推しの逸品「幕末の砲台跡」(根占原台場跡:南大隅町)
19世紀初頭の薩摩藩近海には,西欧諸国の艦船が頻繁に出没し,対外的な緊張が高まっていました。当時藩主であった島津斉興は,これに対応するため,指宿・山川・佐多・根占など各地に台場(砲台)を築いています。
根占に築かれた台場は,薩摩藩の中でも初期に築かれた台場の一つで,弘化4(1847)年に完成されました。現在は,台場公園として整備され,砲台が復元されており,平成30年に,県の史跡に指定されています。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(194)「敷根火薬製造所跡 根占原台場跡 久慈白糖工場跡」
https://www.jomon-no-mori.jp/old/pdf_data/H46001-2-0194.pdf
弥生時代のお墓6(永吉天神段遺跡:大崎町)
弥生時代のお墓5(永吉天神段遺跡:大崎町)
地面を下に向かって掘り込み,その後横方向に掘り込んでいく靴の形のような土坑墓で,「横口式土坑墓」と呼ばれています。
横方向の穴に遺体を安置したと考えられています。
イメージ図では,横の掘り込みを,木蓋や石蓋で閉塞するように描かれていますが,土坑墓6号では,土塊で閉塞した可能性がある痕跡が発見されています。
一方,土坑墓15号ではその痕跡は確認できませんでした。
弥生時代のお墓4(永吉天神段遺跡:大崎町)
弥生時代のお墓3(永吉天神段遺跡:大崎町)
土坑墓20号は,隅丸長方形の平面形で,広く浅い形状をした土坑墓です。一部,削平されていますが,長軸 2.5 m,短軸 1.5 m,深さ 0.4 mの大きさがあります。
鉄鏃3点,磨製石鏃4点,管玉1点が出土しています。隣接する土坑墓19号からも,鉄鏃が出土しています。
この隣接する2基のみに,鉄鏃が出土しています。戦いで亡くなった2人の戦士? 親と子? 夫婦? など,色々想像が膨らみます。
『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第3分冊)
https://www.jomon-no-mori.jp/wp-content/uploads/2020/04/H46001-3-0027-3.pdf
弥生時代のお墓2(永吉天神段遺跡:大崎町)
永吉天神段遺跡では,様々な形のお墓が発見されています。土坑墓2号は,隅丸長方形の平面形で,広く浅い土坑墓です。
長軸 2.5 m,短軸 1.4 m,検出面からの深さは浅く 0.3 mです。
土坑短辺にあ たる西壁と東壁の際には溝状の掘り込みも1条ずつあり,この溝状 掘り込みについては,木棺墓の小口板の痕跡の可能性があります。
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弥生時代の墓~周溝墓~(永吉天神段遺跡:大崎町)
弥生時代中期(約2,200~2,000年前)の墓です。墓穴の周囲に溝をめぐらせています。
墓穴の部分は2段掘りの構造で,1段目は隅丸長方形で浅くて広いです。2段目は平面が長方形で,狭くて深いです。まわりの溝の規模は,8.6×8.2m(平均底幅104㎝)です。
遺跡では,弥生時代の墓が25基ほど発見されていますが,この周溝墓4号は位置や規模から,それらの中心的な墓の可能性があります。
『公益財団法人鹿児島県文化振興財団 埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(27)「永吉天神段遺跡5 第2地点-3」(第3分冊)
https://www.jomon-no-mori.jp/wp-content/uploads/2020/04/H46001-3-0027-3.pdf
石切場跡(虎居城跡:さつま町)
虎居城跡では石切場の跡が3か所発見されました。
約11万年前の加久藤火砕流堆積物である溶結凝灰岩を,縦方向に階段状に切り出しています。
石を割るためのくさび「矢」の痕跡も明瞭に残されています。城跡からこの石材を使った石製品が出土していないことから,切り出された石は,川内川から運ばれ,別の場所で製品化されたものと考えられています。
城の時期でなく,18~20世紀前半ぐらいに石切場として,活用されていたようです。
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(162)「虎居城跡」
https://www.jomon-no-mori.jp/old/pdf_data/H46001-2-0162.pdf
ナスビ形の鍬(南下遺跡:南さつま市)
南下遺跡からは,古墳時代(3~5世紀ぐらい)の木製の鍬と柄が出土しています。
鍬はナスビ形といわれ,直に柄に鍬の刃を装着できるようにしています。平鍬と二叉が出土しています。境川対岸の中津野遺跡からは,弥生時代の鍬が出土しています。
昔からこの地域は,米作りが盛んだったのでしょうか?
『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(157)「南下遺跡」
https://www.jomon-no-mori.jp/old/pdf_data/H46001-2-0157.pdf
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色々な痕が残る土器の底(中津野遺跡:南さつま市)
縄文時代後期(約4,000年前)の土器の底です。土器製作時に底に敷いた物の痕跡です。
1795は,植物を編んだ網代編み(網代底),1817は葉っぱの圧痕が残る底部で,オオタニワタリの葉を利用していることが判明しています。
1828は底面の周縁部にごく小さなくぼみがまとまって見られるもので,クジラの脊椎骨の痕の可能性があります。
色々な敷物を使い土器を製作していたようすがわかると共に,当時の編物の技術も知ることができます。
https://www.jomon-no-mori.jp/wp-content/uploads/2022/04/H46001-2-0217-1.pdf
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