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鹿児島県上野原縄文の森

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カテゴリー: 縄文の森

考古ガイダンス第7回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第7回 早期に展開した集落
  • ■加栗山遺跡の集落 [ムラ]■
  • 博士と中学生の文太君の会話です。
  • 文太‥「霧島市の上野原遺跡は,素晴らしい遺跡であるということがわかったけれど,縄文太時代早期の集落[ムラ]は他にもあったの?」

    博士‥「いい質問だね。下の地図を見てごらん。鹿児島県でこれまでに発見されている縄文時代早期の遺跡はこんなにあるんじゃ。鹿児島市の加栗山遺跡は特に有名で,いろいろな本にも登場しておる。」
  • 博士と文太君の会話 1博士と文太君の会話 2博士と文太君の会話 3博士と文太君の会話 4博士と文太君の会話 5博士と文太君の会話 6
  • 文太‥「わあ,すごい。でも竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)のある遺跡となると,そんなに多くないんだね。」

    博士‥「ふむ,確かに当時の人口は今より少なかったし,まだ調査されずに土の中に眠っている遺跡もたくさんあるじゃろうからのう。しかし,全体の様子となるとそう極端には変わらないだろうから,これらの資料から何が読み取れるか考えてみよう。」

    博士‥「まず,加栗山遺跡の図を見ながら,当時のムラの様子を調べてみよう。上野原遺跡と比べてみて,どんなことに気がつくかな?」
  • 加栗山遺跡の遺構配置図 1加栗山遺跡の遺構配置図 2加栗山遺跡の遺構配置図 3加栗山遺跡の遺構配置図 4
  • 文太‥「えーっと,うん,数は少なくなるけど竪穴住居跡がいくつもある。それに連穴土坑(れんけつどこう),集石(しゅうせき)もだ。竪穴住居跡の形は長方形に近いのがあることや,柱穴が竪穴のなかにあるのが違うかな。」

    博士‥「そうだね。竪穴住居の造りはちょっと違うようだけど,竪穴住居と連穴土坑と集石,この三つがそろっていることが大事なんじゃ。それに,台地の縁に近くて水場が斜面を下った所にあるというのも同じじゃね。」

    文太‥「三つの物がそろっているって,何か意味があるんですか?」

    博士‥「考えてみてごらん。竪穴住居を建てるには大変な手間がかかる。まず,住居を造る場所に生えている木を切り,地面を整地して竪穴を掘る。それから木やツルを切ってきて骨組みを造り,木の枝葉や草などで覆って,やっと完成じゃ。上野原遺跡の復元住居の場合は,一棟につき大人3~4人で6日間もかかっておる。移動しながら生活していた旧石器時代のテントのような物とは,えらい違いじゃ。」

    文太‥「ふーん。今と違って石器しかなかった時代にそんな苦労をしてまで住居を建てるなんて,やっぱりそこに長く住んでいた証拠といえそうですね。」

    博士‥「そう,それにな,これらの住居は何回か建て直されてもおるようじゃ。加栗山遺跡の竪穴住居跡は17基発見されておるが,近すぎたり重なったりしている所もあれば拡張されている所もある。中には住居跡の竪穴を利用して連穴土坑が造られている所もあるぐらいじゃよ。もっとも,そうなると同時期にあった住居の数も減ってしまうがのう。5~6棟ぐらいではなかったかという説もある。」                         

    文太‥「手入れをすれば何年も住める住居が繰り返し建てられたということは,よっぽど住みやすい場所だったんだね。ムラもそれだけ長くあったということかなあ。ところで,あとの連穴土坑と集石については?」

    博士‥「そうじゃった。連穴土坑は以前に紹介されたように,燻製(くんせい)を作るための施設と考えられておる。そのままではすぐ腐ってしまう肉や魚などを長く保存できるようにする技術じゃな。これのおかげで,えものがたくさんとれたときに燻製にしておけば,食料難におちいることも少なくなり,ぐっと暮らしやすくなったことじゃろう。」

    文太‥「そうやって作った燻製は,どうやって保存しておいたのかなあ。ひょっとしたら,新巻鮭みたいに住居の中に吊しておいたのかもしれないね。いつでも食べられるし,ネズミにかじられたりカビが生えないように見張っておくことができるもん。」

    博士‥「はっはっは。案外そうかもしれんね。さて,集石の方じゃが,石蒸し料理を作る施設であることは文太君も知っておるの。」

    文太‥「はい。石をたくさん集めて火で焼いて,その熱で肉や魚などを蒸すんでしょ。上に土をかぶせるんだよね。体験学習でやったことがあるよ。」

    博士‥「そうそう。まあそれ以外に,こんな説もある。つまり,地面を掘りこんで革をしき,水を入れてから焼け石を入れれば湯沸かしもできるというんじゃな。一度に大量のお湯が必要なとき,たとえば,ドングリなどのアク抜きや食品などの加工処理に大いに役立ったことじゃろう。お湯を浴びることもできたかもしれんよ。」

    文太‥「ふーん。遺跡はいろいろなことを考えさせてくれるんだね。縄文時代の人の知恵ってすごいなあ。」
  • ■集落 [ムラ] のテリトリー■
  • 文太‥「ところで博士,竪穴住居・連穴土坑・集石の三点セットがそろったムラの遺跡よりも,どうして,その他の遺跡が多いの?」

    博士‥「それについては,こんな説があるんだよ。さっきの遺跡分布図をよく見てみると不思議なことに気がつく。それは,ムラを中心にして,その他の遺跡が周囲を取り巻いているように見えるというんじゃ。これは彼らのテリトリー[なわばり]を示しているんじゃないかとな。」

    文太‥「えーっ!それってどういうこと?」

    博士‥「つまり,こういうことじゃ。三点セットがそろったムラは彼らの根拠地であって,生活の中心であることに変わりはない。しかし,いくら条件の良い所にムラを定めたとしても,ムラの人々みんなの食糧を手に入れるためには,ムラの近くを探して回るだけでは足りなくなる。初めは良くても,しだいに人口が増え,木の実が不足し,動物たちもムラを避けるようになるじゃろう。そこで,ある程度遠くまで行かなければならなくなるという訳じゃ。そこては,テントのような仮小屋でキャンプしながら,狩りや採集に出かけ,集めた食糧をムラまで持って帰りやすいように,ある程度の加工処理をしていたんじゃなかろうか。三点セットのうち集石だけの遺跡が,かなりの数あることも,それを教えてくれているような気がするのう。もちろん一か所だけのキャンプ地ではあるまい。いくつもあったはす゜じゃ。」

    文太‥「そのテリトリーって,どの位の広さがあったの?」

    博士‥「それについては,まだ良くわかっていないんじゃ。ただ,ヒントはある。鹿児島市周辺の遺跡で見てみよう。加栗山遺跡・前原遺跡・鹿大桜ヶ丘団地遺跡,この3つの遺跡の位置関係はどうなっている?」

    文太‥「あっ,同じぐらいの距離になっている!ええと,10キロぐらいかな。」

    博士‥「ふむ,これが1つの目やすということになるの。ただ,となりのムラとの境は,川や谷・山や崖などといった自然地形の影響も大きかったろう。前原遺跡と永迫平遺跡との距離はもっと近いしのう。それに,テリトリー内の食糧資源が少なくなって,ムラを移した場合も考えられる。」

    文太‥「そうなると,たくさんの遺跡のうちどれとどれが,同じ集団の人々の残した遺跡であるか確かめないといけないね。どうすればわかるのかなあ?」

    博士‥「そのために何人もの研究者が,土器や石器などの遺物・土坑などの遺構を調べているんじゃよ。同じ型式の土器でも,作った人や集団によって全体の雰囲気や模様が微妙に違うからのう。」

    文太‥「へえー。考古学って,遺跡を掘るだけじゃなくてその後の仕事も大事なんだなあ。ぼくも,いろんな遺跡を見て回りたくなったな。」

    博士‥「鹿児島県立埋蔵文化財センターや各市町村の教育委員会に問い合わせてみてごらん。親切に教えてくれることじゃろう。」

    文太‥「はい。人類の歴史や未来について考えるいい機会になりそうですね。」
  • 永迫平ムラの想像図 1永迫平ムラの想像図 2
  • (文責)藤崎 光洋

縄文の森から 平成27年8月

平成27年8月21日(金)

体験学習館からのお知らせ♪

~縄文体験メニュー「火おこし」についてのお知らせ~

上野原縄文の森では,マイギリやモミギリという方法で,火おこし体験ができます。

 1 火おこし体験は,火をおこすことの大変さを知る体験です。
   はじめに火のおこし方を説明しますが,大人でも火をおこせないことがあります。子どもが行う場合は,必要に応じて保護者の方が補助に入るなど,親子で体験してください。
 2 団体で体験する場合は,4~5人のグループで体験していただきます。みんなで協力して火をおこしましょう。
 3 強風及び雨天時(雨上がりで地面がぬれている場合も含む)は,体験できません。

お問い合わせ 上野原縄文の森 0995-48-5701まで


平成27年8月19日(水)

おすすめ!講演会のお知らせ

考古学講座 第3回(兼かごしま県民大学連携講座第1回)
「出土品に書かれた文字からわかること」

 土器や木簡などに書かれた文字から,その地域の歴史や当時の世相を解説します。

  9月19日(土)13:30~15:00
  講 師 ラ・サール学園(中学校・高等学校)
      教諭 永山 修一氏
  場 所:かごしま県民交流センター大研修室第3(東棟4階)
  定 員:108人 要事前申込み(当日参加も可能です)
  資料代:100円
  申込み・連絡先
   上野原縄文の森 0995-48-5701まで

第1回「古の美術品」の講演風景

考古ガイダンス第6回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第6回 南九州西回り自動車道関係遺跡
  • ■発掘された26の遺跡■
  • 南九州西回り自動車道(鹿児島から川内間)建設予定地内には31の遺跡が存在します。道路建設工事に先立ち遺跡の発掘調査は平成3年から計画的に行われ,調査の結果,旧石器時代から中・近世にかけての遺構や遺物が発見され多くの成果を得ました。
  • ■縄文早期前葉の拠点集落■
  • 永迫平遺跡の全景
    永迫平遺跡の全景
    前原遺跡の縄文早期の竪穴住居跡群
    前原遺跡の縄文早期の竪穴住居跡群
  • 伊集院町永迫平遺跡は旧石器時代から近世にかけての複合遺跡です。特に縄文時代早期については目をみはるものがあります。遺構としては,竪穴住居跡(9軒 )をはじめ集石(12基) ・連穴土坑(3基)・土坑 (487基)等があります。竪穴住居跡は保存状態が良好で,周囲には住居に関連する小柱穴も多数検出されています。遺物は,前平式土器を中心に石鏃,打製・磨製石斧,台形状に加工した石皿等が出土しています。

    松元町前原遺跡では縄文時代早期の前平式土器に伴う竪穴住居跡が26軒,連穴土坑(5基),土坑(211基),集石(28基)が発見され,また水場へ続くと考えられる道跡も検出されました。これは縄文時代早期の集落構成を考える上で貴重な資料です。

    縄文時代早期前葉(約9,500年前)の薩摩半島において,広域的な広がりの中で定住生活が営まれていたことが窺えます。これらの遺跡から立地や周辺の環境・遺構や出土遺物など,霧島市上野原遺跡との共通性が見られ,これらの3つの遺跡は極めて近い関係にあると言えます。
  • ■西日本を代表する後期旧石器時代の複合遺跡■
  • 旧石器時代面の検出状況(前山遺跡)松元町前山遺跡は約25,000年前に噴出した姶良丹沢火山灰・入戸火砕流層(シラス)を境に,下層に台形石器やハンマーストーン,上層に細石器とナイフ形石器等が出土し,旧石器時代の道具の変化を知る上で貴重な遺跡です。
    仁田尾遺跡は松元町石谷字仁田尾に所在し,旧石器時代から平安時代までの複合遺跡です。特に,西日本最大級の規模を誇る細石器文化期とナイフ形文化期の遺物は,当時の様子を知る貴重な資料を提供するものです。
  • 【写真 旧石器時代面の検出状況(前山遺跡)】
  • そのほかにも薩摩火山灰層(約11,500年前)直下からは,縄文時代草創期の無文土器や石鏃も出土しています。
  • ■苗代焼最古の窯■
  • 移設展示されている堂平窯跡これまで紹介した遺跡は,今はすでになくなってしまって見ることができませんが,発見された遺構を移設して保存されている遺跡もあります。東市来町美山の堂平(どうびら)窯跡は,平成10年に調査を行いました。

    堂平窯は慶安元年(1648年)に薩摩藩の御用窯として開窯されたといわれています。窯の構造は長さが約30メートル,幅が1.2メートル,傾斜角17度の半円筒形をした単室傾斜窯です。床面は5回の造り替えをした跡が観察できます。窯の北側には平坦地があり,ここでは多くの柱穴や,石囲いの穴,素掘りの穴などが発見され,窯に伴う作業場の可能性が高いと思われます。

    出土品には薩摩焼の黒ものを主に,甕・壺・徳利・鉢や窯道具・動物形土製品等があります。白ものもわずかに焼かれていました。
  • 【写真 移設展示されている堂平窯跡】
  • 特に注目されるのは瓦(軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦の陶器瓦等)の生産であり,これらは鶴丸城及び周辺で使われたとも言われています。
    この遺跡は調査終了後,美山の陶遊館近くに移設されており,現在でもその姿を見ることができます。
  • ■時代別の住み分けが概観できる遺跡■
  • 池之頭遺跡の発掘調査風景最後にこの堂平窯跡の北側に所在する,池之頭遺跡について紹介します。
    この遺跡は東シナ海から直線距離にして約2.5キロメートルの内陸に位置し美山池北西部の標高約80から100メートルのシラス台地の尾根部にあたります。調査は,平成10年8月末から翌11年3月末まで行われました。
  • 【写真 池之頭遺跡の発掘調査風景】
  • 池之頭遺跡は地形的に大きく4つに分けられ,シラス台地の尾根部・尾根を挟む南側斜面及び北側斜面・さらに南斜面の裾にあたる平坦部から成っています。 南平坦部からは薩摩火山灰層(約11,500年前)の下にあたる通称チョコ層から旧石器時代の細石刃・細石刃核をはじめ剥片・砕片が多く出土しました。南斜面・尾根・北斜面では古墳時代の成川式土器が多量に出土しました。
  • 器種も甕形土器・壺形土器・高坏形土器・坩形土器等と多彩です。また,南平坦部から南斜面にかけては,縄文時代早期の前平式土器・吉田式土器・石坂式系土器などの土器が出土しました。さらに縄文時代中期・後期と考えられる土器片も少量ですが見られます。

    遺構は,縄文時代早期の集石(石蒸し料理の施設と考えられている)5基が検出されました。しかし,今回の発掘調査では,竪穴住居跡等は発見することはできませんでした。
    これらの遺跡全体を概観すると,旧石器時代・縄文時代・古墳時代とひとつの丘陵の中でそれぞれ住み分けをしたことがうかがわれ,同じ丘陵上での時代別の変遷を知るうえで貴重な資料であると言えます。
  • (文責)宮田 洋一

縄文の森から 平成27年7月

平成27年7月30日(木)

おすすめ!第43回企画展ワークショップのお知らせ

「何がみつかる?!
ミニチュア発掘体験」

 土の色やかたさに注目して,掘り進めよう!机の上でミニチュア発掘をして遺構(地面を掘ったりして出来た生活跡等)を見つけよう!調査カードに記入してあなたも発掘調査員だ!夏休みの自由研究にも役立ちます。

 8月の毎週日曜日 定員・各回10人先着順
 ①11:20~(受付 当日11:00~)
 ②14:30~(受付 当日14:10~) 
 *ワークショップ実施時間=各回30分程度

ミニチュア発掘中!

調査カード


平成27年7月14日(火)

上野原縄文の森第43回企画展
「新発見!かごしまの遺跡2015 ~発掘速報展~」

企画展講演会のお知らせ

第43回企画展に関連した講演会を開催します。

1 日 時
 【第1回】 平成27年 8月22日(土)13:30~15:00
 【第2回】 平成27年10月31日(土)13:30~15:00
 
2 演題・講師
 【第1回】
  ① 「渓谷に響いた近代化の水音」~金山水車跡・精錬所跡~
     県立埋蔵文化財センター 文化財主事 福永 修一 氏
  ② 「大隅半島における約5,000年前の情報・物流の拠点」~京の塚遺跡~
    (公財)埋蔵文化財調査センター 文化財専門員 三垣 恵一 氏

 【第2回】
  ① 「鈴などの出土品から見る各地との交流」~立小野堀遺跡~
    (公財)埋蔵文化財調査センター 文化財専門員 藤島 伸一郎 氏
  ② 「古墳時代の鍛冶工房のある集落遺跡」~川久保遺跡~
    (公財)埋蔵文化財調査センター 文化財専門員 岩永 勇亮 氏

3 場 所 上野原縄文の森展示館 多目的ルーム

4 対 象 どなたでも参加できます。

5 定 員 80人程度(要事前申込み)
      ※ 申込みについては,FAX送信票をご利用ください。
        FAX送信票は,ここからダウンロードできます。

6 資料代 100円
 
 ※ 講演会終了後,希望者を対象に企画展示室でギャラリートークを行います。
   (別途展示館利用料金が必要)

7 問い合わせ・申込先 
  (公財)鹿児島県文化振興財団
      上野原縄文の森
  TEL 0995-48-5701
  FAX 0995-48-5704


平成27年7月14日(火)

体験学習館に,七夕飾りを設置しました!

8月7日頃まで設置しています。おねがいごとを書いて,お星さまにお願いしよう。♬

第43回 新発見!かごしまの遺跡2015

  • 上野原縄文の森 第43回企画展
    新発見!かごしまの遺跡2015
    ~発掘速報展~
  • 開催期間:平成27年7月17日(金)~平成27年11月15日(
  •    
     ※ポスターをクリックすると,拡大して表示されます。
     
     平成26年度に発掘調査や整理作業・報告書刊行を行った遺跡を中心に,最新の情報を紹介しています。近代の貴重な(さん)(ぎょう)()(さん)として大きな話題となった金山水車跡(きんざんすいしゃあと)(たち)小野(おの)(ぼり)遺跡から出土した日本最古級の「青銅製鈴(せいどうせいすず)」など,注目される資料を展示しています。
     第43回企画展CM

      企画展の中で紹介する遺跡
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       企画展データファイル 
       ※ クリックするとダウンロードできます。
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
  • ■注目の一品~企画展展示品から~■
  • 弥生時代の鉄鏃(てつぞく)永吉天神段(ながよしてんじんだん)遺跡)
     
     永吉天神段遺跡(曽於郡大崎町)では,約2,100年前の墓から県内最古で,国内でも最も古い可能性の高い鉄鏃が出土しました。鉄鏃の型式や共伴(きょうはん)している土器から,これらの鉄鏃は弥生時代中期中葉(ちゅうよう)頃(約2,100年前)のものと考えられています。また,これらの鉄鏃は,出土位置や同時期の北部九州の例からも,副葬品(ふくそうひん)ではなく()葬者(そうしゃ)に突き刺さっていた可能性があります。これらの鉄鏃は,第43回企画展のなかで,7月17日(金)~8月14日(金)の期間限定で公開します。
      ※永吉天神段遺跡出土の弥生時代の鉄鏃の詳細については,ここからご覧いただけます。
  • ■企画展講演会■
  • 【第1回】平成27年8月22日(土) 13時30分~  ※終了しました
     演 題①「渓谷に響いた近代化の水音~金山水車跡・精錬所跡~
          ②「大隅半島における約5,000年前の情報・物流の拠点
              ~京の塚遺跡~
    【第2回】平成27年10月31日(土) 13時30分~ ※終了しました
     演 題①「鈴などの出土品から見る各地との交流~立小野堀遺跡~
          ②「古墳時代の鍛冶工房のある集落遺跡
    ~川久保遺跡~
     講 師: 県立埋蔵文化財センター職員ほか
     定 員: 80人程度(※要事前申込み)
     場 所: 縄文の森展示館多目的ルーム
     資料代: 100円
       ※ 講演会終了後,希望者を対象に,企画展示室で講師による
       ギャラリートークを行います。(別途展示館利用料金が必要)
     
  • ■企画展ギャラリートーク■
  •  企画展開催中にスタッフによる展示の解説を行います。
    【日時】 開催中の毎週土・日・祝日
           1回目 10:30~
           2回目 14:30~
               ※各回30分程度
    【会場】 企画展示室
     
                        
    「肉弾三勇士」と陽刻された飲料水ビン
    (前畑遺跡 鹿屋市)

考古ガイダンス第5回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第5回 火山灰のカタログ
  • ■最近の研究から■
  • 桐木遺跡の土層
    桐木遺跡の土層
    アカホヤ火山灰中に噴出した噴礫
    アカホヤ火山灰中に噴出した噴礫
  • 火山噴火によって噴出される火山灰や軽石,火砕流などの堆積物はテフラと呼ばれ,堆積の順序や含まれる鉱物や火山ガラスの特性,文献に残された記録や理科学的年代測定により,いつの,またどの火山の噴出物であるかを知ることができます。このような火山灰層は,遺跡や出土した遺構 ・遺物等の情報を提供してくれる重要な手がかりであり,鍵層(かぎそう)とも呼ばれています。

    1970年代以降,各地で発見されたテフラの編年的研究(テフラクロノジー)が進み,遺跡調査でも積極的にこれらの成果がとり入れられてきました。

    約2万5,000年前,鹿児島湾奥の姶良カルデラから飛散し,遠く極東ロシア近海や朝鮮半島でも確認されている姶良丹沢火山灰(AT)など,列島の広い地域で見つかるテフラは広域テフラと呼ばれ,全国各地の遺跡や出土遺物に共通の時間軸を与える重要な手がかりとなっています。
  • ■旧石器時代の巨大噴火と桜島の期限■
  • 南九州の火山と遺跡過去30万年間の巨大噴火に伴う広域テフラはおよそ17が知られていますが,約30万年前の加久籐カルデラ,約8万5,000年前の阿多カルデラなど実にその3分の1が鹿児島県内を噴出源としています。

     これまで県内で発見されている最古の人類の営みは,種Ⅳ火山灰の下から,焼けた礫が集まった礫群(れきぐん),磨石(すりいし)や敲石(たたきいし),石皿(いしざら),石斧などが発見された種子島の横峯遺跡・立切遺跡であり,約3万1,000年前とされています。

    最終氷期の最寒冷期直前,約2万5,000年前に鹿児島湾奥で大規模な火山噴火が起こりました。南九州一帯を広く覆っているシラスはこの噴火に伴う入戸火砕流(いとかさいりゅう)の堆積物です。
    この爆発で噴出した姶良丹沢火山灰(AT)は大気中に高く舞い上がり,細かい粒子が太陽の光を遮り,地球の寒冷化の要因になったとも考えられています。南九州を飲み込む火砕流を再現した指宿市のCoCo橋牟礼のシュミレーション映像は,出水市上場遺跡,松元町前山遺跡,喜入町の帖地遺跡など姶良カルデラ爆発以前に人々の生活があったことを知る者にひとしおの感慨を抱かせます。
  • 【地図 南九州の火山と遺跡】
  • 今も活動を続ける桜島を噴出源とするテフラは大正3年をP1とし,これより古いものを順にP2・P3…と呼んでいます。このうち最古と考えられているのがP17です。約2万3,000年前に噴出したとされ,財部町の耳取遺跡,末吉町の桐木遺跡ではこの直下の層から氷河期に生きた人々が使用した剥片尖頭器と呼ばれる槍先形の石器や蒸し焼きに用いた礫群が多数見つかっています。また東回り自動車道建設が進む大隈半島北部の調査では約2万1,000年前のP15,約1万6,000年前の燃島テフラとともに特徴のある石器群が出土し,後期旧石器時代の生活の移り変わりを知る手がかりとして期待されています。
  • ■縄文時代の火山噴火と環境■
  • 踊場遺跡の文明ボラ直下の畑跡
    踊場遺跡の文明ボラ直下の畑跡
    大中原遺跡のアカホヤ火山灰に埋まった炭化木
    大中原遺跡のアカホヤ火山灰に埋まった
    炭化木(根占町教育委員会提供)
  • 最終氷期以降,激しい寒暖の変化が繰り返される頃,約1万1,000年前に桜島の北岳から噴出したのがP14(通称サツマ火山灰)です。鹿児島県内では,このサツマ火山灰の下から加世田市の栫ノ原遺跡,鹿児島市の掃除山遺跡をはじめ全国的には希少な縄文時代草創期の遺跡が数多く見つかっています。

    サツマ火山灰の降灰後,前平式土器などに代表される貝殻文円筒土器の時代を迎え,森林環境に適応した生活が発達します。鹿児島市加栗山遺跡,松元町前原遺跡など縄文時代早期前葉を代表する遺跡では,このサツマ火山灰に掘り込まれた竪穴住居の跡が発見されています。霧島市上野原遺跡では,竪穴住居の跡にP13が堆積していることから,約9,500年前に住居が埋まったことが解り,遺跡の年代を推定する有力な証拠を得ることができました。

    その後,南九州では壺形の土器や土製の耳飾とされる耳栓(じせん)などをもつ縄文時代早期の文化が育まれました。7,500年前のP11やその直下に見られる蒲生町の米丸マールから噴出した米丸スコリアは,このような南九州の縄文時代早期の後葉を知る大きな手がかりとなることが期待されています。

    約6,000年前,氷河期以降の温暖化はピークに達します。過去1万年間で地球上最大規模の火山噴火とされる約6,300年前の鬼界カルデラの噴火は,アカホヤ火山灰を列島の広い地域に降り積もらせました。鹿児島県南部を襲った幸屋火砕流は植生や自然環境を大きく変えたともいわれ,根占町大中原遺跡では火砕流に埋もれた炭化木が発見されました。

    また噴火に伴う地震の振動で柔軟化した水と混ざった地中の砂や礫が地表に噴出す液状化現象が吾平町原口岡遺跡で見つかっています。カルデラに近い種子島などで見られるアカホヤ火山灰中に噴出した噴礫もこのような液状化現象によるとされています。

    縄文時代にはこの他,約5,500年前の池田カルデラの爆発による池田降下軽石,縄文時代中期,霧島に起源する約4,200年前の御池軽石,縄文時代後期,開聞岳の最初期の噴火とされる4,000年前の黄ゴラなど,範囲は限られるものの,地域文化の変遷を知る上で欠くことのできないテフラです。
  • ■弥生時代以降の火山噴火と災害■
  • 指宿市の新番所後2遺跡では灰ゴラの下から縄文土器が,上からは弥生土器が出土しました。灰ゴラは約2,000年前の開聞岳の爆発に起源するとされます。以後開聞岳は弥生時代から平安時代にかけて,数度の爆発を起こし,鹿児島県南部を中心に火山灰が見つかっています。大根占町の山ノ口遺跡では暗紫ゴラが弥生時代の山ノ口式土器に覆い被さった状態で見つかりました。

    指宿市の橋牟礼川遺跡では古墳時代終末の7世紀後半と平安時代の貞観16年(西暦874年)に被災した集落跡の家屋や畑,道,集落を襲った泥流などが発見され,当時の人々の生活,噴火による災害発生の過程が明らかにされました。福山町藤兵衛坂段遺跡,財部町踊場遺跡では文明年間の1471年頃に桜島から噴出した文明ボラと呼ばれる黄色の軽石層の下から噴火によって放棄された畠跡が見つかっています。火山灰に埋もれた遺跡は,災害を乗り越え力強く生き抜いてきた人々の末裔である私達に,いま歴史の真実を静かに語りかけています。
  • 用語解説
  • 米丸マール(よねまる) 蒲生町米丸に所在し,約7,500年前噴火した小規模の噴火口である。
  • (文責)中原 一成

縄文の森から 平成27年6月

平成27年6月25日(木)

体験エリア「古代池」の(おお)()ハスが咲きました!!

大賀ハスとは?
 古代池の大賀ハスは,落合(おちあい)遺跡(千葉県)で発掘された,今から2,000年以上前の古代のハスの実を植物学者である大賀一郎博士が発芽・開花に成功させたハスです。

考古ガイダンス第4回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第4回 縄文中期の様相
  • ■豊かな森とともに■
  • 阿高式土器が出土する遺跡火炎土器(かえんどき)と呼ばれ,北陸地方に分布する馬高(うまたか)式土器や,関東から中部地方に分布する勝坂(かつさか)式土器に代表されるような立体的で造形的な土器の一群は,縄文時代中期のものです。そしてこれらの土器は中期だけでなく縄文時代を代表する土器としてもしばしば取上げられます。

    およそ1万年以上も続いた縄文時代は,草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6時期に分けられ,中期は今からおよそ5,000年~4,000年前にあたります。
    この時期は気候的にも安定しており,人々は豊富な自然の恵みの中で生活していたといわれています。安定した自然環境の中で豊かな森とともに暮らし,植物質の食料を多く利用していました。
  • 【地図 阿高式土器が出土する遺跡】
  • このことは,植物を採取するための打製石斧(だせいせきふ)や植物を加工するための石皿(いしざら)・磨石(すりいし)・敲石(たたきいし)などの生産用具が多く出土することことからも容易に想像されます。
  • ただし,この豊かな森の恵みは人間だけのものではなく,イノシシやシカなどの動物にとっても同じであり,人々はこれらの動物も食料としていました。
     
    長野県などの遺跡では,炭化したパン状やクッキー状のものが出土しており,これらの成分を分析した結果,木の実・動物の肉・鳥の卵などを混ぜて作っていたことがわかっています。
    植物質の食料は,その種類や量の豊富さ,あるいは利用効率のよさなどから,縄文時代を通して,人々の最も安定した食料資源でした。このような食料が安定して供給されるようになってきたため,中期は東日本を中心に縄文時代の中でも繁栄のピークを迎え,遺跡の数もほかの時期に比べて圧倒的に多くなります。
  • ■中期の土器■
  • 阿高式土器(横川町中尾田遺跡)この時期の九州の状況をみると,東日本に比べて遺跡の数や集落遺跡は極端に少ないです。この中にあって九州の中期を代表する土器とされるのが,熊本県城南町の阿高(あだか)貝塚出土の土器を標式とする阿高式土器です。九州の中期と言えばすぐ阿高式土器と型式名が出てくるくらい,九州の中期を代表する土器として,その位置付けは確立されています。

    阿高式土器は,太形凹線文(ふとがたおうせんもん)と呼ばれる,曲線や直線を組み合わせた文様を,指先状のもので土器の上半部を中心に描いているものが多く,中には器全体に文様を描くものもあります。器形は深鉢が多く,まれに浅鉢がみられます。
  • 【写真 阿高式土器(横川町中尾田遺跡】
  • また,この阿高式土器の太形凹線文の間に押引文(おしびきもん)や,ヘラ状のものによる細い沈線文(ちんせんもん)を施す土器もあります。大口市の並木(なみき)遺跡から出土した土器を標式とする並木式土器です。この並木式土器と阿高式土器の前後関係は,その文様の構成や,いくつかの遺跡での層位的な上下関係から,並木式が古く,その次に阿高式土器が位置付けられています。そして,凹線文あるいは沈線文を施す阿高式系土器として後期初めまで続くことになります。
  • ■人と物の行き来■
  • 土器の底部の文様阿高式土器の特徴のひとつとして,土器の平らな底の外側に細かい凹凸がみられるものがあります。これは土器を作るときに回転台として鯨の背骨を利用し,そのときに鯨の背骨の跡がついたものです。その背骨の直径は15センチメートル以上と考えられるような大きなものもあり,大型の鯨のものであったことが想像されます。このような土器の底部は九州の西側部分に多く,東九州にはほとんど見られません。
     【写真 土器の底部の文様】
    (下:鯨の背骨の文様,左上:木の葉の文様,右上:編物の文様)
  • なお,阿高式土器を出土する遺跡は海岸部に多く,貝塚を形成する遺跡も多くあります。海とかなり慣れ親しんだ人々であったのかも知れません。しかし,鯨の背骨の跡がついた土器の底部は海岸から離れた山間部の遺跡からも出土している例もあります。
  • 阿高式土器のもうひとつの特徴として,胎土(粘土)の中に滑石(かっせき)というやわらかい石の粉を混ぜているものが多いことが上げられます。これは阿高式土器の直前の土器である並木式土器にも見られる特徴です。九州ではほかに滑石を混入する土器として,縄文前期の曽畑(そばた)式土器がよく知られています。このことは,以前は曽畑式土器に後続するのに並木式土器が位置付けられていましたが,現在ではその間にほかの形式の土器が入るとみられています。

    滑石は九州では長崎県の一部の地域でしか産出しません。滑石を含んだ土器の一群が九州一円に分布しているということや,鯨の背骨が山間部の遺跡まで分布していること,次に述べるように,瀬戸内地方の土器が南九州まで分布していることとも考え合わせると,当時もかなりの範囲で人の行き来があったことが想像されます。現代のわれわれが考える以上に,直接的あるいは間接的に交流があったのかも知れません。
  • ■最近の研究から■
  • 並木式土器阿高式土器【左 並木式土器(横川町中尾田遺跡)】
    ・上が太形凹線文と押引文
    ・下はヘラ描沈線文

    【右 阿高式土器(福山町一本松遺跡)】
    ※福山町教育委員会所蔵

  • 阿高式土器が成立するまでの九州の土器文化についてみてみますと,南九州を中心に出土する春日(かすが)式土器は前期に位置付けられていました。春日式土器は胴部ですぼまり,口縁部に向けて広がりながら口縁端部でまたすぼまる,という形です。これは,瀬戸内地方に分布の中心を持つ船元(ふなもと)式土器と同じような形であり,以前からその関係が指摘されていました。また,最近の調査成果やその研究では,春日式土器の中には船元式土器の中の一部とほぼ同時期のものがあり,その次に並木式や阿高式がくるということです。これにより,中期の初めから中頃に位置付けられていた並木式土器と阿高式土は後半以降の時期になる可能性も考えられています。阿高式土器は並木式土器の次にくることは間違いないものと思われますが,並木式土器の系統や発生については今後研究しなければならない問題です。

    現在のところ,鹿児島県では中期の遺跡は少なく,一つの遺跡においても多量の遺物が出土する例は極端に少ないです。このことは東日本の状況と比べて対照的です。これらの要因については,今後の調査例の増加や研究の進展に期待したいと思います。
  • (文責)井ノ上 秀文

縄文の森から 平成27年5月

平成27年5月27日(水)

常設展示室の河口コレクションコーナーをリニューアルしました。

河口コレクションのうち
「山ノ口遺跡」
肝属郡錦江(きもつきぐんきんこう)町)の出土資料

常設展示室で,長年,鹿児島県の考古学界をリードしてきた考古学者,河口貞徳(かわぐちさだのり)氏(1909~2011)が調査した遺跡の考古資料等を紹介しています。
 今回紹介するのは,肝属郡錦江町にある山ノ口遺跡の出土品です。
 山ノ口遺跡は昭和30年代に砂鉄採集のため発見された遺跡で,軽石を円形に並べた遺構が10か所ほど発見されました。また,出土した土器は完形品が多く,多彩な軽石の加工品なども出土しました。
 土器は弥生時代中期後半(約2,100年前)の時期のもので,河口氏によって「山ノ口式土器」として型式(けいしき)設定されました。 
 本年4月,これら完形品の土器や,軽石製の人形(岩偶(がんぐう))・家形の加工品,()製石鏃(せいせきぞく)など計146点が貴重な考古資料として県の有形文化財に指定されました。

展示の様子


平成27年5月20日(水)

発見!国内最南端出土!

最古型青銅製鈴(さいこがたせいどうせいすず)
立小野堀遺跡(鹿屋市串良町細山田)

展示風景1
 日本最古型を含め,立小野堀遺跡で出土し た10点の青銅製鈴を展示しています。

展示風景2
タッチパネルを使って実際に鈴の音色を聞くことができます。

場     所:縄文の森(展示館利用料金が必要となります)
期     間:平成27年5月16日(土)~平成27年5月31日(日)
        ※ 終了しました
展示館利用料金:大   人 310円
        高・大学生 240円
        小・中学生 150円


平成27年5月11日(月)

※ 終了しました

  ミニ企画展「地層が語る鹿児島の歴史
~見る・聞く・触る ジオの日~」

 日本ジオパーク認定の霧島連山を遠くにながめる上野原。地質の日に合わせ,鹿児島の歴史を地層剥ぎ取り資料や写真パネル等で紹介します。

【場所】展示館ホール

*観覧無料

永磯遺跡の落とし穴状遺構

考古ガイダンス第3回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第3回 実験考古学が私たちに伝えるもの
  • ■実験考古学とは・・・■
  • 集石(上野原遺跡)発掘調査は土の中に眠っている土器や住居跡等様々な情報を掘り起こし,その情報を基にして各時代の様相を明らかにしていこうとするものです。
    しかし,土の中に眠っている情報は限られています。情報化社会といわれる現代は,急速なパソコンの普及とともにインターネットで誰でも身近に様々な情報が瞬時に得られ,一つのキーワードに対して数多くの情報が得られる社会です。それに比べて土の中から得られる情報は形に残るものが中心で,ごく僅かです。
  • 【写真 集石(上野原遺跡)】
  • 各時代の様相を明らかにしていくためには,この僅かな情報を大事にし多角的に比較検討していかなければなりません。その検討方法の一つが実験考古学です。
  • 実験考古学は,発掘調査で出土した遺物や遺構の持つ性質を探るためにその遺物や遺構の制作方法や使用方法を復元し,それらを使用したときの効果や有効性を確かめたり,ある考古学上の考え方や仮説に対しその考え方や仮説が正しいかどうかを確かめるために行われるものです
  • 復元した連穴土坑(上野原遺跡)たとえば,貝塚などでシカの角でできた釣り針が出土することがあるが,シカの角は石器を加工するときに使われるほど硬いものです。
    この硬いシカ角製の釣り針をどんな方法で作ったかを調べるために,当時可能な方法で作り,使用実験をして漁具としての有効性を確かめた例があります。
    また復元された住居に火をつけ,消失した柱の倒れ方や生活道具の状態を記録し,実際に発掘で調査された住居と比較検討することも試みられています。
  • 【写真 復元した連穴土坑(上野原遺跡)】
  • このように実験考古学は,遺物や遺構から得られた目に見える情報から目に見えない行動や時間等を想定し当時の生活を復元することで,遠い昔のことを身近なものにするのです。
  • ■竪穴住居の復元■
  • 上野原遺跡の竪穴住居復元発掘調査の醍醐味の一つに住居跡の発見があります。住居跡からは,当時の生活を知るための様々な情報が得られるからです。平成9年5月には,上野原遺跡で約9,500年前の住居跡が52軒発見され話題になりましたが,鹿児島県内の縄文時代における竪穴住居跡の発見数は,平成12年2月現在71遺跡・395例にものぼります。
    竪穴住居は,地面に掘り込んだ竪穴の上に上屋を覆って家を建てる住居です。発掘の際,上屋の部分は発見されることはほとんどありません。(低湿地の遺跡や消失し炭化した柱が残る場合もある)
  • 【写真 上野原遺跡の竪穴住居復元】
  • しかし,地面に掘り込まれた竪穴・柱穴・炉跡等を詳しく調べることで,柱の太さや深さ・角度・数等によって上屋の大きさや形を想定することができます。 
  • また柱等の材質については,どのような材質のものが使われた可能性が強いかを土壌を分析することによって調べることができます。更に上屋の構造については,世界各地の民俗例や土器・埴輪等に描かれた家の形から想定することができます。このように,多角的な分析をすることによりより正確な住居の復元が可能になります。

    住居を復元した例は数多くありますが,居住性についても調べた例もあります。鹿屋市の前畑遺跡では,弥生時代の竪穴住居跡3軒と掘立柱建物跡8軒が発見されましたが,昭和63年夏にここで弥生時代の復元住居を建てています。復元には発掘調査で発見された竪穴住居を基に実測図によって竪穴の深さや柱の数を決定し,より正確な復元を行っていきました。完成後何回かに分けて寝泊まりを繰り返し,室内外の湿温の違いや火を焚いた場合の一酸化炭素や灰じんの割合を調査しました。その結果一酸化炭素の割合が0.001%以下,灰じんも一番多いときで1立方メートル当たり0.35mgで,人体には問題ないことがわかりました。これは発掘調査ではわからない,目に見えない「過ごし易さ」という感覚を実験によって明らかにしようとした試みです。
  • ■集石と連穴土坑■
  • 石蒸し調理(イメージ図)集石
    石をたくさん集めて焼き,その中に肉などを入れた昔の調理場です。

    ビストロ縄文集石・石焼きレシピ
    1. 魚・肉などの食材を大きな葉で包む
    2. 焼けた石の中に入れる
    3. 上から土をかぶせる
    ※料理の前に,まず火で石を焼きます。                 
    次に火を消して焼き石だけにしたうえで料理を始めます。
  • 縄文時代の遺跡では,大小多くの石が意図的に集められた「集石」という遺構が数多く発見されています。集められた石に焼けた痕があることや炭が発見されることから,石を焼いて蒸し焼きをした施設ではないかと考えられています。また縄文時代早期を中心に,大小二つの穴がトンネルで繋がった「連穴土坑」という遺構が見つかっています。トンネルの下の土が赤く焼けている場合があることから,火を使用したことが考えられます。また加世田市の栫ノ原遺跡では,動物の脂肪酸が検出されています。これらのことからこの施設は燻製を作るものであったと考えることができます。
  • 連穴土抗による調理。(イメージ図)連穴土坑

    大小2つの穴をトンネルでつなぎ大きな穴のほうをたいて,小さな穴の上に肉をつるし,煙でいぶして薫製を作る施設です。
  • この二つの遺構は上野原遺跡の中で復元遺構として使われ,体験活動のひとつとして活用されています。集石では,集めた石の上で火を焚き,熱く焼けた石の上に食材を入れ,土でパックして蒸し焼き料理を作っていました。これまでの活動から,石を焼く時間や蒸す時間など天気や食材に応じて様々な対応が可能であることがわかってきています

    また連穴土坑を使った調理では,鶏肉まるごと一羽の場合約5時間から10時間も燻せば完全に脂が抜け,見事な燻製ができることがわかりました。燻製という保存食ができるということは,食生活にとって重要な問題です。縄文時代の人々も私達現代人と同じように焼くという調理だけでなく,土器で煮たり,集石で蒸したり,連穴土坑で燻すといういろいろな調理方法を知っていたことが想像できるのです。
  • ■実験考古学を生かす体験活動■
  • われら縄文探検隊体験活動には,実験考古学によって得られた様々な情報が生かされています。遺跡から発見された遺物や遺構を基にすることと,実験考古学で得られたデータを数多く収集することで,遠い昔の生活により近づくことができます。また,このように確かな裏付けがあるからこそ,古代の生活体験が楽しく有意義なものになると思います。
  • 【写真 われら縄文探検隊】
  • (文責)森田 郁朗