鹿児島県上野原縄文の森 (公財) 鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター (公財) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター
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鹿児島県上野原縄文の森

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カテゴリー: 縄文の森

考古ガイダンス第23回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第23回 大隅諸島・南西諸島の旧石器時代文化
  • ■日本列島の旧石器文化の系譜を考える■
  • 1967年に沖縄で旧石器時代の港川人の化石人骨が発掘されましたが,石器は確認されていません。したがって、港川人の文化はいまだに不詳です。次に,沖縄につながる大隅・奄美諸島に旧石器が出土するようになったのはつい最近のことです。1986年の奄美大島の土浜ヤーヤー遺跡の発掘調査などに始まり、1990年代になると幾つもの遺跡で旧石器が発見されるようになりました。それは日本列島の文化の起源にもかかわることで、注目すべき問題です。
  • ■種子島の三万年を超える遺跡■
  • 礫器
    礫器
    敲石
    敲石
  • 種子島の横峯C遺跡では1992年の発掘調査で縄文時代早期層の1.2m下の地層から偶然にも礫群が発見され,その中の炭を年代測定した結果,3万年を超える「日本最古の礫群」として全国的に報道されました。これより種子島では,AT火山灰よりさらに下の種4火山灰といわれる火山灰層の下部が発掘調査対象となり,立切遺跡の発見へとつながりました。立切遺跡は1997年に農道を整備したときに発掘調査され,日本で「最古の生活跡」として全国的な話題となりました。調理に使われたと考えられている礫群が1基,食べ物や石器などを貯蔵したと考えられる土坑が2基,たき火などした焼土が14ヵ所検出されました。

    横峯遺跡は種4火山灰を挟んで上下に礫群があり,AT火山灰直上で土坑が検出されました。いずれも旧石器時代のもので,AT下位で2枚,AT上位で1枚の3文化層が存在しています。また種3火山灰と種4火山灰の間からは敲石が出土し,種4火山灰とAT火山灰の間では台石・敲石・磨石・礫器などが出土しています。さらに種4火山灰の下から,多数の磨石・砥石のほかに局部磨製石斧・打製石斧・スクレイパーなど他の石器も少数出土しています。
  • 横峯C遺跡の礫群種4火山灰の年代は放射性炭素年代測定の結果3万5,000年前ぐらいとされ,そのさらに約10cmほど下位にあたる横峯遺跡や立切遺跡は,確実に3万1,000年より古いと考えられます。
    種4火山灰の上下の文化層の石器群は,いまのところ種4火山灰を挟んで共通の石器群をもつと考えられます。石材はすべて島内のものでした。敲石や磨石がたくさん出土したことから,植物食を中心としたライフスタイルが想定されています。
  • 【写真 横峯C遺跡の礫群】
  • 立切遺跡の土坑しかし石器の材料を剥ぎ取ったあとの石をそのまま石器として利用していることから,ナイフ形石器のような剥片石器類が存在するとも考えられます。石器に使える良質の石材の石核は,持ち歩いて必要に応じて剥離作業をおこなったものと思われます。


    【写真 立切遺跡の土坑】
  • 礫群は当時の集団の人々のつながりを確認するために,季節的に集まっては調理と分配を行った施設とする説があります。横峯C遺跡と立切遺跡は,石器を製作する遺跡,礫群のある遺跡,狩猟をおこなうキャンプサイトなど,移動する遊動パターンの一つとみられています。
  • 横峯C遺跡や立切遺跡の種4火山灰の上下の旧石器時代文化層では,土の中の植物珪酸体分析や炭化材の樹種同定の結果,最終氷期を通して照葉樹林が分布していたといわれています。氷河期のなかでも暖かかったということです。

    種子島の石器文化は,日本列島と異質の文化であるとの考えから「南西諸島文化圏」を唱える人がいます。あるいは「南方型旧石器文化」として関東の石器群にもその系譜が認められるとする説も唱えられています。長い期間に及んだ旧石器時代は,多様な環境変化が起こった時代でしたが,過去には狩猟中心のイメージが先行していました。そうした旧石器時代観のイメージを種子島の石器文化が転換させた意義は大きいものがあります。藤本強氏(新潟大学教授)は,立切遺跡をはじめとする南九州の様相は,地球規模で旧石器時代の生業を考える際に重要な役割を果たすことになると指摘しています。
  • ■奄美諸島の遺跡■
  • 奄美諸島の遺跡の分布図横峯C遺跡・立切遺跡は種子島の旧石器研究の端緒を開き,またそれは奄美諸島の旧石器をより意義づけることとなり,日本列島と大陸との関係(南方ルート)を見直し再検討する契機となりました。
    奄美諸島に旧石器の存在を最初に示した土浜ヤーヤ遺跡の局部磨製石斧の破片は,立切遺跡出土の局部磨製石斧と系譜がつながっていく可能性があります。笠利町喜子川遺跡の発掘調査では礫群と,頁岩とチャートの剥片が出土し,礫群の下部から採取された木炭は,25.250±790の放射性炭素年代がでています。

    徳之島の伊仙町天城(アマングスク)遺跡は1998年に発掘調査され,チャート製の台形様石器を中心とした石器群が出土しました。これらは縄文土器が出土した位置より下層のマージ層から出土しており,発見された台形様石器などの石器組成は,旧石器時代の石器の可能性が高いとされています。

    天城遺跡の石器群を加藤晋平氏(国学院大学教授)は完新世の約6,000年前の無土器文化に伴う石器群としてとらえ,台湾島を含めて東南アジア地域の系譜で考えています。一方小田静夫氏(東京都教育庁主任学芸員)などは本州島の約3万~2万5,000万年前頃の旧石器群に対比できるとの見解をもっています。こうした論争を生んでいることは,すなわち、これら大隅・奄美諸島の遺跡の評価が日本列島全体の旧石器研究にかかわっていることをしめしています。
  • ■旧石器時代人の移動■
  • 以上をもって,氷河期の氷期と間氷期のあいだでそれぞれの環境変化に適応した異なる石器文化の移り変わりを想定してもいいのではないでしょうか。立切遺跡や横峯C遺跡はやや暖かい時期に成立しており,これが列島を北上し,その後の氷期にナイフ形石器文化が南下し,礫群や磨製石斧を伴うナイフ形石器文化が成立したと考えられます。

    琉球大学木村政昭教授は,3万年前から2万年前の琉球弧においては,陸橋が形成され,ケラマギャップとトカラギャップについても,渡れた時期があった可能性を指摘し,2万年前以降の地殻変動に伴う急激な沈水を迎え今日に至るとする研究を発表しています。長い旧石器時代に,海水面の上下と環境変化に適応して,旧石器時代人たちは南下・北上を繰り返していたのではないでしょうか。

    縄文時代草創期や早期の南の縄文文化と関連づけて,南の先進性を主張する向きもありますが,年代があまりにも離れており,そうした図式で文化を理解しようとする態度は科学的とはいえないばかりか,人間行動などの理解をも矮小化していくことにほかなりません。何万年から何百年にかけての長い年月を経て,モンゴロイドがベーリング海をわたりアメリカ大陸を南下したように,旧石器時代人たちの移動範囲はひろかったのです。
  • 用語解説
  • AT火山灰 姶良・丹沢火山灰の略,姶良カルデラの約2万5,000年前の噴出物で,南九州では火砕流噴出物が厚く堆積し,「シラス」といわれる。
    種4火山灰 種子島で確認された火山灰で下位より種1~種4火山灰といわれる。その上にAT火山灰が堆積している。
    マージ層 隆起石灰岩の風化土壌で,赤色の粘土層である。乾燥すると固結し,雨がふるとドロドロとなる。近世・近代では,人力で海砂を混入して土壌改良していた。
  • (文責)堂込 秀人

考古ガイダンス第22回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第22回 大規模な石器製作所
  • ■旧石器時代終末■
  • 仁田尾遺跡日本最初の旧石器時代遺跡である岩宿遺跡が発掘調査(1949年)されてから半世紀が過ぎました。この間に鹿児島県内の旧石器時代遺跡も多く発見され,その数は現在100ヵ所を越えています。

    人類が誕生して以来,旧石器時代は数回の氷期を経ており,絶滅したナウマンゾウやオオツノジカなどを追い求める生活をしていたと考えられています。日本では最後の氷期であるウルム氷期のなかごろ,約3万5,000年前以後を後期旧石器時代に区分しています。

    後期旧石器時代の終末は,主要な狩猟用石器がそれまでのナイフ形石器から細石刃(さいせきじん)に変わることにより細石刃文化と呼ばれています。細石刃はカミソリの刃を小さくしたような長さ2センチ程度の大きさであり,小さいため単独では道具とならず骨角などに溝を彫り,そこにたくさん埋め込んで槍先などとして使用したと考えられています。
  • 【地図 仁田尾遺跡(鹿児島市石谷町/旧日置郡松元町)】
  • 細石刃は日本だけではなくシベリア・中国・韓国など東アジアの広い地域で,旧石器時代終末に使用されています。
    細石刃文化の開始は約1万5,000年前とされていますが,最近の北海道の調査では2万年前のものが発見されており,日本列島の南北で開始の様相が異なることが知られてきました。
  • ■仁田尾遺跡■
  • 仁田尾遺跡の発掘調査南九州西回り自動車道建設に伴い発掘調査された仁田尾(にたお)遺跡では細石刃文化の石器などが多量に出土しました。石器には細石刃のほか掻器(そうき)・削器(さっき)・打製石斧・礫器(れっき)・磨石(すりいし)などがあり,また石器を作った時の石のカケラ(剥片)も多量に発見されています。

    【写真 仁田尾遺跡の発掘調査】
  • これらの遺物は広い範囲に万遍なく出土するのではなく,直径数メートルの範囲に集中しており,このような遺物が集中している区域をブロックあるいはユニットと呼んでいます。つまり石器や剥片が集中して発見されるブロックは,それが石器製作の場所であったことを示しています。
  • 普通の旧石器時代遺跡ではブロックは数ヵ所発見されますが,仁田尾遺跡では50ヵ所を超えるブロックが発見されています。遺物総数も10万点以上であることから大規模な石器製作所であったと考えられます。そのため日本最大級の細石刃文化遺跡として注目されています。
  • ■細石刃技法■
  • 細石刃の装着例(実験製作品)石器である細石刃よりも,細石刃を剥ぎ取った残りの細石刃核(さいせきじんかく)が多くの情報をもっています。すなわち当時の人々がどのような手順で細石刃を作っていたかという石器製作技術が読み取れるからです。細石刃の形は一定であっても,それを剥ぎ取るまでの技術と方法は地域や時期の違いにより異なっていることが判明しています。
  • 【写真 細石刃の装着例(実験製作品)】
  • 細石刃の剥ぎかたの一例北海道や東日本では大型の槍のような形に整えたものを準備段階として作り,その後に平坦な打ち欠く面を作って細石刃を剥ぎ取る湧別(ゆうべつ)技法が一般的です。
    西日本では比較的小さな剥片や小礫を使い,最初に細石刃を剥ぎ取る平坦な打ち欠く面を決め,その後細石刃核の形を整える矢出川技法(やでがわぎほう)が広く分布しています。矢出川技法により作られたものは野岳・休場型細石刃核と呼ばれています。このように細石刃の製作技術の違いにより,当時すでに地域性があったことが理解できるのです。
  • 【図 細石刃の剥ぎかたの一例(細石刃核を左手で石の割れ目に固定し,右手の鹿角で押し剥いでいる)】
  • 九州では矢出川技法の他にも数種類の細石刃製作技術が知られており,地域性や製作時期の違いとされています。なかでも鹿児島市加治屋園遺跡から出土した細石刃核は,扁平な板状の凝灰岩質頁岩を数個に分割してそのまま細石刃を剥ぎ取るという,他に類例のない特徴的な製作技術であり,遺跡名から加治屋園技法と呼ばれています。
  • また宮崎県南部を中心として一部大隅半島まで分布するものとして畦原型細石刃核(うねわらがたさいせきじんかく)があります。これは砂岩の小円礫を二分割してそのまま細石刃を剥ぎ取るものであり,加治屋園技法との関連性が認められています。
  • 最近種子島の数か所の遺跡で発見された細石刃核は東九州に特徴的な船野(ふなの)型細石刃核であり,使用されている石材は頁岩であり,形態や石材から宮崎県南部との関連性が指摘されます。
    仁田尾遺跡で出土した細石刃核は1,000点を超えています。九州で認められるほとんどの種類の細石刃核が網羅されており,今後の分析・研究が期待されています。
  • ■狩猟用落とし穴■
  • 旧石器時代も終末になるとナウマンゾウなどの大型動物からイノシシやシカに変わっており,当時の人々はこれらの動物の狩猟やドングリ類などの採集により食料を確保していました。
  • 仁田尾遺跡の落とし穴仁田尾遺跡では平面形が長方形や楕円形の遺構が検出されました。長さ1.5メートル,幅0.8メートル,深さ1.2メートル程度の穴で,底面には小さな穴(細いクイを埋め込んだ痕跡)が複数確認されたことなどから,イノシシやシカを捕獲するための落とし穴であることが明らかとなりました。


    【写真 仁田尾遺跡の落とし穴(床面にクイを打った痕跡が見える)】
  • 仁田尾遺跡では16基の落とし穴が発見されました。このような細石刃文化期の落とし穴は出水市大久保遺跡や入来町鹿村ヶ迫遺跡でも検出されています。
  • つまり細石刃文化期の南九州では細石刃を装着した槍による狩猟だけでなく,落とし穴を使用する狩猟も,全国より早い時期に広く行われていたことが明らかとなりました。
  • ■縄文時代の開始前夜■
  • 仁田尾遺跡では細石刃などと一緒に,一部のブロックでは石鏃と土器も発見されています。この石鏃や土器は縄文時代の指標であることから,まさに旧石器から縄文へと,時代の新世紀を迎えていたと考えられています。
  • 用語解説
  • 掻器(そうき) 動物の皮などをなめす道具と考えられている。
    削器(さっき) ものを切ったり削ったりするナイフのような道具。
    磨石 ドングリ類などをつぶしたり粉にする道具。
    礫器(れっき) 礫に簡単な打ち欠きを行っただけの道具。
    細石刃技法 細石刃をどのような手順で製作していたかを明らかにしたもので,剥片などの接合作業から導かれる。
  • (文責)宮田 栄二

縄文の森から 平成28年11月

平成28年11月29日(火)

第47回企画展関連イベントのお知らせ

ワークショップ「薩摩焼を作ろう」とミュージアムグッズ販売

※画像をクリックすると,チラシがダウンロードできます。 

第47回企画展の関連イベントとして,ワークショップ「薩摩焼を作ろう」を開催します。また,本企画展開催を記念して,黒じょかと白じょかのミュージアムグッズを販売します。詳しくは,チラシをご覧ください。


平成28年11月10日(木)

縄文の森不思議探検第3回

縄文の森どんぐりを調べよう

縄文の森で,どんぐりについての特徴を知り,その後でどんぐりを使ったおもちゃ作りなど,どんぐりの利用方法について学んでみよう!

講  師:鹿児島県立博物館
     学芸指導員 寺田 仁志 氏
日  時:平成28年11月19日(土)
     10:00~11:30
集合場所:復元集落休憩所
定  員:40人程度
参 加 料:無料
準備するもの
 汚れても良い服装,運動靴,タオル,水筒,帽子等


平成28年11月10日(木)


「平成27年度 縄文のリースを作ろう」より

第5回 一日縄文人体験
縄文のリースを作ろう

平成28年12月3日(土)10:00~12:00
場所:体験学習館 参加料:50円
 縄文の森で採れる自然素材で作ります。
オリジナルの縄文リースと素敵な思い出をつくりましょう!

お問い合わせ先:上野原縄文の森  電話 0995-48-5701

第47回 近代化の一翼を担った薩摩焼

  •    
    ※ クリックすると,チラシがダウンロードできます(どちらの画像も同じチラシがダウンロードされます)。 
     
     島津義弘の時代に始まる薩摩焼は,日用品から大名家の器,金襴手など県内各地で多様な発展を遂げました。また,薩摩焼の技術は集成館事業のなかで大きな役割を果たした反射炉の耐火レンガ製作にも活かされました。その技術と400年をこえる歴史・伝統を,伝世品や県内各地の発掘調査で得られた出土品をもとに紹介します。 
  •  
  • ■企画展で紹介する主な窯跡■
  •  
     
    第47回企画展 イメージスライドショー 「苗代川の記憶」
     
  • ■注目の展示品(その1)■
  • 県内初公開!!
    薩摩焼発祥の串木野窯跡から出土した陶片(根津美術館蔵) 
     
     写真にカーソルを置いてください。右側に別ウインドーで拡大表示されます。
  • ■企画展講演会■
  • 平成29年1月21日()13:30~15:00 ※終了しました
     演 題「集成館事業において薩摩焼の果たした役割」
     講 師:鹿児島大学法文学部 教授 渡辺 芳郎 氏
     定 員:80人程度(要事前申込み)
     場 所:展示館多目的ルーム
     資料代:100円
     講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師によるギャラリートークを行います(別途展示館利用料金が必要となります)。 
  • ■企画展関連イベント■
  • ワークショップ「薩摩焼を作ろう」
     【日 時】 平成28年12月24日(土) ※終了しました
            13:00~16:00
     【講 師】 琴鳴堂 代表 四元 誠 氏
     【定 員】 30人(先着順,要事前申込み)
     【場 所】 展示館多目的ルーム
     【参加料】 500円
       
    企画展ギャラリートーク
     企画展開催中に展示の解説を行います。
     【日 時】 開催中の第1・第3日曜日
     1回目 10:30~ 2回目 14:30~ ※各回30分程度
     【会 場】 企画展示室

考古ガイダンス第21回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第21回 定住生活の始まり
  • 霧島市の上野原遺跡は,縄文時代早期前半(約9,500年前)の大規模な集落で,当時の南九州の独特な文化を垣間見ることができます。このような集落をつくって長く住む「定住生活」と,それにまつわる様々な文化は,いつどこでどのように始まったのでしょうか。
  • ■変わりゆく風景■
  • 縄文時代草創期の主な遺跡今のところ「定住生活」は,縄文時代草創期(そうそうき)と呼ばれている約13,000年前から約10,000年前の間に始まったと考えられています。

    このころは,氷河が大陸を覆う寒冷な気候(氷期:ひょうき)から温暖な気候(間氷期:かんぴょうき)へと変わりつつありました。氷河がとけるにつれ,大気は暖かく湿り気を帯びはじめました。大気の変化によって暖かくなり雨が多くなった大地では,落葉広葉樹(らくようこうようじゅ)の森が生まれ木の実を実らせるようになり,氷河期にいた大型の動物にかわって小型で敏捷な動物が姿を見せるようになりました。またかつて草原だった土地は浅い海になり,魚や貝などの姿が目立ち始めました。
  • 【地図 遺跡位置図:1 瀧之段遺跡,2 向栫城跡,3 掃除山遺跡,4 栫ノ原遺跡,5 東黒土田遺跡】
  • このようにめまぐるしく変わっていくまわりの自然環境に適応し生き残るため,列島各地の人々はそれまでの暮らしを変え始めた。他よりもいくぶん早く変化が始まっていたと考えられる南九州にいた人々もこうした行動をおこしていたに違いありません。
  • ■定住生活への道のり■
  • 志風頭遺跡の土器新たな環境のもとで,狩りの道具に変化が現れました。

    今までの槍に変わり,弓矢が発明されたました。腕力頼みのうえに枝が茂る森の中で充分に振りかぶれない槍にくらべて弓矢ははるかに小型で,しかも弓の張力を使って矢を速く強く遠くまで飛ばすことができました。きっと森の小動物でも確実にしとめられたことでしょう。
  • 【写真 志風頭遺跡の土器[口径約42cm・深さ約27cm](出典 加世田市教委)■
  • 次に土器が発明されました。人々は土器を使って,森に豊富にある木の実や草の新芽や根っこなどを煮炊きして食べることができるようになりました。
    「人類が利用した初めての化学変化」ともいわれる土器は煮炊きの技術を可能にさせ,食べ物の種類を飛躍的に増やした画期的な道具だといえるでしょう。
  • 加栗山遺跡の石皿土器の利用により,人間の食べることのできる植物が増え,確保が楽になり栄養のバランスもよくなりました。また柔らかく煮ることで老人や子供や病気の人などにも食べやすくなり,集落が移動せず落ち着いて暮らせるようにもなったのです。


    【写真 加栗山遺跡の石皿[長さ40cm・厚さ約9cm]】
  • これらの技術を採り入れた南九州の人々は,とくに木の実などを主食とする暮らしを始めたようです。このことは出土する土器や,木の実などをすりつぶす道具とされている磨石や石皿などが他よりも多く出土することからもわかります。
  • その上,人々は「煙道付炉穴(えんどうつきろあな)」や「配石炉(はいせきろ)」という画期的な施設も生みだしています。前者は薫製を作っていたかもしれない施設で,肉類など腐りやすい食料の保存法をよく知っていたことが推察され,後者は火の熱を効率的に使う施設の可能性が考えられています。
  • そして,人々は森のそばの適当な土地に「竪穴住居(たてあなじゅうきょ)」を建てて集まって暮らすようになり,「定住生活」を始めたのです。では,県内各地にある草創期の主な遺跡をごく簡単に紹介しましょう。
  • 約11,000年前の集落・掃除山遺跡鹿児島市の掃除山(そうじやま)遺跡は当時の様子がよくわかる代表的な遺跡で,竪穴住居や煙道付炉穴,配石炉などがあり多量の土器と磨石・石皿が出土しました。加世田市の栫ノ原(かこいのはら)遺跡は,竪穴住居こそ発見されていないものの,掃除山遺跡とよく似た施設や多量の土器・石器が出土しました。

    【写真 約11,000年前の集落・掃除山遺跡(出典 鹿児島市教委)】
  • 栫ノ原遺跡の配石炉弓矢に使う矢じり(石鏃:せきぞく)は,市来町の瀧之段(たきのだん)遺跡や東市来町の向栫城跡(むかいがこいじょうあと)で多量に出土しています。また,志布志町の東黒土田(ひがしくろつちだ)遺跡では木の実がつまった土坑が発見されています。この他,種子島にも同じような遺跡があります。

    【写真 栫ノ原遺跡の配石炉(出典 加世田市教委)】
  • 当時は定住地を決めてそこで一生暮らすのではなく,ある程度の広さを持った地域内にいくつかの定住地点をかまえ,周辺の森で木の実などを採ったり狩りをしたり,川や海で漁をしたりしていたと考えられています。今のところ,これが草創期の「定住生活」のありかたと考えられていて,特に南九州では森という環境により適応した「定住生活」を築いたようです。
  • (文責)横手 浩二郎

縄文の森から 平成28年10月

平成28年10月31日(月)

平成28年度考古学講座(第4回)の内容の変更について

平成28年11月5日(土)に予定している考古学講座(第4回)「遺跡を見学しよう」は,都合により,遺跡の見学は見合わせ,代わりに展示館多目的ルームにおいて講演会を開催します。

現在発掘調査が行われている「春日堀遺跡」について最新の情報を交えながら解説します。

日  時:11月5日(土)13:30~15:00 ※終了しました
       (受付開始13:00~) 
紹介遺跡:春日堀遺跡(志布志市有明町蓬原)
講   師:(公財)埋蔵文化財調査センター
       文化財専門員 馬籠 亮道氏
場   所:展示館多目的ルーム
参 加 料:100円(資料代)
定   員:80名程度


平成28年10月12日(水)

企画展講演会のお知らせ

◎第46回企画展に関連した講演会第2回を開催します。


(講演会第1回ギャラリートークの様子)

1 日 時 平成28年10月29日(土) 13:30~15:00
2 内 容 ①「牧野遺跡(南九州市)」
        講師:県立埋蔵文化財センター 
                第二調査係長 今村 敏照 氏
       ②「小牧遺跡(鹿屋市)」
        講師:(公財)埋蔵文化財調査センター
                文化財専門員 横手 浩二郎 氏
3 場 所 上野原縄文の森展示館 多目的ルーム
4 対 象 どなたでも参加できます。
5 定 員 80人程度(要事前申込み)
          ※申込みについては,電話またはFAX・Eメールにて申し込みください。
6 資料代 100円 
7 その他 講演会終了後,希望者を対象に企画展示室で講師による
       ギャラリートークを行います。(別途展示館利用料金が必要)

考古ガイダンス第20回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第20回 九州縦貫自動車道関連の遺跡
  • 九州縦貫自動車道関連の遺跡分布図遺跡が道路工事などによって壊されてしまう場合,事前に発掘調査を行います。

    左図は,鹿児島県内中央部の発掘された主な遺跡を示す地図です。これを見て何か気づきませんか。遺跡の分布が一本の線のように見えるでしょう。
  • 【九州縦貫自動車道関連の遺跡分布図:1 加栗山遺跡, 2 小瀬戸遺跡, 3 加治屋園遺跡】
  • これは九州縦貫自動車道・南九州西回り自動車道(鹿児島~市来間開通)・東九州自動車道(加治木~末吉財部間開通)の3つの高速道路の建設工事前に発掘調査をした跡なのです。
  • ■鹿児島県における発掘史の転換点■
  • 九州縦貫自動車道の建設に伴い,昭和46年から昭和55年までの9年間に38ヵ所の遺跡が発掘調査されました。総面積はおよそ186,000平方メートルに上ります。このときの調査面積や出土した遺物の量は鹿児島県の発掘史上類をみないもので,数々の貴重な発見がなされました。鹿児島県に本格的な発掘調査の波が到来したのです。
  • ■主な遺跡の紹介■
  • 加栗山遺跡と加治屋園遺跡加栗山遺跡(かくりやまいせき)

    鹿児島市川上町。旧石器時代・縄文時代・中世山城跡の複合遺跡。縄文時代早期(約9,500年前)の竪穴住居跡が17軒,薫製(くんせい)づくりを行っていたと考えられる連穴土坑(れんけつどこう)と呼ばれる施設が33基発見されました。
    縄文時代早期のはじめ(約9,500年前)は,定住生活が始まるかどうかというころであり,一つの遺跡から竪穴住居跡が17軒見つかったことは全国でもまれなことでした。
    また旧石器時代の道具である細石器(さいせっき)や,石皿(いしざら)も発見されました。
  • 【写真 上空から見た加栗山遺跡(黄色)と加治屋園遺跡(青色)】
  • 加治屋園遺跡加治屋園遺跡(かじやぞのいせき)

    鹿児島市川上町。旧石器時代と縄文時代の複合遺跡。加栗山遺跡とは小川を隔てた台地にあり,鹿児島料金徴収所南側の台地縁辺部にあたります。約15,000年前の旧石器時代の層からは,加治屋園技法と名付けられた独特の技法を用いて製作された細石器や,短い粘土紐(ねんどひも)を貼り付けた土器のほか,石鏃(せきぞく)や石皿などが発見されました。

    【写真 上空から見た加治屋園遺跡】
  • 土器が発明される前の時代のことを旧石器時代といいます。加治屋園遺跡では,旧石器時代の代表的な道具である細石器と,縄文時代に作られた土器や石鏃・石皿などが同時に発見されました。

    この他にも鹿児島では,旧石器時代の終わりから縄文時代の始めにかけて,多くの遺跡が発見されています。これは日本列島の中でも南に位置し,いち早く気候の温暖化が進んだことが要因の一つといわれています。暖かい気候の中でドングリなどの木の実に恵まれ,それを求めて動物も多く住むようになったのでしょう。このように,生活に欠かせない食料が豊かになり,初めて定住生活が始まるようになったと考えられています。
  • 小瀬戸遺跡小瀬戸遺跡(こせどいせき)

    姶良郡姶良町。桜島サービスエリア近くの沖積低地に所在。奈良時代末から平安時代にかけて使われた土師器(はじき)・須恵器(すえき)・青磁(せいじ)・白磁(はくじ)・瓦(かわら)などが多量に出土しました。遺構としては数多くの柱穴群をはじめ,掘立柱建物跡2棟,井戸跡2か所,溝状遺構10条などが発見されました。
  • 【写真 上空から見た小瀬戸遺跡】
  • 井戸跡からは木製の容器,瓦,植物の種子(モモ・ウメ・ヒョウタン等)が出土しました。通常木製品や種などは腐敗しますが,この遺跡は低湿地であるため,地下水に保護されて残っていたのです。当時の植物や木製品を知る上で貴重な資料です。また底面に「伴家」とヘラで書かれた緑釉陶器(りょくゆうとうき)や墨書土器(ぼくしょどき)なども出土しました。
  • 当時これらの陶器や文字が使用されたのは役所や寺院などごく限られた場所であったことや,大隅国分寺跡と類似した瓦が見つかっていることから,郡衙(ぐんが)などの公的な施設があったのではないかと考えられています。 
    九州縦貫自動車道関連で発掘されたその他の主要な遺跡として,三代寺遺跡(加治木町)・石峰遺跡(溝辺町)・木場遺跡(栗野町)・桑ノ丸遺跡(溝辺町)などがあります。
  • 用語解説
  • 石皿 木の実などをすりつぶすのに使用した皿状の石器。
    石鏃 石のやじり。矢の先につけて,狩猟具・武器として使用した。
    黒曜石 灰色ないし黒色のガラス質の石。硬くて加工がしやすいという性質 から石器の素材となる。
    青磁 青緑色または淡黄色の釉薬(うわぐすり)をかけた磁器。
    白磁 白色の磁器。
    磁器 素地(そじ)がよく焼きしまってガラス化し,吸水性のない純白透明性 の焼物。有田焼・九谷焼など。
    土師器 古墳時代から平安時代まで使用された赤茶褐色の土器。弥生時代の技法を受け継いでいる。
    須恵器 古墳時代から平安時代まで使用された灰色の焼物。朝鮮半島から伝わった技法で作られ,土師器よりも硬い。
    郡衙 郡司が政務をつかさどる役所。奈良・平安時代,全国に国と郡と里が設置された。
    墨書土器 墨で文字や絵画などを書いた土器。
  • (文責)橋口 勝嗣

縄文の森から 平成28年9月

平成28年9月27日(火)

常設展示室の河口コレクションコーナーをリニューアルしました。

千束(せんぞく)遺跡」(南大隅町),「(いり)()遺跡」(日置市)の出土資料

常設展示室で,長年,鹿児島県の考古学界をリードしてきた考古学者,河口貞徳(かわぐちさだのり)氏(1909~2011)が調査した遺跡の考古資料等を紹介しています。
 今回紹介するのは,千束遺跡と入来遺跡の出土資料です。
 千束遺跡は古墳時代(約1,500年前)の遺跡です。昭和47年の調査では竪穴住居跡が2軒発見されました。1号住居跡からは完全な形をした甕形(かめがた)土器,軽石の加工品などが,2号住居跡からは土器片,鉄製品,木の実,(じゅう)(こつ)などが出土しました。
 入来遺跡は弥生時代と古墳時代の遺跡です。調査の結果,弥生時代前期後半(約2,300年前)のU字(こう),弥生時代中期前半(約2,200年前)のV字溝や貯蔵穴(ちょぞうけつ),古墳時代の竪穴住居跡群などが発見されました。


平成28年9月13日(火)

平成28年度考古学講座第3回 

「関白秀吉の薩摩侵攻の足跡」

豊臣秀吉が行った薩摩侵攻を県内に残る遺跡をもとに解説します。

日 時:9月24日(土)  13:30~15:00 ※終了しました
講 師:南九州城郭談話会 副会長 新東 晃一 氏 
定 員:80人程度
場 所:展示館多目的ルーム
資料代:100円

考古ガイダンス第19回

  • 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
    第19回 貝殻文土器の時代
  • ■桜島と考古学■
  • 錦江湾に悠然とそびえる桜島は鹿児島を代表する景観であり,象徴的存在でもあります。その桜島は,約2万5,000年前に大噴火した姶良カルデラの南東の海中に誕生し,17回の大規模な噴火のあったことが火山研究者によって確認されています。中でも4回目の噴火は今から約1万1,500年前とされ,この噴火により現在の桜島の姿が形作られたと考えられています。
  • この噴火の記録は各地で火山灰の堆積層として残され,遺跡や崖面で観察することができます。火山研究者や考古学研究者の間では薩摩火山灰あるいはSz‐SもしくはP14と呼ばれ,遺物や遺構の時代判断の重要な目安とされています。
    今回取り上げる土器はこの薩摩火山灰層に最も近く,しかもその直上で発見されることが多い「岩本式土器(岩本タイプ)」です。
  • ■貝殻文の時代■
  • 岩本式土器ところで縄文土器とは縄でつけた文様を持つ土器のことで,縄文時代の土器の総称です。しかし縄文時代人は,縄以外にもヘラや貝殻で文様を描いたり,粘土紐や文様を刻んだ棒状の施文具で巧みに土器の表面を飾っています。
    縄文時代早期の南九州の人々は,貝殻を利用することが一般的でした。特にサルボウやアカニシの口の部分を用い,押したり引いたりの動作を繰り返し,波形の刻み目を付けたり斜めに筋を引っぱったりと,シンプルではありますが芸術感あふれる文様を残しています。
    これらの土器を総称して貝殻文土器と呼んでいます。特に円筒形に仕上げることの多い岩本式土器・前平(まえびら)式土器・吉田式土器・石坂式土器などは,円筒形貝殻文土器と呼ばれています。
  • 【図 岩本式土器(指宿市・岩本遺跡出土)】
  • ■上山路山(かみやまじやま)遺跡■ 
  • 縄文早期の遺跡岩本式土器が大量に出土して注目されている遺跡に,伊集院町の上山路山遺跡があります。1997年度に南九州西回り自動車道の建設に先立って調査を行ったこの遺跡は,台地の縁辺から谷へ下る斜面に遺跡が作られていました。

    遺跡の中心部である集落跡は,調査範囲外の台地中央部と推定されています。谷への急斜面で大量の土器が発見されたことにより,ここは土器捨て場であった可能性が高いとみられています。縄文時代の遺跡は,上山路山遺跡と同様に台地の縁辺部に形成されることが多いといえます。ここ上野原遺跡もその一つであり,青森県の三内丸山遺跡も青森湾を見下ろせる場所に遺跡が残されています。
  • 【写真 縄文早期の遺跡(伊集院町・上山路山遺跡)】
  • なぜ縄文時代の遺跡の多くはこのような台地に作られたのでしょうか。おそらく台地の裾には川が流れ広い湿地が広がり,遠くには海が眺望できたとことでしょう。このような台地の麓には,水や食料を求めて動物が集まり,川や海には豊かな魚や貝があふれていたと思われます。
  • ところで,上山路山遺跡の谷筋には道跡らしき遺構も発見されています。頂上部分に当たるわずかな平坦部を調査していたときに検出されたもので,おそらく台地上の生活の場と谷を行き来したものと思われます。またY字状の三差路らしき部分もあわせて発見されました。
  • 道跡遺構は,黄褐色の薩摩火山灰層の上に黒っぽい土が入る溝状の窪みとして残されていました。また先に記した土器捨て場の可能性が高いことは,道跡には土器を捨てておらず,使用しない反対側の急勾配の斜面から大量に土器が発見されていることからも類推することができます。
    仮にこのように推定することが可能であれば,生活の場と捨て場の使い分けが既にあったこととなり,生活環境に対する空間認識が存在したということがいえます。
  • ■岩本式土器の起源■
  • 岩本式土器の出土状況岩本式土器の起源については,少しずつ明らかになりつつあります。

    薩摩火山灰層の下から発見される土器の多くは,隆起線文土器・隆帯文土器と呼ばれる縄文時代初源期の土器で,岩本式土器とは製作方法や土器の形・文様が大きく異なっています。そのため直接的な繋がりを見ることはできません。したがって,薩摩火山灰層を介して文化的・時間的断絶が存在することになります。
    しかし,最近指宿市の岩本遺跡や水迫遺跡,宮崎県の堂地西遺跡等の出土品の中に,その繋がりを示す答えが秘められている可能性が指摘されつつあります。また岩本遺跡・上山路山遺跡等では,岩本式土器に赤色顔料を塗った土器が出土しており,これまで日本最古の例であると考えられていました。
  • 【写真 岩本式土器の出土状況(田代町・ホケノ頭遺跡)】
  • しかし,最近になり薩摩火山灰層よりも古い隆帯文土器や,末吉町の桐木遺跡出土の隆起線文土器にも赤色を塗彩していることがわかってきました。このことは,薩摩火山灰層を介して時間的隔絶は明らかに存在してはいるものの,赤く塗られた土器を使う意識や慣習に共通した側面があったことを指摘できるでしょう。
  • 土器を赤く塗るという文化・伝統の面からの繋がりが考えられるのです。今後の新たな調査・研究の進展によって,また異なった展開も期待されるところです。
  • 「君よ知るや南の国」
    今回は上野原遺跡より少し古い時代の話でした。南国の豊富な自然の幸を利用しながら,南九州の人々はすばらしい文化を作りあげたのです。
  • 用語解説
  • 岩本式土器(岩本タイプ) 指宿市岩本遺跡で見つかった円筒形貝殻文土器の一種。
    器形は円筒形(バケツ形)で,口唇部に波型の刻みが入る。
    内外面は貝殻を利用して,丁寧になでてある。
  • (文責)寺原 徹