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カテゴリー: 推しの逸品

これまでの発掘調査や整理作業で発見・掲載した遺物や遺構の中から,「これは」という「推しの逸品」を担当職員が紹介します。

弥生時代の墓~周溝墓~(永吉天神段遺跡:大崎町)

弥生時代中期(約2,200~2,000年前)の墓です。墓穴の周囲に溝をめぐらせています。

墓穴の部分は2段掘りの構造で,1段目は隅丸長方形で浅くて広いです。2段目は平面が長方形で,狭くて深いです。まわりの溝の規模は,8.6×8.2m(平均底幅104㎝)です。

遺跡では,弥生時代の墓が25基ほど発見されていますが,この周溝墓4号は位置や規模から,それらの中心的な墓の可能性があります。

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第3分冊)
https://www.jomon-no-mori.jp/wp-content/uploads/2020/04/H46001-3-0027-3.pdf

石切場跡(虎居城跡:さつま町)

虎居城跡では石切場の跡が3か所発見されました。

約11万年前の加久藤火砕流堆積物である溶結凝灰岩を,縦方向に階段状に切り出しています。

石を割るためのくさび「矢」の痕跡も明瞭に残されています。城跡からこの石材を使った石製品が出土していないことから,切り出された石は,川内川から運ばれ,別の場所で製品化されたものと考えられています。

城の時期でなく,18~20世紀前半ぐらいに石切場として,活用されていたようです。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(162)「虎居城跡」
 https://www.jomon-no-mori.jp/old/pdf_data/H46001-2-0162.pdf

石切場

矢の痕跡

 

ナスビ形の鍬(南下遺跡:南さつま市)

南下遺跡からは,古墳時代(3~5世紀ぐらい)の木製の鍬と柄が出土しています。

鍬はナスビ形といわれ,直に柄に鍬の刃を装着できるようにしています。平鍬と二叉が出土しています。境川対岸の中津野遺跡からは,弥生時代の鍬が出土しています。

昔からこの地域は,米作りが盛んだったのでしょうか?

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(157)「南下遺跡」
https://www.jomon-no-mori.jp/old/pdf_data/H46001-2-0157.pdf

色々な痕が残る土器の底(中津野遺跡:南さつま市)

縄文時代後期(約4,000年前)の土器の底です。土器製作時に底に敷いた物の痕跡です。

1795は,植物を編んだ網代編み(網代底),1817は葉っぱの圧痕が残る底部で,オオタニワタリの葉を利用していることが判明しています。

1828は底面の周縁部にごく小さなくぼみがまとまって見られるもので,クジラの脊椎骨の痕の可能性があります。

色々な敷物を使い土器を製作していたようすがわかると共に,当時の編物の技術も知ることができます。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(217)「中津野遺跡 低地部・低湿地部編」第1分冊
https://www.jomon-no-mori.jp/wp-content/uploads/2022/04/H46001-2-0217-1.pdf
第3分冊

弥生時代の鍬や鋤(中津野遺跡:南さつま市)

中津野遺跡では,弥生時代(約2,500~2,200年前)の鋤(すき)や鍬(くわ)などの木製品が出土しました。

木の種類は,874・875はイスノキ,869・870・871・872はコナラ属アカガシ亜属との分析結果が出ています。どちらの木も,木刀などに使用される非常に固い材質です。

石包丁も出土していることから,稲作を行っていたと考えられます。超早場米の産地南さつま市金峰町では,弥生時代から米作りをしていたことがわかりました。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(217)「中津野遺跡 低地部・低湿地部編」第1分冊
https://www.jomon-no-mori.jp/wp-content/uploads/2022/04/H46001-2-0217-1.pdf
第3分冊

 

虎居城跡の石塔(虎居城跡:さつま町)

虎居城跡に,「八女壇(やめだん)」と呼ばれる曲輪があります。

長禄3年(1459年)に城主渋谷氏の息女が船遊びをしていたところ溺れてしまい,付き添いの女中7人とともに亡くなって,場内にあった寺に葬ったという事件があったそうです。「八女壇」の由来も,この事件から来ているようです。

その曲輪に,現在は崩れていますが,石塔があります。石塔には,「宝徳二年 義先仁公座□ 二月 二十二□」と記銘があります。

年代は近いですが,伝承との関わりは現在のところ不明です。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(197)「虎居城跡」

おびただしい柱穴(虎居城跡:さつま町)

虎居城跡の「塩の城(しおのじょう)」と呼ばれる曲輪では,柱跡と思われる穴が2,000基あまり見つかっています。

これらは長い年月をかけて,建物の建て直しが何度も行われたためと考えられます。

発掘調査・整理作業において,その穴から,穴の大きさや深さ,並んだ向きや間隔,礎石(柱を支えるため穴の底においた石)の有無を手掛かりにして,掘立柱建物跡8軒(うち礎石を持つ建物跡は4軒)が判明しました。

発掘調査では,このように柱穴から建物跡を想定しなければなりません。この数の柱穴を調べた担当者の苦労が偲ばれます。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(162)「虎居城跡」

柱穴

塩の城の位置

 

虎?(虎居城跡:さつま町)

虎居城跡は,三方を川内川が取り巻き,川が堀の役割を果たす天然の要塞です。

大前氏(おおくまし)により康治年間(1142 年頃)に築城され,その後,約300年間祁答院渋谷氏の居城であったと考えられています。

「宮之城記」によれば,虎居城の謂われは,「昔,大前氏は虎に臥した形にこの城を執り始めた。よって虎居城と号していた」と記されています。

虎居城上空俯瞰写真 出典:国土地理院ウェブサイト・平成26年撮影

虎居城跡範囲図

空撮(平成20年撮影)

 

「青銅製の武器」(下鶴遺跡:伊佐市大口)

弥生時代の土坑の中から,青銅で作られた武器「銅戈(どうか)」の先端部分が見つかりました。長さ8センチ,幅3.3センチ,重さ39.7グラムあります。

銅戈は中国から伝来し,木製の柄の先に取り付けて使われる武器ですが,国内では祭祀に使われた可能性もあります。

銅戈

実測図

墓と思われる土坑から出土しました

出土状況

連穴土坑に据えられていた土器(髙吉B遺跡:志布志市)

連穴土坑は,縄文時代のくん製を作る調理施設と考えられています。その連穴土坑に土器が据えられていました。

土器は,底はなく,直線的に切られています。連穴土坑や土器を廃棄するときの儀礼でしょうか? トンネル部分の崩落防止策でしょうか? くん製を作る時に,食材に火がつかないように土器で火力を弱めたのでしょうか?

3つの可能性が考えられています。

連穴土坑で見つかりました

連穴土坑に据えられていた縄文時代の土器(約10,000年前)

実測図