考古ガイダンス第39回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第39回 標式遺跡 ~博士と中学生の麻衣さんの会話~ - 博士
「これまでの連載を読んでみてどうじゃ?」 - 麻衣
「鹿児島にはいろいろな遺跡がたくさんあり,それぞれの時代の人々が想像していた以上にたくましく生きていたことが分かったわ。でも,ちょっと分からなかったのは,○○式土器って出てくるでしょう。なぜ今から何年前ということが分かるの?」 - 「うん。いい質問だ。ちょっと難しいかもしれないが,一緒にみていくことにしよう」
- ■土器型式■
- 「土器は,作られた時代や場所の違いによって形や文様が異なっていて,同じような特徴をもつ土器にそれぞれ○○式土器と名前が付けられているんじゃよ。このことを土器型式と呼ぶんじゃ。」
- 「名前はどうやって付けられるの?」
- 「遺跡の名前は,そこの地名(字名)をとって付けられるのじゃ。それで初めて発見された土器の遺跡名が,土器の型式名になるんじゃ。その遺跡を標式遺跡と呼んでおる。」
- 「土器型式からどんなことが分かるの?」
- 「土器はやわらかいうちだったらどんな形にでも変えられるので,作る人の考えでいろいろな姿になるよな。」
- 「はい。文様も,いろいろな道具を使って,好みのデザインが出来ますしね。」
- 「しかし,縄文時代や弥生時代の人々が個々人で思い思いに違った形の土器を作ったかというと,そうではないのじゃ。同じ時代の人々あるいは同じ地域の人々が同じような形・文様の土器を作っているのじゃ。
- 「あたかも私たちが無意識のうちにしゃべっている方言みたいなものなのですね」
- 「そのとおりじゃ。同じ時代(時間的空間)・同じ地域(地域的空間)でまとまりのあるのが土器型式なんじゃ。」
- ■土器編年■
- 「土器は少しずつ変化していくんじゃ。その変化の仕方が急に違ってくるのではなく,前の土器の文様を引きずりながら次の世代へと受け継がれていくのじゃ。」
- 「おばあちゃんから子や孫へ作り方がつたわるのかな。」
- 「その変化の方向性を見つけて時間の物差しとしたのが,土器編年というんじゃ。」
- 「方向性だけではどちらが古いのか分からないんじゃないの?」
- 「その通り。それで重要なのが地層の上下関係で検証する層位学的方法なんじゃ。」
- 「地層の下から出てくる方が古いということですね。」
- 「鹿児島には現在も活発な活動を繰り返している桜島をはじめ,霧島火山群・指宿火山群それにトカラ列島に続く多くの火山があるじゃろ。それぞれの時代に噴出した火山灰は地層として県内いたる場所でみることができ,土器編年の検証も容易なんじゃ。」
- 「火山灰などの地層がはっきりしないところはどうするの」
- 「住居跡等の遺構が出ていた場合,考古学を研究する人達が最も関心をもつ点が切り合い関係なんじゃ。新しい住居は古い住居を壊してつくられるので,最後につくられた住居跡が最も当時の形をとどめていることになるし,埋まった土にも新しい土が堆積しているはず。遺構の切り合い関係がはっきりしてくると,遺構の中に埋まっていた土器同士の時間的な前後関係を明らかにすることができるんじゃ。」
- ■地域的空間■
- 「縄文時代だけで日本全国に約400もの土器型式名があり,さらにそれぞれが細分されているんじゃ。その綿密さは世界一じゃぞ。」
- 「同じ住居跡から違う型式の土器が出てくると,どの地域から持ち込まれたかが分かるのね。」
- 「鹿児島の縄文時代の遺跡では,瀬戸内地方や北陸地方,さらに関東地方の土器が出土しているので,すでにその時代から交流があったことが分かっているんじゃ。もちろん南島の土器も北上しているんじゃよ。」
- 「鹿児島は三面を海に囲まれているし,日本と東南アジアを結ぶ中間地点にあるから,各時代にどの地域と交流があったのかを知るのに絶好のフィールドなんですね。」
-
1 福田遺跡(岡山県倉敷市) 2 船元貝塚(岡山県倉敷市) 3 中津貝塚(岡山県倉敷市) 4 里木貝塚(岡山県倉敷市) 5 鐘崎貝塚(福岡県玄海町) 6 三万田東原遺跡(熊本県泗水町) 7 北久根山遺跡(熊本市) 8 轟貝塚(熊本県宇土市) 9 曽畑貝塚(熊本県宇土市) 10 阿高貝塚(熊本県城南町) 11 御領遺跡(熊本県城南町) 12 西平貝塚(熊本県北町) 13 南福寺貝塚(熊本県水俣市) 14 出水貝塚(出水市) 15 市来貝塚(市来町) 16 黒川洞穴(吹上町) 17 高橋貝塚(金峰町) 18 松木薗遺跡(金峰町) 19 上加世田遺跡(加世田市) 20 深浦遺跡(枕崎市) 21 石坂上遺跡(知覧町) 28 並木遺跡(大口市) 35 岩崎遺跡(田代町) 22 春日町遺跡(鹿児島市) 29 塞ノ神遺跡(菱刈町) 36 松山遺跡(上屋久町) 23 前平遺跡(鹿児島市) 30 平栫貝塚(霧島市) 37 宇宿貝塚(笠利町) 24 吉田大原遺跡(吉田町) 31 丸尾遺跡(末吉町) 38 嘉徳遺跡(瀬戸内町) 25 成川遺跡(山川町) 32 入左遺跡(末吉町) 39 面縄貝塚(伊仙町) 26 水迫遺跡(指宿市) 33 大平遺跡(宮崎県串間市) 40 喜念貝塚(伊仙町) 27 橋牟礼遺跡(指宿市) 34 山ノ口遺跡(大根占町) 41 兼久貝塚(伊仙町) - ■絶対年代■
- 「じゃあ,なぜ文字もない時代のことなのに,何年前というのが分かったの?」
- 「これには放射性炭素14年代測定法という理化学的な方法を使うんじゃ。動物や植物などの生物は生きている間,からだの中に炭素14という元素を一定量もっているのだそうじゃ。生物が死んでしまうと炭素14を取り入れることなく,一定の割合で放出され次第に減少してゆくのだ。」
- 「一定の割合って?」
- 「生きていた時の量のちょうど半分になるのが約5,600年で,半減期と呼ばれておる。したがって,出土した木炭や木の実に残った炭素14の量を調べることによって今から何年前のものかわかるのじゃ。アメリカのリビーという物理学者がこの方法を開発し,この功績によってノーベル賞を受賞をしたのじゃよ。」
- 「へー,すごい発見ね。いろいろな科学の成果が考古学の研究を支えているんですね。」
- 「どうじゃ,麻衣さんも将来考古学者を目指しては。」
- 「いろいろな分野から考古学にアプローチ出来ることが分かったから,何の仕事をやるか分からないけれど,遺跡には興味を持ち続けていきたいわ。」
- (文責)東 和幸・田中 忠義
考古ガイダンス第38回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第38回 福山城ヶ尾遺跡 ~壺に秘められた思い~ - ■7,500年前の壺,姿を現す■
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壺A出土状況
壺B出土状況
壺C出土状況 - 「これは何かある。」直感的にそう感じました。
東回り自動車道建設に伴なう福山城ケ尾遺跡の発掘調査でのできごとです。
緊張しながら移植ゴテで掘り下げていくと,深鉢形の土器が完全な形で姿を現しました。驚く間もなく,その約7m東側の地点で,深鉢とは大きさの異なる小円形の口をした土器が顔を出しました。頸(くび)の部分は末広がりとなっています。まさかと思いながら掘り下げると,丸い胴部が現れました。まぎれもなく壺形の土器です。 - 【写真 福山城ケ尾遺跡全景】
- それだけではありません。調査が進むにつれ,さらに1つ,また1つと壺が見つかりました。最終的には,深鉢1個と壺3個がほぼ完全な形で出土しました。
- ■高度な製作技術■
- 発見された深鉢と3個の壺は塞ノ神(せのかん)式土器と呼ばれています。約7,400年前に作られた土器です。
これらの壺はたいへん精巧に作られており,その製作技術の高さには目を見張るものがあります。3個とも上から見ると胴の部分は楕円形を呈し,側面は,中心線を引くと左右が対称になっています。そのズレはすべて1cm以内です。相当熟練した者が作らなければこうはいかないでしょう。
これまで発見された塞ノ神式土器はほとんどが深鉢でした。壺が存在することは知られてはいましたが,完全な状態で発見されたのは初めてで,極めてめずらしいことでした。
これらの壺は縄文人が何か特別な思いを込めて作り,残したものに違いありません。 - 【写真 深鉢出土状況】
- ■壺の出現と消滅■
- 元来,縄文時代に壺は存在しないとされていました。ところが九州南部では,縄文時代の早期,約8,000年前に突如として出現し,異彩を放っています。しかしそれは7,400年前頃に忽然と消えてしまいます。
次に現れるのは4,000年ほどたった縄文時代後期で,その初めと終わり頃に断続的に現れ,また消えてしまいます。その後2,500年前頃からは,稲作の開始とともに本格的に作り始められ,以後今日まで続いています。(図1参照)
こうしてみると,縄文時代には壺は現れたり消えたりすることに気づきます。 - 縄文の壺はなぜ受け継がれていかないのでしょうか。
- ■残された煤(すす)■
- これまで壺は液体や穀物などの貯蔵用とされてきました。
ところが,今回発見された3つの壺を観察すると,外側に多量の煤が付着していることから,火にかけられたものと思われます。しかし,内側に焦げなどの痕跡は認められません。
この状況からすると,単に食物の煮炊きに使ったのではなさそうです。つまり,火にかけて使用したが,壺の中にはこげつかないようなものを入れていたということになります。また,口の部分は擦り減っています。このことも壺の使用法を解明する手ががりとなりそうです。
このように,本遺跡の壺の用途は,単に貯蔵という解釈では理解できないものがあります。
縄文の壺が受け継がれないのは,その時々で壺の用途に違いがあったからなのかもしれません。 - ■埋設された土器■
- これらの深鉢と壺は,土器の大きさと同じ規模の穴に入れられ,地面すれすれに埋められていたと推定されています。何のためにそんなに丁寧に埋めたのでしょうか。土器の内部の土壌分析を試みましたが,決定的な答えは出ませんでした。そこで,発見された状況を再現してみます。
壺Bと壺Cは約3メートル離れて出土しました。さらに,それらの出土した地点から約5m離れた所で,円形の大型土坑(直径約2m,深さ約30cm)2基が発見されました。そのうち1基からは,耳栓状の土製品3点と異形石器・石鏃等が出土しています。
- 【写真 福山城ヶ尾遺跡出土遺物】
- この大型土坑は耳栓状土製品の作り方などから見て,壺と同時期のものと判断できます。住居跡か墓の可能性がありますが,現時点では明らかではありません。土坑と埋められた壺との関連を考えると,何か大切なものを近くに埋めていたとも考えられます。
いずれにせよ,壺形土器は数も少なく,貴重だったはずです。それを丁寧に埋めた縄文人の姿を想像すると,何だか彼らが遠くて近い存在のように思えてきます。 - ■おわりに■
- 福山城ケ尾遺跡のこの精巧な壺は,次の時代へとは続いて行きませんでした。それは壺を必要としなくなったためだと理解するしかありません。それまでの価値観や生活様式が大きく変わってしまった可能性もあります。
こうした現象は,縄文時代だけに限られたものではありません。現代でも文化や文化財が現れたり消えたりしています。それらを捨てるべきか取るべきか,今を生きる私たちの決断にかかっているのです。
このことが実は,壺に秘められた縄文人の最大のメッセージなのかも知れません。 - 用語解説
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耳栓状土製品
(じせんじょうどせいひん)形態は耳栓(耳飾り) と同じだが,本遺跡のものについては,用途等について解明されていないため,このような名称を用いた。 異形石器
(いけいせっき)めずらしい形をした用途不明の石器。 - (文責)藤野 義久
考古ガイダンス第37回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第37回 縄文のジャンクション - ■高まる定住論議■
- 鹿児島湾奥に位置する加治木町の平野部に,平成14年に「加治木ジャンクション」が完成しました。九州縦貫自動車道と東九州自動車道,隼人道路との連結部となるこの「加治木ジャンクション」の建設地は,実は「縄文のジャンクション」でもあったのです。
- ■干迫遺跡の発見■
- 平成3年から4年にかけて,この「加治木ジャンクション」の建設予定地の発掘調査が行われました。干迫(ほしざこ)遺跡,これがこの地に与えられた遺跡の名前です。
標高約10~12メートルの微高地にあるこの遺跡の発掘調査は,低地であるということと,今日まで水田として使用されていた場所であったことから,湧(わ)き出る水との闘いでもありました。 - それに加えて,いやそれにも増して大量の土器・石器が出土したため,それらをどのような発掘方法で調査・記録していったらいいかという課題を常にかかえながらの,まさに格闘の日々でした。
このように大量の遺物が出土したことは,そのまま大量の情報が出土したということを意味します。縄文時代早期から江戸時代まで多くの遺構・遺物が発見された干迫遺跡ですが,ここでは,最も多くの情報が得られた縄文時代後期中ごろ(今から約3,500年前)の様子について紹介したいと思います。 - ■市来式土器の文化■
- 約3,500年前の南九州は,市来式土器と呼ばれる土器に代表される,文様や器面の仕上げに貝殻を用いた土器が流行した時期でした。
この時期には,鹿児島市の草野貝塚や垂水市の柊原(くぬぎばる)貝塚などのような,南九州では数少ない貝塚が残されたことでも知られています。
また,市来式土器は南九州を中心としながら,北は四国の東南部や長崎の五島列島,南は沖縄本島でも出土しており,その交流圏の広さは古くから話題となってきました。 - 【写真 市来式土器のいろいろ】
- この市来式土器が干迫遺跡では大量に出土しました。さらにそれと共に,様々な地域の土器が多量に出土したのです。つまり,南九州で市来式土器が盛んに使用されていたころ,九州の西北部や中部あるいは北部で流行していた土器も一緒に,しかも多量に出土したのです。
【写真 干迫遺跡で出土した中九州系土器】 - このことは,何を物語っているのでしょうか。主に煮炊(にた)きに使用されたと考えられる縄文土器ですが,様々な地域の土器が出土したことにより,その地が様々な地域と交流していた場所であった可能性を伝えてくれるのです。つまり,「縄文のジャンクション」的な干迫遺跡の様子が浮かび上がってくるのです。
- ■朱(あか)い土器の謎■
- 「朱(あか)い土器が出た!」湧き出る水と闘いながら調査していた猛暑のある日,作業員の誰かがそう叫びました。あわてて駆(か)け寄ってみると,「何だこれは?」それは形も文様も,そして表面に塗(ぬ)られた朱の色も初めて目にするものでした。
実はこれこそ干迫遺跡における交流の証(あかし)を伝えてくれる最も重要な遺物でした。それは注口土器(ちゅうこうどき)と呼ばれる急須型の土器で,その形や文様から,関東地方の影響を受けて近畿地方およびその周辺地域で作られたと考えられる土器であることがわかりました。 - 【写真 水銀朱を塗られた注口土器】
- さらに表面に塗られた朱色の原料は水銀朱と呼ばれる特殊な鉱物で,当時のものとしては極めて珍しいものであることもわかりました。どのような経路でここ干迫の地までたどり着いたのでしょうか。そこには様々なドラマがあったと考えられ,興味は尽きません。
- ■時を超えたランドマーク■
- あわただしく進んだ干迫遺跡の発掘調査を,雨の日も晴れの日も見守ってくれていた「存在」がありました。それは加治木を訪れた人なら誰もが目にしたことがある山,蔵王岳(ざおうだけ)です。
標高112メートル,安山岩が主体をなす奇峰です。いろいろな方向から眺めることのできる蔵王岳こそ,数千年間多くの人々に絶大なる存在感を示し続けてきた,この地のランドマークだったのでしょう。
その蔵王岳の麓に現代を象徴する車社会のジャンクションが建設されようとしていることは,干迫の地に時を超えて与えられた宿命的なものを感じざるを得ません。 - 【写真 蔵王岳の勇姿(手前が干迫遺跡)】
- 高速道路のジャンクションは「ひと・もの・情報」のそれでもあります。蔵王岳はそのジャンクションを,そして21世紀という新しい時代をこれからも見守り続けてくれるでしょう。
- 用語解説
-
ジャンクション 接合。結合点。合流点・高速道路の合流点。 ランドマーク 土地や場所の目印や象徴となっている建造物,歴史的建築物など。 - (文責)前迫 亮一
考古ガイダンス第36回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第36回 定住のきざし - ■高まる定住論議■
- 霧島市上野原遺跡では,竪穴住居跡52基,集石遺構39基,連穴土坑16基,その他約260基の土坑が発見されました。また,竪穴住居跡の中から,約10,600年前の火山灰が見つかったことで,この遺跡は今から約10,600年前の定住集落であるとし,鹿児島県は平成9年,上野原遺跡を「約10,600年前の,国内では最古・最大級の定住した集落である」と各種報道機関を介して一斉に公表しました。
加えて,これを機会に保存キャンペーンを展開,平成11年の国指定史跡の指定と共に,「定住生活」がマスコミや県民にも語られるようになりました。
学問的探求と共に県民の興味関心も加わり,最近ではさらに遡って定住化のルーツを求める傾向も見られます。 - 【写真 上野原遺跡から出土した土器】
- ■遊動生活から拠点生活に■
- これまでに紹介した遺跡の概要を再確認してみます。
種子島は約3万年以前から既に照葉樹林が分布し,氷河期でも暖かったことが土壌分析や花粉分析等から知られています。南種子町横峯C遺跡からは「日本最古の礫群」が発見され,中種子町立切遺跡からは「最古の生活跡」を示す,礫群・土坑・ファイヤーピットが発見されています。遺構の状況から,狩猟の途中で立ち寄った遺跡とも考えられますが,石器からはむしろ植物食中心のライフスタイルを色濃く感じることができます。
約3万年以降姶良カルデラが大噴火(約29,000年前)するまでの間については,近年少しずつ明らかになりつつあります。徳之島の天城遺跡は3万年に最も近い様相が見られ,狩猟目的の石器が作られていました。ここの石器は台形様石器と呼ばれ,同様の石器をもつ遺跡が日本列島に30か所程発見されています。このことは,食料を求めて列島から徳之島まで南下したハンターがいた可能性を表しています。
姶良カルデラ爆発の直前の様子が見られる松元町前山遺跡・喜入町帖地遺跡・出水市上場遺跡からは,やはり狩猟中心の石器が多数発見されており,狩りで立ち寄った痕跡を色濃く残しています。 - 最後の氷河期を目前にシラス地帯に緑が蘇り,亜寒帯針葉樹や草原が形成されると,寒さに適応した大型動物が闊歩していたと想像されます。また,遺跡も各地で飛躍的に増加し,最近調査した耳取遺跡や桐木遺跡は,典型的なハンティングサイトの一つと考えられています。
この時代を代表する石器に,大型の槍,剥片尖頭器があります。この石器は,シベリアから朝鮮半島にも分布し,いまでは朝鮮海峡を越えて,九州一円に到来し広がったと考えられています。
おそらく,ハンター達が最も信頼し愛用した槍と共に,獲物を追い求めた証でしょう。その後,約18,000年前をピークに少しずつ氷が後退し始め,氷河期に適応した大型動物は北上を開始し,大型の槍のハンターも北上する獲物を追いかけて移動したことでしょう。
【写真 石槍(小牧3A遺跡)】 - 温暖化に従い新たな気候は,森の景観も一変させ,四季の変化を確実に映す落葉広葉樹の森を造り出しました。その森は豊かに木の実を実らす食料基地へと変化し,豊かな木の実の森は敏捷性に富んだ小型の動物の生息地へと移ることにもなりました。
新たなハンター達は,森に食料を求め生き残りをかけて,槍の改良に取りかかることとなりました。その結果が,大型から小型への改良であったといわれます。 - ■社会を営む原型■
- この時代の終わり頃に登場するのが,指宿市の水迫遺跡です。
水迫遺跡では竪穴住居跡や道跡・炉跡の存在が指摘され,定住生活遺跡と判断し,「動物を追って食を得る人々が,家をつくり,炉の焚き火を囲んでいた」「社会を営む原形が見れる」とされますが調査継続中でもあり今後の成果を見守りたいと思います。
約15,000年前頃になると,東北アジアから日本列島・アラスカ半島に細石器と呼ぶ超小型の石器を素材とした槍が作り始められ,石器を製作した跡が数多く発見されています。この石器文化が終末を迎える頃,煮炊き用の土器が発明され,細石器に変わって弓矢が登場してきます。 - 縄文時代の到来です。それまで逃していた滋養の高いスープは,土器の使用により彼らの栄養となり,食生活が一変しました。それを示すかのように,定形化した石皿が使用され始めます。
上野原遺跡の発見以来,定住についての論調が高まり,文化の先進性や起源等について触れる機会が多くなってきています。一方,定住の定義や具体的構成要因について,明確にしたものは殆ど見当たらないのが実状です。
遊動生活から拠点生活に,彼らは,新たな生活スタイルを選択しました。
【写真 石皿と磨石 (小牧3A)】 - その選択の背景には,より安定した食料補給システムの完成が要求されたはずです。 後ろの森が,前進し始めた海が,足下の河川や湿地に集まる獲物が,年間を通して彼らの生活を支えなければなりませんでした。
そのような条件が確実に整備されたのはいつなのでしょうか。 - (文責)長野 眞一
考古ガイダンス第35回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第35回 洞穴のくらし - ■こんな山中の洞穴に貝殻があるとは・・・■
- 1952年,吹上町黒川洞穴の発見は地元の児童が拾ってきた貝殻を吹上町坊野小学校に勤務していた辻正徳氏に持ってきたのがきっかけでした。
日置郡吹上町永吉砂走に所在する黒川洞穴は標高84m,東シナ海にそそぐ永吉川の支流,二俣川の右岸に開口し,吹上浜からは約7kmほど離れた場所にあります。
辻氏の疑問を機に1952年,64年,65年,67年と計4回,現鹿児島県考古学会会長河口貞徳氏らを中心に発掘調査が行われ,様々な成果が得られました。
洞穴遺跡とは自然に形成された洞穴や岩陰で人々の生活が営まれ,その証として土器や石器等の道具,墓や火を炊いた痕跡等が残された遺跡のことです。
内部に自然の灯りはなく,多湿で,足場が悪いことも多いです。しかしそこは古代の人々が風雨を防ぎ生活するには格好の場であったことでしょう。 - 【図 鹿児島県における洞穴遺跡の分布】
- 洞穴は日常的な居住,一時的な仮泊,死者の埋葬,食料等の貯蔵,霊場等,様々な利用がなされていたと考えられていますが,当時の人はどのように洞穴を利用していたのでしょうか。ここでは県内の洞穴遺跡のいくつかを紹介し,洞穴における古代の人々の生活を見つめていきたいと思います。
- ■県内の洞穴遺跡■
- 黒川洞穴は凝灰岩またはシラス層からなる断崖に水食作用によって形成された洞穴です。大小2個の入り口が隣接しており,西側入り口は幅13.3m,高さ6m,奥行きはかなり深いが落盤のため不明,東側入り口は幅11m,高さ4.35m,奥行き8.4mからなり共通の前庭部で続いています。
【写真 黒川洞穴】
- なお,注目すべきことは縄文時代晩期土器(黒川式)の標式遺跡となったことや人骨の埋葬が行われていた土壙,ものを焼いた場所と思われる炉跡,オオカミの骨を含む多量の獣骨,ヘラやカンザシ等の骨角器の出土です。
- 人骨は25~30才の女性で,副葬品はなく,かたわらには標石が設けてありました。この埋葬で不思議な点は,骨盤が胴部の下に,尾椎骨は頭部の下にそれぞれ移動していたことです。かき乱された形跡がないことから,死後腰部を切り取って,窪みの底部に置き,その後遺体を埋葬したとしか考えられません。いずれにせよ何らかの特別な意図を持って埋葬したのでしょう。
これについて河口氏は「普通の労働に従事するには骨が細く,墓に標石が建てられ,特異な埋葬が行われていたことから,シャーマン(呪術者)の墓ではないか」と述べています。
また,出土した獣骨はイノシシ,シカが圧倒的に多いのですが,その中には現在の日本には生息しないオオカミや南九州では見られないカモシカの骨等も見つかっています。
黒川洞穴以外にも縄文,弥生時代を中心とした洞穴遺跡があります。志布志町にある片野洞穴では洞穴内に溜まった水を排出するための溝や石を敷き詰めて作られた住居跡が検出されました。また,当時の漁労生活をうかがわせるイノシシの骨でつくられた釣り針も見つかっています。
末吉町中岳洞穴では,火を炊いたと思われる炉跡や集石が検出され,洞穴内で調理をしたり,暖をとっていたと思われます。
沖永良部島の知名町中甫洞穴では縄文時代前期該当の墓が発見されました。この墓には遺体の上下を囲うように珊瑚礁礫が置かれ,埋められた土の上にも同様の礫が配置されていました。 -
黒川洞穴出土の自然遺物 ホニュウ類 イノシシ,シカ,カモシカ,ツキノワグマ,オオカミ,イヌ, タヌキ,アナグマ,テン,イタチ,ノウサギ,ムササビ,モグラ 鳥類 キジ,ガン,カモ,ハト,ワシタカ目 ハチュウ類 カメ類,ヒキガエエル 魚類 サメ,マダイ,クロダイ,フナ 貝類 ハマグリ,アコヤガイ,マルサルボウ,オキアサリ,コベソマイマイ,マツカサガイ,コタマガイ,タカチホマイマイ,イタヤガイ,ツメタガイ,マクラガイ,イシマキ,オキシジミ,カガミガイ,ヘナタリ,カワニナ その他 モクズガニ - ■洞穴調査の苦労■
- 洞穴内は降雨や火山灰の堆積を逃れ,鍾乳洞のような石灰分で守られることも多いため一般的に人骨や骨角器の残存状態は良好で,考古学的に貴重な資料が多く残されています。
しかし,発掘調査者にとって洞穴遺跡の調査は野外調査とは異なる苦労も多いのです。例えば灯りの問題があります。入り口付近にしか太陽光は届かないので人工の灯りが必要となります。狭く,足場が悪い洞穴も多いです。
また,片野洞穴内部には発掘当時,コウモリが多く生息しており地面に落ちた糞のにおいに調査者は悩まれたそうです。他には地下水が湧き出るため排水処理が必要になったり,湧き水が多く,無念にも掘り下げをあきらめざるを得ないこともあります。
落盤の危険もあるでしょう。富山県大境洞穴(縄文・弥生時代)の人骨には埋葬ではなく落盤により圧死したと考えられる人骨の出土例もあります。洞穴内部で火を炊けば空気が乾燥し,岩の亀裂を助長します。当時の人は落盤の可能性を知っていたのでしょうか。 - ■洞穴は家?墓?それとも・・・?■
- 洞穴や岩陰が当時の人々に利用されていたことは明らかですが,ではいったいどのように利用されていたのでしょうか。多くの土器や石器,食料の残骸の出土や火を炊いた痕跡等から考えるとそこが日常的な居住の場であった可能性が高いと思われます。そして居住者が死ねば洞穴内に埋葬していました。
一般的に洞穴に住む人々は日常的な居住の場を光が差す入り口付近に求め,墓や食料の貯蔵穴は奥に設けています。ただし,当時の人口数と洞穴の数から考えて,ほとんどの住居は竪穴住居等という形で野外に建てられ,洞穴はある一部の人しか利用できなかったはずです。そこに住む人はある特殊な生業活動を行っていたか,社会的に特別な地位におかれていたのでしょうか。
弥生時代の千葉県安房神社洞穴,群馬県岩櫃山洞穴遺跡や神奈川県三浦半島における古墳時代の諸洞穴遺跡では,人々が近づき難い崖に位置していたり,多量の人骨が出土することなどから,居住地ではなく墓地として利用された可能性があります。また,フィリピンやインドネシアのスラウェシ島では近年まで絶壁の天然洞穴を墓とする風習がありました。
時代や地域,環境,気候等の差がこれら洞穴の利用形態の違いを生みだしていると考えられますが,読者のみなさんはどのようにお考えになるでしょうか? - 用語解説
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鍾乳洞 石灰岩中の割れ目または層理面に沿って流れる地下水の溶食作用によってできた地下の洞穴。山口県の秋芳洞などが有名。 石灰洞 水食作用:流水・雨水などが地表を削って,破壊・浸食すること。 - (文責)永濵 功治
考古ガイダンス第34回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第34回 律令政治の浸透 - ■―支配される隼人―■
- 「薩摩隼人」という言葉や町名として現代に生き続ける「隼人(ハヤト)」。もともとは古代の南九州の住民に対する呼び名でしたが,7世紀後半から使われ始めたようです。
この時期は大和朝廷が強力な中央集権国家をつくろうとした時代にあたります。こうした国づくりは律令(りつりょう)が制定されることによりその基礎ができあがり,奈良時代以降へと引き継がれていきました。このような中,日本各地へ広がる朝廷の支配は,中央から遠く離れた南九州にも及び始め,独自の生活と文化を持つ隼人の社会も次第にその統治に組み込まれていきます。 - ■地方統治の拠点■
- 朝廷は全国を国─郡─里(郷)という行政単位に分けました。現在の鹿児島県も8世紀に入り,薩摩・多ね(たね)の2国が,続いて日向(ひゅうが)国の四郡を割いて,大隅国が713(和銅6)年に設置されました(多ね嶋は後に大隅国に編入)。郡については,10世紀の『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』において,薩摩国が13郡,大隅国が8郡を数えます。国及び郡には,地域を治める役所として,国衙(こくが・国衙の所在地が国府)と郡衙がそれぞれ置かれました。
こうした国府や郡衙の所在が考えられる遺跡は,そこが地方統治の拠点として,特別な場所であったことを物語ります。例えば,規模の上で,庇(ひさし)をもつ掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)など,構造の上で一般の集落とは異なる建物群が配置や方向に一定の規則性をもって検出されたり,瓦・硯(すずり)・緑釉陶器(りょくゆうとうき)・青磁・白磁といった特殊な出土品が発見されたりします。
また,土器に墨や刻みにより文字等を書いた墨書土器(ぼくしょどき)や刻書土器(こくしょどき)は,文字文化の浸透とともに,役人や僧侶など識字層の存在をうかがわせるものです。 - 薩摩国府跡(薩摩川内市)
薩摩国府は現在の川内市に置かれました。川内平野北側の台地上の六町四方(一町は約109メートル)が国府域であり,その中央付近の二町四方が国衙域と推定されます。
礎石を持つ建物跡や瓦を敷いた列などが発見されました。また,郡名ではないかとされる「高木」や国府の施設の一部を示すのではないかとされる「国厨」を記入した墨書土器や墨絵の描かれた土器,硯,緑釉陶器などの出土品があります。なお,大隅国府や多ね嶋国府については,確認されていません。
【図 薩摩国府の想定図】 - 西ノ平(にしのひら)遺跡(薩摩川内市)
平安時代の掘立柱建物跡が10棟確認されたことや,100点を超える墨書土器や刻書土器,青銅製帯金具(おびかなぐ),須恵器(すえき)のかけらを転用した硯などの出土品から,この周辺に薩摩郡の郡衙があった可能性が強いとされています。
市ノ原(いちのはら)遺跡第一地点(いちき串木野市)
検出された掘立柱建物跡15棟の中には,大型のものや四方に庇を持つものがあり,また,緑釉陶器や「厨」と書かれた墨書土器などが発見されました。 -
【図 市ノ原遺跡 掘立柱建物跡の配置図】
【写真 掘立柱建物跡(市ノ原遺跡第一地点)】
人が立っている横の穴が柱の跡 - この他,郡名である「阿多」と記された土師器(はじき)が出土した小中原(こなかはら)遺跡(金峰町),掘立柱建物跡群や「日置厨」と書かれた須恵器を出した安茶ヶ原(あんじゃがはら)遺跡(市来町)なども,同様に薩摩国内の郡衙に関わる可能性をもった遺跡としてあげることができます。
小瀬戸(こせど)遺跡(姶良町)
大隅国の郡衙に関わる施設と考えられます。溝状遺構に区切られた区画,柱穴群や井戸跡が発見されました。また「大伴」「伴家」「仲家」などと書かれた墨書土器や刻書土器は,大伴氏(おおともし)をはじめ,中央の有力豪族との関連から注目されています。
- 【図 器に残された文字(池畑耕一『考古学ジャーナル』1991)1~7 小瀬戸遺跡 8~13 西ノ平遺跡】
- ■隼人の朝貢と古代の官道■
- 国府の設置などにより,律令制が徐々に浸透し始めますが,その進行は決して順調ではありませんでした。班田制(はんでんせい)の施行が大きく遅れたのが一つの原因です。このことと呼応するように,朝廷は隼人に対し,定期的な朝貢を強制し続けました。大宰府から出土した木簡(もっかん)には,薩摩・大隅国の郡名を記したものがありますが,これらは貢納物の付札として用いられたとも考えられます。
また,このような人や物資の移動あるいは情報の伝達のために,朝廷は官道を整備し,中央と国府や国府間を結びました。官道には中継地として,駅が置かれ駅馬が常備されました。本県における駅・駅伝制については『延喜式(えんぎしき)』によると,薩摩国内に「市来(いちく)・英祢(あくね)・網津(おうづ)・田後(たしり)・櫟野(いちいの)・高来(たかく)」の6駅,大隅国内に「蒲生(かもう)・大水(おおみず)」の2駅の記述がありますが,考古学的に確定できたものではなく,今後の調査成果が待たれます。 - ■抵抗する隼人■
- 律令政治の浸透に対して,隼人は強い抵抗を示しました。特に720(養老4)年の軍事衝突は約1年数か月にも及びました。結局,隼人側の敗北に終わるものの「首を斬られた者や捕虜になった者は合わせて1,400余人」(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)とされ,その戦いの激しさを物語ります。
【写真 隼人町の隼人塚】 - 残念ながら,こうした抵抗を直接示す考古資料は見出せませんが,敗れた隼人の供養のために建てられたと伝えられるのが隼人塚です。現在,霧島市国分と霧島市隼人町の2ヵ所にある隼人塚ですが,そのうち隼人町のものは町教委により発掘調査が進められてきました。その結果,塚の構造,石造や石塔の本来の姿や配置など次第に明らかになりつつあります。なお,創建の目的や年代については,不明な点も多いです。
- さて,720年を最後に隼人の抵抗は鳴りをひそめていきます。さらに9世紀に入り,薩摩・大隅国に班田制が適用されると,文献上,南九州の住民を隼人と呼ぶこともなくなっていきました。
- 用語解説
-
律令 律令政治のもとになった法律。律は刑法,令は行政法のこと。 掘立柱建物 地面に穴を掘って柱を立てた建物。 緑釉陶器 緑色の釉(うわぐすり)を施した陶器。 厨 役所における調理や食事・接待のための施設。 班田制 国民に一定の耕作地を保証し,その代償に租税を徴収する制度。 木簡 すく割った木の札に文字を書いたもの。文書,伝票,荷札などに使われた。 - (文責)立部 剛
考古ガイダンス第33回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第33回 考古学から見た神社仏閣 - ■腕のない仁王像■
- 教師A さーやっと着いた。ここが皇徳寺(こうとくじ)跡だよ。
中学生B 先生,入り口にある2体の石像は何ですか。仏像ですか?
中学生C 2体とも両腕がないわね。右側の石像は頭の一部も欠けているわ。どうしちゃったのかしら?
教師A これはね,仁王(におう)像といってお寺を守護するために立ってるんだ。ここでは壊れていてよくわからないけど,口を開いた阿形(あぎょう)と口を閉じた吽形(うんぎょう)の2体でワンセットになってるんだよ。 - 【写真 腕のない仁王像(鹿児島市皇徳寺跡,栗林 撮影)】
- 中学生C でも先生,これ何で壊れているんですか?足も無いみたいだわ。
教師A それはね,明治時代の初め。今から130年ほど前に起こった廃仏毀釈( はいぶつきしゃく)という出来事のためなんだ。 - ■廃仏毀釈■
- 中学生C 先生,それはどういう事件だったんですか。
教師A うーん,簡単に説明するにはちょっと複雑なんだが。江戸時代の終わり頃に,国学(こくがく)といって日本古来の思想を尊重しようという学問が流行したんだ。この学問によれば,仏教は後に外国から伝わってきた宗教だから,その前からある神道を尊重すべきだというんだ。この思想が下地となって,明治元年(1868)神仏分離令が出されると薩摩藩でも徹底的に寺院の打ち壊しが行われたんだ。その時この仁王像も壊されたんだよ。 - 【写真 大龍寺跡(鹿児島市)の発掘調査風景(鹿児島市 立ふるさと考古歴史館)】
- 中学生B へー,そんな歴史がこの仁王像にはあったんだ。ところで,先生。一体幾つぐらいのお寺が破壊されたんですか?
- ■1066寺院すべてを取り壊す■
- 教師A そーだね,史料によれば,当時薩摩藩には1066の寺があったとある。これらが全て取り壊されたんだ。またお坊さんも2964人いたらしいんだが,みんな還俗(げんぞく)させられて,兵隊や学校の先生等になったらしいよ。
中学生B それじゃ明治より古いお寺は鹿児島にはないということなんですね。
教師A そういうことだね。お寺とともに,古くからあった仏像・経典や古文書(こもんじょ)等今残っていれば,貴重な文化財となったものが多数失われたんだね。
中学生C 先生,それじゃ昔のお寺の歴史は何もわからないってことですか?
教師A うん,古文書が少ないから詳しいことはわからないね。
中学生B えー!それじゃどうしようもないってことだ。
教師A いや。ひとつ方法があるよ。それは地面の下に眠っている寺院の痕跡を捜し出すことなんだ。
中学生C わかったわ!考古学ね。
教師A そーだ。考古学の手法を使えば,文字史料がほとんどない古いお寺もいろんな事がわかってくるんだね。
中学生C 先生,お寺や神社の発掘例はあるんですか?
教師A あー,あるとも。数は多くはないがね。それじゃ,来週の日曜日に先生の自宅で,お寺や神社の発掘調査について調べてみようか。
BとC はーい。 - ■寺院・神社の発掘調査事例■
- 鹿児島市の福昌寺(ふくしょうじ)は,現在の玉龍高校の場所にありました。応永4年(1394)島津元久によって建てられた曹洞(そうとう)宗の寺院で,開山には一族の石屋真梁(せきおくしんりょう)が迎えられています。
【写真 弥勒院の建物の瓦(隼人町教育委員会)】 - 寺院の一部を発掘調査した結果,階段・石垣・門・排水溝・石列等の遺構が発見されました。福昌寺の全容は,『三国名勝図会 (さんごくめいしょうずえ)』の絵図により知られていますが,報告書ではこれらの遺構が絵図に見える山門跡に比定されています。このように,絵図や古文書と発掘調査の結果が合致するのかしないのかが,歴史時代の発掘調査の醍醐味(だいごみ)のひとつです。
姶良郡隼人町の宮内小学校にあった弥勒(みろく)院は,すぐ傍にある鹿児島神宮(中世では正八幡宮,大隅国の一宮)の別当寺でした。その創建年は不明ですが,鎌倉時代には存在していたことが文献から確かめられます。
【写真 弥勒院出土の花瓶・灯明皿・油壷など】
- 発掘調査の結果,直径2m程の土壙が見つかり,中から1,000個以上の土師器が出土しました。儀式で使用したものを廃棄したのか,それともここで土師器を焼いたのか,まだ不明です。遺物では弥勒院の僧侶達が日常生活に使用したと思われる食器等が多数出土しました。その他花瓶・灯明皿・油壷・古銭・硯・鏡・碁石・毛抜き・煙管(きせる)等や,弥勒院の建物に使用された瓦も出土しています。
- 最後に神社に関する発掘調査事例として,薩摩郡宮之城町の諏訪神社を見てみましょう。
この諏訪神社は天明元年(1781)火災にあい消失し,文献史料でのみ存在が確かめられていました。調査の結果,この消失した神社の建物がそっくりそのまま見つかり,きわめて注目すべき成果をあげました。建物としては,本殿・舞殿・拝殿,その前面には周りより一段低くなった参道が延び,両側には溝が延びています。古銭も多く出土していますが,神社の建物の付近に集中していたといいます。参拝者が投げたお賽銭でしょうか。その他には,銅鏡・かんざし・鈴・煙管・人形等が神社特有の遺物といえます。 - 中学生C 先生,鹿児島県での調査事例はこれで全部なんですか。
教師A いやいや,ここで君達に紹介したのはごく一部で,他にも薩摩国分寺(川内市)・大乗院・大龍寺(鹿児島市)・一乗院(坊津町)・宗功寺(宮之城町)等の跡でも発掘調査が行われているんだよ。
中学生B 神社でお賽銭を投げていたなんて,お正月の初詣みたいだね。今と同じだ。
教師A 最初に説明したように,鹿児島には古いお寺はひとつもないんだ。どうしてこんなに徹底して廃仏毀釈が行われたんだろうか?
中学生C うーん,どうしてかしら?わからないわ。 - 【写真 諏訪神社の建物跡全景(宮之城町教育委員会)】
- 教師A 色々な意見があるんだが,例えば,僧侶の職能が狭く身分が低かったからだとか,民衆のほとんどが隠れ念仏の信者であったからだとか。文献史料も非常に少ないからわからないことが多いんだ。
中学生B そこで,考古学の登場ってことですね。
教師A その通り!そして,将来更に発掘調査が進めば,私達の祖先が寺院や神社とどのように関わったのか,そんなことまでわかるとおもしろいよね。 - (文責)栗林 文夫
考古ガイダンス第32回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第32回 中世びとの生活 - ■中世の集落から■
- 中世とは鎌倉幕府(かまくらばくふ)がつくられてから,戦国時代の終わり頃までの時代です(約1192~1590年)。鎌倉時代になるとそれまで政治を行っていた貴族に変わって武士が政治を行うようになりました。
そのため政権が変わるたびに全国各地で争いが起きていました。鹿児島でも各地域の有力者が互いに争い,多くの山城(やまじろ)が築かれました。山城は敵が攻めてきたときに最後の砦(とりで)となる場所です。
【図 集落遺跡位置図】
1 持躰松遺跡,2 成岡遺跡,3 山崎B遺跡
4 新平田/馬場A遺跡,5 中園遺跡,6 藤兵衛坂段遺跡 - 日常の生活は麓(ふもと)の集落で営まれていました。当時の人々が住んでいた建物は掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)と呼ばれています。柱や壁は木で造られているので長い年月の間に腐ってしまいます。そのため遺跡(いせき)には柱を立てるために掘った穴しか残っていません。
発掘調査では柱穴(ちゅうけつ)の並びから建物を復元(ふくげん)していくのです。中世の歴史は文献(ぶんけん)による研究から権力者の歴史のみに目を奪われがちです。 - しかし,それらを支えたのは名前さえも残っていない庶民(しょみん)でした。集落跡の調査は,これまでに知られていなかった中世の人々の歴史を少しずつ明らかにしてくれます。近年,鹿児島県でも文献に残っていない集落跡などが発見されています。それらのうちいくつかの調査例を紹介します。
- ■一般の人々の集落■
- 大口市馬場(ばば)A遺跡や,時代は少し新しくなりますが牧園町中園(なかぞの)遺跡などがあります。
当時は,かまどを使って炊事(すいじ)をしていたものの,現在のように,毎日米が食べられるほど贅沢(ぜいたく)な暮らしではありませんでした。
【図 掘立柱建物復元図】 - 掘立柱建物でも床板を張らずに地面にむしろや板などを敷いていたものと考えられています。
それでは当時の人々はどのような作物を作り食べていたのでしょうか。最近の発掘調査の成果から見てみましょう。 - ■中世の畠跡■
- 福山町藤兵衛坂段(とうべえざかだん)遺跡からは,文明年間(1471年か1476年のどちらか)に桜島の噴火により降り積もった軽石にパックされた状態で畠の畝跡(うねあと)が見つかりました。発見されたとき,畝の間につまっていた軽石が約80cmの幅で帯状に残っていました。
畠跡一枚の大きさは19m×39m程で,全部で17枚見つかっています。畠跡の土をプラントオパール分析で調べた結果,陸稲(りくとう)やヒエを栽培(さいばい)していたことが明らかになりました。畠跡の総面積は約2,000平方メートルにもなり大規模な畠作を行っていたことが分かります。 - 【写真 畝の間に軽石が詰まっている畠跡(藤兵衛坂段遺跡-福山市教育委員会提供)】
- 中世になると肥料や品種の改良,牛馬の利用などが進み農業技術の進歩が見られました。藤兵衛坂段遺跡のように広い畠がつくられたのも技術の進歩が関係していると考えられます。また鹿児島はシラス台地が発達し平野が少ないので,水田を作る土地を十分に得ることができなかった人々が台地の開発を積極的に進めていたことも地域性の一つと考えられます。
- ■中世の宿■
- 中世になると海,陸ともに交通路が整備され人々の動きが活発になりました。大口市新平田(しんひらた)遺跡は交通路の要所におかれた宿であった可能性のある遺跡です。
遺跡が立地する大口市は当時,都城と出水,水俣を結ぶ重要な交通の要地でした。遺跡からは32棟の掘立柱建物と地面を掘って造った竪穴建物跡(たてあなたてものあと)が7軒見つかっています。掘立柱建物に年貢などを徴収する武士や,人夫達が寝泊りし,竪穴建物跡では武器や馬具(ばぐ)に使う皮を加工していた可能性もあります。馬具である轡(くつわ)も見つかっており,馬に乗り各地を行き来する人々がいたことを物語っています。 - ■有力者の屋敷■
- 中世では,武士などの有力者も掘立柱建物に住んでいました。このような屋敷跡からは,一般の人々の集落では見ることができない高価な焼き物が出土したり,建物跡を掘で囲んだりするなど,大規模な土木工事が行われていました。
【写真 重ねて置かれた素焼きの皿(持躰松遺跡)】 - 川内市成岡(なりおか)遺跡からは,硯(すずり)と,墨書土器(ぼくしょどき)が見つかっています。筆や硯などを使い文字を書くことができたのは,役人や階級の高い人たちでした。成岡遺跡はこの地域を治めていた郡司(ぐんじ)平氏の一族である成岡氏に関係する屋敷跡であるとされています。
- また,栗野町山崎(やまさき)B遺跡では掘立柱建物と竪穴建物が掘(幅4.5m,深さ3m)によって囲まれています。これらの土木工事は多くの一般の人々によって行われたのでしょう。
また,素焼きの皿が,柱穴の中に入れられていたり,何枚も重ねられた状態で見つかっています。建築工事の前に地鎮祭(じちんさい)などを行い工事の無事を祈っていたと考えられます。近年の調査によって,一般の人々の集落跡や有力者の屋敷跡など,様々な階級の人々が暮らした遺跡が見つかっています。中世の研究は,これから発見される遺跡の正しい評価がなされることによって,大きく発展することでしょう。 - 用語解説
-
鎌倉時代 1192年に源頼朝(みなもとよりとも)が幕府(ばくふ)を鎌倉に開いてから,
1333年に北条高時(ほうじょうたかとき)の滅亡までの約140年間戦国時代 1467年の応仁(おうにん)の乱から1590年に豊臣秀吉が全国を統一するまでの間 掘立柱建物 地面に柱穴を掘って柱を立て,それに屋根と壁を取り付けた平地式の建物 遺跡 昔の人々が作った建物の跡や,土器などが埋まっている場所 文献 昔の人々が文字によって,当時の人間の行動や世の中のことなどを書き記したもの 竪穴建物跡 地面を水平に掘り下げて床面をつくる半地下式の建物 陸稲 おかぼ 墨書土器 墨によって文字が書かれている土器 郡司 奈良・平安時代に朝廷から任命され地方を治めた役人 地鎮祭 土木工事の基礎工事を行う前に,その土地の神を祭って工事の無事を祈る祭典(さいてん) - (文責)川口 雅之
考古ガイダンス第31回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第31回 謎に包まれた南島のグスク - ■名瀬市で中世の城跡発見■
- 日本本土と中国大陸の間に弧状に連なる奄美,琉球の島々は,古くから「道の島」と呼ばれています。
その奄美大島で,昨年12世紀~16世紀にかけて構築されたと思われる本土の山城に酷似した中世の城跡(山城)が名瀬市教育委員会によって新たに17か所発見されました。
発見された場所は,名瀬市古見方(こみほう)地区で,狭い尾根の斜面を生かし,曲輪(くるわ),空堀(からぼり),土塁(どるい)などを造り,それらは,山城としての防御機能を持っているといいます。これまで奄美や沖縄では「グスク」とよばれる支配者の居城があったといわれています。
今回の発見は,多くの謎に包まれている当時の奄美がどのような状況下にあったのかを解明する糸口になるかもしれません。そこで今回は,考古学から見た中世の奄美の歴史をのぞいていきたいと思います。 - ■グスク時代■
- 奄美,琉球では,狩猟・採集経済が中心の「貝塚時代」の後,12世紀前後に各地に按司(あじ)と呼ばれる政治的な統率者が現れ,各地域をまとめていきました。その統治の本拠となった場所は「グスク」と呼ばれています。
奄美で代表的なものは,笠利町辺留城(べるグスク),和泊町世之主城(よのぬしグスク),与論町与論城(よろんグスク)などです。 - 【写真 和泊町 大和城跡】
- 1987年に鹿児島県内の中世城郭を調査した「鹿児島中世城館跡」の報告によると,奄美の城郭は45か所あると報告されていますが,その後,様々な分布調査や確認調査等が行われ,調査研究は急速に進展中で数も増えつつあります。
- 「グスク」を居館とし各地に登場した按司は互いに勢力範囲を拡大しながら琉球ではやがて3つの勢力にまとまりはじめ,按司の中から王になるものが現れました。
奄美諸島は,1266年に琉球の中山王(ちゅうざんおう)に入貢(にゅうこう)した記録があります。1466年喜界島,1537年奄美大島が琉球の遠征を受けています。これらのことから,琉球の完全な支配域に入ったのは,この遠征の後だと思われます。 - 【写真 和泊町 世之主城跡】
- ■謎の南島系陶質土器「カムィヤキ」■
- 奄美諸島,琉球諸島のグスク時代の遺跡から出土する遺物は,中国製白磁・青磁と,本土の須恵器(すえき)に似た陶質の土器で「類須恵器」(るいすえき)あるいは,「南島系陶質土器」と呼ばれ,窯跡が未発見のため謎につつまれていた土器が出土します。
この謎の土器は,1983年徳之島の伊仙町亀焼(かむぃやき)で古窯跡(こようあと)が発見され,地名から「カムィヤキ」と呼ばれるようになりました。「カムィヤキ」は,伊仙町教育委員会による古窯跡の発掘調査の結果,11世紀から13世紀にかけて焼成されたことが明らかとなりました。 - 【写真 カムィヤキ窯跡】
- また,同じようにグスク時代の遺跡から長崎県西彼杵(にしそのぎ)半島で作られた「滑石製石鍋」(かっせきせいいしなべ),「中国製陶磁器」が出土しています。「滑石製石鍋」は本土では,平安時代末~室町時代にかけて流布している調理具です。
- ■倉木海底遺跡の発見■
- 1994年に大島郡宇検村倉木崎海底遺跡で,沈没船に積まれていたか何らかの事件のために海中投棄されたと考えられる,大量の「中国製陶磁器」が発見されました。1996年から3年間にわたり宇検村教育委員会が調査しました。この調査で出土した陶磁器は,12世紀末から13世紀前期にかけて作られた中国の龍泉窯系青磁碗,同安窯系青磁皿,磁竃窯系褐釉陶器,福建系白磁,景徳鎮窯系青白磁などです。
- ■グスク時代の交易■
- 「カムィヤキ」古窯跡の発見により,徳之島で「カムィヤキ」を生産し,奄美・琉球諸島を交易圏として供給する,大きな商業集団がいたのではないかと考えられています。
政治的に強い力を持った統率者がこれら商業集団と陶業集団を統率し,長崎産の「滑石製石鍋」を奄美・琉球に持ち込む商人もいたのだと思われます。 - 【図 12~13世紀東シナ海地域概念図(図中記号:□主要都市,▲主要窯跡)】
- また中国製陶磁器の出土は,12世紀後半から13世紀前期ごろに中国南部と奄美・琉球との間の貿易航路がこの付近を通っていたことを示しています。中国南部を出港して黒潮に乗り,南西諸島を経由して島伝いに北上したと考えられるのではないでしょうか。現に日置郡金峰町持躰松遺跡や,福岡県博多遺跡で出土した中国製陶磁器と倉木崎海底遺跡の物は一致しています。
また,金峰町小園遺跡,同町持躰松遺跡,出水市出水貝塚では,「カムィヤキ」が数点ながら見つかっています。奄美・琉球に貿易船が立ち寄り,何らかの形で「カムィヤキ」を手に入れて小園遺跡・持躰松遺跡・出水貝塚に持ち込んだ可能性があるのです。
これら奄美・琉球の交易は,その後の「琉球王朝」の経済基盤を支えた「中継貿易」へと発展していったのでしょう。(中継貿易=琉球を中心として,明や朝鮮半島や日本や東南アジア諸国の物品を中継するもの) - ■グスクの調査■
- 「グスク」は按司(あじ)たちが地域を統率するための本拠地であり,周囲の按司勢力や海上からやってくる様々な外力に対する防御機能があったと思われます。
琉球の「グスク」は,首里城(しゅりじょう)や今帰仁城(なきじんグスク)・勝連城(かつれんグスク)に代表される,石垣を周囲に配したものが一般的ですが,奄美のグスクは琉球のグスクと異なった様相を見せています。
「鹿児島県の中世城館跡」,「笠利町用安湊城(ようあんニヤトグスク)発掘調査報告書」によると,奄美の「グスク」で琉球と同じように周囲に石塁を持つものは南部の与論島や沖永良部島には見られますが,徳之島,奄美大島,喜界島にはそれがほとんど見られず,堀切を持ったり集落背後の山地や台地上にあったり,海に面するものもあります。 - 【写真 和泊町 世之主城跡 ‐石積み‐】
- 「グスク」の発掘調査例は少ないのですが,近年発掘調査された笠利町「ウーバルグスク」は舌状台地上にあり,堀切はなく敷石で作られたグスクへの入り口と見られる道遺構が見つかっています。同町「用安湊城(ようあんニヤトグスク)」は海に面した舌状台地上にあり,曲輪は海に面した部分だけで後方の山手には見られず,土塁が一部残っています。
奄美のグスクは「グスク」という地名がついていない場所からも発見されています。これらの「グスク(または中世城館跡)」は発掘調査例が少なく文献にもほとんど登場しません。したがって奄美独特のものなのか琉球の影響を受けているのか,それとも日本本土の影響を受けているのか,まだ解明されていない部分が数多くあります。また「グスク」自体についても,城としての防御施設,宗教的な信仰の聖域施設,集落説など,様々な見方がされています。
1999年から調査が始まった名瀬市古見方(こみほう)地区の17か所もの中世城郭跡や,同じく1999年度から調査が行われている笠利町赤木名城(あかきなグスク)の調査にこれらの謎の解明を期待したいと思います。 - 用語解説
-
山城 中世以降に発達した城郭で尾根を利用して築城されている。 曲輪 城の中で地形に応じて平坦面の周囲に塁や堀を巡らした一定の区画をなすところ。 空堀 水の入っていない堀,曲輪や城壁の周囲に作られる防御施設。 土塁 周囲に土をつき固めて作った曲輪の囲い。 須恵器 古墳時代から平安時代にかけて作られた還元?で焼成され灰色や青鼠色をした焼き物。 滑石製石鍋 鍋形や釜形をした日曜雑器,長崎県西彼杵半島の大瀬戸町が産地。 - (文責)福永 修一
考古ガイダンス第30回
- 縄文の風 かごしま考古ガイダンス
第30回 考古学と周辺科学 - ■土は情報の宝庫■
- 日本最古最大級の定住集落が発見された上野原台地では,実にさまざまなものが出土しました。台地の南側で発掘された大量の土器の中には,縄文時代の早い時期としては珍しい壺(つぼ)形の完全な土器もあります。
ほかにも土偶(どぐう),矢じり,石斧(いしおの)などや赤く塗られた耳飾りも出土しています。これらはクワや移植ゴテ・竹ベラ等を用いて掘り出したものです。
【写真 壷の謎に科学の眼で迫る!?(上野原遺跡 霧島市)】
- 遺跡によっては掘った土をフルイにかけることがあります。すると細かな石器やそれを作った際のかけらが見つかることがあります。そのままでは気付かれずに捨てられてしまったものが,細かな目のフルイにかけることで発見できるのです。その目をもっと細かくしたらどうでしょう。ルーペや顕微鏡で,もっと細かく土の中を調べてみたらどうでしょう。土は情報の宝庫なのです。
- ■ミクロの考古学■
- それでは,実際に遺跡の土の中にどのようなものが含まれ,それからどんなことがわかるのか,ミクロの旅に御案内しましょう。体を縮めて小さな小さなミクロの人間になって土の中にもぐり込むと・・・。
『よいしょよいしょ。さっきまで砂粒だったのに,ミクロになると大きな岩だな。
すき間は狭いから気をつけて。 - 【写真 弥生時代の地層から検出されたイネのプラントオパール(上野原遺跡)】
- おや茶色の丸いものが見えてきたぞ。大きな木の実みたいだな。その奥には,きれいな緑色に光るものもある。あっ痛い,白く尖ったものがあったぞ。なんだこりゃ,マンモスの牙かな。こっちにはガラスのかけらみたいなのがあるぞ・・・』
- さてこれらは一体何でしょう。実際には遺跡の土を水に溶かし,上澄み液をガーゼで漉(こ)すと,土の中のごく小さなものも取り出すことができます。これらをルーペや顕微鏡で調べるのです。
大きな木の実に見えたのは1ミリ程のヒエの種子,緑色に光るのはコガネムシの死骸,マンモスの牙と思ったものは小さな魚の骨。ほかにも花粉やケイソウの化石(プラントオパ-ル)などが見つかることもあります。ほんとうにいろいろなものが残っていて驚きます。 - 【写真 平安時代の地層から出土した「ノコギリクワガタ」の頭部(小倉畑遺跡 姶良町)】
- それらの植物や甲虫の種類を調べ,どんな気候で生育しどんな環境を好むのかということから,当時の気候や環境などが推定できるのです。例えば愛知県の勝川遺跡では,弥生時代の地層からイネネクイハムシというイネの根を食べる甲虫の羽が見つかっています。
このことから稲作栽培開始直後の弥生時代に,すでに害虫の被害も始まっていたことがわかります。弥生人もさぞ困っていたでしょう。 - しかし鹿児島の場合,ほとんどの遺跡が火山灰に覆われている酸性土壌です。そのことが災いして残念ながらこれら古い時代の植物や骨などは腐ってしまってその痕跡すら判断できません。そこで活躍するのが最後に出てきたプラントオパールとよばれる植物の特殊な細胞です。
これはガラス質のため腐ることはありません。また人間の指紋のように,植物の種類によってそれぞれが特徴ある形をしています。そこで,遺跡の地層に含まれるその種類や量を調べることで,当時どんな植物がどのくらい生えていたかを推定できるのです。
上野原遺跡の分析の結果によると,集落が発見された約9,500年前の地層からはクマザサやブナ・コナラなどの落葉樹の類が多く見つかり,冷涼な気候だったと推定されます。また壷形土器や耳飾りなどが発見された約7,500年前の層からは,クスノキなどの照葉樹のものが多く,温暖な気候になっていたと推定されています。 - ■古代に挑む文化財科学■
- このようなミクロの探検隊の強力な武器として,県立埋蔵文化財センターには電子顕微鏡が備えられています。土器に残された稲のモミの跡や,火山灰に含まれている火山ガラス,石器に残された細かな傷あとの観察などに用いられています。成分の分析もでき,古代に使われた赤い色(ベンガラや水銀朱)の分析などに活躍しています。
- 【写真 電子顕微鏡でミクロの世界へ(埋蔵文化財センター 精密分析室)】
- ほかにも最新の科学技術を応用して,古代の生活を解明する試みが文化財科学という学問分野として発展しつつあります。今後各分野の研究が進み,その成果と知恵を集めれば,もっともっといろいろなことがわかってくるでしょう。未来の発掘調査では,掘り出されたすべての土を分析機械に通すことになるかもしれません。
- ここで上野原遺跡の壷の中ものぞいてみましょう。壷の中には何が入っていたのでしょうか。壷の用途は何だったのか,壷の中の土で脂肪酸分析(しぼうさんぶんせき)やリン酸分析を行いましたが,骨などの分析結果は出ませんでした。
将来,科学が進歩して新しい分析法が開発されたとき,謎は解けるかもしれません。しかし「全部わかってしまったんじゃ,古代のロマンがなくなっちゃうよ」と,上野原縄文人の笑い声が聞こえてくるようです。 - ■保存処理の必要性■
- 発掘調査で出土する遺物には土器や石器だけでなく,木器や金属器とその材質は様々です。本県ではこれまで木器や金属器の出土例は少なかったのですが,近年の発掘調査で増加しつつあります。
例えば川内市楠元遺跡からは木製の農具や建築材,あるいは鹿屋市根木原遺跡からは鉄剣や鉄鏃(てつぞく)などが出土しています。
- 【写真 慎重に鉄の剣のサビを取る(埋蔵文化財センター 鉄器処理室)】
- しかしながらこのような木器や金属器は,このまま放置しておくとサビついたり腐ったりして,原形をとどめないくらいにボロボロに劣化してしまいます。これら貴重な文化財を化学的処理によって遺物の価値を保ち,後世に伝えるように保存活用するのが保存科学という分野です。
- ■後世に残すために■
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サビに覆われた鉄製品
X線写真
鉄剣などはサビ取り後,その原因となる塩化物イオンを除去する脱塩処理を施し,樹脂(じゅし)で強化したり,必要に応じて欠けた部分を補ったりします。博物館で展示してある遺物は,このような保存処理が施されているのです。 - 【※上写真 X線写真からサビの塊は「鈴」と判明,サビ取りの結果鈴は古代の音色を奏でた】
- 保存科学という言葉が使われ始めたのは,30年にも満たないごく最近のことです。当初は技術的にも未熟で,サビをペンチで強引に除去して鉄器そのものを傷つけたり,木製品が腐らないようにと有害なホルマリン溶液に浸したりしてと,現在では考えられないような処理がなされていました。
- 遺物を後世に残すための試行錯誤は,保存科学の分野が確立した今でも続けられています。再処理可能な薬品の使用や技術の開発,自然や人体に害のない薬品や設備への切替え等の改良・改善を重ねながら,日々成長し進歩しているのです。
- (文責)大久保 浩二・鷲尾 史子