鹿児島県上野原縄文の森 (公財) 鹿児島県文化振興財団上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター (公財) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター
MENU

鹿児島県立埋蔵文化財センター

鹿児島県上野原縄文の森 HOME 公財 鹿児島県文化振興財団鹿児島県上野原縄文の森 埋蔵文化財情報データベース 鹿児島県立埋蔵文化財センター 公財 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター

投稿者: 管理人

【北山遺跡1(南九州西回り自動車道建設)】報告書番号(51) ~その5~

鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターでは,令和4年度に4冊の発掘調査報告書を刊行しました。鹿児島県立埋蔵文化財センターのホームページに掲載されていますのでご覧ください。これらの報告書の中から,注目すべき成果や今後の研究課題などを紹介したいと思います。第6回は,公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書(51)の北山遺跡1~その5~の莫禰(あくね・阿久根)氏編です。

 

【北山遺跡1(南九州西回り自動車道建設)】報告書番号(51) ~その5~

北山遺跡18~39区で検出された中世の遺物や遺構が,13~16世紀に該当することを確認したところで,この地を治めていたとされる莫禰(あくね・阿久根)氏について,現在明らかになっていることを中心に見ていくことにしましょう。

莫禰氏の初代は,平安時代おわりの12世紀中頃に莫禰院司(いんじ:現在の市町村長に相当)となった神崎太郎成兼が,莫禰氏と称したことが始まりだと言われています。平家(へいけ)の下にあり,夫人は薩摩川内市にある新田神社の権(ごん:役職名の前に付く)執印(しゅういん:役職名から姓に引き継がれた)氏の娘のようです。阿久根中学校南側に賀喜(がき)城がつくられたのもこの頃とされます。この時期の遺物は,18~39区ではほとんど出土していませんので,賀喜城もしくは40区より東側に拠点があった可能性もあります。2代成秀は平安時代末期に活躍したようですが,詳細は不明です。

3代成光は鎌倉幕府の御家人(ごけにん:鎌倉殿の家臣)となり,建久8(1197)年の『薩摩国図田帳(さつまのくにずでんちょう)』に記録されています。4代成綱も莫禰院司ですが,詳細は不明です。3~4代の頃,愛宕(あたご)山に阿久根城をつくったと言われています。賀喜城下の海が次第に土砂で埋まって,荷揚げに支障が出てきたからとも言われています。今回報告した地点と遺物の年代に近づいてきました。

5代成友の時,山門院(やまといん:現在の出水市野田町や高尾野町江内周辺)の折田,多田(現在は阿久根市折多小学校区)や高江郷(たかえごう:現在の薩摩川内市高江小学校区周辺)の長崎や寄田を領地としているようです。この頃から6代にかけて,諏訪ノ前遺跡近くの諏訪(南方)神社が高江郷長崎から勧請(かんじょう:分霊を移すこと)されたようです。

6代成忠(貞),7代成重は莫禰郡司となっています。元亨3(1323)年に鎌倉幕府の使者として周辺領主の土地訴訟(そしょう)を調停(ちょうてい)したり,建武4(1337)年には薩摩国,大隅国,越前国へ出兵した記録もあります。14世紀代の出土遺物は,この頃のものと考えられます。

しかし,6代の晩年から8代成村の頃,領地の減封(げんぽう:領地の一部を削減されること)を受け,島津氏に従うようになります。北山遺跡18~39区で,15世紀以降に遺構が少なくなることと関係している可能性があります。

9代良忠になると,出水に拠点をもつ薩州(さっしゅう)島津家の家老(かろう:家臣の内,最も重要な職)となり,莫禰姓から阿久根姓を名のるようになります。10代良守,11代良速,12代良正,13代良有,14代良照と阿久根地頭(じとう:在地の領主)とともに薩州島津家の家老職を務めました。

12代良正は薩州島津家家老として島津本家となる忠良と争います。また,天文16(1547)年に諏訪(南方)神社を改修し,永禄(1558~)年間には新城に居城したことが知られています。山下小学校近くに「莫禰氏供養塔」があり,遠矢地区には,12代良正の法名が刻まれた石塔の一部が残っています。

14代良照の時,豊臣秀吉が九州征伐を行った後,朝鮮出兵の一件で秀吉の怒りをかい薩州島津家は滅びます。そして,文禄2(1593)年に薩州島津家の家老であった阿久根氏も離散することになりました。北山遺跡18~39区で,16世紀代を最後に遺物や遺構がほとんどみられなくなることと重なるようです。

 

阿久根市域には12~16世紀にかけての古戦場跡や古城跡,また当時あった神社や寺院跡などが多く残っています。さらに,ポルトガル王家の紋章が入った「阿久根砲」が阿久根市浜町の海岸で発見されたり,永禄3(1560)年に入港したポルトガル人船長の墓と伝わる「とっぽどんの墓」などがあります。国内だけでなく,世界の海とつながっていた当時の阿久根の様相がうかがえます。

北山遺跡と諏訪ノ前遺跡の整理作業は,今後も続きます。遺跡周辺だけでなく,幅広い視点で報告書をまとめていきたいと思います。新たな情報がありましたら,ご教示ください。

 

『公益財団法人鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センター発掘調査報告書』(51)「北山遺跡1」

参考文献

阿久根市誌編さん委員会 1974 『阿久根市誌』 阿久根市

藤崎琢郎 2024 「鎌倉・室町時代における莫禰(阿久根)一族と阿久根・川内地方」 薩摩川内郷土史研究会資料

中世の指輪(芝原遺跡:南さつま市金峰町)

日本では,弥生時代から古墳時代には指輪が使われていますが,平安時代から江戸時代にかけては,指輪をつけるという文化がなかったといわれ,指輪が遺跡でみつかることは,ほとんどないようです。

しかしながら,芝原遺跡からは,中世のものと考えられる外国産の指輪が発見されています。ほかには博多遺跡群(福岡市)での発見例がありますが,類例は極めて少ないです。

上野原パワースポット「落葉樹なのに枯れ葉の『落ちない木』」合格祈願にいかがですか?

写真の木は、落葉樹の一つ、クヌギの木ですが、なんと枯れ葉が落ちません。これは、枯凋性(こちょうせい)と呼ばれる現象で、先祖が常緑性だった名残といわれます。
受験生やご家族の皆様、上野原縄文の森の「落ちない木」を拝んで、合格祈願しませんか?自然が広がる縄文の森は、勉強の合間の気分転換にも最適ですよ♪

器台(南摺ヶ浜(みなみすりがはま)遺跡:指宿市十二町)

2か所に台をもつ,古墳時代の変わった器台です。表面は,なでた後にみがき調整が丁寧にされており,非常に鮮やかな赤色に塗られています。割れた状態でまとまって出土しましたが,破片が特徴的で,どのような形になるか想像がつきませんでした。しかし,接合を行ったらこのように独特の形になりました。これは,お墓にお供えされた土器で,葬送儀礼などにともない,その場で故意に壊したと考えられます。

 

「平織圧痕土器」(フミカキ遺跡:鹿児島市福山町)

縄文時代から弥生時代に移り変わる頃(紀元前8~6世紀)のもので,土器に布の圧痕が見られます。それ以前は編布(アンギン)が主流でした。この土器のものは,織ったのか編んだのか,謎のままです。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(74) 「フミカキ遺跡」 (PDF)

 

奄美の煉瓦(れんが)造りの工場(久茲(くじ)白糖工場跡:瀬戸内町久茲)

幕末に薩摩藩が奄美大島に築いた,白糖工場を構成する煉瓦造りの施設です。

のちに銀座煉瓦街などを設計したイギリスの建築技師トーマス・ウォートルスが,日本国内で最初に手がけた建造物のひとつです。

非常に限られた部分しか残っていないですが,現存する国内最古の煉瓦造建築遺構として貴重な遺跡です。

『鹿児島県立埋蔵文化財センター発掘調査報告書』(194) 「敷根火薬製造所跡 根占原台場跡 久慈白糖工場跡」(PDF)