鹿児島県上野原縄文の森 (公財) 鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター (公財) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター
MENU

鹿児島県上野原縄文の森

鹿児島県上野原縄文の森 HOME 公財 鹿児島県文化振興財団鹿児島県上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター 公財 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター

カテゴリー: 縄文の森

考古ガイダンス第37回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第37回 縄文のジャンクション
  • ■高まる定住論議■
  • 加治木ジャンクション 遺跡図1
    加治木ジャンクション 遺跡図3加治木ジャンクション 遺跡図4
  • 鹿児島湾奥に位置する加治木町の平野部に,平成14年に「加治木ジャンクション」が完成しました。九州縦貫自動車道と東九州自動車道,隼人道路との連結部となるこの「加治木ジャンクション」の建設地は,実は「縄文のジャンクション」でもあったのです。
  • ■干迫遺跡の発見■
  • 干迫遺跡平成3年から4年にかけて,この「加治木ジャンクション」の建設予定地の発掘調査が行われました。干迫(ほしざこ)遺跡,これがこの地に与えられた遺跡の名前です。

    標高約10~12メートルの微高地にあるこの遺跡の発掘調査は,低地であるということと,今日まで水田として使用されていた場所であったことから,湧(わ)き出る水との闘いでもありました。
  • それに加えて,いやそれにも増して大量の土器・石器が出土したため,それらをどのような発掘方法で調査・記録していったらいいかという課題を常にかかえながらの,まさに格闘の日々でした。

    このように大量の遺物が出土したことは,そのまま大量の情報が出土したということを意味します。縄文時代早期から江戸時代まで多くの遺構・遺物が発見された干迫遺跡ですが,ここでは,最も多くの情報が得られた縄文時代後期中ごろ(今から約3,500年前)の様子について紹介したいと思います。
  • ■市来式土器の文化■
  • 市来式土器のいろいろ約3,500年前の南九州は,市来式土器と呼ばれる土器に代表される,文様や器面の仕上げに貝殻を用いた土器が流行した時期でした。

    この時期には,鹿児島市の草野貝塚や垂水市の柊原(くぬぎばる)貝塚などのような,南九州では数少ない貝塚が残されたことでも知られています。
    また,市来式土器は南九州を中心としながら,北は四国の東南部や長崎の五島列島,南は沖縄本島でも出土しており,その交流圏の広さは古くから話題となってきました。
  • 【写真 市来式土器のいろいろ】
  • 干迫遺跡で出土した中九系州土器この市来式土器が干迫遺跡では大量に出土しました。さらにそれと共に,様々な地域の土器が多量に出土したのです。つまり,南九州で市来式土器が盛んに使用されていたころ,九州の西北部や中部あるいは北部で流行していた土器も一緒に,しかも多量に出土したのです。


    【写真 干迫遺跡で出土した中九州系土器】
  • このことは,何を物語っているのでしょうか。主に煮炊(にた)きに使用されたと考えられる縄文土器ですが,様々な地域の土器が出土したことにより,その地が様々な地域と交流していた場所であった可能性を伝えてくれるのです。つまり,「縄文のジャンクション」的な干迫遺跡の様子が浮かび上がってくるのです。
  • ■朱(あか)い土器の謎■
  • 水銀朱を塗られた注口土器「朱(あか)い土器が出た!」湧き出る水と闘いながら調査していた猛暑のある日,作業員の誰かがそう叫びました。あわてて駆(か)け寄ってみると,「何だこれは?」それは形も文様も,そして表面に塗(ぬ)られた朱の色も初めて目にするものでした。
    実はこれこそ干迫遺跡における交流の証(あかし)を伝えてくれる最も重要な遺物でした。それは注口土器(ちゅうこうどき)と呼ばれる急須型の土器で,その形や文様から,関東地方の影響を受けて近畿地方およびその周辺地域で作られたと考えられる土器であることがわかりました。
  • 【写真 水銀朱を塗られた注口土器】
  • さらに表面に塗られた朱色の原料は水銀朱と呼ばれる特殊な鉱物で,当時のものとしては極めて珍しいものであることもわかりました。どのような経路でここ干迫の地までたどり着いたのでしょうか。そこには様々なドラマがあったと考えられ,興味は尽きません。
  • ■時を超えたランドマーク■
  • 蔵王岳の勇姿(手前が干迫遺跡)あわただしく進んだ干迫遺跡の発掘調査を,雨の日も晴れの日も見守ってくれていた「存在」がありました。それは加治木を訪れた人なら誰もが目にしたことがある山,蔵王岳(ざおうだけ)です。

    標高112メートル,安山岩が主体をなす奇峰です。いろいろな方向から眺めることのできる蔵王岳こそ,数千年間多くの人々に絶大なる存在感を示し続けてきた,この地のランドマークだったのでしょう。

    その蔵王岳の麓に現代を象徴する車社会のジャンクションが建設されようとしていることは,干迫の地に時を超えて与えられた宿命的なものを感じざるを得ません。
  • 【写真 蔵王岳の勇姿(手前が干迫遺跡)】
  • 高速道路のジャンクションは「ひと・もの・情報」のそれでもあります。蔵王岳はそのジャンクションを,そして21世紀という新しい時代をこれからも見守り続けてくれるでしょう。
  • 用語解説
  • ジャンクション 接合。結合点。合流点・高速道路の合流点。
    ランドマーク 土地や場所の目印や象徴となっている建造物,歴史的建築物など。
  • (文責)前迫 亮一

考古ガイダンス第36回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第36回 定住のきざし
  • ■高まる定住論議■
  • 上野原遺跡から出土した土器霧島市上野原遺跡では,竪穴住居跡52基,集石遺構39基,連穴土坑16基,その他約260基の土坑が発見されました。また,竪穴住居跡の中から,約10,600年前の火山灰が見つかったことで,この遺跡は今から約10,600年前の定住集落であるとし,鹿児島県は平成9年,上野原遺跡を「約10,600年前の,国内では最古・最大級の定住した集落である」と各種報道機関を介して一斉に公表しました。
    加えて,これを機会に保存キャンペーンを展開,平成11年の国指定史跡の指定と共に,「定住生活」がマスコミや県民にも語られるようになりました。
    学問的探求と共に県民の興味関心も加わり,最近ではさらに遡って定住化のルーツを求める傾向も見られます。
  • 【写真 上野原遺跡から出土した土器】
  • ■遊動生活から拠点生活に■
  • これまでに紹介した遺跡の概要を再確認してみます。

    種子島は約3万年以前から既に照葉樹林が分布し,氷河期でも暖かったことが土壌分析や花粉分析等から知られています。南種子町横峯C遺跡からは「日本最古の礫群」が発見され,中種子町立切遺跡からは「最古の生活跡」を示す,礫群・土坑・ファイヤーピットが発見されています。遺構の状況から,狩猟の途中で立ち寄った遺跡とも考えられますが,石器からはむしろ植物食中心のライフスタイルを色濃く感じることができます。

    約3万年以降姶良カルデラが大噴火(約29,000年前)するまでの間については,近年少しずつ明らかになりつつあります。徳之島の天城遺跡は3万年に最も近い様相が見られ,狩猟目的の石器が作られていました。ここの石器は台形様石器と呼ばれ,同様の石器をもつ遺跡が日本列島に30か所程発見されています。このことは,食料を求めて列島から徳之島まで南下したハンターがいた可能性を表しています。

    姶良カルデラ爆発の直前の様子が見られる松元町前山遺跡・喜入町帖地遺跡・出水市上場遺跡からは,やはり狩猟中心の石器が多数発見されており,狩りで立ち寄った痕跡を色濃く残しています。
  • 石槍(小牧3A遺跡)最後の氷河期を目前にシラス地帯に緑が蘇り,亜寒帯針葉樹や草原が形成されると,寒さに適応した大型動物が闊歩していたと想像されます。また,遺跡も各地で飛躍的に増加し,最近調査した耳取遺跡や桐木遺跡は,典型的なハンティングサイトの一つと考えられています。

    この時代を代表する石器に,大型の槍,剥片尖頭器があります。この石器は,シベリアから朝鮮半島にも分布し,いまでは朝鮮海峡を越えて,九州一円に到来し広がったと考えられています。

    おそらく,ハンター達が最も信頼し愛用した槍と共に,獲物を追い求めた証でしょう。その後,約18,000年前をピークに少しずつ氷が後退し始め,氷河期に適応した大型動物は北上を開始し,大型の槍のハンターも北上する獲物を追いかけて移動したことでしょう。

    【写真 石槍(小牧3A遺跡)】
  • 温暖化に従い新たな気候は,森の景観も一変させ,四季の変化を確実に映す落葉広葉樹の森を造り出しました。その森は豊かに木の実を実らす食料基地へと変化し,豊かな木の実の森は敏捷性に富んだ小型の動物の生息地へと移ることにもなりました。

    新たなハンター達は,森に食料を求め生き残りをかけて,槍の改良に取りかかることとなりました。その結果が,大型から小型への改良であったといわれます。
  • ■社会を営む原型■
  • この時代の終わり頃に登場するのが,指宿市の水迫遺跡です。
     水迫遺跡では竪穴住居跡や道跡・炉跡の存在が指摘され,定住生活遺跡と判断し,「動物を追って食を得る人々が,家をつくり,炉の焚き火を囲んでいた」「社会を営む原形が見れる」とされますが調査継続中でもあり今後の成果を見守りたいと思います。

    約15,000年前頃になると,東北アジアから日本列島・アラスカ半島に細石器と呼ぶ超小型の石器を素材とした槍が作り始められ,石器を製作した跡が数多く発見されています。この石器文化が終末を迎える頃,煮炊き用の土器が発明され,細石器に変わって弓矢が登場してきます。
  • 石皿と磨石 (小牧3A)縄文時代の到来です。それまで逃していた滋養の高いスープは,土器の使用により彼らの栄養となり,食生活が一変しました。それを示すかのように,定形化した石皿が使用され始めます。

    上野原遺跡の発見以来,定住についての論調が高まり,文化の先進性や起源等について触れる機会が多くなってきています。一方,定住の定義や具体的構成要因について,明確にしたものは殆ど見当たらないのが実状です。
    遊動生活から拠点生活に,彼らは,新たな生活スタイルを選択しました。

    【写真 石皿と磨石 (小牧3A)】
  • その選択の背景には,より安定した食料補給システムの完成が要求されたはずです。 後ろの森が,前進し始めた海が,足下の河川や湿地に集まる獲物が,年間を通して彼らの生活を支えなければなりませんでした。
    そのような条件が確実に整備されたのはいつなのでしょうか。
  • (文責)長野 眞一

縄文の森から 平成30年1月

平成30年1月29日(月)

常設展示室の河口コレクションコーナーをリニューアルしました

「標式遺跡シリーズ」
(高橋貝塚,入来遺跡,山ノ口遺跡)

常設展示室で,長年,鹿児島県の考古学界をリードしてきた考古学者 故 河口(かわぐち)貞徳(さだのり)氏 (1909~2011)が調査した遺跡の考古資料等を紹介しています。
 今回紹介するのは,「標式遺跡シリーズ」と題して,弥生時代前期から弥生時代中期後半にかけて該当する3つの標式遺跡と型式土器を紹介しています。
 同一地域の同時期には,同じ形や文様をもつ土器が作られることから,はじめて確認された遺跡名をとって「○○式土器」と呼ばれています。このような基準となる土器型式の設定を行った遺跡を標式遺跡と呼んでいます。
 河口氏は発掘調査した遺跡の中から新たな土器型式を見出し,精力的に研究を積み重ね,時期や文化的な位置づけを行いました。
 今回の展示では,高橋貝塚(南さつま市)をはじめ,入来(いりき)遺跡(日置(ひおき)市),山ノ口遺跡(錦江(きんこう)町)を紹介します。

展示期間:平成30年1月20日()~平成30年5月18日(金)まで


高橋式土器(高橋貝塚)

入来式土器(入来遺跡>)

山ノ口式土器(山ノ口遺跡)

展示の様子

>平成30年1月25日(木)

考古ガイダンス第35回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第35回 洞穴のくらし
  • ■こんな山中の洞穴に貝殻があるとは・・・■
  • 鹿児島県における洞穴遺跡の分布1952年,吹上町黒川洞穴の発見は地元の児童が拾ってきた貝殻を吹上町坊野小学校に勤務していた辻正徳氏に持ってきたのがきっかけでした。

    日置郡吹上町永吉砂走に所在する黒川洞穴は標高84m,東シナ海にそそぐ永吉川の支流,二俣川の右岸に開口し,吹上浜からは約7kmほど離れた場所にあります。

    辻氏の疑問を機に1952年,64年,65年,67年と計4回,現鹿児島県考古学会会長河口貞徳氏らを中心に発掘調査が行われ,様々な成果が得られました。

    洞穴遺跡とは自然に形成された洞穴や岩陰で人々の生活が営まれ,その証として土器や石器等の道具,墓や火を炊いた痕跡等が残された遺跡のことです。

    内部に自然の灯りはなく,多湿で,足場が悪いことも多いです。しかしそこは古代の人々が風雨を防ぎ生活するには格好の場であったことでしょう。
  • 【図 鹿児島県における洞穴遺跡の分布】
  • 洞穴は日常的な居住,一時的な仮泊,死者の埋葬,食料等の貯蔵,霊場等,様々な利用がなされていたと考えられていますが,当時の人はどのように洞穴を利用していたのでしょうか。ここでは県内の洞穴遺跡のいくつかを紹介し,洞穴における古代の人々の生活を見つめていきたいと思います。
  • ■県内の洞穴遺跡■
  • 黒川洞穴黒川洞穴は凝灰岩またはシラス層からなる断崖に水食作用によって形成された洞穴です。大小2個の入り口が隣接しており,西側入り口は幅13.3m,高さ6m,奥行きはかなり深いが落盤のため不明,東側入り口は幅11m,高さ4.35m,奥行き8.4mからなり共通の前庭部で続いています。

    【写真 黒川洞穴】
  • なお,注目すべきことは縄文時代晩期土器(黒川式)の標式遺跡となったことや人骨の埋葬が行われていた土壙,ものを焼いた場所と思われる炉跡,オオカミの骨を含む多量の獣骨,ヘラやカンザシ等の骨角器の出土です。
  • 人骨は25~30才の女性で,副葬品はなく,かたわらには標石が設けてありました。この埋葬で不思議な点は,骨盤が胴部の下に,尾椎骨は頭部の下にそれぞれ移動していたことです。かき乱された形跡がないことから,死後腰部を切り取って,窪みの底部に置き,その後遺体を埋葬したとしか考えられません。いずれにせよ何らかの特別な意図を持って埋葬したのでしょう。

    これについて河口氏は「普通の労働に従事するには骨が細く,墓に標石が建てられ,特異な埋葬が行われていたことから,シャーマン(呪術者)の墓ではないか」と述べています。
    また,出土した獣骨はイノシシ,シカが圧倒的に多いのですが,その中には現在の日本には生息しないオオカミや南九州では見られないカモシカの骨等も見つかっています。

    黒川洞穴以外にも縄文,弥生時代を中心とした洞穴遺跡があります。志布志町にある片野洞穴では洞穴内に溜まった水を排出するための溝や石を敷き詰めて作られた住居跡が検出されました。また,当時の漁労生活をうかがわせるイノシシの骨でつくられた釣り針も見つかっています。

    末吉町中岳洞穴では,火を炊いたと思われる炉跡や集石が検出され,洞穴内で調理をしたり,暖をとっていたと思われます。
    沖永良部島の知名町中甫洞穴では縄文時代前期該当の墓が発見されました。この墓には遺体の上下を囲うように珊瑚礁礫が置かれ,埋められた土の上にも同様の礫が配置されていました。
  • 黒川洞穴出土の自然遺物
    ホニュウ類 イノシシ,シカ,カモシカ,ツキノワグマ,オオカミ,イヌ, タヌキ,アナグマ,テン,イタチ,ノウサギ,ムササビ,モグラ
    鳥類 キジ,ガン,カモ,ハト,ワシタカ目
    ハチュウ類 カメ類,ヒキガエエル
    魚類 サメ,マダイ,クロダイ,フナ
    貝類 ハマグリ,アコヤガイ,マルサルボウ,オキアサリ,コベソマイマイ,マツカサガイ,コタマガイ,タカチホマイマイ,イタヤガイ,ツメタガイ,マクラガイ,イシマキ,オキシジミ,カガミガイ,ヘナタリ,カワニナ
    その他 モクズガニ
  • ■洞穴調査の苦労■
  • 洞穴内は降雨や火山灰の堆積を逃れ,鍾乳洞のような石灰分で守られることも多いため一般的に人骨や骨角器の残存状態は良好で,考古学的に貴重な資料が多く残されています。

    しかし,発掘調査者にとって洞穴遺跡の調査は野外調査とは異なる苦労も多いのです。例えば灯りの問題があります。入り口付近にしか太陽光は届かないので人工の灯りが必要となります。狭く,足場が悪い洞穴も多いです。

    また,片野洞穴内部には発掘当時,コウモリが多く生息しており地面に落ちた糞のにおいに調査者は悩まれたそうです。他には地下水が湧き出るため排水処理が必要になったり,湧き水が多く,無念にも掘り下げをあきらめざるを得ないこともあります。

    落盤の危険もあるでしょう。富山県大境洞穴(縄文・弥生時代)の人骨には埋葬ではなく落盤により圧死したと考えられる人骨の出土例もあります。洞穴内部で火を炊けば空気が乾燥し,岩の亀裂を助長します。当時の人は落盤の可能性を知っていたのでしょうか。
  • ■洞穴は家?墓?それとも・・・?■
  • 洞穴や岩陰が当時の人々に利用されていたことは明らかですが,ではいったいどのように利用されていたのでしょうか。多くの土器や石器,食料の残骸の出土や火を炊いた痕跡等から考えるとそこが日常的な居住の場であった可能性が高いと思われます。そして居住者が死ねば洞穴内に埋葬していました。

    一般的に洞穴に住む人々は日常的な居住の場を光が差す入り口付近に求め,墓や食料の貯蔵穴は奥に設けています。ただし,当時の人口数と洞穴の数から考えて,ほとんどの住居は竪穴住居等という形で野外に建てられ,洞穴はある一部の人しか利用できなかったはずです。そこに住む人はある特殊な生業活動を行っていたか,社会的に特別な地位におかれていたのでしょうか。

    弥生時代の千葉県安房神社洞穴,群馬県岩櫃山洞穴遺跡や神奈川県三浦半島における古墳時代の諸洞穴遺跡では,人々が近づき難い崖に位置していたり,多量の人骨が出土することなどから,居住地ではなく墓地として利用された可能性があります。また,フィリピンやインドネシアのスラウェシ島では近年まで絶壁の天然洞穴を墓とする風習がありました。

    時代や地域,環境,気候等の差がこれら洞穴の利用形態の違いを生みだしていると考えられますが,読者のみなさんはどのようにお考えになるでしょうか?
  • 用語解説
  • 鍾乳洞 石灰岩中の割れ目または層理面に沿って流れる地下水の溶食作用によってできた地下の洞穴。山口県の秋芳洞などが有名。
    石灰洞 水食作用:流水・雨水などが地表を削って,破壊・浸食すること。
  • (文責)永濵 功治

考古ガイダンス第34回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第34回 律令政治の浸透
  • ■―支配される隼人―■
  • 隼人の盾 (イメージ図)「薩摩隼人」という言葉や町名として現代に生き続ける「隼人(ハヤト)」。もともとは古代の南九州の住民に対する呼び名でしたが,7世紀後半から使われ始めたようです。

    この時期は大和朝廷が強力な中央集権国家をつくろうとした時代にあたります。こうした国づくりは律令(りつりょう)が制定されることによりその基礎ができあがり,奈良時代以降へと引き継がれていきました。このような中,日本各地へ広がる朝廷の支配は,中央から遠く離れた南九州にも及び始め,独自の生活と文化を持つ隼人の社会も次第にその統治に組み込まれていきます。
  • ■地方統治の拠点■
  • 朝廷は全国を国─郡─里(郷)という行政単位に分けました。現在の鹿児島県も8世紀に入り,薩摩・多ね(たね)の2国が,続いて日向(ひゅうが)国の四郡を割いて,大隅国が713(和銅6)年に設置されました(多ね嶋は後に大隅国に編入)。郡については,10世紀の『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』において,薩摩国が13郡,大隅国が8郡を数えます。国及び郡には,地域を治める役所として,国衙(こくが・国衙の所在地が国府)と郡衙がそれぞれ置かれました。

    こうした国府や郡衙の所在が考えられる遺跡は,そこが地方統治の拠点として,特別な場所であったことを物語ります。例えば,規模の上で,庇(ひさし)をもつ掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)など,構造の上で一般の集落とは異なる建物群が配置や方向に一定の規則性をもって検出されたり,瓦・硯(すずり)・緑釉陶器(りょくゆうとうき)・青磁・白磁といった特殊な出土品が発見されたりします。
     
    また,土器に墨や刻みにより文字等を書いた墨書土器(ぼくしょどき)や刻書土器(こくしょどき)は,文字文化の浸透とともに,役人や僧侶など識字層の存在をうかがわせるものです。
  • 薩摩国府の想定図薩摩国府跡(薩摩川内市)
    薩摩国府は現在の川内市に置かれました。川内平野北側の台地上の六町四方(一町は約109メートル)が国府域であり,その中央付近の二町四方が国衙域と推定されます。
    礎石を持つ建物跡や瓦を敷いた列などが発見されました。また,郡名ではないかとされる「高木」や国府の施設の一部を示すのではないかとされる「国厨」を記入した墨書土器や墨絵の描かれた土器,硯,緑釉陶器などの出土品があります。なお,大隅国府や多ね嶋国府については,確認されていません。
    【図 薩摩国府の想定図】
  • 西ノ平(にしのひら)遺跡(薩摩川内市)
    平安時代の掘立柱建物跡が10棟確認されたことや,100点を超える墨書土器や刻書土器,青銅製帯金具(おびかなぐ),須恵器(すえき)のかけらを転用した硯などの出土品から,この周辺に薩摩郡の郡衙があった可能性が強いとされています。

    市ノ原(いちのはら)遺跡第一地点(いちき串木野市)
    検出された掘立柱建物跡15棟の中には,大型のものや四方に庇を持つものがあり,また,緑釉陶器や「厨」と書かれた墨書土器などが発見されました。
  • 市ノ原遺跡 掘立柱建物跡の配置図
    【図 市ノ原遺跡 掘立柱建物跡の配置図】
    市ノ原遺跡 掘立柱建物跡
    【写真 掘立柱建物跡(市ノ原遺跡第一地点)】
    人が立っている横の穴が柱の跡
  • 器に残された文字この他,郡名である「阿多」と記された土師器(はじき)が出土した小中原(こなかはら)遺跡(金峰町),掘立柱建物跡群や「日置厨」と書かれた須恵器を出した安茶ヶ原(あんじゃがはら)遺跡(市来町)なども,同様に薩摩国内の郡衙に関わる可能性をもった遺跡としてあげることができます。

    小瀬戸(こせど)遺跡(姶良町)
     大隅国の郡衙に関わる施設と考えられます。溝状遺構に区切られた区画,柱穴群や井戸跡が発見されました。また「大伴」「伴家」「仲家」などと書かれた墨書土器や刻書土器は,大伴氏(おおともし)をはじめ,中央の有力豪族との関連から注目されています。
  • 【図  器に残された文字(池畑耕一『考古学ジャーナル』1991)1~7 小瀬戸遺跡 8~13 西ノ平遺跡】
  • ■隼人の朝貢と古代の官道■
  • 国府の設置などにより,律令制が徐々に浸透し始めますが,その進行は決して順調ではありませんでした。班田制(はんでんせい)の施行が大きく遅れたのが一つの原因です。このことと呼応するように,朝廷は隼人に対し,定期的な朝貢を強制し続けました。大宰府から出土した木簡(もっかん)には,薩摩・大隅国の郡名を記したものがありますが,これらは貢納物の付札として用いられたとも考えられます。

    また,このような人や物資の移動あるいは情報の伝達のために,朝廷は官道を整備し,中央と国府や国府間を結びました。官道には中継地として,駅が置かれ駅馬が常備されました。本県における駅・駅伝制については『延喜式(えんぎしき)』によると,薩摩国内に「市来(いちく)・英祢(あくね)・網津(おうづ)・田後(たしり)・櫟野(いちいの)・高来(たかく)」の6駅,大隅国内に「蒲生(かもう)・大水(おおみず)」の2駅の記述がありますが,考古学的に確定できたものではなく,今後の調査成果が待たれます。
  • ■抵抗する隼人■
  • 隼人町の隼人塚律令政治の浸透に対して,隼人は強い抵抗を示しました。特に720(養老4)年の軍事衝突は約1年数か月にも及びました。結局,隼人側の敗北に終わるものの「首を斬られた者や捕虜になった者は合わせて1,400余人」(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)とされ,その戦いの激しさを物語ります。


    【写真 隼人町の隼人塚】
  • 残念ながら,こうした抵抗を直接示す考古資料は見出せませんが,敗れた隼人の供養のために建てられたと伝えられるのが隼人塚です。現在,霧島市国分と霧島市隼人町の2ヵ所にある隼人塚ですが,そのうち隼人町のものは町教委により発掘調査が進められてきました。その結果,塚の構造,石造や石塔の本来の姿や配置など次第に明らかになりつつあります。なお,創建の目的や年代については,不明な点も多いです。
  • さて,720年を最後に隼人の抵抗は鳴りをひそめていきます。さらに9世紀に入り,薩摩・大隅国に班田制が適用されると,文献上,南九州の住民を隼人と呼ぶこともなくなっていきました。
  • 用語解説
  • 律令 律令政治のもとになった法律。律は刑法,令は行政法のこと。
    掘立柱建物 地面に穴を掘って柱を立てた建物。
    緑釉陶器 緑色の釉(うわぐすり)を施した陶器。
    役所における調理や食事・接待のための施設。
    班田制 国民に一定の耕作地を保証し,その代償に租税を徴収する制度。
    木簡 すく割った木の札に文字を書いたもの。文書,伝票,荷札などに使われた。
  • (文責)立部 剛

第50回 明治維新前後の鹿児島

  • 上野原縄文の森 第50回企画展
    明治維新前後の鹿児島
  • 開催期間:平成29年11月17日()~平成30年3月21日(
  •    
    ※ クリックすると,チラシがダウンロードできます(どちらの画像も同じチラシがダウンロードされます)。 
     
     幕末から明治維新という時代の大きな変革期において,鹿児島はその原動力となり,日本の近代化に大きな役割を果たしてきました。
     平成30(2018)年は明治維新から150年目に当たり,NHK大河ドラマ「西郷どん」の放送もいよいよ1月から始まります。
     そこで,“維新を掘る!”をキーワードに,近年の発掘調査の成果から見えてきた幕末から西南戦争までの鹿児島の様相について紹介していきます。
     あの五代友厚やグラバーが幕末当時,最新の蒸気機関を使い,巨大工場を秘密裏に建設計画した久慈白糖工場跡(瀬戸内町)や,西南戦争末期の激しい砲弾跡が新たに見つかった鹿児島(鶴丸)城跡など,様々な展示をとおして,明治維新前後の鹿児島の歴史に触れ,激動の時代の息吹を感じていただく機会となれば幸いです。
  •  
  • ■企画展の「ここが見どころ」■
  • 【企画展示室見取り図】

     
      
    第1章は 「考古資料にみる幕末の鹿児島」がテーマです。ここでは,集成館事業と薩英戦争を中心に紹介します。 薩摩藩の陶工が製造に成功した反射炉の「耐火煉瓦」や敷根火薬製造所で使われたと考えられる巨大な「石臼」,久慈白糖工場跡の「赤煉瓦」が見どころです。 第2章は,「考古資料にみる鹿児島城下町ヒストリー」がテーマです。幕末から明治初期の城下町の暮らしぶりを絵図と出土品で紹介します。  ここでは,鹿児島城跡出土の「鬼瓦」と垂水・宮之城島津家屋敷跡と浜町遺跡の出土遺物とが見どころです。 第3章は,「考古資料にみる明治初期の鹿児島」がテーマです。ここでは,廃仏毀釈と西南戦争を中心に紹介します。   廃仏毀釈で破壊された仁王像の頭部や西南戦争関連遺跡である山頭遺跡(熊本市)の出土品が見どころです。
    第1章    第2章 第3章 
    ※じょうもんくんの口の上にカーソルをおいてください。
    展示室見取り図の色とじょうもんくんの背景の色は対応します。
  • ■今回の主な展示品■
  •  
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
  • ■企画展講演会■
  • 平成30年1月21日()13:30~15:00
      演 題:幕末の近代化事業
      講 師:尚古集成館 館長 松尾 千歳 氏
      定 員:80人程度(要事前申込み)
      場 所:展示館多目的ルーム
      資料代:100円
     ※ 講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師によるギャラ
     リートークを行います。
      (別途展示館利用料金が必要となります。)
     

    企画展ギャラリートーク
     展示の内容を分かりやすく解説します。
     【日 時】 開催期間中の第1・第3日曜日
            10:30~,14:30~ ※各回30分程度
     【会 場】 展示館企画展示室

考古ガイダンス第33回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第33回 考古学から見た神社仏閣
  • ■腕のない仁王像■
  • 腕のない仁王像教師A さーやっと着いた。ここが皇徳寺(こうとくじ)跡だよ。
    中学生B 先生,入り口にある2体の石像は何ですか。仏像ですか?
    中学生C 2体とも両腕がないわね。右側の石像は頭の一部も欠けているわ。どうしちゃったのかしら?
    教師A これはね,仁王(におう)像といってお寺を守護するために立ってるんだ。ここでは壊れていてよくわからないけど,口を開いた阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うんぎょう)の2体でワンセットになってるんだよ。
  • 【写真 腕のない仁王像(鹿児島市皇徳寺跡,栗林 撮影)】
  • 中学生C でも先生,これ何で壊れているんですか?足も無いみたいだわ。
    教師A それはね,明治時代の初め。今から130年ほど前に起こった廃仏毀釈( はいぶつきしゃく)という出来事のためなんだ。
  • ■廃仏毀釈■
  • 大龍寺跡(鹿児島市)の発掘調査風景中学生C 先生,それはどういう事件だったんですか。
    教師A うーん,簡単に説明するにはちょっと複雑なんだが。江戸時代の終わり頃に,国学(こくがく)といって日本古来の思想を尊重しようという学問が流行したんだ。この学問によれば,仏教は後に外国から伝わってきた宗教だから,その前からある神道を尊重すべきだというんだ。この思想が下地となって,明治元年(1868)神仏分離令が出されると薩摩藩でも徹底的に寺院の打ち壊しが行われたんだ。その時この仁王像も壊されたんだよ。
  • 【写真 大龍寺跡(鹿児島市)の発掘調査風景(鹿児島市 立ふるさと考古歴史館)】
  • 中学生B へー,そんな歴史がこの仁王像にはあったんだ。ところで,先生。一体幾つぐらいのお寺が破壊されたんですか?
  • ■1066寺院すべてを取り壊す■
  • 教師A そーだね,史料によれば,当時薩摩藩には1066の寺があったとある。これらが全て取り壊されたんだ。またお坊さんも2964人いたらしいんだが,みんな還俗(げんぞく)させられて,兵隊や学校の先生等になったらしいよ。
    中学生B それじゃ明治より古いお寺は鹿児島にはないということなんですね。
    教師A そういうことだね。お寺とともに,古くからあった仏像・経典や古文書(こもんじょ)等今残っていれば,貴重な文化財となったものが多数失われたんだね。
    中学生C 先生,それじゃ昔のお寺の歴史は何もわからないってことですか?
    教師A うん,古文書が少ないから詳しいことはわからないね。
    中学生B えー!それじゃどうしようもないってことだ。
    教師A いや。ひとつ方法があるよ。それは地面の下に眠っている寺院の痕跡を捜し出すことなんだ。
    中学生C わかったわ!考古学ね。
    教師A そーだ。考古学の手法を使えば,文字史料がほとんどない古いお寺もいろんな事がわかってくるんだね。
    中学生C 先生,お寺や神社の発掘例はあるんですか?
    教師A あー,あるとも。数は多くはないがね。それじゃ,来週の日曜日に先生の自宅で,お寺や神社の発掘調査について調べてみようか。
    はーい。
  • ■寺院・神社の発掘調査事例■
  • 弥勒院の建物の瓦鹿児島市の福昌寺(ふくしょうじ)は,現在の玉龍高校の場所にありました。応永4年(1394)島津元久によって建てられた曹洞(そうとう)宗の寺院で,開山には一族の石屋真梁(せきおくしんりょう)が迎えられています。

    【写真 弥勒院の建物の瓦(隼人町教育委員会)】
  • 寺院の一部を発掘調査した結果,階段・石垣・門・排水溝・石列等の遺構が発見されました。福昌寺の全容は,『三国名勝図会 (さんごくめいしょうずえ)』の絵図により知られていますが,報告書ではこれらの遺構が絵図に見える山門跡に比定されています。このように,絵図や古文書と発掘調査の結果が合致するのかしないのかが,歴史時代の発掘調査の醍醐味(だいごみ)のひとつです。

    弥勒院出土の花瓶・灯明 皿・油壷など姶良郡隼人町の宮内小学校にあった弥勒(みろく)院は,すぐ傍にある鹿児島神宮(中世では正八幡宮,大隅国の一宮)の別当寺でした。その創建年は不明ですが,鎌倉時代には存在していたことが文献から確かめられます。

    【写真 弥勒院出土の花瓶・灯明皿・油壷など】
  • 発掘調査の結果,直径2m程の土壙が見つかり,中から1,000個以上の土師器が出土しました。儀式で使用したものを廃棄したのか,それともここで土師器を焼いたのか,まだ不明です。遺物では弥勒院の僧侶達が日常生活に使用したと思われる食器等が多数出土しました。その他花瓶・灯明皿・油壷・古銭・硯・鏡・碁石・毛抜き・煙管(きせる)等や,弥勒院の建物に使用された瓦も出土しています。
  • 最後に神社に関する発掘調査事例として,薩摩郡宮之城町の諏訪神社を見てみましょう。
    この諏訪神社は天明元年(1781)火災にあい消失し,文献史料でのみ存在が確かめられていました。調査の結果,この消失した神社の建物がそっくりそのまま見つかり,きわめて注目すべき成果をあげました。建物としては,本殿・舞殿・拝殿,その前面には周りより一段低くなった参道が延び,両側には溝が延びています。古銭も多く出土していますが,神社の建物の付近に集中していたといいます。参拝者が投げたお賽銭でしょうか。その他には,銅鏡・かんざし・鈴・煙管・人形等が神社特有の遺物といえます。
  • 諏訪神社の建物跡全景中学生C 先生,鹿児島県での調査事例はこれで全部なんですか。
    教師A いやいや,ここで君達に紹介したのはごく一部で,他にも薩摩国分寺(川内市)・大乗院・大龍寺(鹿児島市)・一乗院(坊津町)・宗功寺(宮之城町)等の跡でも発掘調査が行われているんだよ。
    中学生B 神社でお賽銭を投げていたなんて,お正月の初詣みたいだね。今と同じだ。
    教師A 最初に説明したように,鹿児島には古いお寺はひとつもないんだ。どうしてこんなに徹底して廃仏毀釈が行われたんだろうか?
    中学生C うーん,どうしてかしら?わからないわ。
  • 【写真 諏訪神社の建物跡全景(宮之城町教育委員会)】
  • 教師A 色々な意見があるんだが,例えば,僧侶の職能が狭く身分が低かったからだとか,民衆のほとんどが隠れ念仏の信者であったからだとか。文献史料も非常に少ないからわからないことが多いんだ。
    中学生B そこで,考古学の登場ってことですね。
    教師A その通り!そして,将来更に発掘調査が進めば,私達の祖先が寺院や神社とどのように関わったのか,そんなことまでわかるとおもしろいよね。
  • (文責)栗林 文夫