虎居城跡の石塔(虎居城跡:さつま町)
虎居城跡に,「八女壇(やめだん)」と呼ばれる曲輪があります。
長禄3年(1459年)に城主渋谷氏の息女が船遊びをしていたところ溺れてしまい,付き添いの女中7人とともに亡くなって,場内にあった寺に葬ったという事件があったそうです。「八女壇」の由来も,この事件から来ているようです。
その曲輪に,現在は崩れていますが,石塔があります。石塔には,「宝徳二年 義先仁公座□ 二月 二十二□」と記銘があります。
年代は近いですが,伝承との関わりは現在のところ不明です。
おびただしい柱穴(虎居城跡:さつま町)
虎居城跡の「塩の城(しおのじょう)」と呼ばれる曲輪では,柱跡と思われる穴が2,000基あまり見つかっています。
これらは長い年月をかけて,建物の建て直しが何度も行われたためと考えられます。
発掘調査・整理作業において,その穴から,穴の大きさや深さ,並んだ向きや間隔,礎石(柱を支えるため穴の底においた石)の有無を手掛かりにして,掘立柱建物跡8軒(うち礎石を持つ建物跡は4軒)が判明しました。
発掘調査では,このように柱穴から建物跡を想定しなければなりません。この数の柱穴を調べた担当者の苦労が偲ばれます。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(162)「虎居城跡」
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虎?(虎居城跡:さつま町)
「青銅製の武器」(下鶴遺跡:伊佐市大口)
連穴土坑に据えられていた土器(髙吉B遺跡:志布志市)
特異な土器の出土状況(髙吉B遺跡:志布志市)
梵字(ぼんじ)が刻まれた中世の板碑(いたび)(本御内(もとおさと)遺跡:霧島市)
本御内遺跡は,大隅国分寺跡や国分新城(舞鶴城)跡を含む,縄文時代から近世までの複合遺跡です。
平成29年度の発掘調査では,弥生時代から古代にかけての遺物が大量に出土しました。また,中世では県内初の出土となる,溝や土塁で防御を固めた屋敷跡も見つかりました。
その中世の溝跡から,「板碑(仏教で使われた供養塔)」が見つかりました。溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)製で,高さ約61cm,幅約23cm,重さ約13kgあります。
表面には仏様を表す梵字が彫り込まれています。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(199)「本御内遺跡」
推しの逸品「木樋(もくひ)」(虎居城跡:さつま町)
虎居城跡は,さつま町にある中世の山城跡です。平成20・21年度の調査では,土塁や巨大な空堀,虎口,掘立柱建物跡,溝状遺構等の遺構や,陶磁器,木製品,金属製品等の様々な遺物が出土し,中世山城の歴史を知る上で貴重な資料を得ることが出来ました。
また,溝状遺構の中から,写真のような木樋(木製の水道管)も見つかりました。長さ約260cm,幅約40cm,高さ約25cmで,U字型の断面をしています。1本の木をくり抜き作られており,溝に沿うように内部に置かれていました。その上部には50cm程度の木を多数横置きし,さらにその上にスギの葉を覆い被せていました。
山城での人々の生活を支えていたのでしょうか。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(162)「虎居城跡」
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蝶ネクタイ状の文様?(髙吉B遺跡:志布志市)
弥生時代中期(約2,000年前)の土器の縁に,蝶ネクタイ状の文様が刻まれています。
土器を焼く前に付けたものだと考えられます。
単なる記号なのでしょうか? ひょっとして文字なのでしょうか?
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(180)「船迫遺跡・高吉B遺跡」
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「1号,2号,そして3号」(鹿児島(鶴丸)城跡:鹿児島市)
平成27年1月から平成31年2月までに行われた鹿児島城跡の発掘調査では,軒丸(のきまる)瓦,軒平(のきひら)瓦,軒桟(のきさん)瓦,鯱(しゃち)瓦,鬼(おに)瓦,海鼠(なまこ)瓦など多くの種類の瓦が見つかりました。
中でも鬼瓦は調査段階で見つかった順に,「1号」,「2号」,「3号」と呼ばれていました。それぞれ特徴のある顔つきをしています。
これらの中から「1号」のデザインが,復元された御楼門に採用されています。
みなさんは,何号がお気に入りですか?
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(205)「鹿児島(鶴丸)城跡」
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