なところから話を始めましょう。
  • 縄文時代後期の主な貝塚(3,000年-4,000年前)
  • 縄文時代後期の主な貝塚分布図1
    縄文時代後期の主な貝塚分布図2
    奄美大島
    縄文時代後期の主な貝塚分布図3
    喜界島
    縄文時代後期の主な貝塚分布図4
    徳之島
    1 江内 / 2 出水 / 3 麦之浦 / 4 石間伏 / 5 尾賀台
    6 市来 / 7 武 / 8 光山 / 9 草野 / 10 大泊
    11 宇宿 / 12 伊実久 / 13 喜念 / 14 面縄

  • ■眠る大貝塚を探せ■
  • 空からみた柊原貝塚垂水市柊原(くぬぎばる)の海岸沿いの平地一帯は,古くから“貝殻の産地”として知られ,江戸時代の観光ガイドブック『三国名勝図会』(さんごくめいしょうずえ)にも「古来これを取れども尽きることなし」と書かれています。地元でも,大正時代頃まで肥料などに用いる貝灰を製造していたほどです。
  • 【写真 空からみた柊原貝塚】
  • 「どこかに大貝塚が眠っているのでは?」と誰かが考えても不思議ではありません。大正3年,N.G.マンローというイギリス人の学者が実際に発掘調査を行い,土器を採集したという記録があるものの,はっきりした貝塚の場所などは長い間謎に包まれていました。
  • ところが近年になり,柊原沿岸に残るJR旧大隅線跡を農免農道として整備する計画が浮上し,平成7年度と平成9年度に発掘調査が行われたところ,ついに“それ”は姿をあらわしました。

    そこは柊原地区でも南のはずれで,ちょうど台地が切れて平地が広がる部分にあたり,かつては小さな入り江であったことを想像させるような地形です。土地の人は昔から「塚」と呼んでいたといいます。発見された貝塚の面積は約500平方メートルで厚さは約1メートル,地面に盛り上げるように築かれていました。周囲の畑部分や大隅線造成時に削られたと思われる部分も計算にいれると,実際の大きさは2倍近いものと想定できます。全国的にみても大規模で,これまで県内で発見された貝塚のなかでも最大級といえるでしょう。
  • ■タイムカプセルの中身■
  • 埋葬された縄文時代後期の人骨では柊原貝塚の中をのぞいてみましょう。貝殻のカルシウム分でアルカリ性に保たれた内部は,酸性の土やバクテリアの浸食から守られた天然の保存カプセルです。
    まずは食料から。
    貝の量・種類は豊富ですが,他の遺跡と比較して巻き貝の割合が高いことが特徴です。動物ではイノシシ・シカが圧倒的で,オオカミ・ツキノワグマなど珍しいものもみられます。
  • 【写真 埋葬された縄文時代後期の人骨(20歳前後の男性)】
  • また,南九州では初めて「埋葬された可能性があるイヌの遺体」が発見されたことが話題になりました。糞石(ふんせき)と呼ばれるウンコの化石の中からは,タイ類やイワシ類などの骨が出てきました。植物ではドングリ類が多く食べられていたようです。
  • 市来式土器次に生活用品をみてみましょう。
    貝層中にみられる土器は,市来式(いちきしき)土器など縄文時代後期中ごろのものが主体であることから,この貝塚が約3,500年前に形成されたことがわかりました。

    石斧(いしおの)や石錘(せきすい)・骨製釣り針などの実用品も多いですが,やはり貝輪(かいわ)・骨製髪飾り・牙製首飾りのように細工の施された装飾品の数々は,柊原人の感性がじかに伝わってくるようで興味深いものがあります。
  • 【写真 市来式土器】
  • 細かな装飾が施された骨製髪飾り軽石製岩偶当時の精神生活を物語る遺物にも注目です。軽石に線を刻んで人体あるいは性器を模したと考えられている岩偶(がんぐう)が,これまでになく大量に出土しています。また,動物の姿をかたどった獣形土製品(じゅうけいどせいひん)は県内で初めての例です。これらのものに,人々はどんな祈りや想いをこめたのでしょうか。さらには埋葬人骨も5体出土しています。発掘作業員は常に塩を身につけ,調査に臨んだといいます。
    【写真左:細かな装飾が施された骨製髪飾り(髪針) / 同右:軽石製岩偶 赤い顔料が塗られたものもある】
  • このように貝塚の中身を調べることで,当時の生活の様子や自然環境など多くの情報を得ることができます。そして私たちは,そこが単なるゴミ捨て場ではなく,現代人が失いつつある「役目を終えたものに対する畏敬(いけい)の気持ち」が込められた場所であることを知るのです。
  • ■海を渡った?柊原(くぬぎばる)人■
  • 舟形軽石製品柊原貝塚が形成された縄文時代後期,南九州の貝塚数はピークを迎えました。代表的な遺跡として,出水市出水貝塚・市来町市来貝塚・川内市麦之浦(むぎのうら)貝塚などがあげられます。

     なかでも錦江湾を隔てて柊原のほぼ対岸に位置する鹿児島市草野貝塚は,土器や軽石製岩偶・骨製髪飾り・舟形(ふながた)軽石製品など,出土遺物に柊原貝塚と共通するものが多くみられます。
  • 【写真 舟形軽石製品】
  • まるでお互いひんぱんに行き来していたかのように。それが事実ならば,まさに垂水フェリーのルーツといえますね。
  • この両遺跡に共通してみられる市来式土器は,遠く五島列島や沖縄本島にまで出土例があります。この土器を残した人々は,舟を操って果敢に大海原へと挑んだ海洋民であったのでしょうか。残念ながらどの遺跡からも舟は発見されていません。あるいは,木製の舟は腐って残らなかったのかもしれません。ただ,舟の形をした軽石製品の存在が私たちの想像力をかき立てるのです。
  • ■失われゆく,残された貝塚■
  • 現在コンクリートの岸壁によって,海岸線や干潟など人間と海との接点が確実に失われつつあります。遺跡としての貝塚の多くも,他の遺跡と同様に発掘調査終了後には消えていく運命です。貝塚は自分たちの祖先が生きていくために「豊かな海」と積極的な関わりを持ってきたという確かな記録です。私たちはまるで,海に関わる未来と過去を同時に亡くしているかのようです。
    整備された柊原の農道を走ってゆくと,遺跡名を記した標柱が立っているのがみえます。実はこの道路下には,その重要性から埋め戻しという極めて異例の措置がとられた大貝塚が,今再びの眠りについています。
    残されたものの意味や意義をどのように後世へと伝えていくのか,すべては私たちの手に委ねられています。

    再び白っぽい小さな丘にもどりましょう。
    貝殻を踏みしめながら歩いていると,縄文土器だけでなく古墳時代の土器や江戸時代の茶碗など,いろいろな時代のカケラがみつかりました。ジュースの空き缶までもが捨てられています。縄文時代に生まれたこの貝塚は,今もなお現代人の生活の中で生き続けています。そう考えると急にこの遺跡が身近に感じられ,少し明るい気持ちで帰路につきました。
  • 【写真提供・垂水市教育委員会】
  • 用語解説
  • 石錘 石の隅を打ち欠いて作った,漁猟に用いられたと考えられる錘(おもり)
    貝輪 貝をくり抜いて作った腕輪。遺体の副葬品として出土することもある。
    岩偶 石や軽石を彫り込んで作られた人や動物などの偶像。
    畏敬 相手を「おそれ」「うやまう」気持ち。
  • (文責)今村 敏照

縄文の森から 平成28年4月

平成28年4月28日(金)

企画展講演会のお知らせ

第45回企画展に関連した講演会を開催します。

1 日 時
平成28年 5月14日(土)13:30~15:00
※終了しました
2 内容・講師
【演題】「縄文世界の中の上野原遺跡」
【講師】國學院大學名誉教授 小林 達雄 氏
3 場 所 上野原縄文の森展示館 多目的ルーム
4 対 象 どなたでも参加できます。
5 定 員 80人程度(要事前申込み)
※ 申込みについては,FAX送信票をご利用ください。
ここからダウンロードできます。
6 資料代 100円 
   ※ 講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師によるギャラリートークを行います。(別途展示館利用料金が必要)
7 問い合わせ・申込先 
  (公財)鹿児島県文化振興財団 上野原縄文の森 
   TEL 0995-48-5701
   FAX 0995-48-5704

第45回上野原遺跡発掘調査30周年記念

  • 上野原縄文の森 第45回企画展
    上野原遺跡発掘調査30周年記念
    上野原の時代
    ~縄文の美と技,そして謎~
  • 開催期間:平成28年4月22日(金)~平成28年7月3日(
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    ※ クリックすると,チラシがダウンロードできます(どちらの画像も同じチラシがダウンロードされます)。 
     
     平成6(1994)年3月,完全な形の壺形土器が2つ並んで出土しました。前例のない発見であり,九州最古の土偶や国内最古・最大級の集落跡,国内最大級の落とし穴など画期的な大発見が相次いだ上野原遺跡。
     全国に先駆けて花開いた南の縄文文化の世界を,上野原遺跡の縄文早期前葉(9,500年前),早期後葉(7,500年前)の発掘調査成果を中心に,近年の県内各地の発掘調査成果も交えて紹介します。

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  • ■あの日の上野原~スナップ写真から~■
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  • ■注目の展示品■
  •  石皿【定塚遺跡・縄文時代早期前葉(9,500年前)】
     
      石皿は,縄文時代の主な食料であるドングリなどの木の実を,石の平たい部分で,すりつぶして粉にする道具です。すりつぶすための石器である磨石(すりいし)と対をなして使われました。石皿は長年使い続けてくぼみ,磨石は手になじむ大きさで,表面はなめらかになっています。
     写真は,石榴(ざくろ)石を用いた石皿の完形品で,長さ37.5cm,幅27.7cm,厚さ7.8cm,重さが約10kgあります。
     10kgほどの重さを持つことや大きくくぼむ面を持つことから,移動させず同じ場所で,長期にわたって使用していたと考えられます。当時の南九州がきわめて安定した社会を形成していたことがうかがえます。また,四隅の隅々まで丁寧に磨きこまれていることから,この地にすむ人々の精神的な豊かさをも感じ取ることができます。
     石榴石:英名でガーネット(ラテン語のザクロの意“granatum”に因む)。丸い結晶が集まった状態でよく産出し,その様子がザクロの実に似ていることから,日本名もざくろ石といわれる。ザラザラした細かい粒にして紙やすりに塗られ,研磨剤として利用されている。
     
      企画展では,鹿児島県内で出土した完形の石皿を3点展示しています。丁寧に磨かれ,使いこまれた石皿と磨石をぜひ間近でご覧ください。
     第45回企画展データファイルは,ここからダウンロードできます。
     
  • ■企画展講演会■ ※終了しました
  • 平成28年5月14日()13時30分~15時
     【演 題】「縄文世界の中の上野原遺跡」
     【講 師】國學院大學 名誉教授 小林 達雄氏
     【定 員】80人程度(要事前申込み)
     【資料代】100円
     【場 所】展示館多目的ルーム
     講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師によるギャラリートークを行います(別途展示館利用料金が必要となります)。 
  • ■企画展ギャラリートーク■
  • 企画展開催中に展示の解説を行います。
     【日 時】 開催中の第1・第3日曜日
     1回目 10:30~ 2回目 14:30~ ※各回30分程度
     【会 場】 企画展示室

考古ガイダンス第14回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第14回 山ノ口式土器と大隅半島
  • ■山ノ口遺跡の発見■
  • 遺跡分布図昭和33年,大根占町馬場山ノ口集落の砂丘上で,民間の会社による砂鉄の採掘が行われていました。その最中に砂の中から弥生時代の中頃(約2,000年前)の土器片や,軽石に人の顔などを刻んだ岩偶(がんぐう)が見つかりました。これが山ノ口遺跡の発見です。

     その後の緊急発掘調査では,約3mの大きさに軽石が円形に並べられ,その周囲ではたき火が焚かれた跡が発見され,農耕儀礼(のうこうぎれい)などの祭りを行った跡であることが分かりました。祭りでは軽石製の勾玉(まがたま),岩偶,石でつくった矢じり,胴に穴のあいた壺形土器(つぼがたどき)が円形に並べられた軽石を取り囲むように配置されていました。
    発見された土器は山ノ口式土器と呼ばれています。
  • 【地図 大隅半島遺跡地図:1 沢目遺跡,2 前畑遺跡,3 王子遺跡,4 山ノ口遺跡】
  • ■山ノ口式土器の特徴■
  • 山ノ口式土器山ノ口式土器

    図左と図中
    ○壺形土器
     (口の部分に櫛描文がある)


    図右
    ○カメ形土器
  • 山ノ口式土器には煮炊きに使うカメ形土器と,穀物類や水などを貯蔵する壺形土器(つぼがたどき)があります。カメ形土器は口の部分が外側へ「L字形」に飛び出し,胴の部分には三角形の粘土ひもがいく筋もめぐらされています。このような特徴は縄文時代の終わり頃の土器作りの伝統を根強く残しています。一方,壺形土器は口の部分を外側へ拡張したり,胴を粘土ひもで飾るなどカメ形土器に共通する部分も見られますが,口の部分には瀬戸内地域の土器によく見られる櫛描文(くしがきもん)と呼ばれる文様が描かれており,交流があったことを示しています。

    当時の人々は,カメ形土器を自分たちの伝統としてかたくなに守り,壺形土器を他の地域の流行りの文様として取り入れながら作っていました。また,食べ物を盛る用途の高坏(たかつき)は,地元では作られず,現在の福岡県や愛媛県の周辺で作られたものを使用しているのも一つの特徴です。山ノ口式土器は大隅半島を中心に分布していますが,沖縄や奄美からも見つかっており幅広い地域と交流していたことがうかがえます。このような土器を使った人々の生活を集落遺跡からもう少しくわしく見てみましょう。
  • ■台地に発達した集落■
  • 台地に暮らした人々の集落 鹿屋市王子遺跡弥生時代になると,人々は稲作を行うために積極的に平野の開拓を始めました。しかしシラス台地が発達し平野の少ない鹿児島では,弥生時代になっても台地上に多くの人々が暮らしていました。山ノ口式土器を使った人々の集落跡は,標高の高い平坦な台地上から発見されています。このような場所は水田耕作には適さないため,畑作(陸稲)を中心に生活を営んでいたと考えられています。その代表的な遺跡として,鹿屋市王子町の王子(おうじ)遺跡や同市郷之原町の前畑(まえはた)遺跡などがあります。
  • 【写真 台地に暮らした人々の集落 鹿屋市王子遺跡】
  • 標高約70メートルに位置する王子遺跡では,竪穴住居跡が27軒,掘立柱建物跡が14棟発見されました。鹿児島県でこれまでに発見されている遺跡の中でも規模が大きい集落跡です。
  • 張り出し部分を持つ竪穴住居 鹿屋市王子遺跡竪穴住居はまず地面を掘って床面を造りますが,掘った穴の形はだいたい円形か方形をしています。しかし王子遺跡の住居は部分的に外側へ張り出し部を持つもので,大隅半島や宮崎県を中心にに見られる独特の形をしたものです。また,集会場などに利用された可能性のある棟持柱(むなもちばしら)を持つ掘立柱建物のような特殊な建物も発見されています。
  • 【写真 張り出し部分を持つ竪穴住居 鹿屋市王子遺跡】
  • これらの建物は前畑遺跡や周辺の遺跡でもみつかっており,同じ山ノ口式土器を使う人々の間では,共通の認識でした。その他に,鍛冶(かじ)を行う時に出てくる鉄滓(てっさい)が見つかったことから,王子遺跡から出土したやりがんなは現地で作られた可能性もあります。当時,砂鉄や鉄鉱石から鉄を作る技術はまだ無いため,朝鮮半島産の鉄素材を入手し,再び鍛冶炉(かじろ)で熱を加え鉄製品に再加工していたと考えられています。
  • 山ノ口式土器が使われていた頃,西日本では銅製の剣や矛(ほこ),銅鐸(どうたく)を使って祭りを行うことが一般的でした。しかし大隅半島では,山ノ口遺跡に見られるように地域独特の祭りが行われていました。このことは山ノ口式土器の製作方法と同様に外部の影響をマイペースに必要なだけ取り入れながらも,自分たちの伝統を大切に守っていこうとする当時の人々の意識のあらわれなのかもしれません。
  • 用語解説
  • 勾玉 ゆるく湾曲(わんきょく)した装飾用の玉で紐に通して首,えりの飾りとした
    櫛描文 櫛を使って描いた文様
    竪穴住居 地面を水平に掘り下げ床面を作り,竪穴の中に柱を立て屋根をかけた半地下式の建物
    掘立柱建物 地面に柱穴を掘って柱を立て,屋根や壁を造る平地式の建物
    鉄滓 鉄を焼いてきたえるときに落ちるかす
    やりがんな 細長い棒状の鉄の先端を三角形にして両刃をつけた木工具
    かんなが発明されるまで木材の表面をなめらかに仕上げるために使われた
    銅鐸 つまみ状のつり下げ部を持ち,内側に舌をぶら下げた青銅製の鐘(かね)
    初めは楽器として使用されるが,やがて大型化し祭器として使用されるようになる
  • (文責)川口 雅之