第50回 明治維新前後の鹿児島
- 上野原縄文の森 第50回企画展
明治維新前後の鹿児島 - 開催期間:平成29年11月17日(金)~平成30年3月21日(水・祝)
- ■企画展の「ここが見どころ」■
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【企画展示室見取り図】 第1章 第2章 第3章 ※じょうもんくんの口の上にカーソルをおいてください。
※展示室見取り図の色とじょうもんくんの背景の色は対応します。 - ■今回の主な展示品■
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- ■企画展講演会■
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平成30年1月21日(日)13:30~15:00
演 題:幕末の近代化事業
講 師:尚古集成館 館長 松尾 千歳 氏
定 員:80人程度(要事前申込み)
場 所:展示館多目的ルーム
資料代:100円※ 講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師によるギャラ
リートークを行います。
(別途展示館利用料金が必要となります。)企画展ギャラリートーク
展示の内容を分かりやすく解説します。
【日 時】 開催期間中の第1・第3日曜日
10:30~,14:30~ ※各回30分程度
【会 場】 展示館企画展示室 -
今までに開催した特別企画展情報はこちらから
> 上野原縄文の森企画展のご案内
考古ガイダンス第33回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第33回 考古学から見た神社仏閣 - ■腕のない仁王像■
教師A さーやっと着いた。ここが皇徳寺(こうとくじ)跡だよ。
中学生B 先生,入り口にある2体の石像は何ですか。仏像ですか?
中学生C 2体とも両腕がないわね。右側の石像は頭の一部も欠けているわ。どうしちゃったのかしら?
教師A これはね,仁王(におう)像といってお寺を守護するために立ってるんだ。ここでは壊れていてよくわからないけど,口を開いた阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うんぎょう)の2体でワンセットになってるんだよ。- 【写真 腕のない仁王像(鹿児島市皇徳寺跡,栗林 撮影)】
- 中学生C でも先生,これ何で壊れているんですか?足も無いみたいだわ。
教師A それはね,明治時代の初め。今から130年ほど前に起こった廃仏毀釈( はいぶつきしゃく)という出来事のためなんだ。 - ■廃仏毀釈■
中学生C 先生,それはどういう事件だったんですか。
教師A うーん,簡単に説明するにはちょっと複雑なんだが。江戸時代の終わり頃に,国学(こくがく)といって日本古来の思想を尊重しようという学問が流行したんだ。この学問によれば,仏教は後に外国から伝わってきた宗教だから,その前からある神道を尊重すべきだというんだ。この思想が下地となって,明治元年(1868)神仏分離令が出されると薩摩藩でも徹底的に寺院の打ち壊しが行われたんだ。その時この仁王像も壊されたんだよ。- 【写真 大龍寺跡(鹿児島市)の発掘調査風景(鹿児島市 立ふるさと考古歴史館)】
- 中学生B へー,そんな歴史がこの仁王像にはあったんだ。ところで,先生。一体幾つぐらいのお寺が破壊されたんですか?
- ■1066寺院すべてを取り壊す■
- 教師A そーだね,史料によれば,当時薩摩藩には1066の寺があったとある。これらが全て取り壊されたんだ。またお坊さんも2964人いたらしいんだが,みんな還俗(げんぞく)させられて,兵隊や学校の先生等になったらしいよ。
中学生B それじゃ明治より古いお寺は鹿児島にはないということなんですね。
教師A そういうことだね。お寺とともに,古くからあった仏像・経典や古文書(こもんじょ)等今残っていれば,貴重な文化財となったものが多数失われたんだね。
中学生C 先生,それじゃ昔のお寺の歴史は何もわからないってことですか?
教師A うん,古文書が少ないから詳しいことはわからないね。
中学生B えー!それじゃどうしようもないってことだ。
教師A いや。ひとつ方法があるよ。それは地面の下に眠っている寺院の痕跡を捜し出すことなんだ。
中学生C わかったわ!考古学ね。
教師A そーだ。考古学の手法を使えば,文字史料がほとんどない古いお寺もいろんな事がわかってくるんだね。
中学生C 先生,お寺や神社の発掘例はあるんですか?
教師A あー,あるとも。数は多くはないがね。それじゃ,来週の日曜日に先生の自宅で,お寺や神社の発掘調査について調べてみようか。
BとC はーい。 - ■寺院・神社の発掘調査事例■
鹿児島市の福昌寺(ふくしょうじ)は,現在の玉龍高校の場所にありました。応永4年(1394)島津元久によって建てられた曹洞(そうとう)宗の寺院で,開山には一族の石屋真梁(せきおくしんりょう)が迎えられています。
【写真 弥勒院の建物の瓦(隼人町教育委員会)】- 寺院の一部を発掘調査した結果,階段・石垣・門・排水溝・石列等の遺構が発見されました。福昌寺の全容は,『三国名勝図会 (さんごくめいしょうずえ)』の絵図により知られていますが,報告書ではこれらの遺構が絵図に見える山門跡に比定されています。このように,絵図や古文書と発掘調査の結果が合致するのかしないのかが,歴史時代の発掘調査の醍醐味(だいごみ)のひとつです。
姶良郡隼人町の宮内小学校にあった弥勒(みろく)院は,すぐ傍にある鹿児島神宮(中世では正八幡宮,大隅国の一宮)の別当寺でした。その創建年は不明ですが,鎌倉時代には存在していたことが文献から確かめられます。
【写真 弥勒院出土の花瓶・灯明皿・油壷など】
- 発掘調査の結果,直径2m程の土壙が見つかり,中から1,000個以上の土師器が出土しました。儀式で使用したものを廃棄したのか,それともここで土師器を焼いたのか,まだ不明です。遺物では弥勒院の僧侶達が日常生活に使用したと思われる食器等が多数出土しました。その他花瓶・灯明皿・油壷・古銭・硯・鏡・碁石・毛抜き・煙管(きせる)等や,弥勒院の建物に使用された瓦も出土しています。
- 最後に神社に関する発掘調査事例として,薩摩郡宮之城町の諏訪神社を見てみましょう。
この諏訪神社は天明元年(1781)火災にあい消失し,文献史料でのみ存在が確かめられていました。調査の結果,この消失した神社の建物がそっくりそのまま見つかり,きわめて注目すべき成果をあげました。建物としては,本殿・舞殿・拝殿,その前面には周りより一段低くなった参道が延び,両側には溝が延びています。古銭も多く出土していますが,神社の建物の付近に集中していたといいます。参拝者が投げたお賽銭でしょうか。その他には,銅鏡・かんざし・鈴・煙管・人形等が神社特有の遺物といえます。 中学生C 先生,鹿児島県での調査事例はこれで全部なんですか。
教師A いやいや,ここで君達に紹介したのはごく一部で,他にも薩摩国分寺(川内市)・大乗院・大龍寺(鹿児島市)・一乗院(坊津町)・宗功寺(宮之城町)等の跡でも発掘調査が行われているんだよ。
中学生B 神社でお賽銭を投げていたなんて,お正月の初詣みたいだね。今と同じだ。
教師A 最初に説明したように,鹿児島には古いお寺はひとつもないんだ。どうしてこんなに徹底して廃仏毀釈が行われたんだろうか?
中学生C うーん,どうしてかしら?わからないわ。- 【写真 諏訪神社の建物跡全景(宮之城町教育委員会)】
- 教師A 色々な意見があるんだが,例えば,僧侶の職能が狭く身分が低かったからだとか,民衆のほとんどが隠れ念仏の信者であったからだとか。文献史料も非常に少ないからわからないことが多いんだ。
中学生B そこで,考古学の登場ってことですね。
教師A その通り!そして,将来更に発掘調査が進めば,私達の祖先が寺院や神社とどのように関わったのか,そんなことまでわかるとおもしろいよね。 - (文責)栗林 文夫
縄文の森から 平成29年10月

平成29年10月10日(火)


縄文の森だよりVol.33
考古ガイダンス第32回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第32回 中世びとの生活 - ■中世の集落から■
中世とは鎌倉幕府(かまくらばくふ)がつくられてから,戦国時代の終わり頃までの時代です(約1192~1590年)。鎌倉時代になるとそれまで政治を行っていた貴族に変わって武士が政治を行うようになりました。
そのため政権が変わるたびに全国各地で争いが起きていました。鹿児島でも各地域の有力者が互いに争い,多くの山城(やまじろ)が築かれました。山城は敵が攻めてきたときに最後の砦(とりで)となる場所です。
【図 集落遺跡位置図】
1 持躰松遺跡,2 成岡遺跡,3 山崎B遺跡
4 新平田/馬場A遺跡,5 中園遺跡,6 藤兵衛坂段遺跡- 日常の生活は麓(ふもと)の集落で営まれていました。当時の人々が住んでいた建物は掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)と呼ばれています。柱や壁は木で造られているので長い年月の間に腐ってしまいます。そのため遺跡(いせき)には柱を立てるために掘った穴しか残っていません。
発掘調査では柱穴(ちゅうけつ)の並びから建物を復元(ふくげん)していくのです。中世の歴史は文献(ぶんけん)による研究から権力者の歴史のみに目を奪われがちです。 - しかし,それらを支えたのは名前さえも残っていない庶民(しょみん)でした。集落跡の調査は,これまでに知られていなかった中世の人々の歴史を少しずつ明らかにしてくれます。近年,鹿児島県でも文献に残っていない集落跡などが発見されています。それらのうちいくつかの調査例を紹介します。
- ■一般の人々の集落■
大口市馬場(ばば)A遺跡や,時代は少し新しくなりますが牧園町中園(なかぞの)遺跡などがあります。
当時は,かまどを使って炊事(すいじ)をしていたものの,現在のように,毎日米が食べられるほど贅沢(ぜいたく)な暮らしではありませんでした。
【図 掘立柱建物復元図】- 掘立柱建物でも床板を張らずに地面にむしろや板などを敷いていたものと考えられています。
それでは当時の人々はどのような作物を作り食べていたのでしょうか。最近の発掘調査の成果から見てみましょう。 - ■中世の畠跡■
福山町藤兵衛坂段(とうべえざかだん)遺跡からは,文明年間(1471年か1476年のどちらか)に桜島の噴火により降り積もった軽石にパックされた状態で畠の畝跡(うねあと)が見つかりました。発見されたとき,畝の間につまっていた軽石が約80cmの幅で帯状に残っていました。
畠跡一枚の大きさは19m×39m程で,全部で17枚見つかっています。畠跡の土をプラントオパール分析で調べた結果,陸稲(りくとう)やヒエを栽培(さいばい)していたことが明らかになりました。畠跡の総面積は約2,000平方メートルにもなり大規模な畠作を行っていたことが分かります。- 【写真 畝の間に軽石が詰まっている畠跡(藤兵衛坂段遺跡-福山市教育委員会提供)】
- 中世になると肥料や品種の改良,牛馬の利用などが進み農業技術の進歩が見られました。藤兵衛坂段遺跡のように広い畠がつくられたのも技術の進歩が関係していると考えられます。また鹿児島はシラス台地が発達し平野が少ないので,水田を作る土地を十分に得ることができなかった人々が台地の開発を積極的に進めていたことも地域性の一つと考えられます。
- ■中世の宿■
中世になると海,陸ともに交通路が整備され人々の動きが活発になりました。大口市新平田(しんひらた)遺跡は交通路の要所におかれた宿であった可能性のある遺跡です。
遺跡が立地する大口市は当時,都城と出水,水俣を結ぶ重要な交通の要地でした。遺跡からは32棟の掘立柱建物と地面を掘って造った竪穴建物跡(たてあなたてものあと)が7軒見つかっています。掘立柱建物に年貢などを徴収する武士や,人夫達が寝泊りし,竪穴建物跡では武器や馬具(ばぐ)に使う皮を加工していた可能性もあります。馬具である轡(くつわ)も見つかっており,馬に乗り各地を行き来する人々がいたことを物語っています。- ■有力者の屋敷■
中世では,武士などの有力者も掘立柱建物に住んでいました。このような屋敷跡からは,一般の人々の集落では見ることができない高価な焼き物が出土したり,建物跡を掘で囲んだりするなど,大規模な土木工事が行われていました。
【写真 重ねて置かれた素焼きの皿(持躰松遺跡)】- 川内市成岡(なりおか)遺跡からは,硯(すずり)と,墨書土器(ぼくしょどき)が見つかっています。筆や硯などを使い文字を書くことができたのは,役人や階級の高い人たちでした。成岡遺跡はこの地域を治めていた郡司(ぐんじ)平氏の一族である成岡氏に関係する屋敷跡であるとされています。
- また,栗野町山崎(やまさき)B遺跡では掘立柱建物と竪穴建物が掘(幅4.5m,深さ3m)によって囲まれています。これらの土木工事は多くの一般の人々によって行われたのでしょう。
また,素焼きの皿が,柱穴の中に入れられていたり,何枚も重ねられた状態で見つかっています。建築工事の前に地鎮祭(じちんさい)などを行い工事の無事を祈っていたと考えられます。近年の調査によって,一般の人々の集落跡や有力者の屋敷跡など,様々な階級の人々が暮らした遺跡が見つかっています。中世の研究は,これから発見される遺跡の正しい評価がなされることによって,大きく発展することでしょう。 - 用語解説
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鎌倉時代 1192年に源頼朝(みなもとよりとも)が幕府(ばくふ)を鎌倉に開いてから,
1333年に北条高時(ほうじょうたかとき)の滅亡までの約140年間戦国時代 1467年の応仁(おうにん)の乱から1590年に豊臣秀吉が全国を統一するまでの間 掘立柱建物 地面に柱穴を掘って柱を立て,それに屋根と壁を取り付けた平地式の建物 遺跡 昔の人々が作った建物の跡や,土器などが埋まっている場所 文献 昔の人々が文字によって,当時の人間の行動や世の中のことなどを書き記したもの 竪穴建物跡 地面を水平に掘り下げて床面をつくる半地下式の建物 陸稲 おかぼ 墨書土器 墨によって文字が書かれている土器 郡司 奈良・平安時代に朝廷から任命され地方を治めた役人 地鎮祭 土木工事の基礎工事を行う前に,その土地の神を祭って工事の無事を祈る祭典(さいてん) - (文責)川口 雅之
縄文の森から 平成29年9月

平成29年9月7日(木)

第49回企画展 夏休み企画
「きみならどう使う?
縄文人の道具」

上野原遺跡のレモン形土器

上から見たレモン形土器


紹介の様子
レモン形土器の使い方についてたくさんのお友達に考えてもらいました。どんな意見が出てるかな?
また,自分の書いたカードを探してみましょう。
場所:展示館ホール
期間:平成29年9月1日(金)~9月30日(土)まで
※観覧無料
考古ガイダンス第31回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第31回 謎に包まれた南島のグスク - ■名瀬市で中世の城跡発見■
日本本土と中国大陸の間に弧状に連なる奄美,琉球の島々は,古くから「道の島」と呼ばれています。
その奄美大島で,昨年12世紀~16世紀にかけて構築されたと思われる本土の山城に酷似した中世の城跡(山城)が名瀬市教育委員会によって新たに17か所発見されました。
発見された場所は,名瀬市古見方(こみほう)地区で,狭い尾根の斜面を生かし,曲輪(くるわ),空堀(からぼり),土塁(どるい)などを造り,それらは,山城としての防御機能を持っているといいます。これまで奄美や沖縄では「グスク」とよばれる支配者の居城があったといわれています。
今回の発見は,多くの謎に包まれている当時の奄美がどのような状況下にあったのかを解明する糸口になるかもしれません。そこで今回は,考古学から見た中世の奄美の歴史をのぞいていきたいと思います。- ■グスク時代■
奄美,琉球では,狩猟・採集経済が中心の「貝塚時代」の後,12世紀前後に各地に按司(あじ)と呼ばれる政治的な統率者が現れ,各地域をまとめていきました。その統治の本拠となった場所は「グスク」と呼ばれています。
奄美で代表的なものは,笠利町辺留城(べるグスク),和泊町世之主城(よのぬしグスク),与論町与論城(よろんグスク)などです。- 【写真 和泊町 大和城跡】
- 1987年に鹿児島県内の中世城郭を調査した「鹿児島中世城館跡」の報告によると,奄美の城郭は45か所あると報告されていますが,その後,様々な分布調査や確認調査等が行われ,調査研究は急速に進展中で数も増えつつあります。
「グスク」を居館とし各地に登場した按司は互いに勢力範囲を拡大しながら琉球ではやがて3つの勢力にまとまりはじめ,按司の中から王になるものが現れました。
奄美諸島は,1266年に琉球の中山王(ちゅうざんおう)に入貢(にゅうこう)した記録があります。1466年喜界島,1537年奄美大島が琉球の遠征を受けています。これらのことから,琉球の完全な支配域に入ったのは,この遠征の後だと思われます。- 【写真 和泊町 世之主城跡】
- ■謎の南島系陶質土器「カムィヤキ」■
奄美諸島,琉球諸島のグスク時代の遺跡から出土する遺物は,中国製白磁・青磁と,本土の須恵器(すえき)に似た陶質の土器で「類須恵器」(るいすえき)あるいは,「南島系陶質土器」と呼ばれ,窯跡が未発見のため謎につつまれていた土器が出土します。
この謎の土器は,1983年徳之島の伊仙町亀焼(かむぃやき)で古窯跡(こようあと)が発見され,地名から「カムィヤキ」と呼ばれるようになりました。「カムィヤキ」は,伊仙町教育委員会による古窯跡の発掘調査の結果,11世紀から13世紀にかけて焼成されたことが明らかとなりました。- 【写真 カムィヤキ窯跡】
- また,同じようにグスク時代の遺跡から長崎県西彼杵(にしそのぎ)半島で作られた「滑石製石鍋」(かっせきせいいしなべ),「中国製陶磁器」が出土しています。「滑石製石鍋」は本土では,平安時代末~室町時代にかけて流布している調理具です。
- ■倉木海底遺跡の発見■
- 1994年に大島郡宇検村倉木崎海底遺跡で,沈没船に積まれていたか何らかの事件のために海中投棄されたと考えられる,大量の「中国製陶磁器」が発見されました。1996年から3年間にわたり宇検村教育委員会が調査しました。この調査で出土した陶磁器は,12世紀末から13世紀前期にかけて作られた中国の龍泉窯系青磁碗,同安窯系青磁皿,磁竃窯系褐釉陶器,福建系白磁,景徳鎮窯系青白磁などです。
- ■グスク時代の交易■
「カムィヤキ」古窯跡の発見により,徳之島で「カムィヤキ」を生産し,奄美・琉球諸島を交易圏として供給する,大きな商業集団がいたのではないかと考えられています。
政治的に強い力を持った統率者がこれら商業集団と陶業集団を統率し,長崎産の「滑石製石鍋」を奄美・琉球に持ち込む商人もいたのだと思われます。- 【図 12~13世紀東シナ海地域概念図(図中記号:□主要都市,▲主要窯跡)】
- また中国製陶磁器の出土は,12世紀後半から13世紀前期ごろに中国南部と奄美・琉球との間の貿易航路がこの付近を通っていたことを示しています。中国南部を出港して黒潮に乗り,南西諸島を経由して島伝いに北上したと考えられるのではないでしょうか。現に日置郡金峰町持躰松遺跡や,福岡県博多遺跡で出土した中国製陶磁器と倉木崎海底遺跡の物は一致しています。
また,金峰町小園遺跡,同町持躰松遺跡,出水市出水貝塚では,「カムィヤキ」が数点ながら見つかっています。奄美・琉球に貿易船が立ち寄り,何らかの形で「カムィヤキ」を手に入れて小園遺跡・持躰松遺跡・出水貝塚に持ち込んだ可能性があるのです。
これら奄美・琉球の交易は,その後の「琉球王朝」の経済基盤を支えた「中継貿易」へと発展していったのでしょう。(中継貿易=琉球を中心として,明や朝鮮半島や日本や東南アジア諸国の物品を中継するもの) - ■グスクの調査■
「グスク」は按司(あじ)たちが地域を統率するための本拠地であり,周囲の按司勢力や海上からやってくる様々な外力に対する防御機能があったと思われます。
琉球の「グスク」は,首里城(しゅりじょう)や今帰仁城(なきじんグスク)・勝連城(かつれんグスク)に代表される,石垣を周囲に配したものが一般的ですが,奄美のグスクは琉球のグスクと異なった様相を見せています。
「鹿児島県の中世城館跡」,「笠利町用安湊城(ようあんニヤトグスク)発掘調査報告書」によると,奄美の「グスク」で琉球と同じように周囲に石塁を持つものは南部の与論島や沖永良部島には見られますが,徳之島,奄美大島,喜界島にはそれがほとんど見られず,堀切を持ったり集落背後の山地や台地上にあったり,海に面するものもあります。- 【写真 和泊町 世之主城跡 ‐石積み‐】
- 「グスク」の発掘調査例は少ないのですが,近年発掘調査された笠利町「ウーバルグスク」は舌状台地上にあり,堀切はなく敷石で作られたグスクへの入り口と見られる道遺構が見つかっています。同町「用安湊城(ようあんニヤトグスク)」は海に面した舌状台地上にあり,曲輪は海に面した部分だけで後方の山手には見られず,土塁が一部残っています。
奄美のグスクは「グスク」という地名がついていない場所からも発見されています。これらの「グスク(または中世城館跡)」は発掘調査例が少なく文献にもほとんど登場しません。したがって奄美独特のものなのか琉球の影響を受けているのか,それとも日本本土の影響を受けているのか,まだ解明されていない部分が数多くあります。また「グスク」自体についても,城としての防御施設,宗教的な信仰の聖域施設,集落説など,様々な見方がされています。
1999年から調査が始まった名瀬市古見方(こみほう)地区の17か所もの中世城郭跡や,同じく1999年度から調査が行われている笠利町赤木名城(あかきなグスク)の調査にこれらの謎の解明を期待したいと思います。 - 用語解説
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山城 中世以降に発達した城郭で尾根を利用して築城されている。 曲輪 城の中で地形に応じて平坦面の周囲に塁や堀を巡らした一定の区画をなすところ。 空堀 水の入っていない堀,曲輪や城壁の周囲に作られる防御施設。 土塁 周囲に土をつき固めて作った曲輪の囲い。 須恵器 古墳時代から平安時代にかけて作られた還元?で焼成され灰色や青鼠色をした焼き物。 滑石製石鍋 鍋形や釜形をした日曜雑器,長崎県西彼杵半島の大瀬戸町が産地。 - (文責)福永 修一
考古ガイダンス第30回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第30回 考古学と周辺科学 - ■土は情報の宝庫■
日本最古最大級の定住集落が発見された上野原台地では,実にさまざまなものが出土しました。台地の南側で発掘された大量の土器の中には,縄文時代の早い時期としては珍しい壺(つぼ)形の完全な土器もあります。
ほかにも土偶(どぐう),矢じり,石斧(いしおの)などや赤く塗られた耳飾りも出土しています。これらはクワや移植ゴテ・竹ベラ等を用いて掘り出したものです。
【写真 壷の謎に科学の眼で迫る!?(上野原遺跡 霧島市)】
- 遺跡によっては掘った土をフルイにかけることがあります。すると細かな石器やそれを作った際のかけらが見つかることがあります。そのままでは気付かれずに捨てられてしまったものが,細かな目のフルイにかけることで発見できるのです。その目をもっと細かくしたらどうでしょう。ルーペや顕微鏡で,もっと細かく土の中を調べてみたらどうでしょう。土は情報の宝庫なのです。
- ■ミクロの考古学■
それでは,実際に遺跡の土の中にどのようなものが含まれ,それからどんなことがわかるのか,ミクロの旅に御案内しましょう。体を縮めて小さな小さなミクロの人間になって土の中にもぐり込むと・・・。
『よいしょよいしょ。さっきまで砂粒だったのに,ミクロになると大きな岩だな。
すき間は狭いから気をつけて。- 【写真 弥生時代の地層から検出されたイネのプラントオパール(上野原遺跡)】
- おや茶色の丸いものが見えてきたぞ。大きな木の実みたいだな。その奥には,きれいな緑色に光るものもある。あっ痛い,白く尖ったものがあったぞ。なんだこりゃ,マンモスの牙かな。こっちにはガラスのかけらみたいなのがあるぞ・・・』
さてこれらは一体何でしょう。実際には遺跡の土を水に溶かし,上澄み液をガーゼで漉(こ)すと,土の中のごく小さなものも取り出すことができます。これらをルーペや顕微鏡で調べるのです。
大きな木の実に見えたのは1ミリ程のヒエの種子,緑色に光るのはコガネムシの死骸,マンモスの牙と思ったものは小さな魚の骨。ほかにも花粉やケイソウの化石(プラントオパ-ル)などが見つかることもあります。ほんとうにいろいろなものが残っていて驚きます。- 【写真 平安時代の地層から出土した「ノコギリクワガタ」の頭部(小倉畑遺跡 姶良町)】
- それらの植物や甲虫の種類を調べ,どんな気候で生育しどんな環境を好むのかということから,当時の気候や環境などが推定できるのです。例えば愛知県の勝川遺跡では,弥生時代の地層からイネネクイハムシというイネの根を食べる甲虫の羽が見つかっています。
このことから稲作栽培開始直後の弥生時代に,すでに害虫の被害も始まっていたことがわかります。弥生人もさぞ困っていたでしょう。 - しかし鹿児島の場合,ほとんどの遺跡が火山灰に覆われている酸性土壌です。そのことが災いして残念ながらこれら古い時代の植物や骨などは腐ってしまってその痕跡すら判断できません。そこで活躍するのが最後に出てきたプラントオパールとよばれる植物の特殊な細胞です。
これはガラス質のため腐ることはありません。また人間の指紋のように,植物の種類によってそれぞれが特徴ある形をしています。そこで,遺跡の地層に含まれるその種類や量を調べることで,当時どんな植物がどのくらい生えていたかを推定できるのです。
上野原遺跡の分析の結果によると,集落が発見された約9,500年前の地層からはクマザサやブナ・コナラなどの落葉樹の類が多く見つかり,冷涼な気候だったと推定されます。また壷形土器や耳飾りなどが発見された約7,500年前の層からは,クスノキなどの照葉樹のものが多く,温暖な気候になっていたと推定されています。 - ■古代に挑む文化財科学■
このようなミクロの探検隊の強力な武器として,県立埋蔵文化財センターには電子顕微鏡が備えられています。土器に残された稲のモミの跡や,火山灰に含まれている火山ガラス,石器に残された細かな傷あとの観察などに用いられています。成分の分析もでき,古代に使われた赤い色(ベンガラや水銀朱)の分析などに活躍しています。
- 【写真 電子顕微鏡でミクロの世界へ(埋蔵文化財センター 精密分析室)】
- ほかにも最新の科学技術を応用して,古代の生活を解明する試みが文化財科学という学問分野として発展しつつあります。今後各分野の研究が進み,その成果と知恵を集めれば,もっともっといろいろなことがわかってくるでしょう。未来の発掘調査では,掘り出されたすべての土を分析機械に通すことになるかもしれません。
- ここで上野原遺跡の壷の中ものぞいてみましょう。壷の中には何が入っていたのでしょうか。壷の用途は何だったのか,壷の中の土で脂肪酸分析(しぼうさんぶんせき)やリン酸分析を行いましたが,骨などの分析結果は出ませんでした。
将来,科学が進歩して新しい分析法が開発されたとき,謎は解けるかもしれません。しかし「全部わかってしまったんじゃ,古代のロマンがなくなっちゃうよ」と,上野原縄文人の笑い声が聞こえてくるようです。 - ■保存処理の必要性■
発掘調査で出土する遺物には土器や石器だけでなく,木器や金属器とその材質は様々です。本県ではこれまで木器や金属器の出土例は少なかったのですが,近年の発掘調査で増加しつつあります。
例えば川内市楠元遺跡からは木製の農具や建築材,あるいは鹿屋市根木原遺跡からは鉄剣や鉄鏃(てつぞく)などが出土しています。
- 【写真 慎重に鉄の剣のサビを取る(埋蔵文化財センター 鉄器処理室)】
- しかしながらこのような木器や金属器は,このまま放置しておくとサビついたり腐ったりして,原形をとどめないくらいにボロボロに劣化してしまいます。これら貴重な文化財を化学的処理によって遺物の価値を保ち,後世に伝えるように保存活用するのが保存科学という分野です。
- ■後世に残すために■
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サビに覆われた鉄製品
X線写真
鉄剣などはサビ取り後,その原因となる塩化物イオンを除去する脱塩処理を施し,樹脂(じゅし)で強化したり,必要に応じて欠けた部分を補ったりします。博物館で展示してある遺物は,このような保存処理が施されているのです。 - 【※上写真 X線写真からサビの塊は「鈴」と判明,サビ取りの結果鈴は古代の音色を奏でた】
- 保存科学という言葉が使われ始めたのは,30年にも満たないごく最近のことです。当初は技術的にも未熟で,サビをペンチで強引に除去して鉄器そのものを傷つけたり,木製品が腐らないようにと有害なホルマリン溶液に浸したりしてと,現在では考えられないような処理がなされていました。
- 遺物を後世に残すための試行錯誤は,保存科学の分野が確立した今でも続けられています。再処理可能な薬品の使用や技術の開発,自然や人体に害のない薬品や設備への切替え等の改良・改善を重ねながら,日々成長し進歩しているのです。
- (文責)大久保 浩二・鷲尾 史子
第49回 開園15周年記念
- 上野原縄文の森 第49回企画展
開園15周年記念
縄文ワールドかごしま - 開催期間:平成29年7月14日(金)~平成29年11月5日(日)
- ■企画展紹介ビデオ■
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企画展示室前では,フルバージョンのビデオがご覧になれます。
※ブラウザによっては,ビデオが表示されない場合があります。 - ■今回の主な展示品■
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- ■企画展講演会■
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第1回:平成29年8月19日(土)13:30~15:00 ※終了しました
内 容:縄文時代草創期・早期のかごしま
縄文時代前期~晩期のかごしま
第2回:平成29年10月21日(土)13:30~15:00
内 容:木佐木原遺跡(姶良市)の調査成果
小牧遺跡(鹿屋市)の調査成果
〔各回共通〕
講 師:県立埋蔵文化財センター
及び(公財)埋蔵文化財調査センター 職員
定 員:各回80人程度(要事前申込み)
場 所:上野原縄文の森展示館多目的ルーム
資料代:100円※ 講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で,講師によるギャラ
リートークを行います。
別途展示館利用料金が必要となります。企画展ギャラリートーク
展示の内容を分かりやすく解説します。
【日 時】 開催期間中の第1・第3日曜日
10:30~,14:30~ ※各回30分程度
【会 場】 上野原縄文の森展示館企画展示室 - ■企画展関連イベント■
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夏休み企画
1 「あなたならどう使う?縄文人の道具」
縄文人は展示されている道具をどう使ったのかな?
展示されている道具を自分が縄文人ならどう使うか考えてみよう!
日 時:7月21日(金)~8月31日(木) 毎日開催
☆ 参加者全員に縄文の森オリジナルグッズをプレゼントします!
2 縄文人なりきり土器作り
土器についてもようや,形を観察して,縄文人になりきって,オリ
ジナルの土器を作ってみよう。
日 時:8月の毎週日曜日(1日2回,各回30分程度)
10:20~,14:20~
定 員:10人程度(先着順)
※ 夏休み企画の参加は,有料入館者に限ります。 -
今までに開催した特別企画展情報はこちらから
> 上野原縄文の森企画展のご案内
考古ガイダンス第29回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第29回 400年の歳月を超えて - ■白薩摩・黒薩摩■
苗代川系
2 串木野窯(1599)
3 元屋敷窯(1605)
4 堂平窯(1624)
4 五本松窯(1669)堅野系
5 竪野・冷水窯(1620)
7 宇都窯(1601)
平佐系
1 脇本窯(1776)龍門寺系
8 山元窯(1667)
西餅田系
6 元立院窯(1663)- 薩摩焼の歴史は今から400年前に遡ります。文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)(1592~1598年)の際,島津家の17代当主・島津義弘(しまづよしひろ)公が,朝鮮の文化や産業技術の導入を図る目的で朝鮮人陶工を連れ帰りました。陶工たちは,鹿児島前之浜や東市来神之川,串木野島平それに加世田小湊に上陸し,慶長4(1599)年に,朴平意(ぼくへいい)が串木野で最初の窯を開きました。
その後,陶工たちの移動により,各地で窯が開かれていきました。帖佐(姶良町)で金海(きんかい)が開いた宇都(うと)窯や鹿児島城下の冷水(ひやみず)窯・長田(ながた)窯などに代表される竪野(たての)系や,朴平意らが苗代川(なえしろがわ)(東市来町美山)に移った後に開いた元屋敷(もとやしき)窯,堂平(どびら)窯,五本松(ごほんまつ)窯に代表される苗代川系。他にも,龍門司(りゅうもんじ)系,西餅田(にしもちだ)系,平佐(ひらさ)系の5つに分類されます。
慶応3(1867)年のパリ,明治6(1873)年のウィーンでの万国博覧会において,精巧で華麗な薩摩焼は一躍世界的に有名になりました。その後,朝鮮半島から伝わった陶磁器の技法は,幾世代にも引き継がれて,現在のように花開きました。 - ■堂平窯跡の調査
平成10年,薩摩焼400年祭が開催されたまさにその年の10月,東市来町美山で,17世紀前半の薩摩焼の古窯(こよう),堂平窯跡が調査されました。
この窯は,陶工たちが串木野から苗代川(美山)に移り住んで,元屋敷窯に次いで開窯(かいよう)したものといわれています。発掘調査は南九州西回り自動車道の建設に伴うもので県立埋蔵文化財センターが8月から実施しました。
その結果,窯は丘陵(きゅうりょう)の西側斜面につくられており,長さが約30メートル,幅が約1.2メートルあり,断面の形が半円筒形(はんえんとうけい)をした焼成室(しょうせいしつ)が1つだけの「朝鮮式単室傾斜窯(ちょうせんしきたんしつけいしゃがま)」とよばれるものであることが判明しました。- 【写真 堂平窯跡の発掘調査】
- この時期,他の地域では焼成室が複数で,階段状になった「肥前式連房式登り窯(ひぜんしきれんぼうしきのぼりがま)」に変わっており,薩摩焼に朝鮮半島の影響が残っていたことを示す窯でもあります。
- 窯の南側には物原(ものはら)も発見され,そこから甕(かめ)や壺(つぼ),猪牙(ちょか)などの黒薩摩の破片に混じって,当時,一般の人たちがあまり使うことのなかった白薩摩の皿(さら)や碗(わん)なども出土しました。また,円盤や馬のひづめの形をした窯道具も出土しており,焼き方や窯の形状を知る手がかりとなりました。
さらに,鶴丸城(鹿児島城)で使われたと考えられる軒丸瓦(のきまるがわら)や軒平(のきひら)瓦も出土し,その建築にも関わりのある窯であることもわかりました。このように,薩摩焼を研究していく上で貴重な資料となった堂平窯は,東市来町や美山薩摩焼振興会からの強い要望により移設保存が決まり,美山陶遊館の裏手にある公園に移設し,復元されています。 - ■薩摩焼の古窯の広がり■
- 窯道具のいろいろ
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< 焼台 > < 匣鉢 > 馬のひづめの形 鼓形 円盤形
上から
見ると
下から
見ると
窯の斜面に置くと
上が水平になる
匣鉢の中に
入れて焼く - 薩摩焼の古窯は,県内各地に広がっています。堂平窯のような単室傾斜窯に対して,連房式登り窯が発見された例の一つが,元和6(1620)年に開窯された竪野(たての)・冷水(ひやみず)窯跡です。
この窯跡は,病院の女子寮建設に伴って,昭和51年に発掘調査が行われました。窯跡は南面する傾斜地にあり,全長約14メートルで,焼成室が7室ありました。2か所の物原から碗や皿,茶入(ちゃいれ)などの白薩摩が多く見つかり藩の御用窯であったことがわかりました。
一方,黒薩摩を中心に庶民の生活に密着した陶器作りを行った龍門司系の初期の窯跡として,寛文(かんぶん)7(1667)年に開窯された山元(やまもと)窯跡があります。昭和41年に加治木町の指定文化財となりましたが,平成4年に範囲の再確認を目的に発掘調査が行われました。全長は推定で約14メートル,7室以上の焼成室をもち,約20センチ掘り下げた半地下式の登り窯と,その窯を覆っていた建物の柱穴,近くの滝から導水したと思われる配水溝も発見されました。
また,寛文3(1663)年に開かれた民陶の窯である西餅田系元立院(にしもちだけいげんりゅういん)窯跡は,平成7年に発掘調査が行われ,遺構は確認できなかったものの,この地域が「壺屋」(つぼや)と呼ばれていたことや,窯壁(ようへき)を作るときに用いられるトンバイ(レンガ)などが発見されたことから,窯があったのは確実と考えられます。
薩摩焼の系統の中で,磁器を本格的に製造したのが平佐系の諸窯であり,その中で最初に開窯されたのが,安永(あんえい)5(1776)年の脇本窯です。昭和47年の発掘調査で,全長約20メートル,焼成室4室の連房式登り窯が見つかっています。窯や窯道具,焼かれた碗・皿などの発見により,藩における磁器生産の一端が明らかにされ,意義深いものがあります。 - 以上のように,県内各地の薩摩焼古窯の発掘調査によって,その歴史が少しずつ解明されています。薩摩焼と一口に言っても,ここに紹介した古窯だけでも構造や目的,製品などが多種多様であることがわかり,そこからそれぞれの地での陶工たちの姿や思いが伝わり,薩摩焼400年の奥深さを感じ取ることができます。
しかし県内には,埋もれたままの窯がまだ多く残っています。400年という歳月を越え,薩摩焼が歩んできた歴史を調査研究する機会が待たれるところです。 - 用語解説
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文禄・慶長の役 二度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略のことをいう 古窯 昔作られた古い窯 焼成室 器物を焼く部屋のことで,窯は,この焼成室(部)と燃焼室(部)からなる 物原 失敗作などを捨てた場所 窯道具 碗や壺などの器物を窯に入れ焼くときに使う道具で,匣鉢(さやばち・耐火粘土製の容器)や焼台などがある 御用窯 藩の運営によって作られている窯 民陶 主に一般大衆向けの実用品 窯壁 窯のかべのこと - (文責)西郷 吉郎